第30話 手紙と天国

 母の死を知った河野が独立を決意したのは、もちろん彼女自身の夢の実現のためだが、皆と交わした約束を果たすためだった。亡くなった母のことを忘れないために、母との約束を必死になって果たそうとしたに違いない。

 河野が控え室から出てきた。手に封筒のような物を持っていた。

「三十年前、私が四人の誰かが亡くなったら手紙を書こうって提案したのは、堀越君から聞いたわよね。その話には続きがあるのよ。あなたのお母さんが亡くなって、あなたのお父さんが遺品を整理していたら、戸棚からこれが出てきたの」

 河野が取り出したのは、手紙だった。サナエは河野からそれを受け取った。表には河野の名前が、裏には母の名前が書かれていた。


「あなたのお母さん、手紙を先に書いていたのね。あなたのお父さんが東京まで持ってきてくれたわ」河野は目にうっすらと涙を浮かべていた。「あなたのお母さんは、本当に皆のこと考えてたんだって、よく分かったわ。私がこのお店を開いたのも、大学でコーヒーのことを教えているのも、あなたのお母さんが私の背中を押してくれたから。今でもそれは時々読み返すんだけど、そのたびに力を貰っている。あなたのお母さんは私の中で生きているって、実感するの」

「読んでもいいですか?」


 母から河野への手紙、それは生前の母が残した遺産だった。そんな物が存在していることはもちろん知らなかった。

「ええ、どうぞ」マリコはゆっくりと頷いた。サナエは封筒を開け、手紙に目を通した。母の字を見ただけで、サナエは泣きそうになった。全体的に丸みを帯びた、それはまぎれもなく母の文字だった。




 河野マリコ様

 生前は、大変お世話になりました。あなたが亡くなった時のことを想像してこれを書いています。これを書こうと思ったのは、もちろんあの日、死者のことを忘れないために手紙を書こうと話したからです。

 大学を卒業して以来、年賀状のやりとりくらいしかしていなかったけれど、マリコと出会えて、私は幸せでした。

 マリコは、カフェを開く夢を叶えることができましたか。あなたにこれを渡す時、それはあなたが亡くなった時なんだけど、その時にはきっと素敵なカフェができているのだと思います。あなたがまだ生きているのに、こんなことを書いているのはおかしな気がしますが、本当にその時が来たら、やっぱり私には書けそうにありません。だから、こうして書いています。


 マリコの大切な物は何かと考えた時に、恥ずかしいけれど、やっぱりコーヒーしか思いつきませんでした。マリコは私と違ってサークル活動にも熱心だったし、ただお喋りするだけじゃなくて、コーヒーのことをちゃんと勉強して、サークルを盛り上げていたと思います。これを書いている時点で卒業から二十年が経っていますが、今でもどうやらあのコーヒー同好会は存在しているようですから、それはマリコのおかげかもしれません。


 マリコがもし亡くなったら、私が代わりにコーヒーの魅力を伝える手助けをしたいと思っています。あなたのようにお店を出すのは難しいかもしれません。なので、大学のサークルに入ってくれた学生さんが、コーヒーを大好きになってもらえるように、マリコから教わったことを色々と伝えたいと思っています。そうして学生さんと一緒に様々な活動ができれば、きっとマリコのことをずっと覚えていられる気がしています。

 だから、天国に行っても心配しないでください。きっと私が、世界で一番美味しいマリコのコーヒーを皆に紹介します。世界中の人が、マリコの淹れたコーヒーを好きになりますように。

カナ




 手紙の最後は、まるで祈りの言葉のようだった。河野のコーヒーを世界へ。それが母の願いだったのだ。父と母がコーヒーを好きだったのは、もちろんサークル活動の影響だっただろうが、母はもしかしたら、サナエをコーヒー好きにしたかったのかもしれない。河野のコーヒーには敵わなくても、娘と二人でコーヒーを淹れて一緒に飲むという経験を通じて、それを実践していたのだろう。母と二人でコーヒーを淹れている時、きっと母は河野のことを考えていたに違いない。その時に感じていた時間がゆっくり過ぎる感覚も、河野の言うコーヒーの力を母が知らず知らずのうちに身に付けていたからなのかもしれない。サナエの知らない母の想いが、手紙の中から溢れていた。

 今、河野がやっている大学での講演や移動喫茶店などの活動は、間違いなくこの手紙の中で母がやろうとしていたことだ。三十年以上の時を経てもなお、四人のつながりは深く、強く続いている。途切れることのない、色褪せることのない絆。


「あなたのお母さんはコーヒーが大好きだったから、きっとそんな風に考えたのね。その手紙を読んだ時は、お店を出すだけでも大変なのにそれ以上のことなんてできるのか、不安で仕方がなかった。でもね、お母さんが私のことを考えてくれたことが嬉しかったから、なんとかそれに応えたかったの。最初はさすがにお店の方に集中したけど、ダイスケ君が来てくれて、三年くらい前からようやく学生さん相手の活動もできるようになったわ。お母さんのその手紙がなかったら、私は結局お店を開くこともできなかったかもしれないし、あなたにこうして出会うこともできなかったかもしれない」


 河野は、母の願いを叶えようと必死に生きてきたのだ。すべては母の願いを叶えるため、そして母のことをずっと覚えているため、そのために、ずっとずっと努力を続けてきたのだ。母の死は、もちろん悲しい。でも、母は死んでもなお、皆の人生に影響を与え続けていた。皆、母のことを忘れないように生きてきた。サナエだけが、母のことを忘れようとしていた。それに気づいた。

「サナエちゃんだって、お母さんのことを忘れたわけじゃないでしょ? きっと大丈夫。あなたのお母さんは今でも、あなたのことが大好きだし、あなたの話ならちゃんと聞いてくれるわ」


「私、お母さんのことを忘れようとしてて、でもそれじゃ駄目だったんです。ちゃんと私も、お母さんと向き合わなきゃいけなかったんです」

「今なら、まだ間に合うわ。仙台の学生には私が話をしておくから、行ってらっしゃい。きっと、学生時代のお母さんに会えるから」

 サナエが頷くたび、前髪がはらはらと揺れた。

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