ハナコトバ

たけのこ饅頭

ハナコトバ


 頭が痛い。そう思ってうずくまっていたと思うのだが、ふと気が付くとその痛みは感じなくなっていた。

 一度頭を振り、顔をあげてみると、そこには穏やかな田舎の風景が広がった。

 だが、自分でもありえないとは思うが、どうやら頭痛のせいで記憶が曖昧になっているらしい。それもほんの十分かそこらの間の話だ。

 もちろん欠落した部分を除けば鮮明に思い出すことが可能だ。俺は花屋を営むただの男で、間違いなく、娘とふたりで地元に帰ってきていた。車を三十分以上走らせないとスーパーすらないような、山と緑に囲まれた土地だ。

 栄えた街からだとアクセスしにくく、まだ蝉の合唱も遠くにあるようなジメジメした季節に、たまたま二日間の休みをとれたからやってこられた。

 目的は死んだ妻への挨拶。娘ももう、十六になったと、俺は伝えた。というのも、彼女が旅立ってから十年近くになる。仕事に追われたり、娘だけには見せまい、という意地もあってか、抑えきれないような涙が出ることは既になくなってしまっていた。

 俺の涙と結びついている、なんて言ったら浪漫を求めすぎた恥ずかしい話だが、こんな季節に雲ひとつない空を見れた今朝はとても印象的だった。そのおかげか、数年ぶりの旅行に娘も嬉しそうな顔で車の窓から外の景色を眺めていた。

 しかし、有名な観光地やテーマパークなんかには連れて行けず、『すべきことだから』と直接は言わないが、そのような言い訳をするみたいに俺と妻の地元で墓参りだ。

 心のどこかでは心配していた。当然、楽しいかどうかの話じゃない。幼い頃に母親を亡くしたあいつが、高校生になった今はどう思っているのか分からないからだ。きっと、色々と複雑な気持ちもあっただろう。

 そんな経緯を経て、俺達は地元の街から車を四十分ほど走らせた所にある、離れた山に訪れていた。

 花屋らしく、自分の店から選んで持ってきた花と、加えて妻が好きだった菓子を供え、墓参りを終えた。そう、そのあたりまでは覚えている。

「よく、思い出せ」

 そう、そうだ、それから娘と一緒に、たしか、車を停めていた駐車場へと戻ろうとしていた。長い階段を使わなければならなかった。……、ような気はするのだが、やはりそれ以上のことは全く思い出せない。

 そして、気付くとこんな田舎道にいた。お手上げだ。まるで理解ができない。だが、間違いなく地元ではあるのだろう。幼少期に染み付いた空気と匂いが、俺の勘を鋭くさせる。

 しかし、山の方は詳しくなかったせいで、自分が今どの辺にいるのか検討もつかない状態だ。娘は俺以上にこの地のことを知らないというのに。

「そういや、あいつは――」

 瞬間、思わず息をハッと吸い込んだ。

 どれだけまわりを見渡しても、娘の姿がない。いつの間にはぐれてしまったんだ。おかしな話がすぎるぞ。ずっと、隣にいたはずのあいつまで消えてしまうだなんて。

 心配だ。娘の発見は最優先。迷子になってしまったら大変だ。

 しかし、参ったな。俺は携帯も財布も車に置いたままだから連絡を取る手段がない。いや仕方がない、墓まで少し歩くだけだと思っていたのだから。だが娘は? もしかしなくても、捜索されるのは俺の方なのだろうか。

 こうなってしまえば、とりあえずは歩いてみる他ないだろう。幸いにも一本道だから迷うことは……、ないよな?

 本当にただの一本道なのだ。左右に田んぼが広がっている。天気は晴れ、それは今朝から変わらない。だが、こんな清々しい程に地平線まで続いている道はそう無い。地元にここまで広い道路はあっただろうか。映画の撮影か何かで使われてもおかしくない場所だな。

 一方で、後方はそこまで長い道が続いている訳ではなく、途中から木々が増え始めたところでカーブになっている。その先は両側の木々が最早、森のように増していて、確認することはできない。

