第19話決意、失墜。
想苗殿を瘴気の中に引き込むと、白い腕はゆらゆらと漂い始めた。
ほどけかけの毬のようだ。球状に集まった瘴気から、腕はだらりと、脱力した様子で垂れ下がっている。
瘴気の繭は浮かんでいるようだった――もっとも周囲は精神世界、浮かぶも何も明確な地面があるわけではないが。
「……ちっ」
嘴を不快そうに鳴らし、【金宝】は繭の周りを旋回する。
繭は、相当な密度だ、恐らくは、想苗殿の中に入った瘴気を全てかき集めているのだろう。全力でならば焼き祓えるかもしれないが、こちらも無事では済みそうにない。
「想苗殿の精神も、悪影響を受けているようだな……」
心の最奥、意識の深くまで入り込むほど、瘴気は想苗殿と強く結び付いてしまっているようだ。瘴気が集まっているのに周囲の闇が晴れないのも、心そのものが暗く染められている証拠だろう。
「……さて、どうするか。これが単なる駄々ならば、無理矢理にも引きずり出すのだが」
『そうは、させぬ』
嘆息混じりの【金宝】に応じるは、懐かしき主人の声。
「祐一郎、の記憶か」
『僕も居るよ?』
「後継殿まで。そうか、その記憶を取り込んだからこそ、そこまで深く結び付いたか、怨念」
けたけたけた、かつての主人とその息子の声音で紡がれる、本物とは似ても似つかぬ嘲笑に、【金宝】はまた嘴を鳴らした。
ずぶりと。
繭の表面に男性の顔らしきものが浮かび上がった――細い顎筋や髪型などは祐一郎のそれ、だがあの、理知的な輝きを宿していた眼球は最早底無しの虚ろな闇と化している。
「はっ、どうやら顔真似は不得手のようだ。その不細工な作りを見ると、ふん、声も思ったより似ておらぬかな」
挑発するような【金宝】の言葉に、黒い面は唇を笑みの形に歪ませた。『だが、お前の主人は騙されたぞ?』
【金宝】は、深々とため息を吐いて見せた。もし彼がヒトの形をしていて、空を飛んでいなければ、肩くらい竦めたかもしれない。
「そうだな、それに関しては我もどうかと思う……本人の名誉のために言えば、あれは未だ仮初めの主人よ。霊力の量はともかく、扱いに慣れておらん」
『くふふ、迂闊よな……そんな状態の者を、お前は放置したのだからな』
下品な笑みを浮かべ続ける霊魔に、【金宝】は目を細め、嘲笑うように数度、嘴を鳴らした。
「弱者を嵌められて、随分と御満悦だな、怨念。児戯に夢中になるとは、性根は腐るどころか未熟らしい」
瞬間、霊魔が表情を変えた。
『……児戯、だと? 馬鹿を言うな、俺の能力は最強の力だ! どんな人間でも、言われたいことを聞きたい声で言われて刃向かえるわけがない!』
「児戯だよ、貴様のは」
【金宝】は、あくまでも冷静に霊魔を煽り立てる。「そら。図星で喋りが乱れたぞ? それとも、あぁ。元よりさして似ておらなんだか」
かかか、と【金宝】は笑った。
霊魔は、期待通りの反応を返した――地の底から響くような雄叫びと共に、全ての白い腕が【金宝】目掛けて襲い掛かったのだ。
「……だから、児戯と云うのだ」
殺到する腕を受け止めるように、【金宝】は翼を大きく拡げた。
腕は一斉に、その翼に飛び込んでいく。どの手も鋭く爪を伸ばし、生意気な鳥を串刺しにせんとばかり。
次の瞬間、翼から放たれた黄金の輝きがその全てを祓い尽くした。
『なっ!?』
「安い挑発で直ぐ我を忘れ、物量を頼みに囲むでもなく単なる突撃。児戯で癇癪を起こす幼子のごとき未熟よ」
虚を突くように【金宝】は霊魔の顔、既にその寸前に飛び込んでいる。「では消えよ、軽率な愚か者よ」
黄金の翼が今正に、霊魔の顔面に叩き付けられる、その瞬間。
『それは僕の台詞だよ?』
繭の下部から声が響き。
「っ!?」
突如伸びてきた白い二本の腕が、【金宝】の翼を貫いた。
「……う、うぅ……」
鈍い頭痛で、想苗の意識はゆっくりと浮上していった。
実のところそれは浮上ではなく墜落でしかないのだが――本人にはそれと判らぬものだ。
