天池

 赤い背景に大きくエッフェル塔が描かれ、余ったスペースにはパリの歩みがそれぞれ年号と一単語によって羅列されているマグカップになみなみとペットボトルのお茶を注ぐ。

 やなこった。

 ポール・ヴァレリーの「ムッシュー・テスト」という小難しい短篇集を始めのページから数行読んで閉じると、圭一は食事・その他兼用の机の奥に押しやっていたノートパソコンを手前へ持って来て開き、電源を入れた。パソコンをどかすと、その下に積まれた大判の本達との隙間に今月の水道料金の知らせが顔を出してうんざりした。今日は夕方まで雨で、水を吸った前髪はカールして左右に散らばる。美しくない顔がパソコンのまだ暗いディスプレイに映り、左手をマグカップへと伸ばして大きな一杯をごくり。また「ムッシュー・テスト」を開いて〈序〉の部分を少し読み進めると、やっと画面から明かりが放たれた。

 この頃、時間の感覚が変容して来たようだ。――なんて、暇を持て余したダイガクセイの私小説的なものを書き連ねる気はないし、そんな気力もない。今日は十二時過ぎに起床して、一限の授業は気が付いたら終わっていたかたちになったが、そんなのは昨日の自分の疲労や手抜かりと今日の運のせいであって、明日は二限にちゃんと間に合う。そんな気がする。圭一はたたたっとパスワードを打ち込みながらそんなことを考えた。再度マグカップに手を伸ばすとお茶を飲み干してしまったので冷蔵庫へ。パソコンの起動にはお茶、マグカップ一杯分。

 今日は久しぶりに小説を書く気になったから、久しぶりにパソコンの前に座って、足を組んで、久しぶりにパスワードを打ち込んだ。マウスの奥のところには一柄の扇が置いてある。東京で開かれた高校の同窓会に参加した際、記念品として受け取ったものだ。やなこった。高校卒業時点で所属することになっている同窓会事務局から招待を受けた際、本心ではそう思っていた。名古屋の高校から、卒業生達は全国に散らばるので、慣習的に東京・京都・名古屋の三都市でこの時期に同窓会を開き、過去の卒業生達皆に招待をかける。それゆえどの会もかなり大規模なものになるということだったが、どうしてわざわざ母校愛溢れる面識もないOB達(男子校ゆえ、卒業生は皆男性である)の結集するうるさい会合に出向かなければならないのか。招待のメールを混雑するJRの車内で確認したからなおさら嫌悪感が募った。自分にはやることがある。やる“とき”が来るまでやらないとしてもだ。積んである本は未処理のタスクを可視化するが、見える・見えないということは殆ど重要なことではない。その“とき”が来たらやらなければならないことというのは、他の重要でないどんなことをしているときでも頭の端にちらついて、くらげのように脳漿を横切って行くからだ。

 圭一が同窓会に行くことにしたのは、卒業生のある有名な純文学の作家が参加するということを耳にしたからだった。そのことを始めのお知らせから毎日立て続けに何通か来ていた事務局からのメールで確認したその“とき”から、圭一の飼っている白いくらげのうち一匹が巨大化し始め、遂に視野を半分くらい塞いだのでこれはまずい、と思った。

 タスクというのは便利な言葉だ。言葉そのものが、日常に潜む多くの不可視な事象を可視化するはたらきを持っているように思える。しかし明らかに目に見えたところで何になろう。圭一はそのことばかりを考えた。お茶を注ぎながらやなこった、と呟いたのは、一体何に対しての拒絶であったろう。

 文章を紡ぐということは、人生を「送る」営みと類似する。或いは、何かを考えて、それを体得したり忘却したり誰かに伝えたりする行為とも比べられるかもしれない。

 ――そして、一冊の本とひとりの人生は、明らかに類比出来るよね。一文一文がそれはもう美しくて、意味があって、だけどもそれだけに、一冊を通しで読まないとちゃんと全てを知ることは出来ない。そんな人生を送りたいねって、前手紙に書いた。こういう思索みたいな点つなぎみたいなことは、誰かに伝えようと思って何かを頭に思い浮かべながら紙なりパソコンなりに向かい合っているときに特別うまくいったりする。そういうところも、文章と人間の生活の類似点に数えて良いだろう。

 圭一には癖があった。それはパソコンで小説を書くとき、不意に思いついた――ときには格言めいた――一文を一旦打ち込んでみて、それから使わないようなら消す、というものだ。現実ではこういうことは出来ない。人間との関わり合いの中でやり直しはきかないのだ。不可視なものを繋ぎ合わせていく試みは面白いが、危険も孕む。だから“とき”が来るまではやらないのである。そんな泡のような言葉を食べて、くらげは育つ。深い青の中で。

