第2話 病院の闇

第二章 病院の闇

「所長、ちょっと相談があるんですけどいいですか?」

 珍しく観音寺育美から恋のところに内線電話で連絡があった。

「珍しいわね、育美ちゃんのほうから相談なんて。彼氏のこと?」

「何で彼氏のことを所長に相談しなくちゃならないんですか」

「少なくとも育美ちゃんよりは私のほうが恋愛経験豊富だからよ」

「なんでそう決めつけるんですか。所長、私の恋愛経験なんて知らないくせに。こう見えて、私恋愛経験すんごいんですから」

「はいはい、そういうことにしといてあげる。ところで、どんな相談?」

「実は私のことじゃなくて、山崎君からの相談なんですけど、ちょっと込み入ってるのでそちらへ伺ってよろしいでしょうか」

「いいわよ」

 しばらくして、育美が山崎を伴って所長室へやってきた。山崎克典は最近入社して、育美の部下として働いている男だ。克典という男の入社を聞いてはいたが、恋が本人と会話をするのは初めてだった。もちろん、山崎にとっても恋と話すのは初めて。そのせいか、山崎はカチコチになっている。

「山崎君っていくつ?」

 引き締まった鋭角的な顔立ちで、まあまあのイケメンの山岸について、恋は個人情報を入手しようと試みる。

「25です」

 顔がカタイ。

「私たちより一つ下ね」

「私たちというと?」

「マア、知らないの。私とあなたの隣にいる小生意気な育美ちゃんとは同い年だから」

「小生意気? 育美ちゃん?」

 育美について初めて聞くワードに驚く様子の山崎。

「もう、所長ったら。部下の前でそんなこと言わないでください」

「あらやだ、照れちゃってるの?」

「照れてるわけじゃないことくらいわかるでしょ、もう」

 怒りを露わにする育美を見て、山崎はどうしたらいいかわからないようだ。

「ところで、相談ってどんなこと?」

「それは直接山崎からお聞きください」

「わかったわ。じゃあ、山崎君、話してくれる」

「はい。実は、私の親戚の者が医療法人大野総合病院という大きな病院に勤務しているんですけど、その病院では数年前からおかしな出来事が続いているらしいんです」

「おかしなって、たとえばどんなこと?」

「たとえば、薬がなくなるとか、幽霊が出るとか、看護師がバタバタ辞めるとか、です」

「幽霊が出る?」

「はい。たぶん噂だと思うんですけど」

「噂に決まってるじゃない、ねえ育美ちゃん」

「私は幽霊信じるタイプなんで」

「へえー、初耳」

「そうでしょうね。今初めていいましたから」

「超現実女の育美ちゃんがねえ」

「超現実女って、どういう意味ですか」

「給料が安いとか、家賃が高いとか、どこそこの店が一番安いとかしか言わないからよ」

「そんなことありませんよ。私だって乙女の部分があるんです」

「いつか見たいもんです。で、山崎君続けて」

 二人の会話についていけずにぼおっとしていた山崎に向かって恋が言った。

「はい。それで、親戚の人間はそのことを事務長に話したらしいのですが、まったく取り合ってくれなかったようなんです」

「ふ~ん」

「そんな中、私が探偵事務所に入ったことを知ったその人が私に相談を持ち掛けてきたというわけです」

「なるほど。ちょっと興味をそそるわね」

「所長ならそう言うと思いました。ただ、ネックがあります。その相談者は病院の一課長に過ぎないということです。相談内容からすると大事になりそうな案件であるにも関わらず、その相談者個人が正式な依頼者にはなり得ないのです。かといって、誰がどう絡んでいるかもわからない現状で、病院そのものが依頼者になることもないということです」

「わかった。形式上は山崎君の親戚の人を依頼者にして、うちがやりましょう。費用のことは心配いらないわ。所長案件にして、私の一存ですべて仕切ることにするから」

「えーーーーーーー、そんなことできるんですか?」

 誰よりも驚いたのは山崎だった。

「私を誰だと思っているの?」

「所長ですよね」

「何をお間抜けなことをぬかしこいちゃってるの。私は、あの万里小路恋よ」

「あの、ってどういう意味ですか」

 山崎は意味がわからず育美の顔を見る。

「もぉー、面倒くさい」

 育美がつぶやく。

「ほんとに知らないの?」

「はあ。 所長の名前は知ってますけど…」

「そういうことじゃなくて…。だから、詳しくは育美ちゃんに訊いてちょうだい」

「はあ?」

「はあ、はあ言わないの。犬じゃないだから。いずれにしても、その親戚の人を一度事務所に連れてらっしゃい」

「わかりました」

 それから一週間後に、中村春樹と名乗るその男はやって来た。40代であろうか。血色が良く太っている。親戚とは言うものの、山岸と似ているところは一つもなく、妙に明るくへらへらしていて、深刻な悩みを抱えているようには見えない。名刺交換をした後、恋の前に3人が座る。中村が真ん中に座り、両サイドに山岸と育美が座った。