 この場合どちらに向かえば正解なのか、そもそも近くにも遠くにも山が見えないということが、俺の頭を混乱させている。

 正直、どちらに進んでもいい気がする。でもまあ、どこまで続くかわからない直線を進むよりは、ある程度景色が変わりそうな方へ進みたい気持ちがある。

「よし」

 そうと決まれば、だ。普段から仕事で水入りバケツを持ったりと、力を使う作業をこなしてきた。花屋だからといって体力に自信がないわけではない。

 歩き始めて確認するが、やはりこちらの道は、曲がり角のあたりまで徐々に木の数が増えていく。まるで俺をこちらの道へ招いている、ように感じるのは気のせいだろうか。

「はあ……」

 あいつ、平気だろうか。車の鍵は俺が持っているし、俺がこんなだからそもそもどこにいるのか定かでもないし。いい子だから、近くに住んでいる人とうまく交流でも試みて何とかするかな。

 なぜだか、あいつのことを考えると足が重くなってくる。十六にもなればもう立派な女性だが、偉いやつだからな。優しいやつだからな。だからこそ気がかりで仕方が無い。

 男手ひとつで女の子を育てるのは大変だと思っていた。実際大変だった。最愛の妻を亡くした悲しみや、協力して営んでいた店に対する気持ちの低下も、娘がいれば表に出すことも出来ずに心を休める暇もなかったからな。だが、徐々に悲しみから解放されると、裕福とは言えなくともあいつの笑顔を見ると癒されていたんだ。

 そんな、いくら可愛い娘も仕事ばかりの父はどうだったろう。仕入れの日なんか早起きで、水やって陳列して、作って配達して、それだけであっという間に夜を迎える。朝食も夕食も一緒にとれない日が今でも生じてしまう。

 幸い、よく聞く思春期の娘のように俺の事を嫌っているような様子はずっとなかった。俺が言えたことじゃないが、一人しかいない親だから自然なことだ、と思った方が気も楽だったりする。

 そんな沢山の悩みの中、娘は昨年に晴れて高校生になった。驚いたことに、入学したらすぐさまアルバイトを始めたんだよな。当時は、そうか、ろくにお小遣いも与えられなかったからな。そう思った。

「私も少しは働いて、お父さんのこと手伝うから」

 ――そんなことを言われて、衝撃が走ったのを覚えている。

 まるで待ち構えていたかのようなタイミングで、あいつ自身も受験が終わり、落ち着いてきていた所だったからな。当時は、

「おお、そうか……!」

 とか言って喜んだ気がするが、涙が出るかと思ったよ。立派でいい子に育ってくれたのが嬉しかった。

 だからこそ、お父さんは悩んだ。学校に必要なものやスマホはもれなく買い与えていたし、たまに欲しいものをねだってきた時にもできるだけ答えていた。しかし、好きに洋服や化粧道具などを買うお小遣いはなかなか与えられていなかった。

 それなのに、せっかくバイトで稼いだお金を家に入れてくれるようになったんだぞ。

 俺はそれを、二ヶ月目から受け取れなくなった。

 その時は親として正しいことをしたと信じた。代わりに俺が花屋の営業時間を調節して休日を上手く使い、花に関することを講師となって教える仕事を引き受けたり、動画配信サイトに家庭菜園をテーマにした動画を投稿したり、逆に俺がアルバイトをしてお金を稼いだ。一度熱で寝込んだことがあるが、せめて娘が卒業するまでは、と。踏ん張り続けた。

 そして、学費への貯蓄とは別にいくらかをお小遣いとして与えることにしたんだ。自分で稼いだお金は自分のために使って欲しい。そして、お父さんのお小遣いは友達と出かけたりする時とか、誰かのために使いなさい、と。

