第14話 『Baba O'Riley』

 2月は静かな季節だ。服部は湯気を立てる鍋の中から丼を取り出し、その底に塩ダレを垂らす。午後3時の閑散期。外は晴れているが、埃の積もったテレビから流れる天気予報は日暮れからの雪を伝えていた。


「……あと1ヶ月で卒業か」

「んだよ。感傷に浸ってる暇があったらおれのラーメン早く寄越せや」

「生煮えでいいならすぐ出すぜ」


 カウンターから聞こえてくる木津の声に服部は苦笑する。タレを鶏ガラのスープで割って、丁寧に湯切りした麺を流し込み、厚切りの焼豚を3枚。木津の好みは麺硬めの味濃いめで、ネギは多い方が喜ぶ。いつもより多めにネギを乗せ、煮卵も乗せてやってカウンターに乗せると、すぐに手が伸びてきた。


「お待ちどうさん。志望校合格おめでと」

「……ケッ」


 塩ラーメンを頼んだら合格、醤油ラーメンを頼んだら不合格。そういう自分勝手なルールを宣言して始発で東京へ向かった木津は、つい先程来店し、暖簾をくぐるなり不機嫌そうに塩ラーメンを頼んだ。何だかんだ心配していた服部は、それが自分のことのように嬉しかった。しかしカウンター越しに見える木津の眉間にはずっと皺が寄ったままだ。不思議に思いつつ、服部は使い込んだ椅子を取り出し、腰を下ろす。


「春からおめーもトーキョーのダイガクセーってやつか。何勉強すんだ?」

「経済学や経営学。帝王学があればそっちを学びたかったがな。哲学系も学ぶつもりでいる」

「ほーん。よくわかんねーわ、そーゆーの」

「……そうか」

「んだよ。なんだか元気ねーな。もっと喜べよ」

「ああ……そうだな」


 生返事の木津は、それでもラーメンだけは豪快に啜り続けていた。服部は油に汚れた天井をぼうっと見上げ、ゆっくりと瞬きする。


 木津とはずっと一緒に育った。生まれた産院が同じなのだ。親同士も仲が良く、保育園だって、小学校だって、中学校だって、高校だって一緒だった。周囲には「付き纏われている」と言われるが、気にしたことはない。木津はいつでもぶつくさ言いながら自分を助けてくれるのだ。自分の一番の理解者はいつだって木津だったし、木津の一番も自分に違いなかった。


 そんな存在が、遠くに離れる。木津は4月から東京の大学の学生寮に入り、盆暮れ正月以外にはこの町に帰れなくなる。いつだってスマホで繋がっているから、寂しいとは思わない。けれど、木津のいない日々は、なんとなく不安だ。


「……東京の大学行ったらさ。おめーもバイトして、サークルとか入って、彼女とかできんのかな」

「どうだろうな。今のところは真摯に勉学へ励むつもりだが」

「彼女とかできたら、ココにも帰ってこなくなんのかな」

「なんだ? 嫉妬か?」

「すると思う?」

「……してほしいが、しないんだろうな」

「なんだそりゃ。へんなやつ」


 曇った窓から差し込む光に、湯気がきらきらと反射する。もしも木津が帰ってこなくなったら、その原因に嫉妬しないわけでもない。そんな気持ちを白湯とともに胃の中へ流し込むと、胸の底がざわついた。そうか、自分は寂しいのだ。自覚して、荒れた手を握りしめる。


 そのとき、店の引き戸が開いた。反射的に笑顔を作って立ち上がると、見慣れた顔がそこにある。


「よお葦原。ひとり?」

「今日はずっと1人。大将、醤油ラーメン」

「あいよ」


 常識的なコート姿の葦原は、木津の隣に座ってため息をついた。熱い茶を出してやると、不意にぶつかった指が氷のように冷えていることがわかる。彫刻めいたその顔は、いつものように微笑んでいるわけではなかった。


