後編 鈍感でも

「よし、これぐらいかな。ちょっと離れてて」

 旭が下がったのを見て、由美はオーブンを開けた。りんごの匂いがカウンター中に広がった。

「アップルパイ。いろいろ考えたけどこれが一番かなって」

「すっごく美味しそう! 早く食べたい」

「ふふっ、どうぞ召し上がれ! さて……」

 由美はウエスタンドアを開けて、旭の隣の椅子に腰を下ろした。手にはフォークとナイフを持っていた。小皿に切り分けて、旭の前に差し出した。

「あ、召し上がれ」

「いただきます」

 旭は両手を合わせて、フォークを手にして口に運んだ。由美はこの様子を見ているだけでも満足していた。

「……おいしい。めちゃめちゃおいしい!」

「ほんとに?」

「本当だよ。食べてみなよ」

 旭はもう一切れ小皿に取り、由美に渡した。

「え……」

「どうしたの? 早く食べないと冷めちゃうよ?」

「……間接キス」

「あ」

(やっぱ鈍感だ……こうなったら)

「はむっ」

「ああ、え、ええ?」

 旭は普段はあまりしない大きなリアクションをした。

「……おいしい」

「……」

 妙な空気が流れた。

「……今のは見なかったことにして」

「え、そんなこと言われても」

「いい?」

「は、はい……」

「じゃあこれ、食べきって。小さいサイズなんだから、食べられるでしょ?」

「え、でもそれ……」

 旭はフォークを指してもごもご言った。

「私もやったんだから……男子なんだからこういうときぐらい男らしくしなさいよ……」

 由美は顔をそらした。旭は戸惑ってしまった。

「……はむっ」

 旭は思い切ってフォークを口に運んだ。そしてすぐに皿は空っぽになった。

「ごちそうさまでした」

「……お粗末様でした」

「きょ、今日はありがとう。それじゃ」

「そうじゃないでしょ……」

「え、ご、ごめん」

「悪気がないってことはわかってた。でも、ね……私じゃなかったら勘違いされたり、離れていっちゃうよ?」

「気をつけます……」

「でも、ねぇ。こんなことされちゃったら……」

「ど、どうか命だけは」

「そんなことしないよ……じゃあ、今後もうちに来て。営業時間内でも、休みの日でもいいから。君が常連客になってくれたらいい」

「え、でもそれってどういう関係が」

「いいの! 別に。さっさと帰って!」

「え、は、はい」

 旭は入り口のところまで行き、振り返った。

「おいしかったよ。ありがとう」

 旭ははにかんだ。

「……ありがとう」

 由美はうつむいて言った。

「じゃあ、また明日」

「うん……」

(あれ、なんで私泣いているんだろ……)

「花田さん? え、どうしたの……?」

 旭はどうしたらいいのか本当にわからなくなってしまった。

(やっぱり、俺は誰ともかかわらないほうがいいのかな。きっと海音もこんなふうに傷つけてしまう日がいつか来ちゃうのかな……)

「倉田くんは何も悪くない……泣いちゃう私が悪いから、もう帰って」

「……」

「もういいから早く……えっ」


 旭は由美の背中に手を回した。

「え、ちょっ、ちょっと倉田くん?」

「泣き止むまで、ずっとこうしとく。お母さんが教えてくれたんだ。泣いている人は、ハグしたら落ち着くって。悲しさが和らいで、安らかな気持ちになるって。だから、落ち着いて」

「……君の優しさは、お母さん譲りなんだね」

「そうかもしれない。けど、今俺が行動に起こせるのは、本当の俺の気持ちなんだと思う。こんなに感情を誰かに向けるのは初めてだけど、それが花田さんでよかったと思う」

「そっか。じゃあもう泣き止んだから離してくれる?」

 由美は旭から顔をそらして水の中からやっとの思いで出てきたかのように呼吸した。そして、顔を赤くしながら笑った。

「え、あ、本当だ」

 旭は近くに寄せた笑顔を見て安心し、由美を離した。

「……ありがと」

「汗だくだけど、大丈夫?」

「汗っかきだから。だめだった?」

「いいや、そんなのは関係ないよ」

 二人の間には、アップルパイより甘く、コーヒーより深い空気が流れていた。

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