 章立ても便利なツールだ。そうやって文章を区切って、場面や脈絡を瞬時に切り替えることが出来る。文芸の自由を象徴するようだ。扇を広げるように一段階ずつ、読者の知らぬ間に文章が進行していって、最後に鮮やかな(或いは強烈に気怠い)読後感が浮かび上がるようなら、それはもう最高の芸術と言えるだろうね。でも、そうじゃなくても章立てと言うのは有用で、読者にある種の安らぎを与えるものであるだろう。その内幾つかは、ただただ懈怠に包まれた、昼過ぎに起床して食べる卵かけご飯のような粘つきを持ったものがあっても良いではないか?

 翌朝、七時前に起き上がって窓から外を眺めると、ざあざあの雨であった。通りには傘と車とが行き交い、すぐ下の信号機の覆いの上では水滴が未完成の巨大な芸術作品の一部のように跳ねて落ちていく。パパのコートの袖口から、マリーはバラ色の河の流れる人形の国へ旅立つのだ。カーテンから手を離すと、世界はいつも通りの、部屋干しの匂いに包まれた、少し早い時間帯のワンルームへと逆戻り。どうしたって生活感を感じさせる電球の色。乱れた布団。

 時間に金の箔押しが出来るなら、是非ともそうしたい朝だ。一限がある訳でもないのに、滅多に起きない時間に外を眺め、雨。シャワーを浴びた圭一はモノトーンの服装に身を包み、パソコンを鞄に入れて大学の図書館へ向かった。余裕を持って歩くと空気が鼻によく通る。雨に分断され、下の方まで降りて来た雲と混ざり合う雑踏の日々の匂い。それがよく匂って、余計に目が覚めた。右手の車道は信号が青になって流れ出す芳醇な青! ビニール傘を通して仰ぎ見る灰色の空にはやはり金で縁取りを施すべきだった。森の匂い、岩肌の風、遠くまで広がる湿った土に花。あのとき思い描いた情景が、水彩画のようにふと現前する。

 生活感の獲得と社会への順応とは関係しない。しかし、新しい社会との混ざりを拒む頭脳を、或いはそこへのアクセスを、生活感は強固に妨害する。小説は生活ではない。しかし明らかにその根は生活と触れ合うから、そことの静かな交流の回路が乱されるのは厄介だ。

 雨と今日の運に乱される日常をよく吸って、圭一は満足した。百円のミネラルウォーターを手に持って、キャスター付き椅子の背に肩甲骨を預けながらぐいと飲む。梅雨入りの時期である。開いたばかりの図書館に人は少ない。外国文学の棚に並ぶ滑らかな背表紙達の馥郁たるさまを眺めていると、頭のくらげがぴくぴくと反応した。

 図書館の白い机にパソコンを設置して、時折傍らの本を読みつつ小説を書いていると、段々人も増え始めた。自らにとって根源的な営みは、とにかく文章を書くことで、その動きの中にこそ、過去に身体化された輝ける景色や人目に付かぬ場所で成熟して来た白い風景に立ち返る機会が埋もれているように思えた。


 自分の生活に波風が立つのは気持ちの良いことだ。沖の方へ運ばれる感覚は抗えぬ幸福を肉体に直接染み込ませる。海に背中を預けると、見えるのは空、日々に分断されない、昔見た空と現実とが直接繋がる広大な空――そう、この感覚。現実に呼応する価値観や言葉遣いが、飛び込んだイルカの尾びれから水面へ昇っていく水泡のように小さな姿に収縮し、同時に自己の実在性もひと際小さな球体に収斂して、今油彩画の匂いに包まれて溶けていく。残るのは巨人の寝息みたいな空調の音と、白い服から飛び出した手の、時間を手懐けた動きだけであった。圭一は自己だけは決して浮かび上がるまいと努めた。文章によって、その頭の上のところへどんどん水を――出来るだけ清らかな水を、それが駄目ならとにかく滑らかで透明度の高い液体を――投入していく試みを続けた。次第に頭がくらくらして来る。風邪のひき始めであった。