「今日は素か」

「いつもおどけていられるほど役者じゃないよ」

「そりゃそうだよな。でも、最近はずいぶん板についてたぜ」

「ありがと。ま、それもそれでどうなんだろうね」


 色素の薄い瞳を細める葦原は、優雅な仕草で茶を啜る。幼馴染の自分たちしか知らない葦原の姿は、いつも憂いを帯びていた。服部は麺を掴み、煮えた湯の中へ放り込む。


 誰だって自分を演じているが、葦原の演じる「自分」は彼にとって重荷が過ぎる。頬杖をついて卓上の調味料を見つめる視線は疲れていて、服部は胸の痛みを感じた。


「……でも、もうあと1ヶ月だな。嬉しい?」

「嬉しそうに見える?」

「ちっとも」


――「ハルちゃんが『おかしい』って言われるなら、隣にいる自分ほうが、誰よりも『おかしく』なってしまえばいい」


 葦原がそんな事を言い出したのは、小学生の頃だった。あれから10年。葦原は本当に「変人」を貫き通し、そして卒業の時を迎えようとしている。この町の若者にとって、大学進学は町から出る事を意味する。一生をこの平和な町で過ごすことは、できないのだ。


 湯呑みから上がる湯気を吹く葦原は、飛行機でしか行けないほどに遠い学校を選んだ。その選択には驚いたが、彼がそうしたいのならば、止める理由は無かった。温かい丼に垂らした醤油ダレの脂が溶けた頃、麺が茹で上がる。黄金色のスープを流し込めば、にんにくの匂いが強く立ち昇った。


「どーして同じ学校選ばなかったんだよ。後悔してねえの?」

「……してるよ。ハルちゃんから離れられるかなって、不安で不安で仕方ない」

「ならやっぱ、今からでも東京の学校受験すれば? おまえならどこでも受かるだろ」

「でも、これはハルちゃんの選択でもあるんだ。ぼくはハルちゃんから離れなきゃいけない」

「よくわかんねえなあ。一緒にいたいんだろ?」

「……いたいさ」

「おれはわかるぞ、葦原の気持ち」


 ウンウン頷く木津が葦原の背中を撫でるが、彼の表情は冴えない。「なんでわかんの?」と言いつつ服部は丼の中の麺をほぐす。葦原はネギが嫌いだから、代わりにメンマを多めに入れてやった。焼豚は2枚。3枚にすると、木津が嫉妬する。


「でもよぉ。遥と一緒にいるとさ、おまえは一緒変なキャラ演じなきゃいけないわけじゃん? それって嫌じゃねえの?」

「……うん、嫌だ」

「ほら。なら離れた方がいいじゃん」

「離れるのはもっと嫌だ」

「それがわかんねえんだよなあ。第一どのへんが好きなのかわかんねえし。確かに遥はいいヤツだし可愛いけど、なんつーの。悪口じゃないけどさ、執着するほどか?」

「……ぼくにもわかんないよ、そんなの」

「そういうもんかあ? ほい、ラーメンお待たせ」


 重い丼を置くと、白い手は随分かかってそれを降ろした。丼を掴んで熱がる素振りも見せないのは、それだけ身体が冷えているのだろう。パチンという割り箸の割れる音を聴きながら、服部は再び椅子へと腰を下ろす。


 2月は静かな季節だ。生き物たちは遠い春を待ち、土は雪の下でじっと耐え忍び、人々は皆空を見上げ、白いため息をつくばかり。テレビから絶えず流れる古いドラマの再放送の安っぽいBGMは、静寂をますます深くする。服部は中華鍋の振りすぎで痛む手首を揉みながら、ぼんやりと店の匂いを嗅いでいた。


「……自分を演じるのは、辛いよ。自分が誰だか思い出せなくなるし、夢を見失う。何もかもが怖くなるし、いつも何かに怯えることになる」


 麺を啜る音が聞こえなくなった頃、ふと葦原の声が言った。服部は葦原が歌声を失った時の事を思い出しながら生返事をする。彼は声を失ったことよりも、「歌えなくなってハルちゃんに嫌われたらどうしよう」と泣いていた。服部はその葦原の背中に、どんな慰めの言葉もかけられなかった。


 葦原は何故こんなにも染井に執着しているのだろう。木津は「そういうもんだろ」と言っているが、服部にはそれが不思議でならない。何度問いかけても、葦原がはっきりした答えを出すことはない。言葉にできない気持ちこそが恋なのだろうけれど、そんなものを信じられるほど大人になれない。


