第5話:春の声

 ――ホォーオ、ホケキョ!


 力一杯溜めてから吐き出した風な鳴き声が葉桜になったばかりの公園の植樹から響き渡る。


 砂場で赤いシャベルを動かしていた翔の小さな頭が振り返った。


「ポッポォ?」


 大きく見開いた眼差しをこちらに向けて尋ねる。


「あれはウグイスだよ」


 ――ホーホロホロホロホケキョ!


 青緑の揺れる影からまた別な一羽の囀ずる声がした。


「鶯さん同士でお話してるのかなあ?」


「カナア!」


 私が小首を傾げると、翔も目を細めて真似る風に首を傾ける。


 あれからもう二年が過ぎて、この子ももう二歳と二ヶ月だ。


 私はふっと息を吐いてまた吸い込む。


 アスファルトの匂いに花と緑の甘い香りが色濃く混ざっている。まがうことなき春の空気だ。


 見上げれば、薄青の空に千切った綿じみた雲が通り過ぎていく。


 冬よりもどこか低く迫ってきたような晴れ空と雲だ。


 バサッ!


 切り裂くような音がして千切れ雲の前を黒い影が横切る。


 尖った嘴の形でカラスだと知れた。


「カーカー!」


 翔の小さな手が嬉しげに指差す。


「そうだよ、鴉だ」


 この子の言葉では鳩が“ポッポ”、鴉が“カーカー”なのだ。


 青いトレーナーの両手を上げて近付いてきた甥っ子を抱き上げた。


 まだ小さくても十四キロにまで増えた体はこの腕にはずしりと重い。


「バイバーイ!」


 既に碧空の黒い一点と化した鴉の影に翔は手を振った。


 私や紗羽の小さな頃に似た、柔らかな焦げ茶の髪からふわりとカモミールじみたボディソープの香りがする。


 紗羽の家のボディソープはローズの匂いで、うちのボディソープはカモミール。


 昨日の朝、この子は微熱を出した状態で紗羽に連れられてうちに来て、私が小児科に連れていった。


 午後になると熱は下がったが、紗羽も孝さんも残業があると言うのでそのまま私がお風呂に入れて寝かし付け、うちに泊まる格好になった。


 普段の平日は朝、紗羽がこの子を送りに来て、夕方、紗羽か孝さんが迎えに来るのだが、時々そんな風に続けて寝泊まりすることがある。


 母も平日の週三日はパートに出ているので、基本的に平日のこの子の世話は私の役目だ。


 何のことはない。再就職活動も上手く行かず、妹夫婦が保育園に落ちてしまったので、自ずとベビーシッターを引き受ける形になった。


 最善かどうかは分からないが、それが私たち一家にとって妥当な選択だった。


 うちの押し入れにはもうこの子のための子供用布団がある。この子は私の布団に入って来て寝入るけれど。


 洋服ダンスの一段はこの子の衣類専用だ。最初は妹夫婦が衣類を買ってきたが、今は私が月初めに貰ったお金で買い揃え、新たに買った服を着せて帰すようになった。


 オムツもフォローアップミルクの缶も常備してある。こちらはむしろ、妹夫婦の家より消費ペースが速いくらいのはずだ。


 この子には二つ、家がある。


「オーバ」


 青いトレーナーの両腕が首に抱き付いて来た。


 翔の言葉では紗羽が“ママ”、孝さんが“パパ”、母が“バーバ”、そして私が“オーバ”だ。


「オーバァ」


 カモミールの匂いごと小さな笑顔を抱き締め、ふっくりしたほっぺに自分の頬をくっつける。


 この子の半分は甥で、もう半分は私の子に思えるのだ。


「カーカー、行っちゃったね」


 目を凝らしてもあの黒い一羽はもう影も形も見えない。


「どこに飛んでったのかな」


 冬だけ日本に渡ってくる黒鳥よりはまだ近くにいるはずだけれど、羽のないこの体ではあの鴉一羽を追うことすら出来ないのだ。


 千切れ雲のゆっくり漂っていく水色の空は、手を伸ばせば掴めそうなほど低く迫って見えるのに決して届かない。


 ――ホォーウオ、ホケキョ!


