第31話 仙台と磁石

 次の日の朝、サナエは朝早くに部屋を出た。

 行き先は仙台。母が学生時代を過ごし、父や堀越、河野と出会った場所だ。河野に促されて出発したものの、果たして仙台に何があるのか、サナエには想像がつかなかった。母の足跡を辿った先に待っているもの、それがなんなのか、河野は口に出さなかった。ただ、「九時に仙台駅のステンドグラスの下で待ってて。迎えが来るから」としか言わなかった。


 昨日の夜はいつもより遅く、家に帰ったのは深夜の一時を回っていた。コウタはまだ帰っていなかった。しばらく待っていたが、結局朝になってもコウタは戻ってこなかった。電話をしても繋がらなかった。昨日ろくに話をしなかったから、アルバイトがあるのかどうかもサナエは知らなかった。いったいどこで何をしているのだろう。

 まさか、と考えて、やめた。今のサナエに、コウタの行動をとやかく言う資格はないように思えた。仕方なく、サナエはメールをして仙台に行く旨を伝えた。


 上野から新幹線に乗り込んだ。仙台は、これまで何度か行ったことがあった。植物生理学や分子生物学の学会が堀越の母校である仙台の大学で開催されたことがあり、サナエも参加したのだ。まだ学部四年生の夏だったので発表することはなかったが、堀越から他大学の先生を紹介してもらったりして、それなりに楽しかったのを覚えている。学会以外で、まさかもう一度仙台に行くことになるなんて。

 研究室は大丈夫だろうか。カズヤはカオルにコーヒーを奢ってもらったのだろうか。シロツメクサの芽は順調に育っているだろうか。

 研究室に行かないだなんて、数ヶ月振りではないだろうか。最近は週末も研究室で作業をしていたから、サナエは違和感を感じた。


 窓の外をぼんやりと眺めていた。ビルの間をするすると走っていた車両は、いつの間にか田園地帯に差し掛かっていた。遠くの峰々は雪化粧をしていた。真っ青の空と真っ白の雪、空気が澄んでいて、色の違いが鮮明に見えた。なんとなく、懐かしい景色に感じた。母と過ごした故郷の空と似ていた。

 新幹線がスピードを落とし、車内アナウンスが仙台駅への到着を告げた。窓の外は良く晴れていた。上野を出てから約一時間半。仙台は近くて遠い。学生時代の母が過ごした街。そして父と母が出会った場所だ。


 ホームに降りると、冷たい風が吹き付けた。三月の下旬に差しかかっているのに、風はまだ冬のそれだった。春の訪れは東京よりも遅いのだろう。サナエは改札を出て、二階コンコースから一階へと降りた。

 仙台駅のシンボルの一つが大きなステンドグラスだ。壁が手前に突き出ていて、そこに天井近くまで縦に長くガラスがはめ込まれている。右上から左下に向かって光りの帯が描かれている。待ち合わせ場所になっているようで、平日の朝にも関わらず多くの人が柔らかい光を背に立っていた。

 仙台駅に来た時はいつもすぐにバスターミナルに行っていたため、間近でそれを見るのは初めてだった。赤や青で彩られたステンドグラスを見上げていると、右側から声をかけられた。


「飯塚サナエさん、ですか?」

 声の方を見ると、色白の女性が立っていた。茶色に染めた髪を後ろで束ねていた。

「はい、そうですけど。もしかして、マリコさんの」

「はい。私、木村ミサキって言います。コーヒー同好会のOGで、今は材料工学を研究してます」木村は軽く頭を下げた。「マリコさんにはいつもお世話になってて。今日は、飯塚さんを大学に案内するようにって言われたんです」


「そうだったんですね。でも、どうして私って?」

「実は私、何度かマリコさんのお店に行ったことがあるんです。飯塚さんのこともその時に」

「そうだったんですね。すいません、今日は。私がわがままを言ったから」

「いいんです。マリコさんの頼みなら、私たち何だってしますから」木村はそう言うと笑った。

 二人でバスを待っている間、木村はマリコと出会うきっかけについて話してくれた。あの震災で、彼女たちのサークルも一時活動を自粛していたという。コーヒーは嗜好品だ。非常時に、暢気にコーヒーを飲んでいるわけにもいかないと考えたらしい。それでも、仙台や被災地で何か自分たちにできることはないかと、相談を持ちかけた相手がマリコだった。例のイベント告知のためにダイスケが開いていたホームページに、当時の幹事長がメッセージを出したのだ。マリコからはすぐに返事が来て、それ以来、彼女たちのサークルとマリコとの交流は続いていた。


