第6話 父とカタシ

「お父さん、駄目? そりゃあ就職のことを考えたら、もう少し食品とか医療とかそういう分野の方がいいんだろうけど」

 研究室選択と就職活動をセットで考えている学生はやはり多い。生物学科の中でも、産業と結びつきの強い研究をしている研究室もあれば、純粋に学問を追求している研究室もある。前者の方が就職活動に有利ということで学生には人気が高い。大学院に進学するにしても、それは学問を追求するためではなく、社会に出るにあたりより高いステージからスタートするためのステップアップと取られることが多いようだ。


「いや、父さんはそこを気にしているわけじゃないんだ。仕事なんて、何を研究していても、基本がしっかりしていれば、つまり考えるプロセスが身に付いていれば、だいたいのことはできるだろう」

「じゃあ、何が心配なの?」

「いや、心配ということではないんだ。植物生理学教室の教授は堀越だろう」

「うん。堀越先生。授業中にね、もちろん普通に講義するんだけど、合間で必ず哲学とか歴史とか社会学の話をするの。雑談の方が難しいって、昔から有名みたい」


 堀越は学生から「カタシ」と呼ばれている。名前の「タカシ」と「〜がたし」をかけただけだが、生物学科では先輩から後輩へ脈々と受け継がれている。堀越の話はアリストテレスから現代の思想家、江戸時代の風俗に至るまで、話に果てがなかった。学部一年から三年間何かしら堀越の授業を受けていたサナエでさえ、同じ話を二度聞いた記憶がないほどだ。

「『カタシ』か、あいつらしいな」あだ名の由来を聞いて父は呟いた。「実は堀越とは学生時代からの友人なんだ」

「知り合いなの、先生と? でも学部違うじゃん。サークルとか?」

 父は仙台にある大学の医学部出身だと聞いていたが、堀越も同じ大学だとは知らなかった。父の学生時代の話などあまり聞いたことがなかった。母と知り合ったのも大学生の時らしいが、母が亡くなってからはお互いに母の話は避けていたし、父がどのような青春時代を過ごしていたのか、娘が聞くのも憚られる気がしていた。


「ああ、サークルでな。あいつは理学部なのに昔から難しい本ばかり読んでいたよ。小説家にでもなるつもりなのかと尋ねたことがあるくらいだ」

「小説家か。確かに、植物の成長を観察するよりは人間の機微を考察する方があってるかも」

「ああ。それで口を開けば渋谷の東急百貨店に地下がないのはどうしてだか知ってるか? という具合だ。そんなもの、知っているはずがないし、知っていても意味がない」

「渋谷の東急? 地下がないって、それどういうこと?」サナエは思わず聞いた。その話は聞いたことがなかった。まだ話していないことがあったのかと、サナエは感心すると同時に呆れた。


「なんでも、地下に川が流れているらしい。暗渠というのか、その上に建っているから地階を作れなかった、と確かそういう話だったはずだよ。覚えているものだな、こんなどうでもいいこと」父も自分に呆れている様子だった。

「あれが今や大学教授だからな、人生ってやつは分からんよ」父はグラスに半分くらい残っていたお湯割りを一気に飲み干した。いつもよりペースが早い気がした。

「まあ、真面目で研究熱心なやつだから、きっと勉強になるだろう。サナエも知っているかも知れないが、光合成の研究をとってもあそこが世界の最先端だからな」


「お父さんよく知ってるね。うん、今のところテーマが何になるかは分かんないんだけど、他にも色々やっているみたいだし」

「ああ、頑張りなさい。『カタシ』にはそれとなく言っておくよ」

 父も「カタシ」が気に入ったようだった。自分のグラスに焼酎を注ぐ。ほとんど減っていないサナエのグラスをちらっと見て、そして笑った。



  **



「そうか。最近あまり連絡を取っていなかったが、元気そうでよかった」堀越は頬を緩めた。

 父は堀越に、娘が堀越のいる大学に入学したことは伝えていたが、学部までは教えていなかったらしい。堀越も父から聞いて初めて知人の娘を教えていたことを知ったようだった。

「この間電話したら、そろそろ外科部長になりそうだって嬉しそうに話してました」

「ドキュメンタリー番組で執刀の様子を見たが、今や日本でも指折りの脳外科医だそうだし、人生は分からないものだな」


 父と同じ言葉を呟く指導教官に思わず苦笑した。「父も同じこと言ってましたよ」

「人生は分からないと? そうか、でも、本当にその通りだ」

 気の合う二人にしか分からない、通じる部分があるのだろうか。男同士の結びつきの強さは女のサナエにはよく分からなかった。最近まで知らなかったが、年に何回かは今でも二人で食事をしているらしい。

「私自身、サークル活動に打ち込んでいた時は、大学に残って研究を続けることになるとは思っていなかったからな。まさに、事実は小説より奇なり、だ」

「そうみたいですね。それもやっぱりニーチェですか? よく聞きますけど」

「いや、これはバイロンというイギリスの詩人の言葉だよ」


 世の中は名言だらけなのだろうか。サナエがそんなことを考えているうちに、堀越は最後の一口を飲み終えた。

「さて、飯塚さんは今の調子で頑張れば大丈夫だろう。六月の学会発表までにもう少し考察を深めておきなさい」

「はい。ありがとうございます」

 堀越は軽く頷き、自分の席に戻った。


 研究室に戻ると、四年生の中島が白衣を羽織っているところに遭遇した。中島の席は研究室の扉からすぐ手前の左手側で、つまり堀越の執務室と、この学生部屋を結ぶ扉の正面にあった。

「あ、飯塚さん。おはようございます」

 中島は濃い色のジーパンに茶色のラインが入ったスニーカータイプの革靴を履いていた。

「ああ、中島君。おはよ。春休みなのに大変だね」後輩を労う。四年生にとって最後の春休み、にも関わらず研究室に来るのだから殊勝なことである。人当たりも良く、サナエは心強い後輩ができたものだと思っていた。


「それは飯塚さんも一緒じゃないですか」

「確かに」その通りだったが、修士課程ともなると夏休みや春休みの感覚はなく、キャンパスが静かでむしろありがたい。四月から修士課程になる中島にしても、既にそういう感覚なのだろうか。

「これから実験?」

「はい。青木さんが来る前に準備して、京都から届いたサンプルの整理をしようかなと」

「そっか、いよいよ青木さんとの共同研究か」植物生理学教室の助手である青木は複数の大学と共同で研究を行っている。光合成の仕組みを解明し、人工光合成を実現するというその試みは、堀越自身の発案によるものだが、実務は青木にその一切が任されていた。その助手の右腕として中島に白羽の矢が立ったわけである。


「ようやく卒業研究も終わりましたからね、これでこっちに集中できます」中島は嬉々としてやる気に満ち溢れているように見えた。光合成の仕組みのうち水の分解反応に関わる酵素の解析が中島に課せられた課題であったが、それが光合成の謎を解明する大きな一歩になると目されていた。

 中島が実験室に向かうと、研究室はまた静かになった。

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