「それでもぼくは、ハルちゃんが大好きなんだ」


 呟く声に混じるのは、愛情でも友情でもない。自分を偽ってまで、人生を捻じ曲げてまで誰かを愛するなんて、そんなものは狂気でしかない。しかし人を愛したことのない服部は、理解のできないままにただ頷く。「お前のそれは愛ではなく歪んだ庇護欲だ」なんて指摘は、できなかった。


 化けの皮を剥がしてしまえば、葦原だって10代の荒野に迷うひとりの幼い少年でしかない。それでも葦原は、染井から受験の結果を伝える電話がかかってくれば、いつもの調子でおどけた祝辞を返すのだろう。染井が、偽っているほうの自分だけを知っていると思って。そう思い込んで。


「おれはわかるなあ、アッシーのそういう気持ち」


 自分の想いに結論を見つけられず、安全靴の爪先を見つめていたら、組んだ両手の上に指を乗せた木津がそんなことを言い出した。服部は背中を伸ばし、カウンター越しに木津の坊主頭を睨む。


「えっ、なにがわかんだよ」

「おめーも恋をすりゃあわかるよ」


 なんだそれ、と返そうとしたとき、べたつくカウンターへ置かれた葦原のスマホが軽い着信音を響かせた。ワンコールで手に取って、葦原は不安そうに画面を操作する。


「染井さん?……そっか! よかったね、ボクもとても嬉しいよ! そっか……うん、頑張ったもんネ。お疲れさまだ。春から大学生だね、うん、嬉しい……」


 おめでとうと言えない葦原が、染井の第二志望の大学へ願書を出していることは知っていた。それでも飛び切りの笑顔で電話に応える葦原は、いつになったら素直に生きられるのだろう。どのみち、葦原は春になればこの町を去る。天井の暗がりを見上げながらふと感じた離別の寂しさも、恋をすれば忘れられるのだろうか。それならば恋など一生しなくて良いと、服部は思った。


***


 部室が寒い。信じられないほど寒い。SOUL'd OUTも舌が縺れるような寒さだ。だいいち室内なのに吐く息が白いなんておかしいだろう。


 相澤は真っ赤な指に息を吹きかけながら、スタンドにギターを下ろした。年末、みんなであんなに掃除したのに、窓からの隙間風が凄まじい。和田が養生テープで部屋の隙間をくまなく塞いでいるけれど、真っ青な顔で震えながらテープを千切る絵面がヤバい。


 頼みの綱の温風ヒーターは、相澤がペシペシやったら異音を上げ、冷風しか吐かなくなった。さっきから寺嶋がヒーター蘇生の儀式を行なっているが、多分効果は無いだろう。


「芽衣子。寒くないか」


 室内でダウンコートを着たまま部活をやっているという異常事態だが、背に腹はかえられない。床に座ってギターの手入れをしていた芽衣子は、相澤の問いかけに顔を上げる。


「つかさちゃん、あたし前にテレビで見たんだけどね」

「うん?」

「人間ってね。凍えて死んじゃう前にね、変な行動するんだって」


 芽衣子の視線の先には、机の上に立ってわやわやと腕を振り回す尾津がいた。彼曰く、天井のほうに暖かい空気がまだ残っているため、掻き回しているらしい。相澤は目を細め、その様子をしばらく観察し、吐き捨てた。


「――まだ平常運行だろ」


 冬休みが明けてから予餞会までは、あまりに時間が少ない。演奏曲を決めて、少し詰めればもう本番だ。それが終われば、次の週には卒業式である。


無い知恵を振り絞って作った今年のセットリストに、相澤は自信を持っていた。1曲めの「Children Of The Sea」でいつもの定番を崩し、次にクイーンの「Headlong」。栗栖を迎えた「Sabbra Cadabra」に、そのままピアノを入れて「Save Me」。しっとりしたところで、最後に「Breakthru」で楽しく終わる。アンコールには「Paranoid」だ。意外性だけで組んだが、この面子でやるならばそれで良い。


