第10話 姉ニモマケズ

「俊ちゃん、お姉ちゃんちょっと買い物に行ってくるね」

土曜日の昼過ぎ、怠惰をむさぼる俺に葵ねぇが告げた。


「買い物? 駅前のショッピングモールにでも行くの?」

「ううん、スーパーで食材とか日用品を買うだけよ」

言いながら葵ねぇは、慣れた手つきで食器洗いを終え、一服することもなく外出の準備を始めた。

「そっか……」

そんな葵ねぇの忙しない様子を横目に、生返事をする俺。

「それじゃあ俊ちゃん、行ってくるね。悪い女が来ても、絶対に家に入れちゃダメだからね」

やがてリビングを後にしようとドアノブに手をかけた葵ねぇ。その姿を目にした俺は、罪悪感めいたものに後ろ指を差されたのだろうか、ふと、らしくもないセリフを発していた。


「待って、葵ねぇ……俺も一緒に行くよ」


            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「うふふ、俊ちゃんとデート、俊ちゃんとデート♪」

「はいはい、ただの買い物なんだからそんなにテンション上げないの」

スーパーへ向かう道中、葵ねぇはもはやお約束と言わんばかりに俺の腕に抱きついている。

「えへへ、お姉ちゃん嬉しいな。俊ちゃんがお買い物手伝ってくれるって言ってくれて」

「ん……まあ、その、葵ねぇばっかりに家事を押し付けるのは、悪いと思ったから……」

「そんなことないわ。お姉ちゃんは俊ちゃんに一生尽くすって決めてるんだもの、俊ちゃんは好きなだけ甘えてくれていいのよ」

「いや、家事は二人で分担するって決めたんだ、これからは俺もできるだけ手を貸すよ」

「あらやだ、俊ちゃんがイクメンになっちゃうわね」

葵ねぇは冗談交じりに笑った。


「昔はよく、こうして二人でお出かけしたわよね」

すると葵ねぇは、今度は感慨深そうに切り出した。

「そうだね。昔は葵ねぇ、友達いなかったから」

「ああっ! 俊ちゃんがイジワル言った!」

「ははっ、冗談だって」

「もう……。でも、お姉ちゃんがどこへ行くにも、俊ちゃんが側にいてくれたわよね」

「……そうだね。昔は葵ねぇ、危なっかしかったから」

「むぅぅぅ~~~!」

葵ねぇは頬を膨らませてこちらを見上げてきた。

「だから冗談だって。あ、そうだ、昔といえば、葵ねぇ駄菓子が好きだったよね」

「え? ああ、たしかに、昔はよく買ってたわね」

「買い物カゴいっぱいに、スーパーの駄菓子入れてたよね」

「そうそう、あの頃は『好きなだけ駄菓子が食べられるんだ』って、脇目も振らずに買おうとしてたわ」

「んで、母さんに怒られる」

「ふふっ、懐かしいわね」

「今の葵ねぇからは想像もつかないほどジャンキーだったね」

久しぶりの姉弟きょうだい二人きりでの買い物に、思い出話に花が咲く。こんな童心で葵ねぇと会話を交わすなんて、いつぶりだろうか。なんだか心がほっこりする。こういった何気ない日常にこそ、家族のありがたみを感じるのかもしれない。