 俺は、その時の不服そうな娘の顔を忘れない。間違ったのだろうか。

 だがその疑問に、娘は直ぐに答えてくれた。

 それから半年以上経ったころ、俺の誕生日に、サプライズパーティを開いてくれたんだ。ケーキも、美味い料理も、被り物まで用意していて。思わず、

「どうしたんだ?」

 と聞いたら、あいつは照れくさそうにしながら綺麗にラッピングされた箱を取り出して、

「お父さん、誰かのために使いなさいって言ったから」

 半年分のお小遣いで買えるくらいの腕時計を、わざわざ贈ってくれた。俺は数百円のハンカチ、むしろゼロ円の笑顔で充分なのに。

 そんな、優しい心を持った大切な娘なんだ。だから、早く戻らないと。

「――、っとここで曲がるのか」

 やっと、緩やかなカーブに差し掛かった。

 既に俺は木々に囲まれていて、歩を進めるごとに森へ誘われているみたいだ。

 曲がり切るまでに、だんだんと、足元が芝生に変化していく。アスファルトとの境界はまばらで、足元に気を取られた末に正面へ視線を移すと、俺は言葉が出なくなった。

「……、なっ」

 そこにあったのは花畑のような空間。依然として周囲は森のように展開しているが、この空間自体は広場のようになっている。

 先程まで敷かれていたアスファルトの白線のように、進むべき道は決まっていないが、そのまま進めるように柵などで仮の道が作られていた。

 直ぐに出迎えてくれたのは、これは『パセリ』だろうか。白い花が雪のように咲いている。芝から一面がパセリに変化していく様は、まさに粉雪のようだ。

 そのまま柵で囲われた中央を進んで行くと、その両脇に『イトスギ』が植えられていて、柵は消えたものの更に確かな道のようになっている。

 しかし驚いた。ここからは地面にレンガのタイルが敷かれ始め、頭上にはアーチが現れ、俺はそれに囲われながら進む。

 そうして囲うように咲いているのは、『白いバラ』だな。華美な花が凛々しく開いている。ここへ初見で訪れても充分に心地の良いお出迎えといったところか。

 どうやら、ここは随分と立派な庭のようだな。地元にこのような観光地があるということは聞いたことがないが、まさか誰かの別荘か何かの敷地内ということは無いよな。

「いやあ参った」

 職業柄、と言うよりも単に好きだから花に対する興味も湧くし、このまま進んで後で不法侵入だとか言って訴えられないだろうか、という不安も湧いてくる。だがそう言っていられる場合でもないからな。

「仕方ない、このまま行こう」

 俺は白いバラのアーチを抜け、思い切ってさらなる広場へと繰り出した。

 そこには今までのように限定的に空間を支えていた花々と違い、花畑と言われてイメージするようなものがぶわっと広がっていた。それも複数の種類の花が混在している。

 『キンセンカ』や『マリーゴールド』、それらの煌びやかな色合いが太陽のような存在感だ。そして、それに対抗するように、真っ赤な『サルビア』が暖かく咲き誇っている。

 とても心打たれる景色だ。俺は、それらの明るい色に照らされながらも小さく、それでいて力強く陽の光を浴びる青い『ワスレナグサ』を見逃さなかった。

 不思議な出来事には不思議な空間か。生きているうちにこんな体験ができるなら本望だ。

 花々を眺めているだけで時間が過ぎていく。とても温かくて、幸せな気持ちだ。

 しかし、ゆっくりはしていられない。名残惜しいが、本来の目的は娘を見つけること。

「そろそろ行くか」

 もう一度足に気合を入れて、花畑の先に見える細道を見つめる。森の中を進むようだが、そこだけ地面の草がはげているのが分かる。

 花が咲いていない僅かな面を踏み、眩しい光に包まれる小道へ手を伸ばした。出口の先は見えない。

「うぐ、目が――」

 目を瞑りながらも一歩、靴底に伝わった感触は柔らかな土のものではない。ゆっくりと目を開く、つもりだったが、気持ちとは裏腹に口までもが開く勢いで目を見開いた。

「ここは、俺が生まれ育った所じゃないか」

 見覚えしかない集落の入口に、俺は立っていた。だが、後ろにはちゃんとさっき歩いた森への道が続いている。それは当たり前なのだが、俺はこの森を知っていて、知らなかった。

 しかし、この地の風は、匂いは、俺の心を落ち着かせてくる。間違いはないのだろう。ここは俺の故郷らしいな。

 俺は一度、大きく深呼吸をした。

 集落に入って真っ直ぐ行けば公民館が見えてくるはずだ。その隣が俺の実家。そしてその隣が幼馴染の……、妻の実家だ。

 俺は目の前にかかる小橋を渡り、何年も帰ってこなかった事実を忘れながら足を踏み入れた。

「ああ、懐かしいな」

 決して多くない家の数。その大抵の家が街のそれよりも広く、畑まで持っている。裏には小さな山もあって、よく、妻とも遊びに行ったっけな。公民館の前では流しそうめんをした。中学三年の時に、小学生ぶりに妻の部屋に遊びに行った時の緊張なんてものも思い出せる。

