百合姫

月庭一花

 それは地方の大学に入学して間もなくこと。

 わたしは出来たばかりの友人と連れ立って、学生食堂に足を踏み入れたところだった。気づくとみんながちらちらとその人を見ていた。わたしもなんだか気になって、視線を追った。

 その、窓際に座っていた彼女は、嫌でも目を惹いた。真っ白いショートボブの髪。凛とした翠色の冷たい眼差し。わたしの耳元で友人がそっと、彼女は雪女よ、と教えてくれた。

「雪女って、あの?」

「そう。おとぎ話のあの雪女。きっと、目を合わせたら凍らされてしまうんだわ」

 まさか。わたしはそう苦笑しながら、陽の光の中にいる彼女のことを、じっと見ていた。

 次に彼女と会ったのは五月の連休も明けた暖かな日で、桜もすっかり葉桜になり、藤の花が甘い匂いを漂わせているようなうららかな日和のお昼休みのことだった。けれども彼女の周りにだけはまだ冬の気配が色濃く残っているのが、はっきりと感じることができた。

 彼女はいつかと同じように、学生食堂の窓際の席にひとりでぽつんと座っていた。

「あの、……ひとりで食べているの?」

 声をかけたのはわたしの方からで、彼女は少し驚いた顔をして、そうだけど何か、と首を傾げてみせた。白い髪がさらりと揺れた。

「一緒にご飯食べない? 今日はわたしもひとりだから」

「いいけど……わたしとご飯を食べると、おかずもご飯もすぐに冷えちゃうよ」

「雪女だから?」

「うん。雪女だから」

 彼女はそう言ってにっこりと笑った。そして握手を求めて差し出した手を、わたしは恐る恐る握り返した。彼女の指先には薄く氷が張っていて、触れるとぱりぱりと音を立てて砕けた。冷たくてとても気持ちが良かった。

「わたしは百合姫ゆりひめ。あなたは?」

「わたしは花純かすみだけど……え? 百合姫ってそれ、本名なの?」

「……変? 雪女の中では割とポピュラーな名前なんだけどな」

 不思議そうに、悩ましげに翠色の目を細めた百合姫は、とってもチャーミングだった。

 彼女は見た目とは違ってずいぶん人懐っこい性格のようで、笑うと白い氷の歯が、キラリと光った。一緒のサークル——軽音部だった——にも入ったが、百合姫の方はすぐに辞めてしまった。男女関係のもつれが原因だった。百合姫は惚れっぽく、けれど恋愛は、長続きしない。それはとりもなおさず百合姫の体質のせいだった。百合姫は好きになった相手を、カチカチに凍らせてしまうのだ。

「……また振られた」

 半べそをかきながら、わたしのアパートで三本目の缶酎ハイを開けつつ、百合姫がじとっとした目でわたしに言った。

「うん。まあ、仕方ないよね」

 わたしは真夏だというのにストーブを焚きつつ、温かいほうじ茶をすすっていた。

「それよりさぁ、ねえ、あんたがイライラしてると、この部屋、寒くて仕方ないんだけど」

 わたしが文句を言うと、だって、仕方ないじゃん、なんて言いながら、百合姫は虹色に光る氷の涙を、ポロポロと零すのだった。

「失恋した友人を慰めようって気はないの?」

「あるよ。あるからこうやって残念会してるんじゃない。あのね、今は夏でね、外では夜でも蝉が鳴いているのよ?」

「だからなによ。ちょっと、わたしだけじゃなくて花純もやけ酒に付き合いなさいよ」

「やだよ、わたしまだ未成年だもん。そういう百合姫は幾つなのよ。学年一緒でしょ?」

 年齢の話になると百合姫は急に黙ってしまう。多分そういうところも、うまくいかない原因の一つなんじゃないかな、と思った。百合姫は美しいけれど、ある意味得体が知れない。自分の命を天秤にかけられる男はそうそういない。その日は結局どてらを着込みながら、朝まで彼女の愚痴を聞く羽目になった。

 夏の終わりに彼女はまた新しい恋人を作った。仏文科の学生で、一学年上の人だった。

 一度紹介されたが、線の細い柔和な風貌の小柄な人で、それまで百合姫が好きになってきた相手とは、少しだけ毛色が違っていた。

 百合姫がその人とばかり過ごしていたので、わたしとは疎遠になった。わたしはキャンパスを歩く二人を時々見かけながら、少しだけ胸の痛みを覚えて……我ながら嫌な奴だな、なんて思った。男の趣味なのか、百合姫は短かった髪を伸ばし始めていた。たまに会って食事をするとのろけ話ばかり聞かされるので、正直うんざりした。でも、そんなわたしの様子に、百合姫も納得がいかなかったみたいで。

