つぶれた林檎

YamaseYUkI

第1話 つぶれた林檎

 10歳、春。 

 蜘蛛は摘ままれた。己の体を持ち上げるには十分すぎる力で。

 少年は蟲を摘まんだ。己の指先で発揮し得る、最大の力で。

 

 私の指先には黄褐色の液汁がジワリと広がった。私はそれを不快に思い、近くのコンクリートタイルで拭った。蟲は、薄く伸びた。蜘蛛は千切れた体を必死に動かした。その様子がやけに癪に障り、静かに石を打ち付けた。三度。蟲は今度こそ動かなかった。

 私は誰かに見つかった。何をやっているのだ、と問われた。素直に、何もやっていないと答えた。私は怒鳴られた。ごまかすな、と言われた。狂った雌鶏のような声を発する生物に、理不尽だと思った。


 ヒステリックな鳴き声に、無機質な童謡が重なった。駆けずり回っていた生物の幼体たちは、行動をやめ一斉に昇降口へと向かった。汗をまき散らしながら同じ場所に集まる姿を、私は滑稽だと思った。それで、ニヤリと笑ったら、雌鶏はさらに狂った。

 続いて、鍵盤打楽器が一定のメロディーを奏でた。定格でやわらかな金属音に私は少し安心した。私は、元居た教室へ戻ろうと立ち上がった。いつもその雌鶏に言われているように。だがこの時の雌鶏は私の肩をつかみ、戻るなと言い放った。いつもと違う命令に私はひどく混乱した。どうやら今日も私は「悪いこと」をしてしまったらしい。鶏たちのヒステリックと矛盾はそれを示す裏付けだ。

 私は「ごめんなさい」と言った。「悪いこと」をしてしまったらそう言いなさいといつも言われてきた。そうしたら、雌鶏になにが「ごめんなさい」なんだと問われた。意味が分からなかった。「悪いこと」をしたとき発する言葉、いうなれば条件反射、呼応、キーワード。それ以上でも以下でもないだろう。私はその問いに答えられなかった。しばらくの無言に雌鶏は、やっぱり反省していないじゃないかと言った。どうやら「ごめんなさい」を言うためには「反省」が必要らしい。でも一体、「反省」とは何なのだろう。

 そして雌鶏は、私に何が「悪いこと」かわかるかと尋ねた。そんなもの当然わからるわけがない。しかし私にも十年かそこらの経験がある。こういう場合、自らの直近の行動を答えておけば不快な鶏は静かになる。私は蟲を潰したことだと答えた。雌鶏は満足そうな表情をして語り始めた。自分がされて嫌なことは、ほかの生き物に対してやってはいけない、命は粗末にしてはならない、だから私は蟲に「ごめんなさい」をするべきである。そういうものらしい。つまり「反省」とは、自分のした「悪いこと」を思い返し後悔する行為のことなのだろうか。私はもう一度「ごめんなさい」と言った。雌鶏はスッと頷いた。そうして不快な鳴き声から解放された私は教室へと戻った。遅れて現れる特異な存在に向けられる、幼体たちの奇異な視線が気持ち悪かった。教室では幼体の一人が、教壇の雄鶏に褒め称えられていた。最後、自分がされてうれしいことはほかの生き物にもしてあげましょうと締めくくられた。


 10歳、夏。

 

 私はタッパーを手に持っていた。中身は母が入れた林檎だ。私は中から一切れ、林檎を取り出した。それはうさぎが模されていた。

 そして私はそれを、雌鶏の机の上にそっと置いた。どうやら自分がされてうれしいことをほかの生き物にやってあげると、褒め称えられるらしいから。私はサプライズプレゼントをほめらえるか、ソワソワしながら雄鶏を待った。


 私は待ちくたびれて机を叩いた。呼び出されたかのように雄鶏がやってきた。そして机の上を見るや否や、誰だこれをやったやつと叫んだ。私はウキウキしながら自分だと答えた。私は、廊下へと引きずられた。今日は褒めてもらえる、とうれしくなった。しかしその雄鶏は私の頬を平手でぶった。私は時が止まったかのように感じた。理解ができなかった。世界がぐにゃりと曲がり、溶けていくようだった。

 こういう、嫌がらせは二度とするなと雄鶏は言った。不快な鳴き声だった。だから私は固まった体の部品を動かして「ごめんなさい」と呟いた。雄鶏は、私の手にうさぎ握らせ、教室へと帰っていった。全身への力の入れ方が分からなくなった私の手から、支えを失ったうさぎは廊下へと落ちた。走り回る幼体に、私の林檎は踏みつぶされた。まるで私をあざ笑うかのようだった。




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