 この地の思い出は全て妻によって支えられている。もう、帰ってくることは無い思い出。

 無意識に足が進む。十年近くも、帰省しなかったんだもんな。近々帰るとお袋に電話した時は、どれだけ喜んでいたことか。

「――ちゃんは元気かい? 食べたいものなんでも作ってあげるからね」

 その言葉がいつにも増して優しかった。俺は長らく孫と会わせてやれなかったことを後悔したさ。

 はあ、娘がすぐ近くに居るような気がする。

 そうだ、きっと俺は、墓参りからはとっくに帰ってきて、そう、ひとりで散歩にでも行っていたんだ。どうしてそんなことを忘れていたんだ。十年も経てば近くに森があったことだって忘れるさ。新しくできるものだって沢山あるだろう。

 俺が進む道路脇に等間隔で立つ看板。これも新しく立てられたものに違いない。そこには絵本のように、馴染みやすい絵が描かれていた。飛ばして先を見ても同じようなタッチの絵が続いてるから、街の駅に貼られている心を揺さぶるような広告と同じようなものだろう。

 こんな所に立てられているのは不自然極まりないが、こういうの、俺は好きだ。



 ある一人の男がいた。

 男は所謂、田舎を代表するような集落で、自然と共に大きくなった。

 男は健康に育ち、大学へ行くために上京し、やがてその地で、昔から家族同然に縁が続いていた女と結ばれた。もちろん付いてきたのは女の方であった。

 その内、二人は別々に会社へ勤めて、お金を稼いだ。男は酒もタバコもやらず、賭け事もしない。お金は全て夢のために貯蓄していた。その夢を女は尊重し、六年後に二人はお店をオープンさせた。

 花屋だった。男は小さな頃から自然が好きだった。そして女は花が好きだった。そう、女が好きだった花を、男は愛したのだ。男の夢であって、女の夢であったのだ。

 二人の笑顔が絶えない仕事ぶりは、直ぐに周辺住民へと広まった。誰かの特別な日のために花を提供する数が徐々に増えていき、二人は幸せの絶頂だった。

 そんな、お店の経営も落ち着いてきた頃。二人の間に、可愛い女の子が誕生した。二人はさらに幸せな日々を手に入れ、女の子もすくすくと育っていった。

 しかし、その幸せは長くは続かなかった。

 女は進行具合が手遅れの状態である不知の病であったことが、発覚してしまった。数年で女はこの世を去り、残された男は悲しみに明け暮れた。

 五つだった娘はまだ女の死を理解できず、涙を流すことはあっても受け入れることはしなかった。そんなまだ幼い娘のために、男は悲しみを忘れるまで押さえ込み、自らの身を削って娘を育てた。

 それから娘が小学生になると、親の真似をしてお花屋さんになりたいと夢を語った。男は微笑んだが、現実になるとは信じなかった。しかし娘は花を愛し続け、男は娘が本当にやりたい事をするようになれば良いと信じ続けた。

 そして数年が経ち、娘は反抗期を迎えることもなく、立派な高校生になった。男は誇りに思い、娘を更に大切にし、孫の顔を見るまでは絶対に死なないと胸に誓った。

 娘はアルバイトと学業の傍ら、たった一人の父の仕事を手伝うことがあった。そんなある日、男が仕入れの作業を終えて店に戻ると、ノートに花の特徴やスケッチなどを書き入れていた娘と鉢合わせになった。娘は必死にノートを隠してとぼけたが、二人は堪えきれずにたくさん笑ったのだ。たくさん、お腹が痛くなるまで――。