足から浮かぶのも、頭から落ちるのも。地に足が着いていないのは、どちらも変わりはないものだ。
それを変えるのは。
選ぶのは。
「っ、わ、私は……ここは……」
『……ふふ』
滲む視界、歪む世界。
耳の奥底に、耳鳴りが染み付いている。うぉぉぉぉん、うぉぉぉぉん……。
低く低く、頭の中で嵐が吹き荒ぶ。理性も何もかもを吹き飛ばすような、激しく荒々しい暴風雨が。
辺りは既に、暗闇ではない。あぁ、そこは。
『お母さん、お母さん、今日の朝御飯はなあに?』
「蛍……これは、ここは……」
『どうしたのお母さん。包丁を持ったままぼうっとしちゃって』
湯気を立てる土鍋、使い込まれたまな板に載せられた、下ろしかけの魚に、細かく細かく刻んだ葱。
鍋には湯が張られている。あぁ、味噌も直ぐ手元にある。
「…………」
『良い香り……お魚だ! えっと……秋刀魚だよね、そうでしょ?!』
「……えぇ、そうよ、蛍……」
蛍は、にっこりと笑った。
朗らかに、晴れやかに。
一切の憂いを持たずただただ嬉しいから笑っているのだと、言葉より雄弁に語る大輪の笑みを咲かせている。
『ふわあ、おはよう。おぉ、良い匂いだね、想苗』
「祐、一郎、様……」
大きな欠伸をしながら台所に入ってきたのは、細身で背の高い、あの人。
鈴蘭のように控えめに、笑いながらも何事か考えているような小振りな笑みで飾っている。
更に、闇が遠退いた。
祐一郎様の背、開け放たれた商事の向こうには、古いながらも手入れの行き届いた廊下が伸びている。
そこから吹き込むそよ風は草木の芽吹く香りを孕み、差し込む木漏れ日には生命の息吹が満ちているよう。
想苗の視線に気が付いたのか、祐一郎様はゆるりと庭の方を眺め、微笑んだ。
『今日も良い天気だね、想苗。風も心地好いし、日差しも柔らかい。そうだ、今日は最近出来たという、あの丘にある遊園地にでも出掛けようか?』
『本当っ!?』
蛍が目を輝かせて、祐一郎様に駆け寄った。『そしたら、屋台もあるかなぁ!』
抱き付いてきた蛍の頭を軽く撫でながら、祐一郎様は嬉しそうに答えた。『はは、あるとも。蛍、お前の好きなりんご飴も、きっとあるぞ? ……買ってやっても良いかな、想苗?』
『良いよね、お母さん!』
二人して、笑顔で振り返る。
あぁそうだ、いつもそうだった。全く違う笑い方をする癖に、並んでいると本当に、驚くくらいにそっくりで。
おねだりに、いつも上手く使われていた。
――あぁ、何て。
生命に溢れた世界だろう。光に、輝きに、喜びに、暖かさに満ちた世界だろう。
なんて、幸せな世界だろう。
想苗は、想苗も。
「……えぇ、仕方がないですね。良いわよ、蛍……」
にっこりと、出来る限り最高の笑顔を浮かべてみせた。
我が子が目を閉じても、目蓋の裏に焼き付いて離れないように、目映いばかりの笑みを。
最高の笑顔のままで、想苗は静かに。
「もう、良いの」
『…………え?』
包丁を蛍の眼窩に突き立てた。
『あ、れ……?』
『そ、想苗……何を?』
「えぇ。もう良いの、もう良いのですよ二人とも……」
引き抜く。
ごぼりと溢れ出したのは真っ赤な血――ではなく。
「私は、花守として生きると決めたのですから」
どう、と倒れた蛍の身体からは、黒く穢れきった瘴気が、泥のように溢れている。
『想苗、そなえ、おまえ、オォマァエェェェェェェェェェッ!!』
「黙りなさい、執念」
輪郭が崩れ、漆黒の闇を吐き出す祐一郎だったモノに凄絶な笑みを向けながら、想苗は包丁を構えた。「私の執念。お前は、もう唯の霊魔です」
蛍の死体から溢れる瘴気が、霊魔の口から溢れる瘴気が、瞬く間に平和で幸福な
黒く、黒く。
赤く、赤く。
恨み辛み妬み嫉み執着粘着渇望絶望苦悩苦痛恐怖憤怒苦苦苦苦苦……。
人生における、光輝く何かと対に語られるあらゆる負の概念を集めて煮詰めて敷き詰めたような空間で、想苗は、彼と向き合っている――。
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