 横からまた鶯の囀りが響く。これも声は確かに聞こえるのに、姿は見えない一羽だ。


「どうして皆、見えないとこに行っちゃうんだろう」


 黒い翼のあの人も、灰色の翼のあの子も。羽を持つ人たちが当たり前の世界も全部。


 ザワザワと木々の若葉が眩しく陽射しを照り返しつつ一斉に風に揺れた。


「もう会えないのかな」


 腕の中の子供を抱き直す。


 花と緑の甘い匂いがするのに吹き抜ける風はふと震えるほど冷たかった。


「ウーン」


 腕の中の子供が身動みじろぎする。どうやら降りて遊びたいらしい。


「じゃ、遊びなさい」


 私は翔を下ろした。


 二歳の子が大人の感傷に付き合って大人しくしてくれる訳がない。


 苦笑いするこちらをよそにふわりとカモミールの香りを残して青いトレーナーの小さな背中が駆けていく。


「遠く行っちゃ駄目だよ」


 声を掛けつつ早足で追う。


 駄目と言われても理解できずに続けるのが二歳だ。


 全速力で走る小さな紺色のスニーカーは後ろから見ると踵が随分擦れて黒ずんでいた。


 小さな子の靴に多少の汚れは付き物だが、あれはさすがにみっともないから、今日にでも洗わないといけない。


 でも、今からすぐ帰って洗っても夕方に紗羽か孝さんが迎えに来る時までには乾かない。


 すぐに大きくなるこの子の靴は基本的に一足だけだが、返りに予備の一足を新しく買ってあげようか。


 それとも、もう靴箱に買い置いたワンサイズ大きい靴に切り替えた方が良い時期か。


 唐突に、小さな紺色のスニーカーの足が止まった。


「コエー」


 小さな手でフェンスの方を指し示す。


「これ?」


 翔の言葉では「これ」が“コエー”、「あれ」が“アエー”だ。


「これはね、野芥子のげし


 公園のフェンスの手前に花を咲かせた雑草。


 蒲公英たんぽぽに似た鮮やかな黄色い花だが、頭でっかちな蒲公英に対して、こちらは花自体は小さく飽くまで繁った葉長い茎の先に顔を覗かせている。


 蒲公英が日本人体型、野芥子が異人種のモデル体型。


 そんな気がする。


「オッキィー」


 青いトレーナーの両腕を開いて二歳の甥は笑った。


「大きいね」


 フェンスの手前に生えたその一株は、翔はもちろん、日本人女性としては中背の私まで追い越している。


「隙間から陽が差し込んでくるのかな」


 ――いつも陽が当たる場所よりたまに強く陽が射し込む場所に生えた草の方が大きくなるんだ。


 あの人も言っていた。


 ――光を求めて伸びるから。


 白羽の父親と黒羽の母親の間に生まれたファビオは、黒羽の仲間や色羽の人たちはもちろん、白羽の男たちと比べてもなお背が高く肩が広かった。


 支配階級の白羽の男たちと比べて小さな頃から食べる物も何も格段に悪かったはずなのに。


 見上げる視野に小さなパラシュートじみた綿毛がふわふわと音もなく漂ってきた。


 昼近く高く上った陽を浴びて、小さな種を運ぶ綿の翼は光の粒そのもののようにキラキラと光る。


「アエー?」


 翔の声に振り向くと、まだ綿毛を半ば以上残した蒲公英を手にした、グレーのワンピース姿の女の子が立っていた。


 二歳二ヶ月の甥より頭半分ほど丈の高いその子の肌は薄褐色で黒人の血を示し、顔立ちは白人的に彫り深く、しかし、長い睫毛に縁取られた瞳はどこか東洋的な暗褐色だ。


 その目がふっと微笑んだ。


 この子は……。


「レナータ」


 低く澄んだ声で呼び掛けたのは私ではなくまた新たに現れた一人だ。


 “駄目よ、一人で勝手に歩いて行っちゃ”


 久し振りに耳にするイタリア語だ。


 すらりとした長身に孔雀じみた鮮やかなエメラルドグリーンのシフォンワンピースを纏った黒人女性は屈み込んで女の子に言い聞かせる。


 “迷子になったら困るでしょ?”