「噂にはお聞きしてましたけど、生で見る所長さんって綺麗でんな」

「生? ビールじゃないんだから。それに、その、でんなって何?」

「ですねって言うことです」

 慌てて訂正する山岸。

「あれ、所長はん、関西弁あんまり慣れてへんのかいな」

 中村が山岸のほうを見て言った。

「へんのかいな? 私どもの家庭ではそうしたへんなお言葉は使いませんのよ」

「あらまあ、お上品なことで結構でありんす」

「バカにしてると偉いことになるわよ」

「おお怖いー」

 と大げさに驚くふりをする中村。

「もう、いつまでもそんなくだらないこと言ってないで。隣の山崎君から少し話は聞いていますが、お宅の病院ではおかしなことが起きているとか」

「そやねん。おかげで患者さんたちの間にへんな噂が流れ始めて困ってますねん」

「ねん?」

「ええ。あの病院は信用が置けないとか、金もうけ主義だとかね」

「それはデマなのね?」

「もちろんですとも。心外でっせ」

「でっせ?」

「所長、いちいち関西弁に反応しないでください」

 育美が恋にツッコミを入れる。

「はいはいはい。それで、山岸君に相談したというのは?」

「あくまでも噂であり、デマなんやけど、病院内に、その原因と言えるおかしなことが起こっていることも事実なんで、調べたいと。もちろん、事務長には話をしたんやが取り合うてくれしません。かといって、私は内部の人間なので迂闊には動けまへんねん。ちょうどそんな時、この山崎君が探偵事務所に就職したと聞いたもんで、ほな相談しようとなったんです」

「なるほど。でも、なんで院長に相談しなかったの? トップは院長でしょう」

「ああ、そりゃあ無理でんがな。なんたって、院長は代々病院をやっている名家の生まれで、あの地域では誰もが知っているような典型的なお坊ちゃまで、世間のことなんかなーんもしらんのよ。だから話しても無駄」