「うふふ、あの頃からお姉ちゃんと俊ちゃんの恋物語が始まったのね」

「それは違うから」

ま、今となっては葵ねぇは幼心おさなごころを忘れている気がしないでもないが。


「あ……見て、俊ちゃん。あそこにネコちゃんがいるわ」

「うん? あ、本当だ。しかも二匹いるね」

「あ、こっちに来たわよ」

葵ねぇが言うと、二匹の猫は俺たちの足元へ歩み寄り、二人の周りをグルグルし始めた。

「ふふ、かわいいわね。私たちに懐いてくれてるのかしら」

まるでファンタジーのような光景に、葵ねぇは笑みをこぼす。

「このネコちゃんたち、随分と仲がいいのね」

「たしかに、二人で遊んでいるように見えるね」

「あ! もしかしてこのネコちゃんたち、お姉ちゃんたちと一緒でカップルなのかも!」

「いや、どっちかって言うと、兄弟みたいじゃない? 体の模様も似てるし。あと俺たちはカップルじゃない」

「まあ! 姉弟きょうだいでカップルだなんて、ますますお姉ちゃんたちと一緒ね♪」

「うん、ひとまず俺たちの関係性から見直そうか」

俺のツッコミには耳を貸さず、猫たちとたわむれる葵ねぇ。ほどなくして一匹が走り出すと、もう一匹も続いて走り出し、俺たちの元を離れていった。

「あ……行っちゃった」

葵ねぇは残念そうにつぶやいていたが、その表情からは喜びの念が見て取れた。

「それじゃあ、私たちも行きましょうか」

「うん」

「テストも終わったことだし、今日は二人でお疲れ様会にしましょう♪」

「本当? よっしゃー!」

「うふふ、そんなに喜んでもらえるなら、お姉ちゃん腕によりをかけてごちそう作るわね」

姉弟水入らずで話しているうちに、目的のスーパーに到着。入口の自動ドアをくぐると、俺は追憶をなぞるように、買い物カゴを手に取るのであった。


            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「ふぅ~、思いの外いっぱい買っちゃったね」

「そうね。久しぶりの俊ちゃんとの買い物に、興が乗っちゃったわ」

スーパーを後にしてすぐ、大量の買い物袋を見て俺は言った。

「葵ねぇ、重いでしょ? 俺が持つよ」

「平気よ俊ちゃん。お姉ちゃんなら慣れてるから」

「まあまあそう言わずに。家事を手伝うって決めたんだから」

「もう、俊ちゃんったら優しいんだから。そうやってお姉ちゃんをメロメロにしてるのよ?」

「はいはい」

俺は葵ねぇから買い物袋の一つを受け取ると、帰路に向かって歩を進めた。


「いやしかし、食材と日用品だけでこんなにかさばるとはなぁ。一人で持ち歩くにはかなり重いと思うけど」

「そうかしら? 毎日のように続けていると、案外慣れるものよ」

「そしたら葵ねぇはムキムキだ」

「え? お姉ちゃんの腕、太いかな? 俊ちゃんはお姉ちゃんの腕嫌いかな?」

「いや冗談だからそんな泣きそうな顔しないでっ。葵ねぇの腕は十分細いから」

「そう、よかった……」

帰り道も、二人で会話を楽しむ。


「そういえば、今日はごちそう作ってくれるって言ってたけど、なに作るの?」

「ふふーん、それは晩ご飯までのお楽しみでーす」

「え? 教えてくれないの?」

「俊ちゃん……魅力的な女性というのはね、秘密を持つものなのよ」

「とか言って、またハンバーグとかじゃないの?」

「あれはハンバーグじゃなくて、『葵ねぇの愛情たっぷりらぶらぶハンバーグ』よ」

「いやハンバーグに変わりないじゃん……」

「えへへー、俊ちゃんのためを思えば、どんなお料理だって特別なんだから♪」

「なら、今日の晩ご飯も楽しみに待ってるよ」

買い物袋の中の食材から察するに、鍋じゃないかな?なんて思う。葵ねぇは祝い事にはなにかと鍋を振る舞いたがるから、たぶんアタリだろう。葵ねぇの料理は、愛こそ重いがなんでもおいしいからな……楽しみだ。俺は内心、一人で期待を膨らませていると、