「なんだよ……、これ」

 俺は自分の動きが固まっていることに気づいた。

 中途半端に途切れている看板に記されていることが、俺の人生に酷似している。いや、これは俺の人生だと思わないと、全身に立った鳥肌が治まらなくなる。

 だが、しかし、これを建てたのは一体誰なんだ。お袋なのか、それとも他の住民なのか。どちらにせよ趣味が悪すぎやしないか。

 これは一度誰かに言って撤去してもらおう。確かここの長である爺さんは、いつも畑で作業をしているか、家の前で読書をして過ごしていたはずだ。

 俺は爺さんの畑がある方角に向かって、

「すみませーん」

 ――しかし、返事はない。

 そういえば、未だに誰ともすれ違う事がなかった。過疎化が進むこの地で子供に出会わないのはまだ分かるが……、

「すみませーん」

 再び、今度は集落全体に響くような声で呼びかけた。

 が、余計に辺りが静まるような感覚に陥るだけで、やはり返事はない。

 俺は妙な胸のざわめきに、一瞬呼吸が乱れるのがわかった。

 もしかすると、お袋のやつが俺達の帰省に嬉しすぎでドッキリでも仕掛けてきているのだろうか。だとしたらこんな悪ふざけ……、手が、こみすぎじゃあないか。

「くそ……」

 一帯が見渡せるほどの広さなのに、まるでそれが仇となったかのように箱に閉じ込められた気分だ。いい歳こいて悪ふざけなんかしないでほしい。

「ん……」

 こんな時に目に入るのが、自分の家の案山子だなんてな――。

「ようやくお気付きになられましたか」

「――、うわあっ」

 突然の出来事に情けない声が出てしまった。

 俺が実家の案山子に目をやった瞬間だ。何度も瞬きをして、目を擦っても、それは見間違いでも聞き間違いでもない。

 案山子が、動いて、喋ったのだ。

「な――、何だ!」

 叫ぶと、そいつは二足歩行で距離を詰めてくる。

 そうか、あまりにも美しい立ち姿だったもんで案山子だと思い込んでいたが、そもそもが人間だったらしい。

 だが、どこか不気味で、声からしておそらく男であろうそいつは止まることなく進み続ける。

「ぐ……」

 あっという間に俺の目の前まで来てしまった。

「君はいったい、誰なんだ」

 警戒の眼差しで質問をぶつけると、彼は脚を閉じ、腕と腰を軽く折り曲げて、

「初めまして、この世界の、案内人でございます」

 丁寧な口調で、そう答えた。

 急に現れて、見覚えなんて当然のようになくて、しかし彼は俺を知っていて、変に丁寧な対応をこなす。

 世界だとか、案内人だとか、俺にはまるで意味が理解できない。

「一体、どういうことなんだ」

「おや、お気付きではなかったのですか」

「は、はあ? 何をだ」

 俺は何も心当たりがない。もしかして今日の不思議な経験が、いや、彼に出会ったことで結びついてしまったか。だが依然として理解はできない。

 彼は妙ににこやかに、俺の目を見ている。細身で俺よりも小柄なのに、やけに威圧感を感じてしまう。それはまるで、本能が何かを身構えるようで。

 ようやく彼は、口を開いた。

「失礼しました。改めまして、ようこそいらっしゃいました、死後の世界へ」

「――、は?」

 突然、何を言うんだこの男は。

「私はこの死後の世界を案内させていただくだけの、しがない男でございます」

「な、なんなんだよ」