「似たような人がいるもんですね」

 育美がぼそっと言った。

「育美ちゃん、何か言った?」

「いえ、何でもありません」

「おかしいな、何か聞こえたんだけどなあ。しかしまあそういうことならしょうがないわね」

「そんなことで、相談したはいいんやけど、現時点でお金を払えんのです。ただ、ちゃんと原因を突き止めてもらえれば、病院としてお支払いでけると思っちゃります」

「ちゃり? 自転車?」

「だから所長、いちいち反応しないでくださいって。話が進みませんから」

 クソ真面目な育美が苛つき始めた。

「はいはい、わかりました。それでいいです。うちにお任せください」

「そうでっか。えらいすんません。さすが所長はんやな」

 中村が山崎のほうを見てにやりと笑った。


 中村が帰った後、恋と育美と山岸で話し合っている。

「所長、すみません」

 山岸が第一声をあげた。その一言にすべてが含まれていた。

「別に山岸君が謝ることじゃないわよ。ただ、ちょっと驚いたけどね」

 恋が言うと、

「なかなかのキャラの人でしたね。あのヘラヘラ感だと、彼の話の信憑性にちょっと疑問が生じましたよね」

 育美が冷静に判断する。

「本当にすみません。でも、ああ見えて根は真面目なんで、話は信用置けると思います。80%くらいは」

「えっ、100%じゃないんだ」

 育美が確認する。

「まあ、そうですね」

「ほんとうに大丈夫なの?」

 今度は恋がツッコむ。、

「いやあ、60%くらいでしょうか」

 自信がなくなったのか、どんどん下げる。

「あらあ、また下がっちゃったじゃない。どうせ私たちが確かめるからいいけどね」

 育美が取りなして言う。

「それで、どうやって攻める?」

 恋が育美を見て言う。

「とにかく情報を集めることが先決だと思います。山岸君は中村さんから可能な限りの情報をもらうように」

「はい、わかりました」

 二人のやりとりを聞きながら、中村が置いて行った病院案内を見ていた恋が何かを見つけた。

「これよ、これ」

「はい?」

 恋が指さしたのは人間ドッグのページだった。

「ああ」

 育美と山崎が同時に声をあげた。

「人間ドッグを受ける形にすれば、怪しまれることなく内部潜入できるわよね」

「さすが所長、いいアイデアです」

 山崎が感心しきりで言う。

「でしょ、でしょ」

 恋も自分のアイデアにご満悦の様子である。

「で、誰が受けるんですか?」

 唯一冷静な育美が言う。

「もちろん、私と育美ちゃんよ。精鋭部隊を投入しなくてどうするの」

「えー、私もですか?」

 育美が抵抗の様子を見せる。

「当然よ。育美ちゃんにしても、ついでに結婚前の身体の総点検をしてもらえるわけでラッキーじゃない?」

「そう言われればそうなんですけど…」

「なんか言葉を濁すわねえ」

「実は、私、病院って苦手なんですよね。あの匂いだけでもう…」

「ひゃー、見つけちゃった、育美ちゃんの弱点」

「はい、そうなんです」

「育美ちゃんにもかわいいところがあったんだ」

 俄然おもしろがる恋。

「そんなに喜ばないでくださいよ、もう。それで所長、三泊四日コースと一週間コースがありますけど、どちらにするんですか?」

「もちろん、一週間コース。少しでも長く潜入したいじゃない」

 もはやドS化した恋に正論を言われ、育美は戦意喪失の模様。

「わかりました」

「ということで、山岸君、早速中村さんに連絡とって人間ドッグの申し込みをしてちょうだい。それから、山岸君は患者さんたちやあの病院を辞めた看護師たちと接触して、本当のところ病院についてどんな評判があるのかやどんな噂が流れているかを調べて私たちに報告して」

「了解しました」

 恋との打ち合わせが終わり、自分たちの机へ戻る山岸と育美。山岸はその道中、日頃は怖い上司の育美が恋から揶揄われてるのを初めて目にして楽しくなってしまったのか、思わず声が漏れていた。

「ふふふ」

「何あんたがニヤニヤしてるのよ」

「だって、育美ちゃんとか言われてるし…」

「あれは所長だけだからね、わかった。もし、あんたが言ったらぶっ飛ばすからね」

「はい、わかりました」

 恋と育美の人間ドッグ入院は10日後と決まった。当日は午後二時に受付に行くよう連絡があった。その10分前に、病院入口横のロビーに恋は現れたが、その姿は上から下までまるで海外旅行に出かける時のような高級ブランドで飾られていた。それに対して、わずか2分後に現れた育美の姿は、近くのジムにトレーニングをしに行く時のように、上下ジャージに大き目のスポーツバッグを抱えて現れた。お互い、相手の姿を見て唖然とした顔になった。

「育美ちゃん、何それ?」

「一番楽な恰好で来たんんですけど」

「楽って言ってもねえ。女の子なんだからもう少し気を遣ったほうがいいんじゃない」

「所長こそ、いったいどこにお出かけですかっていう恰好してますけど?」

「だって、一週間もここで過ごすのよ」

「でも、入院ですよ」

「わかっているわよ。たとえ、入院であろうと万里小路恋の品格は保つ必要があるの」

「まあ、大変ですこと。とにかく、手続きをしましょう」

 受付で手続きを済ませると、係りの人の案内で5階の人間ドッグフロアーまで専用エレベーターで昇る。人間ドッグの病室はすべて個室で、ホテルの部屋のような作りになっている。荷物の整理が済み一段落していると、育美が恋の部屋へやってきた。部屋を見渡して、

