第12話 『SNOWBLIND』

「つかさちゃーん! ゆき、雪だよー!」


 お日様の匂いにのする布団にぬくぬくと包まれて惰眠を貪っていたら、浅い夢の中でも聞いていた声に起こされた。相澤は幽鬼のように布団から這い出て、部屋の扉を開け、廊下の寒さに喉を引き攣らせた声を上げつつ、階段から玄関を見下ろす。


「ゆき? 積もってる?」

「ゆき! いっぱい積もった!こんなに積もった!」


 玄関に立った芽衣子の背後が白く眩しい。頬を赤く染めて両手を広げ、「こんなに」と雪の量を表現する芽衣子を眺めていると、自然と頬が緩んだ。


 大盛況だった学校説明会を過ぎ、今までになく重音楽部の知名度が上がった、冬休みの2日目。 手早く歯を磨き、顔を洗っていると、既に起きてテレビを見ていた父親に肘で小突かれて「カノジョか?」と問われた。赤くなる頬を「親父こそ早く再婚しろや」と誤魔化して、相澤は押入れから防寒着を引っ張り出し、玄関へ駆け出ていく。


「お待たせ。遊ぼ」

「うん!」


 芽衣子の明るい声に起こされて、目覚めが良い。裏に滑り止めのついた長靴を履こうと玄関に腰掛けると、芽衣子のスニーカーが目についた。見上げれば、芽衣子は体の線が見えるクリーム色のPコートを着ているばかりだ。吹き曝しの素足に驚いて慌てて玄関の扉を閉め、「寒いだろ」と叱るが、芽衣子はどこ吹く風だ。こいつまさか葦原タイプか。


「なんでそんな薄着なの? 雪降ってるんだからそれじゃ寒いよ?」

「えへへ……コートとか、冬の服とかって高いから」

「買ってないの? 雪だるまになっちゃうよ?!」


 恥ずかしげにはにかむ芽衣子の手を掴むと、指先は真っ赤に冷えていた。そのまま家の中に引っ張り上げ、炬燵に芽衣子を押し込むと、無精髭に褞袍姿の父親がニコニコしながらマグカップを3つ持ってきた。相澤は急いで2階の自室に駆け上がり、この間特売で買った裏起毛のモコモコタイツや手袋、セーターに青い半纏をひっ掴み、芽衣子のもとに戻る。


「いやぁ芽衣子ちゃんはわかってるねェ。『オペラ座』が至高だとか言うけどさ、後期になればなるほど洗練されていくよねェ」

「もう後期どころかね、あたし的には、クイーンのベストは『イニュエンドウ』なんですよ。もうギターがたまんなくて。言葉も無いくらい」

「ああーッ、わかるぅー! 泣きのギターとか言うけどさあ」

「あれを『泣き』の一言で済ませるのはナンセンス」

「ほんとそれーッ! 司ぁ、おれは芽衣子ちゃんを娘に欲しいゾ!」


 炬燵で芽衣子とココアを飲みながらふざけたことをぬかす父親は無視だ。そんなこと言ってるから浮気されるんだ。父親を炬燵から蹴り出し、持ってきたアイテムを着せていけば、芽衣子はものの5分でモコモコになった。「ぬくいね」と呑気に言う芽衣子の首にマフラーをぐるぐると巻き、さっきまで自分が着ていたダウンコートを着せてやって、相澤は半纏に袖を通す。


「これでよし。いざ行かん雪国」

「いえっさ!」


 分厚い黒タイツに分厚いセーターとコートを着て、顔の半分が見えないくらいにマフラーを巻かれ、ついでに毛糸の帽子と手袋をはめた芽衣子が敬礼すると、毛刈り前の羊のようで可笑しかった。


***


 相澤たちの暮らす町は雪が深い。降りはじめこそ遅いものの、いちど町が綿帽子を被れば、春は限りなく遠くなる。今でこそ融雪カンテラの灯る電車が町の端を通り、隣町との行き来が容易くなったものの、戦後しばらくに鉄道トンネルが開通するまでは、冬になれば家に閉じこもり、酒を飲みつつじっと耐え忍ぶ他に無かったそうだ。そのためかこの辺りの民謡は、どこか北欧メタル風である。