芽衣子と自分のギターに問題はないし、和田もああ見えて技術は高い。寺嶋はパフォーマンスこそ派手だが演奏は堅実で、選曲の実現性に不安は無かった。唯一気がかりなのは尾津のヴォーカルだが、いざとなったら他の4人がサポートする。その用意はできているし、尾津本人も今までになく必死で練習している。その仕上がりは、上々だ。


「テリー、そいつぁもう寿命だ。諦めて新しいの買いに行こう」

「……リーダーの馬鹿力」

「ああん?」


 若干気に触る発言こそあったものの、話し合いの結果、新しいヒーターを買いに商店街へ行き、その帰りで華陽軒へ寄ってラーメンを食べることが決議された。寺嶋が鞄から紙屑の束を出し、供養の札を描いてヒーターに貼る。それをスマホで撮って「享年13」というコメントとともにツイートすると、すぐさま「おじさんがエアコン買ってあげようか?」というリプライが来た。ちょっとだけ、お言葉に甘えようかなと思った。


「それにしてもよォ。芽衣子も大変だよな、思い入れもねえ先輩たちの予餞会やんなきゃいけねえなんて」


 いちど楽器を片付けてから買い物に行こうと準備をしていたら、ドラム椅子でくるくる回りながら和田がぼやいた。芽衣子は「うーん」と首を傾げ、唇に指を当てる。


「でも、知ってる先輩もいるんだよ。染井先輩とか、葦原先輩とか……あ。葦原先輩って重音楽部だったってほんと?」

「そうだよ! 重音楽部! すごかったんだよ! だよねリーダー?」


 手袋を嵌め、マフラーを巻いて、相澤は唸る。外は晴れているがどこか薄暗い。山の向こうには黒い雲が見えていて、吹雪の予感があった。


「……すげえなんてモンじゃねえな」

「どんな感じだったの?」

「声量も声質も表現力も有り余ってんだよ。あんなの聞かされてみろ、一瞬で自信がぶっ飛ぶぜ」


 和田の言葉に、尾津と寺嶋も頷く。疑いと憧れの籠った芽衣子の視線に微笑みで返し、相澤はため息をついた。


「……先輩のバンドはツェッペリンのコピーが主だった。先輩の声を活かせて、映えが良くて、ついでに有名な曲が多いバンドがツェッペリンだったからね。オリジナル曲もやってたけど、それもなんとなくツェッペリンっぽかったな。まあ、声質もロバートプラントっぽかったからさ」

「見た目もちょっと似てるもんねえ」

「うん。先輩はすごくかっこいいから、ステージに立って光が当たると、どこもかしこもキラキラして見えた。とは言っても、実際に観たのは中3ときの文化祭ライブが最後だったけどね」

「辞めちゃった……んだよね?」

「そ。デビューシングルは出したんだけど、それからすぐに喉壊しちゃってね」

「壊してない。壊されたんだ」


 相澤が言うと、和田は俯く。それもそうだ。皆、この話を避けるから。

 始めて葦原のステージを見たとき、中学生だった相澤は確信していた。この人はロックスターとなるために生まれてきたのだと。体育館の窓を震わすような声量は皮肉っぽく誘うような甘さを持っていて、それでいて憂いに満ちていて。葦原が視線を動かすだけで音楽の世界が変わり、指がマイクを撫でると観客から悲鳴が上がり。舌が唇を湿らせる僅かな音ですら、彼にかかれば楽曲の一部となった。


 葦原のバンドは全体的にも技術が高かったが、ヴォーカルの技術は頭一つ抜けていた。というより異次元のものだった。やたら出しゃばって来たギタリストの印象はあったが、競り合って敵う相手ではないと何故わからなかったのだろう。本物のスターは、安い舞台装置と照明でも十分に輝けるのだ。


 葦原のバンドのメジャーデビューが決まったという話は、全国紙の芸能欄に小さく出るほどのニュースとなった。まあ、山間の小さな町の学生バンドが文化祭ライブに1000人を動員したとなれば、メジャーデビューの話が出ない方がおかしいだろう。相澤はあの日の新聞を今でも持っている。葦原のファンだったからだ。


 深夜の音楽番組に出演し、恥ずかしそうにはにかみながら「これから頑張ります」と語っていた葦原の姿も覚えている。あのときは本当に、心から嬉しかった。これで彼は“田舎町のロバートプラント”から“葦原聖というロックスター”になるのだ。そう、思っていた。