 日本の中世文学を扱う授業が始まって、そして終わった。パソコンを片付けた机に突っ伏して少し寝た圭一は、割合調子が良かった。九十分の授業はあっという間に終わり、出席カードを提出するボックスの設置された机の横の出入り口から、外から糸で引っ張られるようにして出て行く人々の行列に混ざった。慣れたものだ。授業を行った建物から出ると、図書館を出たとき小降りになりつつあった雨は完全に止んでいて、雲間からささやかな光が覗いた。お昼過ぎ。時間というものはどこまでいっても“客観的な指標”に過ぎない。お昼休みということらしいので圭一は取り敢えず食堂に入ったのだった。

 (ここで圭一の少しばかり時間と乖離した寡黙な食事風景をただ描写してもつまらないので、作者は圭一の書いた小説の中における食堂の場面をそのまま引用することにする。読者におかれては、現実と思索の奇妙な連結点をあたかも古い屋敷の薄暗い廊下で特徴のないドアの内一つを少し怯えながらゆっくりと押し開けるかのように体験されたい。それはベンチに腰掛けふと日光の照りつけるアスファルトを眺めてより深く座り直した瞬間、昔よく遊んだ小さな公園から外へ転がり出るサッカーボール、離れた家族との電話で話題にのぼった飼い犬のこと、親しい人の死、或いはそこに至る短い通路――我々の視界のいたるところに不意に現れ出るものでもある。しかしながらそれを正確に――単に理性的に、というのではなく、自らの見た、見る、見えようとするものに誠実な形で――認識し、または叙述するという試みは困難であるといえよう。)

 丼ものや麺類は月ごとにメニューが一部変わっているらしいが、毎日決まってカレーライスを注文している慎太には関係がない。授業が早めに終わったお蔭でテーブル席の確保が容易に出来た。由美と翔也はもうすぐ冷製うどんを持ってやって来るだろう。すぐ近くのウォーターサーバーから三人分の水を持って来て机に置くと、慎太は具の少ないカレーの表面を眺めた。ほんの少しだけ茶色の薄い部分が大胆に皿を横切って、模様をつくっている。注意して見詰めていると、次第に海を渡るカモメの群れのようにも見えて来た。この食堂の悪いところは、壁の大部分がガラス張りになっているお蔭で、夏場は努力しないと殺人的な日射から逃れられないところだ。確かにグループで談笑するのに好都合なテーブル席は空いているが、この時間、日光から逃れられる唯一の場所である奥のカウンター風の席は全て先客で埋まっていた。

「お待たせ、あちぃね」

 うどんを置くなり翔也は顔を大袈裟に歪ませた。控えめな茶髪がぎらぎらの日光を反射してよく光る。由美は翔也の横の席に腰を下ろした。

 三人で一緒に食べて会話をするとは言っても、この暑さである、早めに切り上げねば支障が出よう。皆すぐに料理に口を付けた。冷たいうどんが少し羨ましくもあったが、カレーはいつも通りの美味しさであった。

 話題にのぼったのはフランス語のクラスが三人と同じの山田のことである。山田は遅刻の多い奴で、よく悪びれる素振りもなく三十分遅れで教室に入って来るので誰よりも早くクラスの全員に顔と名前を覚えられた。その彼が、二週間前から一回もクラスに顔を出していない。フランス語の授業は週四で必修科目としてあり、そのそれぞれで担当教員が異なる為各授業の出席日数の面ではまだ単位を落とす危機ということはないが、二週間も存在を確認していない慎太達にしてみれば、これは大きな関心事である。慎太は集団を覆うムシムシとした懈怠のようなものを感じながら、あれこれと根拠のない推測を並べ立てた。

「私も休もっかな、一週間くらい」

 由美が遠くを見詰めるように言った。無論これは本気で言っているのではない。しかし、気まぐれにこんな言葉を発させた彼女の一番流動的な部分は、本心でためらいなくこう出力したのだろう。それは山田に向けられた無責任な推測が誘引した気まぐれで、その声色と視線は、続いて慎太達三人の無言で共有するところとなった。食堂は明るく、皆揃って視界はぼやけていた。ガラス越しに木々の葉が小さく揺れ、全くの元通りに戻るところを眺めた。

「やたらと大学生の肉体を想起させる文章を書くのね」

 圭一が朝コンビニで印刷して来た未完成の小説を両手で持って読み直していると、莉香さんが覗き込んで書かれているものを確認するようにして言った。食堂のすぐ近く、木陰のベンチは丁度乾いたところで、適度にぽかぽかとして気持ちが良かった。