「寒いね。真っ白だね。あ、川は凍らないんだね。ふしぎだね」

「当たり前だろ。流れてるからな」

「あ、そっか。そうだよね。ね、あそこに見える建物って何? 神社の山の下のおっきいやつ」

「あれは酒蔵。このあたりの神様が酒好きだから、樽の中に蒸したお米入れるだけで酒になるんだって」

「ほんと? そんなことあるの?」

「ほんと。その隣は旅館なんだけど、客泊まってんのは見たことない。まあ、観光地じゃないしな」

「スキー場とかないの?」

「ないなあ。隣町にはあるけど。作ればいいのにな。山も雪もあるし」


 鉛色に低く垂れ込む空からは、絶えずちらちらと雪が落下して来た。純白に染め上げられた世界の土手道に2人きり。遠景の山々は黒々とした峰を雲へ突き刺し、片栗粉を握ったような足音の響く世界は、深く静まり返っていた。


 いつの間に積もったのだろう。初雪は12月の初めだった。だが、昨晩父の帰宅を迎えた時はまだ、雪の気配を風の匂いの中に感じるばかりだったのに。凍えた空気は深く吸い込むと身体に毒だ。雪はそこまで厚く積もっているわけではないが、人の立ち入らない冬の田畑はすっかり雪の平原になっている。


「お大福みたいだね」


 そんな事を呟く芽衣子の肩越しにちらと河原を見下ろせば、仄かに湯気を上げる清流は氷河の様だ。相澤は芽衣子の手を握ろうか少し迷った後、袖を伸ばして指先を隠す。こんな雪の日でも飛び回る小鳥たちが賑やかに空を横切れば、また無音。あてもなく歩く足は、なんとなく商店街の方へ向いている。


「……芽衣子は雪が珍しいのか」

「うん。都会って雪は降ってもすぐ溶けちゃうんだ。電車もめちゃめちゃになるし、凍ると危ないし。降ってる時は綺麗でも、それから先はね」

「都会生まれなのか」

「……うん」


 毛糸に埋まりながら、ぼんやりと山陰を眺める芽衣子の鼻先は赤い。芽衣子はあまり自分の話をしたがらないことに、最近気づいた。相澤は何も考えず、「そうか」と短く答える。


「……ね、みんなさ、かまくら作ったりとか、雪合戦とかしないの?」


 しばらく歩いていると、明るい声を作った芽衣子がそう言って肩をつついてくる。相澤は大きな瞳に入る光の眩しさに瞬きを繰り返しながら、肩で芽衣子をつつきかえした。


「雪合戦で盛り上がんのは小学生までだろ」

「えっ……そ、そう?」

「したい?」

「うう……」

「芽衣子はまだまだこどもだな」

「こどもだもん。まだお酒飲めないもん!」

「――っていうのは冗談で。実際のところ、この辺の雪ってサラサラしすぎてるからな。雪玉作んのも一苦労だから、なかなか――」


 ちょっとからかえば耳朶を真っ赤にして言い返す芽衣子の背中をポンと叩き、相澤は足元から雪を掬う。指の間から溢れていく雪の様に芽衣子が目を丸くしたのを見て、相澤は不思議な満足感を覚えた。


――そのときだった。いきなり横っ面に飛んできた衝撃に、相澤は硬直する。


「……へ?」

「あっ、すいまっせーん!……って相澤じゃん。じゃあいっか。ドンマイドンマイ!」


 恐る恐る頬を触れば、水を混ぜて硬くした雪玉がぼろりと落ちてくる。それが飛んできた方向を見ると、なんだか見知った背格好の連中が、真っ白い畦道の中に点々と潜んでいる。とりあえず芽衣子を背中に庇い、連中を観察していると、手前側に見える黒ジャケットの人影が不意に動いた。


「くらえ葦原! 消える魔弾!」


――あの声とあの振りかぶり方。間違いない、服部だ。


 脚を高く上げて美しい投球フォームを作る服部の手から放たれる、雪玉の豪速球。それは空中で雪煙を上げて崩れるが、水で固めた中心部だけは、噴煙に隠れて一直線に標的へと向かっていく。


 しかし、「くらえ葦原」と言う割に、葦原の姿が見えない。相澤と芽衣子は沈黙する冷たい雪原に葦原を探す。すると、視界の端の方にあった巨大な雪だるまが、ムクリと動いた。


「何発やったって無駄だヨ! いい加減学習するんだネ!」


 よく見ると、雪だるまの中には葦原がいた。寒くないのだろうかとか、そういう疑問はもはや起こらない。服部の魔弾は雪の装甲に弾かれて消え、雪だるまの頭部から顔だけを出した葦原が得意げな表情を見せる。だが、服部はそれを見てもなお余裕の笑みを浮かべたままだ。