――思っていた、のに。


「……リリース記念に全国ツアーに出たんだ。それが3ヵ月で36公演っていうとんでもないスケジュールでな」

「36公演ってなに? どういうこと?」

「おかしいだろ。“公演数をいっぱいこなせるバンド”って売りを作るためにやったらしいよ。学生だから月金で学校行って、土日にライブって感じでさ」


 相澤はポケットに手を突っ込んだまま、和田の話を聞いている。数年前の冬、葦原のバンドは全36公演の全国ツアーに挑んだ。しかし、そんなスケジュールはハナから無理があったのだ。


 休みのない3ヵ月間、葦原は学校に通い続け、そして歌い続けた。他のバンドのメンバーは学校を休んでツアーに集中していたらしいが、真面目な葦原にはそれができなかった。毎日授業を受け、深夜までリハーサルをして、金曜になれば荷物の準備をして出掛け、土日の睡眠時間は移動中のみという日々。それでも葦原は笑顔のままで、必死にステージにしがみついていた。


 だが、冬が春に変わる頃に限界が来た。始めは声が掠れる程度だったらしい。が、次第に喉は痛み出し、ついには喀血するまでになった。それだけならば治療の術もあったそうだが、疲労が祟って肺炎に罹った葦原は、一時的に囁き声すらも出せなくなったそうだ。


 初夏の頃に退院し、葦原は学校へ戻った。しかし、その頃にはすでに全てが過ぎ去っていた。バンドはツアーが中断した責任を葦原だけに押し付け、糾弾して、追放した。葦原は治療とリハビリを続けていたが、その秋に「いくら治療をしても以前のようには歌えない」と診断され、病院通いをやめた。


 それから葦原が歌うことは、二度と無かった。


「……かわいそうだよ。そんなの」


 声を震わせた芽衣子の言葉に、相澤は唇を噛む。可哀想だ。酷い話だ。その通りだ。しかし一方で、音楽は情けや哀れみでできているわけではない、とも思う。デビュー間もなく声が出なくなった葦原をバンドに置き続けることは、できない。責任を押し付けたり糾弾したりすることは間違いだ。けれど、バンドを辞めさせないわけにもいかないのだ。「仕方ない」なんて言えない。でも、バンドを運営していると、そういう悲しい決断をしなければならない時もあるのだ。


――そう、理解はしている。しているが、納得はしていない。

――葦原が気にしていないフリをしているのが、余計に悲しい。


 相澤は視線を彷徨わせながら、ポケットの中の手を握り締めた。葦原のバンドメイトは全員年上だったから、今では誰も在校していない。メジャーで活躍しているとは聞くが、チャートインしたとか、大きな会場でライブをしたとか、タイアップが決まったとか、そういう話は全く無い。それに対し、いい気味だと考えてしまう自分が憎い。


「……ん?」


 黙って床の模様を見詰めていると、手のひらの中のスマートフォンが場違いな通知音を立てた。この音がするのは、近しい人から連絡がきたときだけだ。相澤はポケットからスマートフォンを引っ張り出し、薄明るい画面を何の気無しに眺め――眉を顰めた。


『相澤』

『部室にいるのか』

『今からそっちにやべーやつが向かう』

『会ってもまともに取り合うな。おれたちも向かってる』


「つかさちゃん? どうしたの? 誰――」


 それは木津からのメッセージだった。手元を覗き込んで来た芽衣子も、相澤と同じような表情を浮かべる。素早くロックを外し、『それって誰ですか』と返事を打ち込んだそのとき、部室の扉が開いた。


「どーも。わー、懐かしいねえ」


 扉の隙間から現れたのは、モッズコートを着た知らない男だ。その青白い顔に浮かんだ張り付いたような笑顔に、相澤は背中に氷を突っ込まれたような、嫌な感覚を覚える。


『相澤 読んでるか』

『お前は会った事がないと思う』

『葦原のバンドのリーダーが、そっちに向かってる』

『そいつは真症のクズ野郎だ』


 男が部室へ入ってきても、誰も、何も喋らない。手のひらの中では、嫌に明るいLINEの画面が警告を流し続けていた。

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