第三話

 日曜日までの間、リリィはできる限りエリーゼを理解するように務めた。


 王立芸術劇場でバレエが公演されていたのは幸いだった。リリィがいつもは読まない雑誌にエリーゼの特集が組まれている。リリィはその雑誌を駅前の雑貨屋ゼネラルストアで買い求めると、屋根裏部屋の暗いランプのあかりの下でエリーゼの略歴を熱心に読み進めた。

(そうか、エリーゼさんのお母様ってエリーゼさんが十一の時に亡くなっているんだ。かわいそう……十七で学校を卒業してすぐに北の皇国のバレエ団に入団したんだ。すごい!……翌年にはバレエ団のプリンシパルになったって、やっぱり早いんだろうなあ……それで三年前に王国に来て、今三十一。わたしより十歳位年上なんだ……)


 その上で毎晩ダベンポートにも質問し、エリーゼについての理解をさらに深める。

「旦那様、バレリーナってどんな人たちなんでしょう?」

「旦那様、北の皇国の人たちって怖いですか? どんな人たちなんです?」

「旦那様、エリーゼさんのお好きな食べ物ってご存知ですか?」

「旦那様、北の皇国のバレエ学校って厳しいんですか?」

「旦那様、北の皇国のバレエ団は……」

「旦那様……」

…………


 ダベンポートはそんなリリィに嫌がる顔一つせず、エリーゼについて知っている限りの事を全てリリィに話してくれた。

「リリィ、北の皇国の人のイメージはどんなだい?」

 食後のリビングで、お茶を飲みながらダベンポートがリリィに訊ねる。

「うーん、怖いイメージがあります」

 リリィは少し考えてから答えて言った。

「なんかいつもムッとしてて、厳つくて……」

「ははは、エリーゼのどこが厳ついんだい? それに彼女はよく笑うよ? おそらく性格も明るいだろう」

「そう、そうですね」

「これは僕の直感なんだが、それに彼女は心の優しい人だと思うね。そうでもなければあんなに繊細なダンスは踊れない」

 とダベンポートは言った。

「まあバレリーナだからね、真面目は真面目なんだろうがね。どの世界でも頂点に立つような、超一流の人はストイックで真面目なものさ」

「それは、そうかも」

 リリィは深く頷いた。

「ついでに言うと、彼女はたぶん甘いものは食べないよ。バレリーナだからね。いくら太りにくい家系と言っても体重は気にしているだろう。男性ダンサーに持ち上げてもらう時にそのダンサーがよろけたら笑い者だ」

「ふふふ」

 思わずリリィは笑い声を漏らした。

 バレエを見に言った時、リリィはなんであんなに軽々とバレリーナを持ち上げられるのかとただただ感心していた。あれって、ダンサーの人の力が強いだけじゃなくてバレリーナの人も軽いんだ。

「あ、そう言えば」

 リリィは顔の前で手を合わせた。

「レストランで席に着く時って、やっぱりエリーゼさんの後から座らないといけないんですよね?」

「何を言ってるんだリリィ」

 ダベンポートは笑った。

「友達になろうとしているんだろう? 同時でいいんだよ、そんなの」

「じゃあ、食べ始めるのも……」

「もちろん気にしないで構わないさ。まあ、何かをシェアするとかだったら取り分けてあげたら喜ぶだろうがね。なんだリリィ、そんな事で蒼い顔をしていたのかい?」

「いえ、そうではないんですけど……」

 慌てて首を振る。だが、リリィの顔は笑っていた。

…………


 土曜日の夜、リリィは明日着ていく服を準備した。ダベンポートと百貨店デパートで買ったワンピース、黒いうさぎの帽子、黒い外套マント。靴はブーツではなく、メイド服を着ている時に履いている黒いエナメルの靴にする。靴はちゃんと磨いた。磨いて磨いて、自分の顔が映るんじゃないかと思えるくらい徹底的に綺麗に磨いた。

(足元は大切。いくらドレスが綺麗でも靴が汚かったら台無しだもの……)

 服には全部ブラシをかけた。お風呂では念入りに自分も洗った。

(あと、忘れたものってないかしら……)

 顎の下に人差し指を当て、宙を仰いでちょっと考える。

(あ、そうだ、ブローチ!)

 リリィはダベンポートにもらった赤いブローチをお守りがわりにつけていくつもりだった。急いでブローチをタンスの引き出しから取り出し、綺麗に磨く。

(ブローチを綺麗にするんだったら、ハンドバッグも)

 ついでにハンドバッグも綺麗に磨いた。すでに綺麗にブラシがかけられていたが、念のためにもう一回。

(明日は九時にお迎え、ブランチを頂いてからショッピング。晩御飯は北の皇国料理のレストラン……)

 リリィは明日の予定を反芻した。

 今日までの間に、ダベンポートは何回かエリーゼにテレグラムを打って今日の手はずを整えてくれていた。お迎えの時間、その日の予定、晩御飯のお店まで。

 レストランはドレスを買った帰りにダベンポートと一緒に食事した北の隣国料理のレストランに決めた。リリィは遠慮したのだが、それくらいエリーゼの分も払うとダベンポートが強弁したのだ。

『エリーゼの馴染みの料理がいいと思うよ。そうすれば色々なお話が聞けるだろう? 逆にエリーゼがあまり知らないお料理のお店に行ってしまうとリリィが色々と説明しなければならなくなる。それはちょっと大変そうだからね』

 そんな事まで考えてくれていたんだ。

 ありがとうございます、旦那様。リリィはとても幸せです。


「もう大丈夫かな、キキ」

 ようやく納得すると、リリィは傍の黒い猫に声をかけた。

 キキは全てが興味深いらしく、今も一心不乱にリリィのことを見つめている。

「じゃあ、早く寝なくちゃ。目に隈ができたら大変。寝ましょ、キキ」

 リリィはキキを誘うと白いふかふかの布団に潜り込んだ。


+ + +


 お迎えの馬車は打ち合わせした通り、朝の九時にやってきた。

「それでは、行ってまいります」

 リリィは八時前には身支度を整えていた。その格好でリビングに座って馬車が来るのを待っていたのだ。

 緊張しているのか少し顔が青い。それを見てダベンポートは

「リリィ、歩くときは右足と左手、左足と右手を同時に動かすんだよ。右手と右足が同時に前に出るとちょっと変だ」

 と冗談を飛ばした。

「そ、それくらいは大丈夫です」

 リリィが少し膨れてみせる。しかし、その顔は前よりもリラックスして見えた。

「ま、何にせよ、リラックスしたまえ。緊張することはない。緊張してきたと思ったらそのブローチに触るんだ。きっと落ち着く」

「はい。そうします」

 もう一回ノック。

「はい、今行きます!」

 リリィはソファから立ち上がるとスカートを直した。

「夜には戻ります。旦那様、お土産楽しみにしていてくださいね」

「ああ」

 ダベンポートはリリィに微笑んでみせた。

「楽しんでおいで。美味しいものをお食べ。そしてエリーゼとのおしゃべりを楽しむんだ。緊張するなとは言わない。でも、できる限りお話しするといいよ。そうした方が緊張がほぐれるからね」

「はい。行ってまいります」

 リリィはもう一度ぺこりと頭を下げると、玄関から外へと踏み出した。

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