「所長の部屋も同じなんですね」

「そうよ」

「てっきり、パンフレットにあった特別室に入ったのかと思いましたよ」

「ほんとうはそうしたかったんたけど、満室だったの。それに、特別室なんかに入っちゃうと目立っちゃって調査がやりにくくなるでしょ」

「何もしなくても十分目立ってますけどね」

「それって褒めてるの?」

「さあ、どうでしょう」

「まあいいわ。それで、この後の予定はどうなってるの?」

「えーと、今日はこの後、身長や体重などの測定を行って、その後に外科部長の問診があるだけです。本格的な検査は明日からになるようです」

「外科部長?」

「普通内科部長だと思うんですけど、この病院の場合、外科部長が人間ドッグの責任者になっているんですって」

「なんかへん」

「そうですよね」

「まあいいわ。ということは今日は病院内の探索ができるということね」

「そうです。後で一緒に回ってみましょう。それから、ちなみになんですけど、外科部長というのは院長の息子です」

「例のバカ息子ね」

「所長、声が大きいです」

「誰のこと話してるかわからないから大丈夫よ。それよりも、私のことを所長って呼んじゃまずいでしょう」

「ああ、そうですね。なんと呼んだらいいですか?」

 申し込みに当たっては、パパの会社の関連会社の社員としてある。

「二人とも同い年だし、職場の同僚ということにして、名前で呼び合えばいいんじゃない」

「名前?」

「私はあなたのことを育美って言うから、あなたは私のことを恋(れん)って呼んで」

「いいんですか?」

「いいわよ。練習してみる?」

「えっ」

「いくわよ、育美」

「わかった恋。なんか照れくさいですね」

「ふっふっふ。なんか楽しいかも」

「遊びじゃないんですから」

「わかってるわよ」

 そこへ事務の人がやってきた。

「こちらに着替えて105号検査室へ行ってください」

 事務員が置いて行ったのはこげ茶色したガウンのようなものだった。それを見て恋が嘆いた。

「えー、こんなセンスのない服着なくちゃならないの」

「所長、あくまでわれわれは人間ドッグの入院患者なんですから我慢してください」

「は~い、育美。わかったわ」

 身長、体重、筋肉量などの基本的測定が終わって部屋に戻ると、今度は外科部長の事前問診があるから第一診察室へ行くように言われた。恋は隣室の育美に声をかけ、二人で一緒に行くことにした。