「この世界では成仏するまで全てが自由でございます。さあ、なんなりとお申し付けくださいませ」

 きっと、そう、こんな瞬間こそが、人生において一番信じられなくて、信じたくなくて、非現実であることを望む瞬間なのであろう。

 しかし、俺がここで非現実であることを望めば、すなわち死を認めることになってしまう。自分の胸の鼓動が、どんどん遠くへと離れていってしまう気分になる。

 俺はどうして――、

「俺は、本当に死んだのか?」

「左様でございます」

「いったい……、どうして」

「死因はくも膜下出血とだけ、それ以上詳しいことはこちらも分かりかねます故、ご了承くださいませ」

 ああ、なんだよそれ。妙にリアルで、そう言われたらそうだったのだと感じてしまうのは、おそらく自分のことだからなのか。

 そうか、俺は死んだのか。全部、幻だったってわけか。

「は……、はは……」

「如何なされましたか?」

「突然、死を迎えた事実を明かされたんだ。案内人らしく、少しは察してくれないか」

「申し訳ありません。しかし、私も規則に従って行動しなければなりませぬ故、このまま続けさせていただきたいのです」

 微笑んだ顔を維持しているのがロボットのようで、淡々と告げる姿は心がある分ロボットよりも冷徹。

 俺が死んだら、あいつはどうなるんだ。あいつは、とても、可哀想じゃないか。ひとりぼっちだ。孤独だ。不幸せだ。

 あいつは……、娘は……、

「俺はもう、元の世界には戻れないのか?」

「それは致しかねます。貴方は既にお亡くなりになられていますから」

「どうしてもか? 娘が、ひとり残されているんだよ」

「申し訳ありませんが、ご理解頂けると幸いでございます。しかし、直ぐに成仏されれば、元の世界に生まれ変わることは可能でしょう」

 それじゃあ、意味が無いんだ。

「生まれ変わった人間は、その直前に想った人間の近くに生まれます。そして二歳の誕生日を迎えるまでは、あなたもその人のことを覚え――」

「もういい。そんなことはいいんだ」

「左様でございますか」

 彼の冷たい温度の声を聞く度に、俺が死んだという事実がさらに正しいものとして、俺の魂に刻み込まれるのがわかる。

 そしてその度に、死んだことを自覚してしまうんだ。

「そろそろ、お気付きになられましたか?」

「……、ああ。君は、大変な仕事をしているんだな」

「お気遣いありがとうございます。しかし、生憎私はそうは思っておりませぬ故、お気になさらず」

「はは……、そうか」

 俺は衝撃の事実に揺れる視界に耐えながら、彼との会話を続ける。

「それではご説明させていただきます」

 彼は改めて案内し始める。俺は必死に耳を傾けた。

 まず、この世界は死んだ者が訪れる死後の世界だということ。この世界では、生から死そして成仏、生まれ変わりという魂の一サイクルの最後、成仏を目標にしている。

 成仏のタイミングは任意で確定することができ、それまでは夢の世界のように自由に暮らすことが出来るし、死んだ者は全てこの地にやってくるため、一人ではないということ。

 次に、『時間』について。どうやら『花言葉の時間』というものと、『追憶の時間』すなわち俺の人生が描かれていた看板を見た時間のこと。そして『思い出の地の時間』その人物に縁のある場所がその人物の世界の中心として無造作に選ばれる時間のこと。その三つだ。後者二つは何となくイメージはついた。