ポツリ──頬に、冷たいなにかを感じた。誘われるように、空を見上げると、


ザァーッ──激しい音を連れて、大量の雨が流れるように降りかかってきた。


「うおっ、大雨だ!」

「きゃっ、突然降ってきたわね」

「とりあえず、雨宿りできる場所に移動しよう」

「わかったわ」

辺りを見渡す。

「俊ちゃん、あそこ」

葵ねぇが指差した先には、いわゆる東屋あずまやが構えていた。ちょうどいい、あそこで雨宿りさせてもらおう。俺たちは真一文字に駆けていった。


「ふぅ……俊ちゃん大丈夫? 濡れてない?」

「うん。なんとかびしょ濡れにはならなかったよ。葵ねぇこそ平気?」

「ええ、お姉ちゃんも大丈夫よ」

言いながらも葵ねぇは、携帯していたハンカチで俺の体を拭いてくれていた。

「いいよ葵ねぇ、俺の体なんか。それよりも、自分の体拭きなよ」

「ダメよ俊ちゃん。風邪引いちゃうかもしれないでしょう」

「平気平気、男はすぐ乾くから」

買い物袋を腰かけに置き、雨の様子をうかがう。

「はぁ……まさか雨が降るなんてな」

「天気予報でも言ってなかったわよね」

「うん。にしてもこの雨、しばらくは止みそうにないかも」

「本当? 困ったわね……」

降りしきる雨を前に呆然とする俺たち。生憎あいにく、二人とも傘を持っていない。立ち往生を食らったというわけだ。

「それなら、どこかで傘を買う?」

「いや、この近くにコンビニとかはないからな……難しいかも」

「走って帰るわけにもいかないしね……」

二人して悩みにふけってしまう。ここだと家までまだ距離があるので、さすがに雨の中を突き進むのは現実的ではない。なにより、葵ねぇをずぶ濡れにするわけにはいかない。風邪でも引いたら一大事だ。

「それなら……いっそここで、永遠に二人きりで過ごすのはどう?」

「馬鹿なこと言わないの」

茶化す葵ねぇを軽くあしらいながら、俺は一人、最善策を考える。……止むを得まい、俺は半ば諦め気味に、自らが思いついた打開策を口に出した。


「……俺が家まで帰って、傘を取ってまたここに戻ってくるよ」

「え……?」

葵ねぇは呆気に取られた様子で、俺を見た。

「ちょっと俊ちゃん、なに言ってるの? そんなのお姉ちゃんが許しません。風邪引いちゃうでしょう」

「大丈夫だよ、走ればすぐだから。だって陸上部員だし」

「いいえダメです。俊ちゃんがびしょ濡れになることには変わりないもの」

先程までとは打って変わり、冗談気味に言う俺に対して葵ねぇは至極真剣だ。俺のことを本気で心配してくれているのだろう。いささか過保護な気もするが、それはお互い様か。

「とにかく、雨が弱まるまではここで──」

「それじゃ、ちょっくらダッシュしてくるね」

「あ! 待ちなさい俊ちゃん! お姉ちゃん本気で怒るわよ」

「お説教なら後で聞くから、そこで待っててよ~!」

葵ねぇの言葉を無理やり遮り、聞く耳も持たずに東屋を後にする。強引なやり方だが、こうでもしないと葵ねぇは行かせてくれないだろう。


「しっかし、わずらわしい雨だな……」

家路を駆けながらひとりごつ。冷たいという感覚はないが、いかんせん強く打ち付けてくるもんだから萎えてくる。

「けど、のんびりもしてられないからな……!」

再びつぶやいた後、一気に加速する。今こそ陸上部員の足の見せ所だ……!




ややあって我が家に到着。俺の専門は短距離だが、なんとかへばらずに走り抜くことができた。玄関付近の傘立てに直行し、傘を二本取り出す。俺と葵ねぇの分だ。

「よっし、傘を確保できたな」

二本の傘を左手でつかむ。

「それじゃ、さっさと戻るか」

家の門を閉め、気合いを入れるように言うと、葵ねぇの待つ東屋目がけて駆け出した──

「……って、戻りは傘があるんだから、濡れる必要はないな」

ついつい傘の存在を忘れていた。ずっと走っていたからだろう。ランナーズハイというやつだ。とはいえ、ゆっくりしてても葵ねぇを不安にさせるだけだ、傘は差しつつ小走りで向かおう。




相も変わらず鬱陶しい雨の中、アスファルトを蹴る。周りを見渡しても人の姿はない。この急雨きゅううだ、当然だろう。暗い空の下、雨音がすべてをかき消す無音の中を一人で駆けていると、なんだか別世界に迷い込んだように感じる。

──瞬間、小さな影が目の前を横切った。何事かと視線を送ると、

「お前は、さっきの……」

小さな影の正体、それは先程見かけた猫だった。猫は俺の声に反応したかのように立ち止まり、一瞥すると、再び走り出した。気になって目線だけで追いかけていると、猫はなにかに吸い込まれるように姿を消した。