「どんな男なんでしょうね」

 育美が恋にすり寄りながら小声で言った。

「ボンボンのボンボンだから、どうせ碌なもんじゃないわよ」

「そういうもんですか」

「そういうもんよ。私の周りにもいっぱいいるからわかるのよ」

「なるほど」

「あっ、ここよ」

 第一診察室という札の下がっているところで止まる。恋がドアをノックすると、中から「どうぞ」という声が聞こえる。

「失礼します」

 恋と育美が一緒に中に入る。

「どうぞ、どうぞ。そちらへお座りください」

 いかにも高級そうな革張りのソファーを指さす。二人が座ると、男が机の上にあった資料らしきものを持って二人の正面に座った。

「万里小路恋さんと観音寺育美さんですよね」

「ええ。私が万里小路恋で、隣が観音寺育美です」

「そうですか。私は外科部長をしております大野祐介と言いまして、人間ドッグの責任者も兼務しております」

「そうですか。よろしくお願いします」

「それにしても、お二人よく似ていらっしゃいますね」

「えー、だいぶ違うと思いますけど」

 育美が怒ったように言う。

「別にいいじゃない」

 恋が育美だけに聞こえるように小さな声で言い返す。

「いやいやよく似ていますよ。まるで美人姉妹です」

 そう言いながら大野の鼻の下が伸びたのを恋は見逃さなかった。

「そんなことはどうでもいいですから、さっさと問診してください」

 完全に育美は戦闘モードになってしまった。しかし、大野はそんなことにも動ずる様子を見せない。

「ああ、そうですね。通常は一人一人個別に行うんですが、どうしますか?」

「お互い聞かれて困ることなんてないので、一緒にやっちゃってください」

「わかりました」

 一通りの問診が終わったところで、今度は恋たちの大野に対する『問診』が始まった。

「大野さんは院長さんのバカ息子さんなんですよね」

 いきなり恋がぶちかます。

「バカ息子? 面と向かって言われたのは初めてです」

「案外気持ちいいでしょ」

「まあ、気持ちはよくないですけどね。しかし、誰から聞きましたか?」

「事務長さん」

「そうですか…」

「二代目ですか?」

「いや、三代目です」

「あらあら、三代目っていうことは、始末に負えない超ボンボン」

「そんなことないですよ。こう見えて、案外苦労してます」

「どんな苦労なんだか」

 相手に聞こえるレベルの恋の囁き。

「いやあ、お二人にはまいっちゃいますね」

「イケメンだし、モテモテなんじゃないですか?」

 今度は育美が仕掛ける。

「いえいえ、そんなことないですって」

「結婚は?」

「独身です」

「えっ、独身。じゃあ、私たちが誘惑しちゃおうかしら。ねえ、育美ちゃん」

「困りましたね」

 とか言いながら、まんざらでもない顔の大野。

「ひょっとして、すでに複数の看護師たちに魔の手が伸びていたりなんかして…」

「もう止めてくださいよ」

 しかし、ここで育美が大野の指にはまってる指輪を見つけた。

「その指輪、結婚指輪じゃないですか?」

「ああ、これですか。バレちゃいましたね」

 あっさりと認めた大野。

「どうしようもない嘘だこと」

 恋が思い切り軽蔑さを込めて言う。

「すみません」

「ところで、事務長の川口さんって、なんか変わっていますよね?」

 川口の話を出したとたん、明らかに大野の様子が変わった。それまでのへらへらした顔に一気に緊張感が走ったのである。

「どこが変わってますか?」

「挙動不審というか、目が定まっていないというか」

「そうですか。外部の人から見るとそう見えるのですね。でも、忙し過ぎて疲れているだけです。本当は定年なんですけど、後継者が育っていないので、お願いしてまだ働いてもらっているんです。でも、そろそろ考えなくちゃダメですね。いろいろとご指摘ありがとうございます。明日から本格的な検査が始まりますので、今日はのんびりお過ごしください」

 診察室を出た二人は思わず顔を見合わせた。

「怪しい」

 育美が低い声で言った。

「同感」

 どうやら二人の勘が一致したようだ。

「掘り起こせば絶対なんか出てくるわよ」

 育美が興味深々の顔をしながら続けた。

「ここ掘れワンワンって感じですかね」

「ん?」

「知りません? 花咲かじいさんの話?」

「何それ。おじいさんの口から花が咲いちゃうわけ」

「そんな気持ち悪い話じゃありませんよ。ともかく、これから病院内の探索に出かけましょう」


 二人はエレベーターで一階まで降り、下から順番に見て回ることにした。一階は総合受付、ロビー、売店といくつかの検査室がある。午後5時を過ぎたこの時間には外来患者はいず、看護師や入院患者がいるくらいだ。2階から四階までは各診療科がある。そして、6階から10階が入院室。一応すべて回ってみたが、特にこれといったことは見つからなかった。ただ、わかったことは、この病院において、5階の人間ドッグフロアーだけが完全に異質であることだった。恋がどうしてもお菓子を食べたいと言うので、1階の売店に戻り店内に入ると、育美は書籍コーナーで雑誌を見ていたある男の姿が気になった。

 お菓子を買って二人が人間ドッグ専用のエレベーターに乗ると、二人の後を追うようにエレベーターにさっき売店で育美が見かけた男も乗り込んだ。その男のことを盗み見て、育美はその男が有名なミュージカルスターの大貫進次郎であるとわかった。育美がその旨を恋に報せるようと目配せをしたのだが、恋は何のことだかわかっていない。

「育美、どうしたの目でも痒いの?」

 と笑いながら話しかけられ、育美は思わず恋の足を踏んだ。

「痛いんだけど」

 睨む恋に育美は何事もなかったように言った。

「あら、失礼しました」

 男はそんな二人の会話にもびくともしない。エレベーターが5階に着き、その男の後につくように恋たちも降りる。歩き始めた恋の手を育美が引っ張って、フロアロビーにあるソファーに座らせる。

