第7話 カオルと休憩

 カオルは相変わらず顕微鏡を覗き込んでいた。カズヤの姿が見えなかったが、おそらく実験室にいるのだろう。実験至上主義の堀越に従い、学生は皆実験にかける時間が多かった。細胞内の化学反応は温度、pHなどのわずかな違いで結果が大きく変わる。一つの反応系と思われていたものが、実は複数の酵素が複雑に関連し、一連の反応を引き起こしている場合も少なくない。実験をすればするほど、反応の複雑さが明らかとなり、すべての反応を紐解くのに多くの時間を要するのだ。


 サナエは自分の作業に取りかかった。先ほど堀越に指摘された事柄を順番にパソコンに打ち込んでいく。研究をしていて大切だと感じるのは、自分の作業がパズルのどの部分なのかを認識することだ。テーマの決定から研究成果の発表に至る一連の作業を一つのパズルだと想像する。昨日までの実験がパズルのどのピースなのかを考え、一つずつ空白を埋めていく。修士の一年が終わろうとしていたが、核心部分はまだどのような形のピースが入るのかも分からない状況だった。それでも必要なピースの数がおおよそ把握できてきたような気がしていた。


 研究を始めた当初は、実験の意味も分からない状態で、先輩たちの指導を成すがまま受け入れていた状態だった。卒業研究はそれでどうにか形になったが、完成したパズルが何を現しているのかが結局分からなかった。自分が作ろうとしていたのはこのパズルではなかったのではないか。サナエはパズルのルールさえ分かっていなかった自分が恥ずかしかった。

 卒業論文の発表が終わったあと、サナエは一人研究室に戻り、この一年間で取り組んだ実験の目的や結果を最初から振り返っていった。卒業論文に取り入れなかった実験がたくさんあった。もちろんそれらの一部は、生理学の基礎的な実験だったり実験方法を勉強するためのものだったり、始めから卒業研究とは関係ないものもあった。けれども、せっかく実験をしたのにもかかわらず、結果が仮定と異なっているというだけで振り返ることもしていなかったことに気づいた。結局のところ、全体像を見ることなく実験をして、個々の実験の成否のみにとらわれて、失敗した実験から何も得ようとしていなかったのだ。


 サナエはその時から、自分の頭の中にパズルをイメージするようになった。たとえ実験に失敗しても、失敗の原因を考えて、次の実験に生かすようにした。ピースはそのたびに形を変えるけれど、間違いなくパズルの一部になっていった。春休みのうちに卒業研究の振り返りをして、結局結論さえ変わってしまったけれど、それが今のサナエの研究の礎になっていた。

 朝カフェで淹れてもらったタンブラーのコーヒーを一口飲んだ。コーヒーはすっかり冷めてしまって、あまり美味しいものではなかった。カフェオレが飲みたくなってきた。


「サナエ、休憩しよ、休憩」その声に振り向くと、カオルが顕微鏡から顔を上げ、ゆっくりと伸びをしていた。カオルの口から子犬のような、くうっと声が漏れた。サナエは渡りに船と快諾した。

 カオルと二人で八号館を出て、キャンパスを北に向かって歩く。八号館の斜向かいには、昭和初期に建てられたという三号館がある。壁一面にツタが絡み付き、同じキャンパスに存在するとは思えない佇まいである。四階建ての見るからに頑丈そうな建物だが、夜遅くに帰る時などは暗闇に紛れていて、まるでヌリカベのようで薄気味悪い。




「関東大震災のあとすぐに建てられたので、柱がすごく頑丈にできているんだ」

 それはサナエが二年生の時に履修した生態学の授業であった。その日の雑談は関東の地形と地震が主なテーマで、堀越は雑談にも関わらず、プレゼンテーションソフトでスライドを準備していた。台地と低地の境目だとか海岸線から見た下町低地の変遷など、正直サナエは全く興味を感じなかった。関東大震災の被災写真や地震によって隆起した岩の塊の写真も見せられた。その時、急に三号館の話になったのだ。九十年くらい前の震災の話はあまり実感のあるものではなかったが、授業を受けている建物がまさにその三号館だったため、途端に身近な話になったと思った。