「ねぇ。……わたしが幸せそうだからって、嫉妬してるの?」

「は? 嫉妬? なにそれ」

「だって花純、不機嫌そうだし」

「同じ話ばっかり聞かされていれば、そりゃ、ね。不機嫌にもなるでしょうよ」

 わたしがそう告げると、百合姫は押し黙った。友情よりも恋人を取るのか、なんて、そんな陳腐なことを考えたわけではなかった。

 ただ、全部、馬鹿みたいだと思ったのだ。

「……帰る」

 百合姫が席を立ち、わたしはその様子をじっと無言で見送っていた。わたしたちのあいだの、それが初めての喧嘩らしい喧嘩だった。

 やがて秋になり、柿の実が色づく頃、百合姫の彼氏は死んでしまった。凍死だったそうだ。朝、百合姫が気づいたときにはもう、ベッドの中で冷たく凍りついていたらしい。

 葬儀に参列したわたしたちに、彼の遺族は冷たかった。彼の母親は百合姫に、人殺し、と。泣きついて叫んだ。百合姫の顔は蒼白だった。まるで、雪そのもののようだった。

 彼女はわたしのアパートで号泣しながら、もう誰も好きになんてならない、と言った。彼女の瞳から溢れ出た涙はまるで遠い異国の真珠のように、わたしの部屋を埋め尽くした。

 わたしは冷たい彼女の肩を一晩中抱きしめ続けた。誰も。誰も。誰も好きにならない。その言葉だけが虚しく空気を裂くのだった。

 百合姫は大学を辞めた。そして、そのままどこかにふらりと消えてしまった。わたしにさえ、居場所を明かしてはくれなかった。

 その冬初めての雪が降った日。久しぶりに百合姫からメールが届いた。急いで内容を確認すると、もしこれから出てこられるなら、近くの浜で一緒に焚き火がしたい、というものだった。……焚き火。焚き火? わたしは頭をひねった。文章の意味がよくわからなかった。なぜ浜なのだろう。どうして焚き火なのだろう。けれどもそんなことを深く考える余裕も無く、わたしはニットの帽子とマフラーを片手に、アパートを飛び出していた。

 夜の海に、粉雪が舞っていた。どこまでも続く真っ暗な海の、そのまたずっと遠くまで。雪は静かに、降り続いている。

「……来てくれたんだ。ありがと」

 百合姫が小さく笑って、わたしを見た。

 百合姫の髪は肩口よりも少し長く、風に揺れる様は絹糸のようだった。白いアウターを着ている姿はまるで、……という言い方が正しいのかどうか……雪女そのものに見えた。

「今までどうしていたの? 連絡くらいしてくれてもよかったんじゃないの?」

「うん。そうだね。ごめん」

 手にした枯れ枝を高く組み上げながら、彼女は苦笑した。波打ち際から少し離れた場所に大きく焚き木が積まれていて、雪に静かに濡れていた。冬の、波の音が、荒く響いた。

 久しぶりに会った百合姫は、やっぱり綺麗だった。嫉妬するくらいに、胸が疼くみたいに、ただ純粋に綺麗だった。会ったらもっといっぱい、文句を言ってやろうと思ったのに。

「……もう会えないかと思った」

 その言葉を口にすると、自然と涙が溢れた。

「うん。そのつもりだったんだけど。……どうしても、最後に花純に会いたかったの」

 ……最後? 最後って、どういう意味?

 わたしは百合姫を見た。百合姫もわたしを見ていた。彼女はそれ以上何も言わず、うず高く積まれた焚き木に、そっと火をつけた。

 もともと油か何かが最初から仕込んであったのだろう。火はあっという間に燃え上がり、夜空を焦がし始めた。火の粉と粉雪が混ざり合い、まるで満天の空に煌めく星のようだ。

「雪女が凍らせるのは、ね。その人との思い出そのものなの。永遠の愛なんてこの世にないから。だから、凍らせるの。ずっと、誰も触れないように。誰にも触れられないように」

 百合姫が歌うようにそう言った。

「なんだか竹内まりやの歌みたいね」

 と、わたしは涙を拭って、訊ねた。

「え、違うと思うけど。そういえばまだ軽音のサークル、花純は続けているの?」

「わたし、あんたと違って堪え性があるもん」

「あはは、ひどい言われよう。ま、確かにその通りなんだけどねぇ」

「……あのさ、百合姫はもう誰も好きにならないって、あのとき……言ってたけどさ」

 わたしは、彼女に近づき、その冷たい指先を握りしめながら、言った。

「わたしはあんたのこと、好きだからね。このまま、またどこかに消えたら、嫌だからね」

 百合姫は大粒の涙を零しながら、そんなこと言われると、花純のことも凍らせちゃうかもしれないんだからね、って。笑ってみせた。

 そのとき、もしかしたら彼女は焚き火の中に身を投じるつもりだったのかな、と思った。もしも、わたしがここに来なかったら……。

 わたしは慌てて百合姫を抱きしめた。いつかの夜のように、もうどこにもいかないように。ぎゅっとその震える細い肩を抱きしめた。

 百合姫は泣いていた。わたしも同じくらい泣いていた。気がつくと雲の隙間から、大きな月が出ていた。すごく綺麗で、いつかわたしはこの景色をどこかで思い出すのだろう、と思った。……きっと、彼女と一緒に。

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