第20話ほんものにせもの
「……石上医師……いえ」
そうではないということくらい、想苗にも解った――ここに、現実のものは何一つ無いのだということくらいは。
「そう、その通り」
向かい合う医師の足元から、じわりと黒く瘴気が染み出る。「ここは――戸上想苗の精神世界。貴女の心の奥底です」
「そして――心とは記憶ですね」
記憶の積み重ねが、心を形作る。覚えている記憶と、一度は覚えたけれど、もう忘れてしまった記憶。
目にしたもの、耳にした音、肌に触れた熱――幻覚たちを彩る素材たち。
心から生まれる幻覚たちは、だから記憶を伴って楽しげに躍り遊ぶのだ。
まるで、本物のように。
「本物ですよ」
医師の姿で、霊魔は微笑んだ。優しそうに、優しそうに。
握り締めた包丁の柄が、頼り無く軋む。「偽物ですっ! 私の記憶からこぼれ出た、単なる紛い物に過ぎませんっ!」
「……では、偽物とは何ですか?」
「え?」
偽物は、偽物だ。
本物でない、現実でない、真実でない。
想苗の答えを聞くと、医師の影は浮かべていた笑みを深くした。
耳まで裂けた唇からしゅるりと、瘴気が蛇の舌のようにちらついた。
「成る程――貴女にとっては、偽物とは、鍋の底の焦げなんですね」
「……なべ、鍋? は……?」
いかにも不気味な気配を漂わせながら、しかしその口から溢れたのは、奇妙に庶民的な例え話だった。
巧妙に虚を突かれた――そのことに、想苗自身が気が付かないくらい、巧妙に。
ちろりと蛇が覗く。
「貴女は先程、幾つかの答えを考えたようですが――その全てにこういう単語が付いていませんでしたか?」
白衣の裾から、瘴気が徐々に燃え広がる。「何々でない、という否定の言葉が」
今度は、図星を突かれた。
頭の中でも読まれたようだ――いや、まさかそうなのか。
ここが自身の心の中ならば、向き合う相手もまた想苗の中に元から在るもの。胸の内を悟られるのも、当然か。
心の体勢を整える想苗を嘲笑うように、揺さぶるように、医師が続ける。
「別に心を読んだわけではありませんよ? 僕は貴女の思う通りの存在ですが、だからこそ、自由自在とはいきません。貴女が許可するのなら別ですが」
「する筈がないでしょう、瘴気ごときに」
「ですから、これは単なる観察の成果ですよ。貴女がどう考えているかを、こうして読み取ったのです」
「……馬鹿なことを」
言いながらも、想苗は軽く胸を押さえる。
奥から響く心臓の鼓動が、相手に聞こえてしまわないように。
「だから、僕は鍋の底の焦げだと言いました――あれでない、これでもない、それでもないと。そうして鍋の具材を取り分けていった先に残った、貴女が食べられず、かつ、容易には剥がせないこびりついた焦げ……」
「……随分と、素朴な詩ですね」
「では、そんな貴女にお聞きしますが」
御馳走の予感に、医師は黒い舌を伸ばして唇を舐めた。
瘴気の黒い染みは、もう白衣の半分以上にまで拡がっている。足元に垂れていた瘴気などは、最早沼くらいの広さに達するほどだ。
浸食は、もうかなり進んでいると、瘴気の中で医師の影が笑う。
そして影は、正しく見抜いていた――次の一言こそが、想苗の精神にとって
――さあ、反転しましょう。貴女も、ワタシのように。
微笑んだまま、影は実にあっさりと、止めを放った。
「貴女にとって――本物とは何ですか?」
『ぎゃはははははははははははははっ!!』
【金宝】の薄れる意識を繋ぎ止めたのは、皮肉にも、敵の甲高く不愉快な笑い声だった。
――あぁ、そうだった。
『そういうことだよ、刀霊』
祐一郎と並ぶよう、蛍の顔が移動する。『酷いなぁ、僕は、戸上家の跡取りだよ? わすれるなんてさ』
「……くくっ、猿真似もそこまで行けば、図々しいを通り越していっそ清々しいな。霊魔ごときが……」
『やれやれ。どうしてこう、刀霊というのは見栄を張るのかなあ?』
「必死になる価値も無いというだけだ」
軽口を叩きながら、【金宝】は自身の状態を計測する――両翼を貫かれた、隙を突いたのに敵は健在、そして二枚目の切り札。
誰がどう見ても、圧倒的不利な状況だ。
霊魔が追撃もせずへらへらと舌ばかり動かしているのは、奴等にも多少は見る目があるということであろう。
――だが。
「――やはり、未熟」
『……うん? 何か言った、刀霊ぃ?』
「未熟と、そう言ったよ霊魔」
『っは、一歩も歩いていないのにこの危機的状況を忘れられるとは、どういう頭の作りしてるのぉ?』
「忘れてなどおらぬさ、雑念」
両翼を貫かれたままで、呵呵と【金宝】は笑って見せた。「お前程度との戦いでは、傷を忘れられるほどの高揚もない……っ、ぐぅ」
『思い出したかぃ?』
刺さったままで、霊魔の白い腕が膨張した。
無理矢理に抉じ開けられた傷口の痛みに思わず呻く【金宝】を、霊魔は蛍殿の顔で冷笑する。
『お前はぁ! 御自慢の翼を貫かれて、傷口からは瘴気流されて虫の息ぃ。対して僕とお父様はぁ、無傷ぅ! ははっ、下らない挑発までしたのに、だっ! 小細工の末に成果無しってのはさぁ、実害以上に大打撃でしょ!』
「……はっ」
『んー、見栄張るの、好きだねぇ。それともあっれ? もう、強がる以外にやること無いってことぉ?』
「いいや」
【金宝】は、静かに首を振った。「悪くない状況だというだけさ」
本当に、気が付いていないのか?