「あれ、どこ行ったんだ?」

興味本位で猫が消えた辺りへ近づく。するとそこには、小さな段ボールの中、二匹の猫が丸まっている光景があった。

「お前たち……こんなところで暮らしてたのか?」

段ボールにはパンくずのようなものが散っており、生活の痕跡がうかがえた。野良猫だろうか、それとも捨てられたのか? わからないが、とても貧しいというのは見て取れる。それに、

「お前たち、ずぶ濡れじゃないか……!」

段ボールには屋根がなく、二匹の猫は無抵抗に激しい雨にさらされていた。この辺りは住宅地だから、民家以外には雨風がしのげる場所がないのだろう。それにしたって、このままじゃ冷たい雨を浴び続けるだけだ。飼い主はいないんだ、風邪なんか引いたら大変だ。

「屋根があれば、少しは楽になるだろうか──」

そう思った時には、既に体が動いていた。俺は差していた傘を段ボールを覆うように立て掛けると、近くにあったロープ──おそらくゴミ捨て場のものだろう──を拝借し、電柱にくくり付けて傘を固定してやった。

「よし、これで大丈夫だろう」

すると猫たちは変化に気づいたのだろうか、ふと顔を上げた。彼らと目が合う。

「……元気に生きるんだぞ」

俺はそう言い残すと、再び葵ねぇの元へ歩を進めた。

「似てるのかな、俺たちと」

もしあの猫たちが兄弟だったとして、二人で暮らしているのだとしたら……その姿に、自分たちを重ねたのかもしれない。

なら──俺も急ごう、の待つ場所へ。




「はっ……はっ……はっ……」

息を切らして走る。さすがにこの雨の中、長距離を走るのは俺にとっては難儀だった。けれど、それもようやく終わる。件の東屋を目にすると、速度を落とし、そこで待つ人へ声をかけた。