「ああ、いい加減に学習するよ――だが、こいつはどうかな?」


 よく通る服部の声が曇り空に響くなり、灰色の雲を背景に、無数の白い輝きが舞う。何だと目を凝らせば、それは服部の背後に隠れた木津が大量に打ち上げた雪玉の群れだった。相澤と芽衣子は「おー」と感嘆の声らしきものを上げたが、特段なにかに感動したわけではなかった。


「なにぃッ?!」

「効かないとわかりつつ、消える魔弾を撃ちまくっていたのは次の弾幕のためさ!」

「くっ……目くらましというわけか! 卑怯ナ!」

「卑怯で結構!その駆動力の低い装甲はいつまでもつかな? いけッ! 増える魔弾ッ!」


――ネーミングセンスねえな。


 降り注ぐ雪玉の雨は、真っしぐらに葦原へ向かっていく。さすがの葦原も、これには焦りの色を滲ませた。しかし、その雪玉の大群が葦原に直撃することはついに無かった。


「――軌道の読める単純な攻撃。対策をしないほうが難しいというものだわ」


 赤いマフラーが、ひらりと雪原に舞う。それは蝶の羽ばたきのようにささやかだったが、自由落下の速度を遥かに超えて、鉄壁のごとく雪玉を払い落とした。


「……サンキュー、命拾いしたよ。染井さん」


 再びマフラーを振って毛糸についた雪屑を落とし、葦原を背後に庇った染井は颯爽と髪を掻き上げる。今度の「おー」には、雀の涙くらいの感動が詰まっていた。芽衣子の方から聞こえた「リサリサ先生みたい」という声に、相澤は頭痛を感じる。


「葦原くん、油断しないで。わたしの技は服部くんの剛球とは相性が悪いの。彼は最大6つまで球数を増やせるわ」

「フッ……ならばそろそろ、ボクも本気を出すころかな?」

「な、なんてこった! 葦原が第2形態に進化しやがった!」

「恐れるな服部。おれらはまだ奥の手を隠しているだろう……?」


 雪だるまをぶち割って登場した葦原にやいのやいの盛り上がる上級生たちを眺めながら、相澤は足下の雪を掬い上げ、大きな雪玉を4つ作る。ぽいぽいと放ったそれらは手本のような放物線を描き、4人の上級生の顔面に直撃した。袖についた雪をパンパン払い落とし、相澤は芽衣子の手を取って先に進む。背後から「この世にはまだ見ぬツワモノが」とかなんとか聞こえてきたが、無視だ無視。たぶん、受験のストレスでおかしくなってるんだと思う。


 土手道を下ったところで荒んだ心をふわふわモコモコの芝犬わさびに癒され、相澤と芽衣子は高校の方へ向かう。その道すがら、畦道の中の旧家が構える背の高い防風林のそばで、「Snowblind」を歌いながら歩く尾津と和田と寺嶋の3人に出会った。その選曲はマズイと思いつつ、相澤と芽衣子は軽く手を挙げて和田たちと合流する。


「いやあ積もったなあ。まだまだ冬本番には遠いがね」

「ほんと? もっと降るの?」

「ふるよ! いっぱいふる! でもね、雪ってあんまり美味しくないから食べちゃだめだよ!」


 和田たちによれば、学校の校庭は解放されており、小中高生入り乱れて皆が遊んでいるという。和田たちは甘酒目当てに神社の方へ行くそうだ。相澤はマフラーを上げ、どうしようかと思案する。


 神社の麓の酒蔵に行くと年中飲める甘酒は魅力的だが、商店街の方に行って温かい珈琲でも飲みたい気分だ。それに、酒蔵へ行くとなればこの3人もついてくる。せっかく芽衣子と2人きりなのに、はっきり言って男どもは邪魔くさい。自分は芽衣子と歩くと赤ら顔の和田に言えば、和田は「リーダーも隅におけねえな」と冗談を返した。


「んじゃ、おれらは行くから。メリークリスマス!」

「ん。ああ……メリークリスマス」


――いや、クリスマスじゃない。今日は12月23日だ。


 うっかり騙されて憮然としていると、和田が手を振って去っていく。芽衣子とミニ雪だるまを作っていた尾津も、雪の中を元気に跳ねていった。その後ろ姿からコーギー犬が飛び跳ねる様子を連想しつつ、相澤は雪原にしゃがみこむ寺嶋の頭をポンポンと叩く。


「で、寺嶋は何見てんだ?」

「……!」


 芽衣子と共に寺嶋の指差す方を見ると、田んぼを覆い尽くす真っさらな雪の上に、裸足の足跡が点々とついていた。誰も足跡をつけていない雪の上を裸足で歩きたくなる気持ちはわかるが、酔狂なことである。だが、それの何がおかしいんだ。それを問うと、寺嶋は心から人を馬鹿にしたような表情になった。


