第七話

 舞台の前のいつもの準備。

 衣装、メイク、そして髪のセット。

「どうしちゃったの、リリィちゃん。いつもはあんなに嫌がってるのに」

 髪をセットしながらメイク係の女性がリリィに訊ねる。

「お友達が、どうしてもわたしの歌を聴きたいって……」

「そっか。お友達がいると勇気が出るものね。頑張ってリリィちゃん。演目は相変わらず『遠くの街から来た娘』だから、歌は一緒よ」

…………


 時間通りに舞台は始まった。

 ざわざわしていた客席が暗くなり、観客が静かになる。

 リリィは舞台の袖から観客席を覗いてみた。

 客の入りは三分の二くらい、少し空席が見える。

 最前席の真ん中ではエリーゼが楽しそうにしていた。周りの人は誰もそこにエリーゼ・レシュリスカヤがいることに気づいていない。

(案外気付かれないものなのね……)

 リリィは周りの客が騒がない事に逆に感心した。

 今、舞台ではレーヴァが歌っていた。レーヴァの歌の後に踊りが入り、その後がリリィの出番だ。

(大丈夫かな、声出るかな)

 リリィはそっと胸元のブローチを触ってみた。

(起動しとこう……)

 ダベンポートに教わった手順に従ってブローチの魔法を起動する。今日は客席でダベンポートが観ている訳ではないので別段起動しなくてもいいのだが、なんとなく手順が違うと不安になる。


「リリィさん、そろそろ出番だよ」

 ダンスの終盤、幕を操作する大道具係の人が声をかけてれる。

「はい」

 すーっ。

 リリィは深呼吸した。

 いつもは観客席にはダベンポートがいる。ダベンポートとはこの赤いブローチでお話ができる。

 でも、今日は一人。

 キキもいない、旦那様もいない。

 でも、頑張らなくちゃ。

 ダンスが終わり、幕が下がる。リリィは袖に帰ってきたダンサーと入れ替わりに舞台の中央に進んだ。

 この幕が上がると目の前にはお客さんがいる。

 観客席の目の前、いつもは旦那様が座っている席にはエリーゼがいる。

 リリィはひたひたと不安と緊張が迫ってくるのを感じた。


 だめ。


 そっちの方を見てはダメ。

 でも、どうしても不安になる。目の前がクラクラする。 

 幕が上がった。

 観客席は静寂に満ちている。みんながわたしを見つめている。

 リリィはもう一度大きく息を吸うと、お腹の前で手を組み合わせて声を出そうとした。

「    」

 しかし、声が出ない。

 もう一度。

「…………♩」

 声が小さい。

 リリィは自分が青ざめていくのを感じた。

 自覚すればするほど、緊張が高まる。


〈安心して〉

 不意に、リリィは後ろから抱きしめられた。

 誰かが優しく、わたしを後ろから抱きしめてくれている。

〈リリィちゃん、安心して〉

 その人はリリィの両肩に手を乗せると、もう一度耳元で囁いた。

〈さあリリィちゃん、歌って〉


 エリーゼさん?!


 エリーゼはいつの間にかに観客席から舞台の上に移動していた。

 白いワンピース姿。裸足のまま、ふわりとリリィの背後を舞う。

 それに勇気づけられるように、リリィは静かに歌い出した。

「🎼──♫──」

 今度はちゃんと声が出る。

「──♬──♪──🎶──」

 一度歌い出せば、あとは身体が勝手に動いてくれる。

 いつの間にかに、リリィは身体でリズムを取りながらいつものように歌っていた。

 その背後をエリーゼが踊る。リリィを支えるように。リリィを励ますように。

〈おい、あれ……〉

 演目にはないバレエのようなダンスに観客席が少しざわつく。


〈あれ、エリーゼ・レシュリスカヤじゃないか?〉

〈まさか。こんな小さいテントだぞ?〉

〈でも、あの動き……〉


 エリーゼの白い影が舞台を舞う。あくまでも影として。リリィを支える友達として。リリィを引き立てるようオーラを消して踊っている。

「──🎶──🎵──🎶──!」

 エリーゼのダンスに励まされ、リリィの歌声に力がこもった。

 いつの間にか、緊張はほぐれていた。

 怖くない。

 舞台は楽しい。

 歌をうたうのはとても楽しい。


 エリーゼがリリィの背後でピルエットを舞い、グリッサード摺り足から連続したパドブレでリリィに近づく。そのまま、すっとエリーゼはリリィの左手を取った。優しくリリィの腰に手を回し、リリィと一緒に踊り出す。

 さっきと同じ。街の中を一緒に走り回った時と同じ。


 エリーゼさんと一緒。エリーゼさんといれば怖くない。


 エリーゼにリードされ、リリィが踊る。

 気がつかないうちに、リリィはエリーゼと共に踊っていた。

 汗が流れ、飛び散る雫が虹になる。

 グリッサード、ピルエット。ピルエットからまたグリッサード。

 エリーゼは決して大きなジャンプをしなかった。まるで自分が目立ってしまってはいけないと思っているよう。

 それでも、動きが華やかだ。

 つられてリリィの動きも大きくなる。

「────♪🎶──♬──」

 踊りながらリリィが歌う。

 リリィの背後でエリーゼが舞う。

 リリィの熱気が伝染し、劇場全体の熱気が少し、上がった。

 みんな食い入るように舞台を見つめている。瞬きも忘れ、息を詰めて。

 再びエリーゼのピルエット。

 エリーゼが回るのに合わせてリリィも小走りについていく。

〈ほう……〉

 観客席からため息が漏れた。

 歌のクライマックス。

 リリィがお腹に力を込めて大きな声で歌をうたう。

「────♪🎶♬──────!」

 エリーゼは最後にグラン・ジュテで大きく跳ぶと、そのままかき消すように姿を消した。

 同時にリリィも歌を締めくくる。

「──🎶────!」


(ふう)

 歌い終わった時、リリィの胸元は汗で濡れていた。

 いつもと少し違う感覚。

 観客席に熱がある。

 いつもはみんな聴いているだけ。だけど、今日は一緒に歌った。みんなと一体になった。どこか不思議な、でもとても素敵な幸福感。 

 ふいに、観客席が総立ちになった。

 割れんばかりの拍手。

「ブラボー!」

「ブラーボー!」

「ファンタスティック!」

「インクレディブル!」

 おひねりが飛び交い、叫び声が観客席から上がる。

 リリィはぺこりと大きくお辞儀をすると、今度は安心して、同時に幸福感を感じながら舞台の袖へと引き上げた。

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