 しかし、一番意味がわからない花言葉の時間についてだけは教えてくれなかった。

「どうして二つの時間のことだけ詳しく説明したんだ?」

「なるほど、いえ、それはほかの皆さんも、なんの意味があったのか見当がつかないと仰るからでございます」

「なら尚更だ」

「それは貴方ならご理解頂けると判断させて頂いたからでございます」

 彼は謎の信頼を、フフフと笑いながら語る。

 花言葉――。さまざまな花に,その特徴などから特別な意味を込めた言葉をさずけるもの。

 花屋を営む上で、愛情を表す花を、尊敬を表す花を、そんな注文は多く受けてきた。だとしたら……。

「俺を迎えた花々の言葉は、もちろん知っている」

「左様でございますか」

 昔、妻と休日にいろんな花の花言葉を調べて楽しむなんてこともあったからな。

 『パセリ』の花言葉はおそらく死の前兆。それは『イトスギ』の追悼や悲しみを示す意味から、この世界ではふさわしいと思ったから、数ある意味の中からそれを選んだ。

 『ワスレナグサ』は私を忘れないで。『マリーゴールド』や『キンセンカ』は、華やかな見た目とは裏腹に悲しみや、別れの悲しみという意味が込められる。

 白いバラは……、サルビアは……、これは、どうして。

「君、この意味はなんだ」

「知っていると――」

「ちがう。あの花達が俺を迎えた意味だ」

 俺は何故か、胸が締め付けられて、とても苦しい。彼のことを必死に急かすが、実は真相に近づくことがとても、恐ろしい。

 でも、知りたい。知らないと行けないと思うんだ。あの花畑で感じた、温もりの意味を。

「承知致しました」

 彼は一度姿勢を直し、口を開いた。

「花言葉の時間。それは、亡くなった方を最後に見守った方の心を表しているのです」

「最後……、に」

 俺は、娘と共に墓参りをしに来て、それで――、

「貴方は娘さんにとても愛されていたようですね。今では孤独にここへやって来る方や、死してパートナーの真の気持ちに絶望するという方も多いというのに」

「あ……、ああ……、あいつはそんなことを……」

 尊敬、家族愛。それが、『白いバラ』と『サルビア』の花言葉だ。

 視点が上手く合わなくなるほど、大切な記憶たちが蘇っていく。

 『お父さん』、そう、何度も呼ばれている気がした。

 後ろを振り返っても、隣へ手を伸ばしても、その姿は無い。

 俺は愛情を注ぐだけで、あいつの気持ちには気付かないでいたんだ。それが後悔で、もうあいつの声が聞こえないことが、あいつの笑顔を見れないことが、とてもとても後悔で。

 俺は妻を亡くした苦しみを知っているのに、誰かに突然引き離される悲しみを大切な娘に与えてどうするんだよ。

「くそっ、どうして今更涙が出るんだ!」

 熱い雫が湧き出てしまって視界がぼやける。

 俺もあいつに、「愛してる」だなんて、伝えたことがなかった。あいつを幸せにするためとはいえ、仕事ばかりで抱きしめてやることもなかった。我儘な父親だ。それなのにどうして、あいつは俺の愛情を信じてくれたんだ。

 俺は言ってくれなきゃ分からなかったというのに。

 悔しい。親が子に、迷惑をかけるのか。高校生の娘一人残して、俺は。

「馬鹿野郎だ! くそっ……、くそぅ……」

 たった一度きりの人生なんだ。あいつはこれから好きな人が出来て、それから温かい家庭を築いて、そうやって幸せに生きていくはずなんだ。

 この世界で、どんなに成長したあいつに再開しようとも、これからあいつが歩んでいく姿は見守ることができない。

 悔いだけが募っていく。あいつの悲しむ顔すら見れないことが、俺の胸の痛みを加速させていく。

「娘さんならば、問題ないでしょう」

「え……?」

 長らく俺の泣きじゃくる姿を黙って見ていた彼が、ついに語り始めた。

 彼のその一言だけでも、俺の消えてなくなりそうな心は消えまいと堪えている。

「……君は、どこまで元の世界のことが分かるんだ?」

 その問いの答えこそが、俺の心を支えてくれると信じて、もう、俺にはそれしか残されていないから。

「未来のことまでは分かりかねます」

「そうか――」

「ただ、彼女は特別な一歩を踏み出したとだけ、私からは伝えておきます」

「……、ああ、そうか」

 今にも成仏しそうだった俺の魂は、心なしか熱くなり、俺を正しく地に立たせようとしているのが伝わってくる。

 俺はもう、あいつを信じてあげることしかできない。

 たが――、

「誰かと再開し、思い出話を聞くのも良いものですよ」

「……、ああ、そうだよな」

 もう、どうしようもないのだから。俺は死んだんだ。それでも、こうして大切な人を待つことが出来るなら、その可能性に希望をかけてやることだって出来る。

 それが俺の後悔を解消してくれるのならば。俺はまだ、あいつの父親でありたい。

「俺は待つさ」

「おや?」

「あいつが俺より年上になっていようが、待って待って、そして見つけ出してやる」

「しかし、この世界は広く、それよりも早く生まれ変わって逢いに行くのが早い道でしょう」

 彼は言う。おそらく、無謀だと伝えたいのだろう。

 だが、俺は父親として娘の帰りを待たなければいけないのだから。

「必ず、見つけてみせるさ。ここじゃなきゃいけない。生まれ変わった誰かじゃなく、父親は俺だ。俺じゃなきゃ、いけないんだよ」

「……、左様でございますか」

 これでいいんだ。いつまでもあいつの事を応援してやる。



 彼は手続きがあるなどと言い、俺に背中を向けると、ついてくるように言った。

 するとその途中、急に立ち止まり言った。

「かつて、ある女性が言いました。私はまた、大切な二人の顔が見たい。もう一度、ちゃんと愛してるって言いたい……、と」

「――か、彼女も、ここに居るのか?」

 彼は振り返り、得意の笑顔を見せると、

「それは、お答え出来かねます」

 ――ああ、言ってくれなきゃ、分からないじゃないか。



~完~

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