「何よ、さっきからずっと痛いじゃないの」

「すみません。そんなことより」

「そんなことより?」

「今の男、有名なミュージカルスターですよ」

「だからって何よ。痛いじゃない」

 恋にとっては痛いことのほうが問題なのである。

「それはすみません、でしたあ」

 全然悪いとは思っていない育美の冷ややかな言い方にカチンとして膨れる恋。しかし、そんな恋のことなど無視して育美は話を進める。

「ここの人間ドッグってべらぼうに高いじゃないですか」

「そう? 育美ちゃんの給料と同じくらいじゃない?」

「冗談は止めてください。私の給料なんて、ここのドッグ料金の5分の一以下のツバメの涙ほどです」

「ん? それを言うならスズメの涙じゃなくて?」

「いや、あのお、スズメほどじゃないけど、ツバメほど少ないって意味です。ツバメってスズメよりちょっと大きいんですよね」

「そんなへんな気を使わないでよ、ややこしいから。いずれにしても、給料をあげろって言ってるんでしょ?」

「当たらずとも遠からずですが、今はそんなことを言いたいわけじゃないんですよ。ここのドッグにはそんな料金でも払える大物がたくさんいる可能性があるということです」

「なるほど。今回の依頼案件解決のヒントはここにありということね」

「その通りです、所長」

「だから、その所長は禁句だって言ったでしょう」

「そうでした、恋」

 と育美が小さな声で言った。すると、ちょうどその時、エレベーターの扉が開き、一人の男が降りてきた。男はドッグ利用者の個室のほうに向かって歩いて行く。

「事務長のお出ましです」

 育美がその後ろ姿を見ながら言う。事務長の写真は中村から受け取っていたのでわかるのである。

「いよいよ今回案件の主役かもしれない男が現れたっていうわけね。育美ちゃん、彼がどの部屋へ入るか見てきて」

「わかりました」

 育美はすくっと立ち上がり、自分の部屋へ戻るふりをして後をつける。しばらくして戻ってきた。

「一番奥の特別室へ入って行きました」

「ふ~ん。これはさあ、育美ちゃん、人間ドッグの利用者リストが必要ね。山岸君に連絡して入手できるようにして」

「了解しました」

 翌日、昼食をとっている時に山岸から恋に電話があった。

「中村さんに話したんですけど、最初、利用者リストはマル秘事項なので出せないと突っ張られました」

「何をお間抜けなこと言ってけつかんねん」

 先日中村が来て以来、関西弁(それもガラの悪い)を覚えつつある恋なのである。

「所長ならきっとそう言うと思いまして、所長がそう言ってると伝えました」

「気が利くのか利かないのかのかよくわからない」

「えー、そうですか。僕は気が利くほうだと自分では思ってるんですけど」

「はい、そんなことはいいから結果を聞かせて」

「所長という一言を出したらOKとなりました。ということで、リストが手に入りましたけど、なかなかのものです」

「そんなの見なきゃわかんないわよ。じゃあ、これから育美ちゃんに取りに行かすから病院近くの喫茶店まで持ってきて」

 育美が山岸から受け取ってきたリストを見て、さすがの恋もちょっと驚いた。山岸の言うように、それはなかなかのものだった。とにかく有名人ばかりなのだ。テレビをあまり見ない恋でも知っているような芸能人やアスリート、有名画家、大企業の社長・会長、そして元官房長官を始めとした政治家。その他、肩書のわからない怪しい人物も含まれていた。大きいとはいえ、個人病院に過ぎないこの病院を、なぜこれだけの大物が利用しているのかが謎だった。確かに、人間ドッグのある5階は完全に隔離されていて、専用エレベーターを遣わない限り入れない。セキュリティ対策も万全のようだ。しかも、最高級ホテルとそん色ない部屋は完全個室でPCを始め最新の機器が整備されているので、必要に応じて仕事もできる。5階専属の看護師はいずれも美人ばかりだし、その接遇力も一流だ。食事も一流ホテル並みの充実したものであり、しかも日々変わるそのメニューも飽きさせない工夫がなされている。これでけの設備、サービスは確かに他の人間ドッグ施設では見当たらないかもしれない。現に毎年恋が行っている病院よりもいい。でも、恋はそれだけが理由ではないと睨んでいる。他にも何か怪しい理由があって、そこにこそ、この病院の病巣が潜んでいる気がするのだ。