「おいコラ、バカにしてんだろ。文句あんならなんか喋れや」

「バカにするもなにもリーダーがアホなのは周知の事実でござる。でもあの足跡を見てもそんなこと言うんなら真性のアホですぞ。きっとリーダーは裸足の足跡ってばかりに気を取られていて気付いていらっしゃらないと思いますがね、見てくださいよあの歩幅。ざっと見て1メートル50センチ以上はある。歩幅というのは身長の約半分つまり歩幅が150センチならば身長は3メートルあるわけだ。それだけ身長のある人物がここを歩いた? そもそもそんな人間が存在するのか? この異常性は深く調べる必要がありますぞヌフフ」

「……ほーん。なるほど」


 興奮気味にメロイックサインを作る寺嶋に解説され、相澤はようやく合点がいった。確かにあの足跡は妙に歩幅が広い。ついでに、芽衣子の起きた頃にはまだ雪が激しく降っていたようだから、くっきりとしたあの足跡は、雪が止んだ頃――つまり、明るくなった後につけられた筈だ。そう考えるとと薄気味悪い。身長が3メートルもある人物が、裸足で、この遮るものもほとんどない雪原を歩いていたならば、何か騒ぎになっていてもおかしくない。


――いや、そもそも、そこまで背の高い人間はいないか。


「薄気味悪ィな」

「……うん」


 足跡は商店街の方へ向かっていたが、ある地点からふと消えていた。相澤の呟きに、芽衣子が不安げな表情を浮かべる。巨大な防風林が風に揺れると、足音も薄くなる。その後には、寺嶋がカメラのシャッターを切る乾いた音ばかりが響いた。


 寺嶋と別れた後、商店街へ向かうと、早々と除雪作業を終えた雁木造りの入り口には巨大な雪山ができていた。真っ赤な雪かきスコップを器用に操って雪山の表面を均しているのは、ぶくぶくに着膨れした霜山だ。自分の背丈より大きい雪の塊が物珍しいらしい芽衣子とともに立ち止まっていたら、やがて霜山が相澤たちに気付く。


「おう、赤点回避の相澤じゃねーか」

「おめーの基準の起点は赤点かどうかなのかよ」


 苗字の割に寒がりな霜山は、重ね着した上に綿入れ半纏を着て、マフラーを巻き、分厚い帽子を着た完全防寒スタイルだ。それだけ着て雪かきなんかしたら暑くなると思うのだが、霜山はガタガタ震えていた。ちょっとだけ可哀想だった。


「で、おめー霜山なにしてんの?」

「見りゃわかんだろ。かまくらつくってんだよ」

「かまくら? ほんと? 入ってもいいの?」

「あー、まだできてねえんだ。もうちょいでできるからな。ちょっと一周してきてくれるか?」

「えっ霜山おめー芽衣子に優しいな。相澤のことも労ってくれよ」

「おめーなんか誰が労わるか」

「おっ! めいちゃんとつかさっち! よーっす!」


 不意に響いた声は、雪山に空いた穴の中から聞こえた。見れば、星野が穴の中から顔を出している。なるほど冬休みは冬眠している霜山が出てきたのは彼女が理由か。ニヤニヤしながら霜山の赤ら顔を見上げると、霜山はそっぽを向いた。


「あ、会長さん」

「会長だよ! 見てくれ今年初めのかまくらを! 立派だろう? すごいだろう?」


 星野は大きいものが好きだから、雪が降れば誰よりも大きなかまくらや雪像を作りたがる。目を輝かせた芽衣子が「すごいです」と賞賛すれば、穴から這いずり出てきた雪まみれの星野はえへんと胸を張った。


 しかし相澤は知っている。星野の雪像は基本的にろくでもない。だいたい何かが仕込まれている。


「……今年のはまともなんだな」


 苦々しく言えば、星野はきょとんとした。


「当然さ。だがこれだけだと包茎っぽいだろう? 上手いこと剥けた感じのを表現したいんだが、この辺りの雪は固めるのが難しくてね」

「……そうだね……」


 やっぱり何か隠してやがった。複雑な笑みを浮かべる相澤をよそに、雪製ちんぽを背にした星野は「だがわたしは諦めない」とやる気満々だ。相澤はげっそりする霜山に、このときばかりは同情した。


 いや、いいとは思うのだ。インドあたりではとても神聖なものとされるし、日本にも男根信仰はある。だが何故中に入れる構造にした。色々訊きたいことはあるがそれがいちばん気になる。「手伝います!」と無邪気に腕まくりする芽衣子を慌てて制止し、相澤は後ろ頭を掻く。