 そうだ、この子はこの女性の子だ。


 向き合う二人の中高で端正な横顔には、一見して血の繋がりが感じられた。


 ただ、肌の色は女性の方がファビオと同じミルクチョコレートじみた褐色で、女の子と並ぶともう一段階黒く見える。


「ワタゲー」


 いつの間にか女の子に近付いた翔が横からまるでバースデーケーキの蝋燭の火を吹き消すように残りの綿毛に息を吹き掛ける。


 そうすると、小さな種を載せた白い綿の羽がまた音もなく辺りに舞い飛ぶ。


「ウフフフフ」


 女の子は大きな瞳を人懐こく細めると同じように小さな薄褐色の頬を膨らませて最後に残った綿毛の一群に息を吹き掛けた。


 甘い花と緑の香りに乗って新しい命のパラシュートが私の目の前まで漂ってきて追い越していく。


 二つの並んだ幼い顔は造作としては人種的に異なる点が多いが、表情に色が付くと近しい面影があった。


「スナバァー」


 翔が小さな手で向こうの砂場を指差すと、青いトレーナーとグレーのワンピースの小さな背中は並んでそちらに駆けていく。


 “お嬢さん、良く似てらっしゃいますね、三歳くらいですか?”


 子供たち二人が新たに遊び始めた砂場に向かって歩きながら、私はうろ覚えのイタリア語を頭の中で拾い集めて女に訊ねる。


 “まだ二歳ですよ”


 相手は澄んだ琥珀色の、一見して白人の血筋と知れる彫り深い瞳を輝かせた。


 “あなた、イタリア語が話せるんですね!”


 瞳の色は少し違うけれど、しなやかに長い頸といい、ミルクチョコレートじみた滑らかな褐色の肌といい、澄んだ声の響きといい、笑顔から溢れる人懐こい明るさといい、この人はファビオにそっくりだ。


 彼が女に生まれ変わったら、こんな風かもしれない。


 “少しだけですけど”


 私は苦く笑って頷いた。


 “うちの子も二歳です”


 こちらは本当は伯母と甥の間柄だけれど、「甥」を意味するイタリア語は思い出せないからこの際、仕方がない。


 二人の子供はそれぞれシャベルを手にして砂を掘り起こしては交互に積み上げて一つの山を築いている。


 この砂場にはいつも誰のものでもないシャベルやバケツが置かれていて来た人が自由に使う。


 だが、初対面で言葉も通じ合わない子供二人がこんな風にいきなり共同作業を始めるのはやはり珍しい。


 “どうして日本にいらしたんですか?”


 東京やヴェネツィアのような有名都市ならばともかく、こんな田舎町に外国からの観光客は珍しい。


 “家族の仕事です”


 相手は笑顔で答えた。


 “今日はこの近くのキャンパスでシンポジウムがあるので”


 “そうですか”


 そういえば、すぐそこには地元の国立大学のキャンパスがあったと思い当たる。


 本部キャンパスではなく地学部か何かの独立キャンパスなので普段はさほど気に留めてもいなかった。


 “ところで、あなたのペンダント、素敵ですね”


 相手は琥珀じみた瞳を細めると、私の胸の石を示す。


 “オパールの中でも滅多にない石です”


 孔雀じみたエメラルド色のワンピースが微風に煽られてローズの香りが広がった。


 この人自身は何の仕事をしているのか知らないが、「モデル」とか「女優」とか言われても嘘とは思わない。


 隣に立つのに気後れを覚えるような、人としての種が根本的に異なる端正さがすらりとした長身の姿全体に漂っている。


 “うちに鉱物がたくさんあるので私も自然に詳しくなったんですよ”


 相手はどこか苦く微笑んだ。


 “そうですか”


 改めて触れた卵形の石は二年前と変わらずに滑らかに冷たい。


 高くなった陽の光を受け、今は私の元にあるオパールは虹色に眩く輝いた。


「パパ!」


 不意に砂場から嬉しげな声が上がる。


 グレーのワンピースの裾がひらひらと羽ばたくように翻りながら私の目の前を通り過ぎた。


「アハハ!」


 新しい友達の楽しげな様子につられたのか、青いトレーナーの翔も笑いながら後に続く。


 “お友達と遊んでたのかい?”


 仕立ての良い黒スーツの長い腕がグレーのワンピースを抱き上げた。


 二歳にしては大柄なレナータがたちまち小さな雛鳥に見える。


「オッキィー」


 新たに現れた異邦人の男を見上げ、二歳の甥は野芥子を目にした時と同じ歓声を上げた。


 “もうお昼休み?”


 エメラルド色の服の女が問い掛ける。


 “ああ”


 スーツの長身に比して小さな褐色の面が穏やかに微笑む。


 と、その彫り深い瞳が大きく見開かれた。


 昼の陽射しに透けたその瞳は鮮やかな榛色を示す。


 “美羽(ミワ)!”


(了)

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翼なき魔女 吾妻栄子 @gaoqiao412

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