「お待たせ、葵ねぇ」

「俊ちゃん……! 大丈夫? ケガしてない? ……って、びしょびしょじゃないの!」

葵ねぇは俺の肩をつかんで言った。

「どうして傘を差してないの!?」

「あ……走るのに夢中で忘れてた」

「忘れてたって……。それに、傘一本しか持ってないじゃない」

「えっと……まあいろいろあってさ」

「もう……俊ちゃんのばかばかばか……!」

葵ねぇがポカポカ叩いてきた。

「お姉ちゃん、本当に心配したのよ。なかなか戻ってこないから、なにかあったんじゃないかって……」

ポカポカしていた手が止まる。すると、葵ねぇの体重がかかったのを感じた。

「もう……お姉ちゃんを心配させないで…………」

顔を上げた葵ねぇの瞳が潤んでいた。それはきっと、雨のせいであって、雨のせいじゃない。

「うん……。ごめんね、葵ねぇ」

しなだれる葵ねぇを支えて、二の句を告げた。

「帰ろうか」


ほどなくして二人で東屋を発った。依然、雨は降り続いている。

「いいよ葵ねぇ、俺のことは気にしないで」

「だーめー! 俊ちゃんのほうが濡れてるんだから、ちゃんと傘に入って」

「って言われてもなあ……」

一本の傘の中、二人で身を寄せ合う。

「やっぱり二人は入りきれないし、葵ねぇが差しなよ」

「もう俊ちゃん、あんまり聞き分けが悪いと、お姉ちゃん怒るわよっ」

「もう怒ってるじゃん……」

「そこまで言うんだったら、お姉ちゃんが濡れて帰るから、俊ちゃんが傘を差しなさいっ」

「ごめんごめん、俺も入るから。葵ねぇが濡れたら意味ないし」

「わかればよろしい」

葵ねぇはなぜか得意顔で言うと、肩を寄せてきた。

「ふふっ……俊ちゃんと相合い傘なんて、何年ぶりかしらね」

「……そう言われるのが嫌だったから、入りたくなかったんだけど」

「もう、照れちゃってかわいいわね。いつもラブラブで登校してるのに」

「それだって認めたわけじゃないんだけど……」

「……俊ちゃん、本当にありがとうね。お姉ちゃんのために、頑張ってくれて」

「いや、これくらいどうってこと……」

「ううん、俊ちゃんは本当に優しい男の子よ。困ってる人のためなら、迷いなく行動できるもの」

「葵ねぇ……」

「だからね俊ちゃん……。お姉ちゃんは、そんな俊ちゃんが、だーーーい好きよ♪」

葵ねぇが笑ってみせる。

「……それは褒め言葉として受け取っておくよ」

俺はちょっと照れくさくなって、目を逸らした。

「これは褒め言葉じゃなくて、愛の告白よ♪」

「最後のは余計だった」

かくして、突然の雨というハプニングもあったが、なんとか買い物は終了。久々の姉弟揃っての買い物は、なんだかいろいろなことを再確認させてくれた気がした。


            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「ふぅ~、やっと着いたぁ~」

無事に家に到着。すっかり濡れてしまった買い物袋をキッチンまで運んで、速攻で中身を冷蔵庫に詰める。トイレットペーパーなんかの日用品もしまえば、これで買い物は完了だ。

「それじゃ、シャワーを浴びて着替えるか……」

かくいう俺もすっかりずぶ濡れなので、シャワーを浴びて身を清めることにした。フローリングを濡らさないようにしながら、脱衣所に向かう。リフレッシュを求め、脱衣所の扉に手をかけ開いたその先には──


「さあ俊ちゃん。お姉ちゃんと一緒に、お風呂に入りましょう♪」


下着姿の葵ねぇの姿があった。


「失礼しました」

扉を閉める。

「ちょっと俊ちゃん、どこ行くの? お風呂入らないと風邪引いちゃうわよ」

すかさず葵ねぇが扉を開ける。

「入ろうと思ったけど、先約がいたみたいだから。葵ねぇ、先に入っていいよ」

「なに言ってるのよ俊ちゃん。二人でお風呂に入るのよ♪」

「失礼しました」

再び扉を閉めようと手を伸ばした刹那、葵ねぇが腕をつかんできた。

「こーら、逃げちゃダメ♪」

「ちょっ、葵ねぇ……っ」

葵ねぇはそのままズルズルと俺を引っ張る。抵抗するも、あまりの力強さにびくともしなかった。いったい葵ねぇのどこにそんな力があるんだ? やがて脱衣所の奥、風呂場の前まで連れ込まれ、ついに逃げ場を失った。


「ふふっ、それじゃあお姉ちゃんが、服脱がせてあげるからね~♪」

葵ねぇはためらいもなく俺の服に手をかける。

「葵ねぇ、ストップ! 風呂くらい一人で入れるから!」

「遠慮しなくていいのよ。久しぶりに一緒にお風呂入りましょう」

葵ねぇは話しながらも手を止めない。

「はい俊ちゃん、ばんざーいして」

「だから葵ねぇストップ! 二人で一緒に風呂なんてダメだって!」

俺は必死に抵抗する。しかし、下着姿の葵ねぇを直視することができず、つい目を逸らしてしまう。

「ダメって……どうして?」

ピタリと、葵ねぇの動きが止まった。

「どうしてって……そりゃ、年頃の姉弟が一緒に風呂なんて入らないし」

「それは他の家の事情でしょう。お姉ちゃんたちには関係ないわ」

「でも、一般的にはそれが普通で……」

「……それじゃあ、お姉ちゃんは変なのかな?」

「え……?」

「お姉ちゃんのためにずぶ濡れになって傘を届けてくれた俊ちゃんに、恩返しがしたいって思うのは、変なことなのかな……?」

「それは……別に見返りを求めてやったことじゃないし……」

「わかってるわ。俊ちゃんはとっても優しいもの。でもね、それは俊ちゃんだけが負担を負っていい理由にはならないのよ」

「……だからって、その……一緒にお風呂は、恥ずかしいし……」

「お姉ちゃんは不器用だから……お世話することぐらいしか、思いつかないの」

すると、葵ねぇが抱きついてきた。不意の出来事にドキッとする。葵ねぇの体温が直に伝わってくるようで、正気を保つのに精一杯だった。

「おねがい俊ちゃん……お姉ちゃんに、恩返しさせて?」

上目遣いで言う葵ねぇ。その瞳は真剣さと純粋さを映し出しているようで、とても嘘や冗談を言ってるようには見えなかった。密着しているせいだろう、葵ねぇの鼓動が聞こえる。しかし不思議なもので、葵ねぇの鼓動は俺に羞恥心しゅうちしんを与えることはなく、むしろ心からの誠意を伝えているみたいだった。