「まだ建築基準があいまいな時期だったということもあって、これでもかと柱を太くしているから、関東大震災クラスの地震が来ても大丈夫なんだ」堀越が教室の柱を指さして言った。教室の学生たちは関心のなさそうな顔をして、それでも皆一様に堀越の指の先を眺めた。コンクリートむき出しのいかにも強靭な柱だが、表面にひびが入っていて、あまり説得力を感じなかった。大丈夫と言われるたびに不安になる下手な投資話を想像した。

「さあ、授業に戻りますよ」マイクを握りなおし、堀越は授業に戻った。「さて、どこまで話しましたか」堀越だけでなく学生も皆、どこまで授業が進んでいたのか、分からなくなる。生態学で学ぶことは少なくとも東京の地形のことでないのは確かだ。

 しかし、先の震災の時、確かに三号館は無事だった。柱の表面のひびが広がったくらいだったし、むしろ築四十年くらいの建物の被害の方が大きかったくらいだった。


 朝の霞が幾分とれたのか、頭上には青い空が広がり、日の光が背中をぽかぽかと温めている。風が柔らかくキャンパスを吹き抜けていく。三号館の壁に張り付いているツタがさわさわと葉を揺らしている。

「風、少し暖かくなったね」カオルが呟く。日の光だけでなく、地面と大気が一体となって、ゆっくりと春に向かっているようだ。朝に感じることのできなかった春の足音を、サナエははっきりと感じていた。

「カオル、もしかして徹夜?」いつもはコンタクトのカオルが今日はメガネをかけていた。寝不足でできた目の下のクマを隠そうとしていることで、クマがあることがばれるというのは効果があるのかどうか、サナエにはよく分からない。

「ううん、昨日は三時まで実験して先生の部屋のソファーで寝てた。今朝、あろうことか先生に起こされちゃって。あれはなかなか気まずかった」カオルの間の悪さは想像を超えるとサナエはいつも思う。

「相変わらず間が悪い」


「まあね。でもあのソファー、なかなか寝心地がいいんだよね」カオルは何故か得意げだった。学生が仮眠できる場所は、大学には基本的にない。学生が徹夜で活動すること自体大学は認めていない。とはいえ、研究活動では昼夜を問わず実験や作業をする必要があるわけで、折衷案として、夜中の三時までは実験室と研究室の使用が認められている。三時まで大学にいては帰ることができないので、結果的にどこかで休むことになる。

「男はそういう意味じゃ楽だよね。皆実験室で寝袋にくるまって寝てるわけでしょ?」カオルは唇を尖らせた。サナエも何度か徹夜の作業をしたことがあったが、その時に覗いた深夜の実験室はさながら修学旅行の旅館のようだった。寝袋で寝ている人もいれば、椅子をいくつか並べてそこに体を預ける人もいた。サナエやカオルはさすがに男子学生と一緒に寝袋でというわけにもいかず、堀越の部屋で眠ることが多い。

「しょうがないって」手のひらをひらひらとさせ、カオルの愚痴を受け流す。「そういえば、和田君は誘わなくて良かったの?」


 コーヒーを奢れと言って研究室を出ていったカズヤの後ろ姿を思い出した。頭をぽりぽりと掻きながらエレベーターに向かう姿が、飼い主の命令に従順な柴犬のように見えた。

「いいのよ、いつものことだもん。もう何杯奢ればいいのか分かんないくらいだし」指折り数えて、薬指を折り曲げたところでカオルは数えるのをやめた。一、二、三、たくさん! と、まるで数のうまく数えられない幼稚園児のようなリアクションが可愛いらしいと思った。カオルとカズヤは研究室に入る前から仲が良かった。二人とも同じ仲良しグループに属していたが、結局そのグループの中で大学院に進学したのはカオルとカズヤだけだ。

 サナエとカオルは並んで歩きながら北門を出て、すぐに右に曲がった。その先に、二人が休憩と称して足しげく通っている「セブンス・カフェ」はあった。

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