あまりに好都合過ぎて、逆に不安になるほどだ――下級霊魔ならともかく、こうして人の記憶を得て、会話も成立する程度の霊魔が気が付かないものなのか?
「『霊魔の腕に』、『刀霊の翼が』、『貫かれたまま』。だから良いのだと、解らないものなのか?」
『はあ? どうかしちゃった? 頭を傷付けた覚えはないんだけどなぁ?』
「では、教えてやろう。何、基本的なことだ、三秒もかからん――霊力の苦手な霊魔よ、吾の体は、何で出来ていると思う?」
一拍をおいて。
霊魔の顔に、理解の色が拡がる――思えば漸く、恐怖の色も。
そしてそれよりも早く、白い腕の表面を爆発が連鎖していく。翼から流した霊力が腕を逆流しているのだ。
「『傷口からは瘴気を流されている』――その逆が起こり得ると、考えるべきだったな」
『くそぉぉぉぉぉぉぉっ!!!』
「……まあ、児戯には似合いの結末だな」
到達した黄金の霊力に包まれ、黒い繭が吹き飛んだ。
弾け飛んだ瘴気の破片は、霊力の余波で何に触れる間も無く消滅していく。まるで、雨の幻のように。
消えるだけだ、水溜まりも虹も残さずに。
「さて。我が仮初めの主人殿は御無事か……っ!」
いや。残ったものが、二つ。
「なんだ――なんだ、あれはっ……!!」
果たしてそこに、残されたものは。
虹か、水溜まりか。
「本物とは、ですって……?」
医師だった筈の人影は、既にその身体の半分以上を黒い瘴気に染めている。
状況はかなり佳境のようだと、想苗は当たりをつけた――良い方に進んでいるかどうかは、最早祈るより他にないが。
何にせよ、これが求めているのは対話のようだ。
この場所が心の内である以上は、斬った張ったでは決着がつかないということだろう。正しく、心を折る戦いというわけだろうか。
「えぇ、簡単な質問でしょう?」
頬の辺りに瘴気を纏わせながら、霊魔はにやりと笑う。「貴女は既に、偽物とは何か、という質問に答えています。その逆ですからね、答えは直ぐに出るでしょう」
「…………それは」
「それは?」
――それは。それは……?
本物、とは。
「………………」
「どうかしましたか、想苗様?」
「本物とは……本物、とは……」
想苗は、答えられなかった。
答えを用意できなかったわけではない、寧ろ、自分なりの答えを明確に思い付いたからこそ、想苗はそれを、口に出すことが出来なかったのだ。
霊魔は、全てを悟っているかのように優しく微笑んだ。その笑みもまた、瘴気の闇に呑まれつつある。
「やはりそれも――鍋の底の焦げでしょう?」
「っ、それは……」
――その通りだ。
想苗は確かにこう思ったのだ――本物とは、偽物でないものだと。
「貴女にとってはそういうものなのです。偽物、紛い物、間違い。そういったものを取り除いていった後に残るものが、本物だと思っているのでしょう、貴女は? 鍋の底にこびりついて剥がれない、偽物みたいな焦げなのだと……」
「それは……私は!」
「そう、むきになることでもないでしょう? ただ、認めれば良いだけのことです――貴女にとって、本物も偽物も同じものなのだと」
そんなわけは、ない、筈だ。
あぁだって。偽物は偽物だ、けして本物ではない筈で。
だって、本物は、本物だ。けして、けして、偽物ではない筈だ。
偽物は本物ではないものだ。
本物は、偽物ではないものだ。
偽物は本物にはなれないし、本物は偽物になれない筈だ。
違うものだ、絶対に、絶対に。
「その違いを決めるのは、単に貴女自身だというだけの話ですよ」
違う、違う。
私が欲しいものは本物で、偽物には消えてほしくて、それで。
「欲しいものが本物で、要らないものが偽物で。そうして要らないものを取り除いていった後に残ったもの、それが、貴女にとっての本物だというだけのこと……」
違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違うっ!!
「本物は、もっと正しくて、間違いがなくて、もっときちんとした、確固たるものの筈だわ! こんな、そんな、ふわふわとしたものなんかじゃない……!!」
がりがりがりと頭をかきむしりながら、想苗はその場にうずくまる。止めてくれと耳を塞ぎ、見たくないと目を閉じて。
だから、想苗は気付かなかった――目の前で、霊魔がその姿を変えていることに。
最早、その全身を黒く染めながら。
靴はブーツに、ズボンは袴に。
白衣が変容した
「貴女が要らない偽物でも。貴女が欲しいものを持っていれば、偽物が本物になれるのよ……?」
短く切り揃えた髪の下で、霊魔が、その唇が艶かしく歪んだ。
そして、世界が弾けた。
真夏の雪のように、降る端から消えていく瘴気の破片、その中心に、彼女たちは現れた。
怯えるようにうずくまる、戸上想苗。
そして――それを見下ろす、もう一人の戸上想苗。
全身に、濃い漆黒の瘴気を絡ませる彼女は、嬉しそうに楽しそうに微笑んでいる。
「貴様は……」
「……うふふ、ようこそ刀霊。そして、よろしく」
黒い霊魔が、まるで名のある家の奥方みたいな所作で深々と一礼した。
「これからは、ワタシが本物の戸上想苗です」
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