「……わかったよ。今日だけ特別だからね」

葵ねぇの本気ぶりにほだされ、俺はついに折れた。

「本当に!? ありがとう俊ちゃん!!!」

葵ねぇはさらに力強く俺を抱きしめた。本当に嬉しそうな表情で。

「それじゃあ早速服を脱がしてあげるね! あ、俊ちゃんはなんにもしなくていいのよ。お姉ちゃんがぜーんぶしてあげるからね♪」

次の瞬間、俺は上半身裸になっていた。

「いつの間に……!」

葵ねぇは光の速さで俺のTシャツを脱がしていた。

「さあ、ズボンも脱がしていきましょうね~♪」

葵ねぇがズボンに手をかける。マズい──そう思った頃にはもう遅くて、俺はパンツ一丁で呆然と立ち尽くしていた。

「ちょっ、葵ねぇもういいから! こっからは俺が脱ぐから!」

「こっからって……あとはパンツだけじゃない。わざわざ俊ちゃんの手をわずらわせるまでもないわ」

「ダメダメ! 絶対ダメ! 一緒に入るのは許可したけど、これはダメ!」

「え~。お姉ちゃん、俊ちゃんの全部をお世話してあげたいのに~」

「それ以上言うなら一緒に入らないよっ」

「む~、わかったわ、これ以上は脱がせないから。……それじゃあ、お姉ちゃんもさっさと脱いじゃうね」

そう言うと葵ねぇは、ブラジャーに手をかけた。そのなまめかしい仕草に心臓が高鳴る。

「ストップ葵ねぇ! 一緒に風呂に入るにあたり、条件をつけようっ」

俺は葵ねぇを見ないようにしながら宣言した。

「条件?」

「そう、お互いタオルを巻くこと!」

「タオルなんて巻いてたら、お風呂の意味ないじゃない」

「それでもこれだけは守っていただきたい! じゃないと俺がたないので!」

「んぅぅぅ……わかったわ。俊ちゃんと一緒に入るためだもの、それくらいは我慢するわ」

葵ねぇは不服そうだったが、なんとか了解してくれた。

「それじゃあ俊ちゃん、お風呂に入りましょうか♪」

気が付くと葵ねぇはタオル一枚の姿だった。どんだけ着替えるの速いんだよ。……それにタオルを巻いたとはいえ、葵ねぇの妖艶ようえんさは微塵も抑えられていなかった。

葵ねぇは風呂場のドアを開けると、俺の手を引いてイスに座らせた。


「うふふっ、ついに俊ちゃんをきれいきれいにしてあげられるのね!」

葵ねぇはめちゃくちゃ上機嫌だ。

「それじゃあ髪の毛から洗っていくわね」

そう言って葵ねぇはシャワーのお湯を出した。

「どう? 熱くない?」

「うん、平気」

俺が答えると、葵ねぇは髪の毛を濡らし始めた。全体がしっかり濡れたのを確認すると、シャンプーを手に取った。


「はーい、それじゃあまずはシャンプーからするね♪」

葵ねぇの手が、俺の頭に触れる。

「ごしごししていくわね~。泡が目に入ったら、すぐに言うのよ?」

上手に泡立て、髪の毛全体を丁寧に洗っていく葵ねぇ。誰かに頭を洗ってもらうなんて幼少期ぶりだから、かなり新鮮に感じる。

「ごしごし、わしゃわしゃ。かゆいところはございませんか~?」

「大丈夫です」

「ふふっ、一度言ってみたかったのよね、このセリフ」

葵ねぇは楽しそうに続ける。

「ごしごし、ごしごし……やっぱり男の子だから、洗うのがとっても楽ね」

「たしかに、葵ねぇは髪長いから大変そうだね」

「そうなのよ。でも俊ちゃんにかわいいって言ってもらえるように、毎日お手入れ頑張ってるのよ」

「はいはい……あれ、このシャンプー、なんかいつもと違うような気が……」

「うん、これお姉ちゃんが使ってるやつだから」

「ええ!? なんで!? いやシャンプーにこだわりとかないから俺はいいけど……」

「うん? だってこうすれば、お姉ちゃんと同じ匂いでいられるでしょう。二人でおそろいの匂いなんて、とってもラブラブじゃない♪」

「…………」

返す言葉もない。