 莉香さんには一週間くらい前(同窓会に参加する前日のことだったから、一週間と三日前だろうか)に、まだ手をつけたばかりで三千字もいっていないような小説を手紙に同封して送ったところだった。この春から圭一は彼女と同じキャンパスに通うことになったが、会う機会はあまりないし、わざわざ設定もしない。対面して何かを話す理由もないし、向こうもそれで平気みたいだ。

「環境が変わって、僕も変わったんだ、気が付かない内に。だからそんな今の僕の生活を正直に描写すれば、そうすれば変わらないものにも気が付けるんじゃないかって思ってさ」

 莉香さんの前ですんなり出て来た言葉ならば、自分にとって変わらないものだと言えるだろう。圭一は素直な嬉しさの中でそう思った。

「肉体にとらわれる必要が、一体あるのかな。ここにはあなたの肉体と、私の肉体と、そして文章がある。文章が肉体と不可分である必要なんてきっとない」

「でも今の僕には、この日々をどうにか意味づけて、飼いならす必要があると思うんだ。何も分からないんだ。今、ここには、莉香さんしかいない――」


 中学三年のとき、英語の授業の一環でニュージーランドの高校へ手紙を送った。毎年、運が良い何人かの生徒はそこから国際文通が始まるという。圭一の手紙を受け取ったのが当時その高校へ留学していた莉香さんだった。日本人から返事が来たときは驚いた。返事が届いた人は割合多くてクラスで十数名いたので、圭一もお返しがあったということだけは同級生や先生に公言した。それ以上のことは問われることもなかった。英語での文通は圭一の二通目の手紙までで、それからは日本語が用いられた。その方が精緻なことを伝えられるので、留学中で英語での表現にも慣れているだろう莉香さんはともかく、圭一には好都合であった。実のところ、それは莉香さんのはからいだった。二通目の返事にはそのことがしっかりと書いてあった。莉香さんも九千キロ離れた日本語の行き交いを楽しんでいたのだった。二人の送受信する文章は段々高揚と緊張を包み込んだ、繊細な心情表明に近づいていった。そのとき、明らかに文章は精神を紡いで結ぶ崇高な力だった。九千キロの間に、精神の糸ではしごが架かっていた。まるで冷たい叢草に一筋の夜風が大きな震えをもたらすように、静謐な部屋で海を渡った二つの魂は強く影響し合った。何より蠱惑的だったのは、自らの発信する文章が自分にとって貴重な気付きになってまとまっていくこと――。


「今の私と過去の私、その隙間、表層と流動。全部がないまぜになった、だけどだからこそ今の私にしかつくることの出来ない、文章。私はいつからかずっと、そんな文章を書こうって思ってる。いくら目の前のこの空間を支配しているように見えようと、今の肉体は一瞬の価値しか持たないわ。それに日々の一番大切で素敵なところは、それが始まって以来ずっとずっと途切れることなく続いて来たということ。私も、あなたもね。それを意味づける必要など、やっぱりないんじゃないかな」

「一瞬の価値……、そうなんだろうか。確かに僕も昔は無意識のうちにそれを胸いっぱい吸い込みながら文章を書いていたのだと思う。だとしたら今ここから見ることの出来ない、あの滑らかで精神の興奮を含んだ視界いっぱいの風景は――」


               泡。

 扇の木材の部分に施された透かし模様から部屋を覗き見る。木々と糊の匂いが鼻腔に届き、粘膜をなぞって身体の内奥に吸い込まれる。ゆっくりと扇を上へと動かせば、同時に視線も上を向いていく。ぶくぶくぶく……

 硬い岩が頭の横をかすめていく。青は深くなっていって、表層における真実をようやく語り始める。大きな岩の隙間から、細かな泡が噴出する。身体の回帰。暗い水中に前も後ろもなく、全身の触覚器は語りかける、始まりのときからずっと語り続けて来た言葉を。球体は沈んでいく、巨大な女王の統べる油の王国や、夜道の電線の隙間に入り込んだ満月を横目に、森を抜けて。未だ誰も快哉を叫んだ者のない蒼穹を顎で感じて、髪の毛から真っ逆さまに水中へ。人魚、水色、遠くの海へ。

 唾を飲み込んで呼吸を整えて、圭一はやや乱暴に開いたノートパソコンに文字を打ちつける。肉体の外部に言葉を刻みつける。行為の意味など二の次で、行為する自分こそ永遠の水源で。