「まさかマリコさんがサークルOGだったとは驚きでした」木村がそれを知ったのは、何度か目に河野がサークルを訪れた時だったという。「マリコさんにはコーヒー豆の選び方とかブレンドの仕方とか、本当に色々教えてもらいました。うちのサークルって、もう四十年以上前から続いているサークルなんですけど、私が入った時はただカフェでお喋りするだけの、どうしようもない感じになってて」

 木村は照れ隠しに小さく笑った。長い歴史の中では大抵何度も盛衰を繰り返すものだろうが、河野は学生時代に一度、そしてあの震災の年にもう一度、サークルを盛り上げる力になっていたのだ。


「今思えば、震災が私たちを変えてくれました。社会とのつながりとか、そんなこと何も考えていなかったんですけど、あの震災があって、カフェでただ喋ってたんじゃ何もしてないのと同じで、それじゃ駄目だって思ったんです」

「それで、マリコさんに」

「ええ、コーヒーの基本を教えてもらって、石巻とか気仙沼とか、津波の被害に見舞われた場所でコーヒーを配って回りました。最初は訝しがっていた被災者の方も、コーヒーを飲んでくれてからは、色々と話をしてくれるようになって。コーヒーを配るだけじゃなくて、色々なボランティアにも参加して」


 最近では、被災者と学生との交流が話題になって、地元の新聞などでも紹介されているそうだ。そういえば、そんなニュースを見たような気がする。

「もうサークルは引退したんですけど、未だに移動喫茶にはちょくちょく顔を出して、嫌な先輩ってやつですよ」

「そんなことないですって。それはきっと、コーヒーの力なんだと思うんです」

「ああ、それ、マリコさんがよく言ってました。そうですね、私もすっかりその虜になってるって感じです」

「マリコさん、本当にすごいな」母の手紙に書いてあることを、マリコは本当に実現させたのだ。学生にコーヒーを好きになってもらいたいという母の言葉を。

「ええ。本当に」木村が言った。


 バスがターミナルに入ってきた。大きな体を揺らし、サナエの目の前で停車した。

 二人の乗り込んだバスは青葉通を通り、いくつかの停留所を経由して大学に向かった。

「部室は大学本部のあるキャンパスにあるんです。実は、部室に行くのは私も久しぶりなんです。工学系研究科は山の上にあるキャンパスで、最近は研究も忙しくて」

「私もです。そうか、もしかして、今修士一年ですか?」サナエの言葉に木村が頷く。「じゃあ、私たち同い年ですね」


「そうなんですね。大学院では何を?」

「私は、植物生理学の研究をしてます」

「植物ですか。難しそうですね」

「材料工学の方が大変そうですよ。わたし、物理はあんまり得意じゃなくて」こうして全く違うことを勉強している人と話すのは新鮮だった。材料工学と一言で言っても、この世の中に材料などいくらでもある。木村の所属する研究室では、主に合金の属性を研究しているらしい。金属同士を混ぜると元々の金属とは全く性質の異なる金属ができる。金属の比率を少し変えるだけで、性質ががらっと変わることもある。それが魅力であり、そして難点でもあるという。


「今は、磁石のこと研究してるんです。分からないことが多くて、研究のしがいがあるけど、なかなか難しいです」

「磁石ですか。身近な物なのに、分かってないことがあるんですね」

「ええ、身近な物にこそ、分からないことが多いって、うちの先生はよく言ってます。身近で昔からそばにあるから、当たり前過ぎて見過ごされてきたことがいっぱいあるんだと思うんです」

 身近なもの、確かに、それはそうかも知れない。身近にいるからこそ分からなくなることがある。一番側にいる恋人が、サナエにとってはまさにそれだった。昨日から連絡を取ることもできない。いったい、コウタは今頃何をしているのだろうか。


「まあ、今日くらい研究のことは忘れましょう」サナエの表情を見て、木村は磁石に興味がないと思ったのだろう。話を切り上げた。「あ、そろそろですよ」

 木村は停車ボタンを押した。バスが速度を落とし、キャンパスそばの停留所で停車した。

 降りる乗客は疎らだった。サナエは料金を支払い、バスを降りた。

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