「ふぅ……これで髪の毛一本一本がお姉ちゃんの匂いになったわね」

「いや本音漏れてるけど」

「じゃあ、シャンプー流すわね」

葵ねぇはシャワーを手に取ると、泡が目に入らないように慎重に流してくれた。葵ねぇの思惑には閉口したが、シャンプーは気持ちよかった。


「はーい、それじゃあ次は、体を洗っていくわね♪」

シャンプーを流し終えると、葵ねぇはさらにご機嫌そうにそう言った。ボディソープを手に取り、慣れた手つきで泡立てると、優しく腕を包んできた。

「まずは腕から……ごしごし、ごしごし」

葵ねぇは絶妙な力加減で洗ってくれる。

「どう、俊ちゃん、気持ちいい?」

「う、うん……」

「そっかぁ。普段から練習してたかいがあったわ」

練習ってなに。

「腕の次は……指先もきれいにしなくちゃね♪」

「ひっ……」

思わず変な声が漏れた。葵ねぇは腕を洗い終えたかと思うと、そのまま俺の手に触れてきた。葵ねぇは悪戯っぽく笑うと、指先と指先を絡め、ゆっくりスライドさせたり、手を握ってきたりしたのである。

「ふふっ、ほーら……しゅこしゅこ、にぎにぎ……♪」

そのあでやかさに言葉を失う。

「爪の中も……こちょこちょこちょ~」

「っ……!」

爪の中なんて誰かに洗われたことがない。味わったことのない感覚にしどろもどろになる。

「どうしたの俊ちゃん、変な声出しちゃって~」

葵ねぇはやはり悪戯っぽく尋ねる。

「葵ねぇ……手は、もういいから……」

これ以上はマズい……そう思っての発言だ。

「そうね、手はきれいになったみたいね。じゃあ次は、背中を洗っていくわね」

葵ねぇは意外とすんなり手を引いてくれた。よかった……葵ねぇのことだから猛攻してくると思ったが、なんとか理性を保てた。そう、ほっと胸を撫で下ろしていた時だった。


「なっ……!」

突然、背中に柔らかい感触を感じた。これは手か……? 葵ねぇの手なのか……?


いや違う。この柔らかさ、弾力、重量……これは葵ねぇの──


「俊ちゃん、気持ちいい?」

瞬間、葵ねぇが背中に抱きついてくる。ふと、足元にタオルが広がるのが見えた。俺のタオルではない。ということは、

「ちょっ……葵ねぇ! どうしてタオル巻いてないの!?」

「うん? だって、こうやって素肌で洗ってあげたほうが、俊ちゃん喜ぶかなって♪」

言いながら葵ねぇは、泡だらけの体をこすり付けてくる。

「よ、喜ばないよ! そういうのがマズいと思ったから、タオル巻いてって言ったのに!」

「へ~、そうなんだ~。俊ちゃん、嬉しくないんだぁ~。お姉ちゃんにこうやって密着されて、ドキドキしないんだぁ~♪」

葵ねぇはわざとらしく言うと、さらに体を押し付けてくる。

「ほら~、お姉ちゃんが体を使って、たくさんきれいきれいしてあげるからね♪ ごしごし、ごしごし♪」

「葵ねぇ! ダメだって! その、当たってるから……!」

「う~ん? なにが当たってるのかなぁ~?」

「だから、その、葵ねぇの……」

「ふふっ、俊ちゃんったら、恥ずかしがっちゃってかわいい♪ 耳までこんなに赤くしちゃって……食べたくなっちゃう♪」

「っ……!」

不意に、葵ねぇが耳元でささやいた。

「当たってるんじゃなくて…………当ててるのよ♪」

「っっっ……!!!」

もう限界だ──そう思った俺は、無意識のうちに葵ねぇの元から離れ、浴槽にダイブしていた。


「あっ! ちょっと俊ちゃん! まだ泡を洗い流してないのに!」

俺は葵ねぇの言葉には耳を貸さず、背中を向けるような形でお湯につかった。

「もう俊ちゃんったら……恥ずかしすぎてねちゃったのね」

我ながら情けないとも思う。姉にイタズラされただけで拗ねてしまうのは。しかし、あれ以上は俺の理性が崩壊する。端的に言えば「越えてはいけない一線」だ。俺と葵ねぇは姉弟なのだから。