 カーテンを閉め切った部屋に、キーボードを叩く音だけが断続的に響く。湖の水面の向こう側、ラマルチーヌの下まつげは水に濡れてキラキラと輝いていた。


「見えた」

 圭一の眼は発光する画面にそう叫んだ。一瞬の価値が、そのとき部屋に充満した。遠くで風は木々の葉を揺らす。雨は降り止んで――。

 ――莉香さん、僕はあなたの言うことがある一瞬に急激に理解出来た。見えないものは、ただ見えないだけで、ちゃんとそこにあったのだ。綺麗だったんだね、今日の僕達も、ちゃんと、美しかったんだ。ああ、愛と持続のここにある確かな理由よ。僕は責任を持ってこの一瞬の激しい受容を表現するよ。目に見えたものは記憶の持続する限り持ち出し得るよ。湧き出る感覚と共鳴する感動は死ぬまでの特権だよ。ところで責任とはどういうことだろう。僕が文章を書く行為において責任を持つとしたら、その対象は僕自身、それと、少なくとも、この文脈においては、あなただろう。どこまでこの文脈を拡張していけるのだろう。どこまであなたとこの日々を認識し直していけるろう。


 街灯の灯りは連続して、この部屋の前の道を、ずっと先まで照らしていた。

 圭一は風邪をこじらせ、その日の授業を全て休むことにした。バイトを休む連絡をしなくては。強烈にだるい。頭の痛い日に三時間の映画を観終え、映画館を後にするときの疲れ具合。映画館の座席で寝る経験を何度かしたなら、それはもう老化の始まりであるということは、幼少期隣の座席で寝ていた祖父の姿を思えば想像に難くない。今日の思想史の授業はカントのアプリオリな認識の条件がどうのこうのという話の続きだったから、行きたい気持ちも強くあったが、エアコンをつける為に一度ベッドから離れてもう一度倒れ込むと、冷気を頭蓋骨の奥まで爽やかに吸い込んで、何をする気力も失った。

 考えたところでどうにもならない問題というものがあるかもしれない。それでも考えるという試みを選び、遂行したなら、思索はどこにも繋がらない小さな空間をつくり出すことになるだろう。その部屋は、実験室のような見た目をしている。白い壁は無菌室的な白だ。

 圭一には無菌室的なものに対する嫌悪があった。それは本能的なものというより、物事を言葉にして表現するということを始めてから獲得された真新しい性質のように思われた。安易に創造出来てしまうから、後になってその無意味に落胆し諦念めいた空虚な感じを覚えるのである。ベッドの上で、それなら意味のある、今ここでつくり出せるものとは何だろう、と考え、静かにここ数日の思考の動きを省察した。


 集団との融和。社会への埋没。個人の優越。自我の連続性と運搬作用。

 カーテンの向こうとこちら。花の表と裏。手紙の行く手と手放し手。

 雨が降る、白い世界はドロドロに溶けてしまって、手紙はなんとかその形を留めて飛んでいく、海の向こうへ、大きな口を開けて暴れている荒波の向こう側へ。パパのコートの袖の奥の世界を通って。収縮し、拡大する世界の外膜で。


 人間の成長がくすみを伴うものだとしたら、ずっと無菌室的な白に居場所を求め続けるのはちっぽけで、情けないことではないだろうか。都合の良い空間を文章世界に現前させて、登場人物達に都合の良いことを言わせるのは心地良い実験で、殆ど何の犠牲も伴いやしなくて、その試みの後では、自分はどこか誰も存在すら知らぬ境地に達したように思えることさえある。

 小説は生活ではない。小説は思考の実験に留まるものではない。どこで、一体どこで小説はのびのびと呼吸をするのか――?

 圭一は起き上がって、カーテンと窓を開け放った。少しムシムシとした十一時の空気の底を、トラックや乗用車が風を裂いて走り抜けていく。スライドさせて重ねた窓に手をついて、しばらく眺めていた。たぷん、と水の跳ね返る音が上の方に響いた。三階の部屋からは大きな街路樹の一番上のところがすぐ近くに観察出来る。さわさわと揺れる細い枝と乾燥した黄緑色の葉。夏が訪れようとしていたが、カーテンの内側では無関係なことだった。今ここに、一つの連結点が出現したのだ。大きな山々を動かす営力の、気付かれざる力。それが不意に髪を揺らして、冷気と混ざり合って去っていった。時は止まっていた。少なくとも、その日の終わりが訪れるまでは。膜が破れて、くらげが飛んでいった。圭一の気分が変われば、その内戻って来るのだろう。自由の獲得はいつだって後の束縛を暗示するものだし、沈みゆく悦びは常に硬い底の感触を予言するのだから。

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天池 @say_ware_michael

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