第六章 血と鋼<4>

 謁見の間に姿を見せると、額を寄せ合うようにして会談していた貴族や官僚たちの輪の中心にいたダニーラ・モルフの灰青色の瞳が、間隙を突くように見やった。

 挨拶のために頭を低く下げようとしたエルリフとイズーを、足早に近づいてきたダニーラが諌める。一瞬だけ、彼の目が戸惑った。

エルリフが、奇しくもダニーラと初めて会った日にまとっていたウーロムの粗末な上衣に再び身を包んでいたからだろう。

「姿が見えないというので案じていたよ。此度のことは君の落ち度ではない、エルリフ」

 ダニーラはエルリフの肩をためらわず引き寄せ、しっかりと抱きしめた。

「ダニーラ様……!」

 思いやりと頼もしさに満ちた貴公子の腕の中で、エルリフは、感激に身を震わせる。

 王なき今、自分を護ってくれる有力者は彼しかいない。実質的な最高権力者となった彼がエルリフの“罪”を真っ先に赦したことで、少なくとも貴族や上層部はエルリフ・ゴルダロスを非難出来なくなった。鮮やかな手並みだった。しかし……

 ここで丸め込まれるわけにはいかなかったのだ、いまのエルリフは。 

「責任は、間違いなく俺にあります。魔鉄にはまだよく分からないことがあると、俺は、陛下にも、貴方様にもお伝えしませんでした。それに大膳職侍従長を襲ったのはウーロムのクルーゼ兄弟だった……どうして、どうしてあんな恐ろしいことが起きたのか……!」

 その話はあとだ、と、ダニーラはエルリフの背中を数度、軽く叩いて励ましてから……あるいは言葉を遮ってから、身を離し、背後を振り返った。

「彼は私の大事な友人。内密に話がしたい。ご一同、退出を願えるか」

 ぞろぞろと、要人たちが退出していく。衛士も扉の外に立つ。

「あたしのことはどうか、お見逃しになって……」

 イズーが急いでエルリフの手を握った。なりゆきというか本能というか、エルリフもその手を強く握り返す。二人の様子を少し驚いたように見たダニーラは何も言わず、上座に向かうと玉座の場所に置かれていた椅子に腰を下ろした。

 貴族用の絹張り肘掛椅子に過ぎないが、その場に座ることが許されているのは王以外にはありえない。

 早々と、即位もまだのうちからダニーラはその場に己が腰掛けることを是としたのだ。

「今は国家危急の時。私はこれから国務を取り仕切らねばならない。そこで、だ。ボルドス亡き後の武器庫を君に任せたい。君をご父君と同じ王認武具師に任ずるつもりだ。もちろん貴族身分に準ずる……」

「……違うんです、ダニーラ様。そういうことでは、ないんです! 俺はボルドスさんの足元にも及びません! エルスラン様が、なぜ俺の身分を無闇に引き上げなさらなかったか、わからないんですか? 俺がまだ未熟だからですよ! でも一人前になる手助けはしてくださると約束してくれた。俺は、陛下の思いやりが、何よりも嬉しかったんです!」

 ダニーラは傷ついたような、言葉が理解出来ていないような戸惑いを見せた。

「……いかがした、エルリフ。私も、君が立派になっていくのを喜んでいた。友と思う君のために最善の道を示そうと思っているだけなのに、なぜ素直に受け容れてくれない?」

 彼の聖人王のような面持ちに、自分が退治されそうな妖怪(チョルト)にでもなった気分がした。

かろうじて踏み止まっている足元は震えていた。

「エルスラン様を探しに行くべきです、ダニーラ様。葬儀の準備をする時ではありません」

「陛下は黒狼に食われてしまった。君こそ目の前で見ただろう。すでに後を追わせた騎兵からの報告を受けている。黒狼はドゥーガ方面の街道を荒らしながら、消えたそうだ。湖には砦があるので護りは堅い。慣例通り、私が次期国王となることに誰一人、異論はないと確かめた所だ。エルスランは世継ぎも、親類も持たない。一匹狼だったのだから……」

「陛下が亡くなったとは、俺には思えません! 魔鉄の目的は王の命を奪うことではなく王の心身を奪うためです。クルーゼ兄弟に、充てつけに毛皮を贈るように指示したのは確かに陛下だった……でも手配をしたのは、貴方様です」

 ウーロムに限らず、国内外への王の勅令や下賜のすべてを彼は把握していたはずだ。

 そもそもミーリュカがウーロムに来たのも、クルーゼ家の領主をそそのかした者の情報を求めてのことだった。

 彼は言っていた。巧妙で、決して姿を現さない奴だと……

(逆だとしたら? 正々堂々と、王の名の元に、姿を見せていた者だとしたら?)