「……お姉ちゃん、ちょっとやりすぎちゃったみたいね」

葵ねぇは反省するようなセリフを発すると、

「隣、入るね」

と言って浴槽に身を屈めた。


背中合わせで座る葵ねぇと俺。

「お姉ちゃん、嬉しすぎて羽目を外しちゃったみたい」

葵ねぇが口を開く。

「嬉しい……?」

俺は尋ねる。

「そう。今日のお買い物も、こうやって一緒にお風呂に入るのも、すっごく嬉しかったの」

「そうなの?」

「ええ。だってすごく久しぶりに姉弟らしいことをしたんだもの」

「そうかな? いつも姉弟っぽいこと、してると思うけど。一緒に登校までしてるんだし」

「そうね……でもそれは、お姉ちゃんとじゃなくてもできるでしょう? 友達と一緒に登校してる人だってたくさんいるわけだし」

葵ねぇは続ける。

「でも、一緒にお買い物したり、お風呂に入るのは姉弟ならではというか……幼い頃には当たり前だったことが、今じゃむしろ珍しいことになってる。それがお姉ちゃん、なんだか悲しく思えちゃって」

「うん……」

「だから今日は、姉弟らしいことがたくさんできて本当に嬉しかったなって。お姉ちゃんと俊ちゃんは姉弟なんだって、確かめられたような気がして」

「……なんか変だね。確認なんてしなくても、俺たちは姉弟なのに」

「段々年を取ると、そういうことを実感しにくくなるものなのね」

葵ねぇは「ふふっ」と笑った。

「……お姉ちゃんは、姉弟以上の関係になりたいと思ってるけどね」

葵ねぇはたしかにそうつぶやいた。俺は聞こえないフリをする。

バシャァ──浴槽のお湯が音を立てた。気が付くとまた、背中に体温を感じる。

「俊ちゃん、今日は本当にありがとうね」

ぎゅうっと抱きしめながら、葵ねぇは言った。

「お姉ちゃんのために頑張ってくれて、ありがとう」

ぬくもりに包まれているのを感じる。

「俊ちゃんのカッコいい姿に、また惚れ直しちゃった♪」

「うるさい」

「えへへ、照れちゃってかわいい。恥ずかしいんだ?」

「恥ずかしいよ」

恥ずかしいくらい、あったかい。


            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


その後、俺は体を洗い直して、お先に風呂場を後にした。葵ねぇはしきりに俺の体を洗いたがっていたが、自粛してもらった。さすがにやりすぎたと反省してるらしいが、葵ねぇのことだ、虎視眈々こしたんたんとリベンジを狙っているに違いない。注意しなくては。


「遅くなってごめんね俊ちゃん。すぐに晩ご飯作るから」

リビングで一休みしていると、風呂から上がってきた葵ねぇが駆け足気味に言った。

「今日はねー、テストお疲れ様ということで、鍋にいたします!」

「ははっ、知ってたよ」

どうしてだろう。普段から交わしている何気ない会話なのに、穏やかな気分になる。

「愛情たっぷり注いであげるから、楽しみにしててね♪」

「はいはい」

心がじんわりと、あたたかくなるのを感じる。

「あのさ、葵ねぇ」

「うん、どうしたの俊ちゃん?」

「……俺も、手伝うよ」

優しくて、静かなそのあたたかさは、胸のあたりを包み込んでくれるみたいだった。

それが体に伝わって、ポカポカした熱さを感じる。なんだか体温が上がったみたいだ。……あれ、なんか本当に熱いぞ。比喩でもなんでもなく、体が熱を発しているみたいだ。それを知覚した途端、身にダルさを感じた。ああ、そうか。あったかくなってたのは心だけじゃなくて──




「…………はっくしょん!」

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