「えー、なんでよ。あたしもかまくら作りたい! つかさちゃんは雪遊びしたくないの?かまくら作りたくないの?」

「あ、遊びたいには遊びたいけど……」

「ダメダメ。雪遊びなんかしたら霜焼けになっちまう。おめーらギタリストだろ? 指は大事にしろ。それに女の子は体冷やしちゃいけねーよ」

「セクハラじゃん。にげよう芽衣子」


 思わぬ援護が飛んできたが、素直には受け取らない。しかし芽衣子の腰を抱いて商店街の石畳を早足に逃げる途中、相澤は霜山を一瞥して視線で礼を言う。そうすれば遠ざかる霜山は、不機嫌な顔をしつつも、手袋に包まれた親指をぐっと天へ突き立てた。


 屋根や車道の雪掻きを終えた雁木造りの商店街は、雪の朝の活気に満ちていた。除雪車の通った後の道に残った雪を掃く肉屋の主人や、また降り出しそうな空を見上げる食堂のおばさんに挨拶をして、相澤は芽衣子と歩調を合わせる。芽衣子は雁木造りの建物が珍しいようだ。不思議そうな瞳をちらちら見上げ、相澤は袖の中に手を突っ込む。


 向かう先は駅前だ。コンビニで働く芽衣子によれば、何日か前から駅前に大きなもみの木が立ち、飾り付けが進んでいるらしい。相澤はクリスマスの飾り付けに興味が無いし、イルミネーションならば夜に見にいった方が良いと思っていたが、芽衣子が見たいといっているならば、それについて行きたかった。


「寒いね」

「うん、寒いね」

「冬だね」

「うん、冬だ」


 向かう途中、伊藤と阿久津と加藤の3人組に会った。3人は何故かブルブル震えながら焼き鳥をもしゃもしゃ食らっていた。話を聞けば、雪にいちゃいちゃしているカップルを見つけて焼き鳥の匂いで台無しにしてやりたかったが、肝心のカップルが見当たらず、焼き鳥がすっかり冷めてしまったらしい。馬鹿だが可愛いやつらだと思った。


 やっと辿り着いた閑散とした駅前には、たしかに田舎町には不釣り合いなほどの見事なクリスマスツリーが聳え立っていた。芽衣子の働くコンビニへ寄り、温かい缶珈琲をふたつ買って、相澤と芽衣子はツリーの下の下のベンチに腰掛ける。


「結構歩いたな」

「ねー。ちょっと疲れたね」

「このあとどうする」

「どうしよっか。ずっと外にいるのも寒いよね」

「……またうち来る?」

「行っていいの?」

「うん。クソ親父もいるけどな」


 芽衣子の缶を開けてやってから、自分の缶を開ける。密やかで冷淡な雪の匂いに混ざる芳香は、胸の奥の静かなざわめきを深くさせた。定期的に聞こえてくる駅の構内放送では、電車の運行遅れを報せている。珈琲をひとくち喉に流し込むと、温かさが胃を満たした。ため息をついた相澤は、カクンと首を倒してクリスマスツリーを見上げる。


「にしてもこんなもんいつのまに立ったんだ? ぜんぜん気がつかなかったや」

「あたしも。見つけたのは立った後だよ……ンー!」

「どした?」

「あ、あったかいの、歯にしみる……」

「アハハ、芽衣子って面白いな」


 沈黙する電飾と、鈍い光に揺れるモール。この間の学校説明会のあと、相澤と芽衣子はますますネットの世界で注目されるようになったが、ひとたびそれと離れれば、この日常は静かなものだ。けれど、芽衣子までの拳ひとつ分の距離を詰める勇気は、無い。


「……ヤドリギの下にいる女の子にはキスしていい、って知ってた?」

「今日はクリスマスじゃないよ」


 枝にぶら下がるヤドリギの飾りを見て何の気なしに口にすれば、芽衣子はさらりと返してくる。相澤は灰色の空を見上げたまま、白い息を吐く。


「……ああ。今日がクリスマスだったら良かったのにな」


 ため息とともに吐き出した言葉は、きっと芽衣子の耳にも届いている。やがて降り始めた雪が目に染みて、相澤は冷め始めた珈琲を飲む。雪が降っているのに、顔が熱くて仕方ない。


 駅からは相変わらず電車の遅延を報せる構内放送が聞こえ続けていて、駅前に人通りは少ない。しかし芽衣子との拳ひとつ分の距離は、いつのまにか消えていた。

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