 たとえクルーゼ兄弟でなくとも、別の刺客を仕立てあげることなど造作もないに違いなかった。警備をしていた近衛隊もダニーラの管轄だ。彼らは毛皮の者たちについて「親衛隊の一員だと思った」と語っているという。わざと親衛隊との関係をほのめかすような黒い毛皮を着ていたのだとしたら? そして状況はまさに”王権を守る”近衛大隊と、”主人を失った狗”、親衛隊の対立の様相を呈している。

 ここで踏みとどまれなかったら、王も不在の今、親衛隊は大義ごと壊滅だ。

「いったい、どのような言伝を添えてあれをウーロムに贈ったのですか? 陛下からの悪い知らせのように、言い含めたんじゃないんですか?!」

 耳を傾けていたダニーラは、肘掛に片肘をつき、彫刻のように整った頬を指で支えた。

「エルリフ、君は最も肝要な点で誤解しているよ。陛下は、すべてご存じだったということだ。炙りだし、いたぶる。鼠退治と同じだ。だが今までは鼠取り人がちゃんと始末をしていたということだ。このままでは一生、鼠取りは鼠取りのまま……馬丁のままだ」

「……炙るだけ炙って、貴方は、泳がせたんですね、わざと……クルーゼ兄弟は王じゃなく、ミーリュカも狙っていた。いや、先に狙いをつけていたのは、ミーリュカだった」

 無理もない。ウーロムでミーリュカの妖美きわまる踊りに誘い出され、罠にかかったのは他ならぬあの兄弟だったのだから。

 そしてミーリュカはレグロナ皇女との縁談を含む交渉の象徴であり、要人だった。

「ミーリュカ、か。以前はまだ、悲惨な過去に傷つき、姉上が愛でた者であれば、と大目に見ることが出来た。だが……エルスランの色に染まった今や、ただの矮臣。ヴォルコフ親子の狡知によって弑され、あるいは流刑になった者は数多い。当然の報いだ」

「それを貴方様が言うのはおかしいでしょう! 貴方様は彼らよりもお偉い立場から、すべてをご承知のうえで見て見ぬふりをして彼らを利用してきたのではないですか」

 ダニーラが姿勢を解き、椅子の手すりを握った。青玉石の指輪がぎらりと光る。

「分かっていないのはそなただ、為政者と、あのように穢れた者どもを同列に語るとは」

「穢れた、だって? 彼をどうする気ですか!」

「あの重症では放っておいても死ぬだろう」

 恐ろしく、酷薄な言葉。いっそう冷やかさが増していく。

「万が一生き延びた場合、姉上やエルスランめにしたように私に忠誠を誓わせてやる。そうでなければ、縛り首だ……あのようなあやしの者を、我が宮廷にはのさばらせぬ」

「彼は貴方にはなびきません。貴方はイリィナ様でもエルスラン様でもない……素晴らしい御方だけれど。彼はもう、王妃様の身代わりでも、貴族の踊り子でも、ないんだ!」

 ダニーラの貌(かお)から血の気が引き、恐ろしいほど急速に、柔和さが消え失せた。

 ミーリュカは正しかった。

 彼はダニーラの中の闇に触れ、怯えていたではないか。

「私が、あのような卑しい者に慰めを求めていたと告発しているのか? 鍛冶屋風情が、よくもこの私に……ますます気に入ったよ。君ならば分かるはず、エルスランは呪われた王だと。なぜ私の手を拒む? 私のほうがずっと善王になる。おのずと分かるだろう」

「そうやって上り詰めたお人の治世はきっと壊れてしまいます。間違った温度、ヤワな打ち方をした銑鉄みたいに割れてしまうんだ! 俺は、貴方がそうなるなんて嫌です!」

「レグロナとの和平など、断じてありえぬ!」

 叫んだダニーラが勢いよく立ち上がった。

椅子が、不吉なぐらいゆっくりと倒れた。

「そうでなければ我が高祖たちが凍土に流した血と涙はどうなる? 折られた無数の剣は! 我が父はレグロナの騎士団長に捕らえられ、首を撥ねられた。母は、皆の死せる魂を鎮めるためにいまもカレイアの修道院に篭られている………それなのに王は、あの男は私に言った、他の誰でもなく、お前なら分かってくれると信じている、と。ああ分かったとも……見くびられたものだということがな」

「ダニーラ様、それは違います、陛下は、そんな……!」

「黙れ。エルスランめは我が姉上を滅ぼし、今度はモルフ家の名誉を、祖国の魂までも奪おうとしている、この私から! 私は姉上が愛した美(うま)しヴァルーシをあの裏切り者から護ってみせる……そのためなら、全土の民に武器を取らせてでも戦い抜く!」

 彼は、いつから野心と憎悪にとりつかれていたのだろう? 

 彼は素晴らしく研ぎ澄まされ、高潔な主馬頭だった。エルスラン王も彼の高い実務能力、武勇、貴族たちとの付き合いの上手さ、若さに似合わぬ彼の冷静さを買っていたに違いないのだ。何より、かつて愛した女(ひと)の、最も近しい肉親として。

 だが王がイリィナの時と同じヴァルーシ貴族の娘ではなく、レグロナ皇女を娶ると知った時、彼の鋼の冷静さに、ヒビが生じてしまったのだ。

 冷たい奥方の侮蔑の眼差しに打ち勝ち、なびかないミーリュカを屈服させるには、自らが王になるしかなかった。あと一段で国璽と玉座に手が届く位置にいた彼。もしも皇女が迎えられ、世継ぎが生まれればそれも消え失せ、しかもその血統には彼が憎悪するレグロナ皇家の血が混じる。

ダニーラの、怒りの炎で炙られたるつぼの中に彼のすべての欲望、すべての野望、すべての絶望が混然となって煮えたぎっている。

 いまやそのるつぼは割れかけて、灼熱の憎悪でヴァルーシを覆おうとしている。

 その灼熱が足元まで押し寄せたように、突然エルリフの怒りも燃え立った。

「あんたが、ミーリュカを真っ先に殺すように指示したんだな、レグロナとの和平を壊すために! そして陛下も襲わせた……あんたは、わざと側に居なかった。それだけじゃない、黒狼の暴走を利用して、王になろうとするなんて非道(ひど)すぎる!」

「御互いに落ち着いたほうがよさそうだな。それにエルリフ、証拠などもう溶けた氷柱(つらら)ほども無い。告発しても君の首が飛ぶだけだぞ」

 今のダニーラは非情だが、真実だけを語っている。瞳には冷ややかな自信が輝いていた。

 憤りのあまり肩で息をしていたエルリフは、言われた通りに、落ち着こうとした。

「御領地の民のことを案じておられた貴方はどこに行ってしまったんです? 陛下は、イリィナ様と貴方の故郷に春をもたらそうとなさっているんですよ。すべての民のために善き王であろうと必死でもがいていらっしゃった陛下と、俺は約束したんだ、俺は……!」

 イズーが肘鉄を見舞い、素早くささやいた。

「あたしもよ、バカ!」

「お、俺たちは約束した。カローリ=エルスランを必ず、何があってもお救いする、と!」

 やぶれかぶれのエルリフの言葉でも、理性を失った今のダニーラの癇には障ったようだ。

険しい顔つきになりながらもなお、冷静な眼差しと声で語りかけてくる。

「まこと、騎士の心を持つ鍛冶師だ……君を失いたくはない。このままでは隣の彼女の命も危うくするぞ。男になれ、エルリフ」

 君は、私を見捨てないでくれ。

 エルリフには半ば、彼がそう懇願しているように聞こえた。孤独な玉座の上から。

 だが、自分はすでにダニーラを見捨てていたのだった。

「すみません、ダニーラ様……すみません」

「ちょっ、あんたもこの期に及んで何、謝ってるのよ! もう後戻り不可能よ!」

(……ダニーラを誘い出せ。ミーチャや、都から引き離せ……!)

 正統性があやふやなうちに“大将”が都を留守にすれば事態も変わるかもしれない。

 後退さるエルリフを、ダニーラの双眸が獲物を狙う雪豹のように無言で追ってくる。

「俺たちは北へ向かいます。正統な王を迎えに……貴方様はそれまで、都を御守りください。今のやりとりのこと、俺、絶対に外では言いません」

 願いを籠めて言いつつ、エルリフは急いでイズーの手を引き、止められる前に退出した。

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