「ちなみに、この間事務長が入ったのは誰の部屋?」

「ちょっと前まで官房長官だった田中龍二の部屋です」

「あらそう。これはおもしろいことになりそうね、育美ちゃん」

「そうですけど、ひょっとして私たちには手に負えない案件かもしれませんよ」

「何をビビってるのよ。普通の探偵事務所だったら手に負えないかもしれないけど、うちだからこそできるんじゃなくて」

「すご~い。初めて所長を尊敬しました」

「えーーーーーー、半年も一緒に仕事をしてきて今初めてだなんて。もう絶句だわ」

「そんなにがっかりしなくてもいいじゃないですか。わかりました。私も所長と一緒に死ぬ覚悟で頑張ります」

「大げさねえ、そんなたいしたことじゃないと思うわよ。何事も、為せば成る、ナセルはアラブの大統領って言うし」

「いつの時代の話ですか」

「おじいちゃんから聞いたんだけどね。ナセルって、1952年にエジプト革命を成功させた人らしいわよ。教科書にも載っているっておじいちゃんが言っていたっけ」

「あら、そうですか」

 何の感慨も何の感情もない育美の返事。

「それはともかく、事務長を始めとした病院関係者がどこの部屋の誰と接触するかをチェックする必要があるわね」

 それからの数日、二人は検査が終わった時間から人間ドッグのロビーに張り付き、怪しい動きがあるかどうかをチェックしていた。その結果わかったことは、まず事務長が元官房長官の田中龍二の部屋以外にも、特定の人物の部屋へ頻繁に出入りしていることだ。その人物は板垣昇という名で、リストによれば株式会社大谷という会社の社長となっていたが、見た雰囲気がどうにも怪しいのだ。

「会社の社長となっているけど、あれは、あちらの世界の人間よ」

 恋がそう言うと、育美も同じ感想を持っていた。

「私もそう思います。早速、山岸に調べさせます」

「そうね。でも、ついでにこの人の裏の顔も調べて」

 恋がリストの中のある男の名を指した。それは大物俳優の町村俊の名だった。

「この人ですか?」

「そう」

「何かありましたか?」

「うん。育美ちゃんが彼氏と電話している時に見ちゃったのよ」

「私、ここでは彼氏と電話したことなんてないですよ」

「ここでは? まんまと誘導尋問にひっかかったわね」

「もう。私だって彼氏の一人や二人いますよ」

「ふ~ん。二人もいるの?」

「それは言葉の綾です」

「ふ~ん。一度私に紹介しなさいよ」

「嫌です」

「なんで?」

「所長なんかに紹介したらどうなることやら」

「私に取られちゃうと思ったんでしょう。心配しないで、私、人の持ち物には関心ないのよ。ただ、先方から寄って来られた時は、来るもの拒まずってなっちゃうんだけどね」

「最悪」

「まあ、それはともかく、私の推理ではこの俳優も怪しいのよ。事務長とひそひそ話してたもの」

「そうですか。やっぱり事務長には何かありますね」

「そう。でも、外科部長も頻繁にここをブラブラしてるから要注意よ」

 ということで、主にこの3人の動きに注視することにした。しかし、二人とも検査、検査で忙しい。その日の検査が終わる夕方にはぐったりとしてしまい、気力が失われてしまうのだ。今日もへとへとになって自分の部屋へ戻った。すると、隣の部屋から育美がやってきた。

「お疲れですか?」

「検査疲れ」

「そうですよね。私も検査がこんなにしんどいとは思いませんでした」

「あ~あ、早くシャバに戻りたい」

「お嬢様がシャバって」

 育美がツッコむ。

「これがほんとのお嬢シャバなんちゃって」

 恋がしょうもない返しをする。

「どうでもいいわ」

「口が悪いわねえ、育美って」

「はいはいは~い」

「でね、育美、今回の件は長期戦になると思うのよ」

「そういう可能性はありますね」

「ところが、私たちはこういう状態だし、検査も間もなく終わっちゃうじゃない」

「そうですね」

「そこで、妙案があるの」

「どんな?」

「うちに吉井麗奈って子がいるじゃない」

「ああ、もともと女優部門所属の」

「そうそう。実はあの子、元看護師なのよ」

「へぇー、そうなんですか」

「そうなの。女優になりたくてうちの事務所に入ったんだけど、女優としてはなかずとばずなのよね。顔だけは一流なんだけどね。だから、中沢ちゃんに探偵の教育をしてもらったの」

「ということは、もしかして…」

「そう。彼女をここの人間ドッグ専門の看護師として送り込むのよ」

「さすがは所長、じゃなくて恋。ナイスアイデアです。でも、うまく潜り込ませられますかね」

「そこは、山岸君にうまくやらせるのよ。でも、麗奈のあの美貌があれば大丈夫。事務長や外科部長なんてイチコロよ」

「まあそうでしょうね。男はああいう女に弱いですからね。あっ、そう言えば、山岸君から連絡がありましたよ」

「何て?」

「彼は患者の聞き取り調査をしていたわけですが、その中でいくつか気になる噂があったと」

「ほおー、で、どんな?」

「これです」

 山岸から育美に届いたメールには以下のようなことが書かれていた。

・金儲け主義で、高い治療費をとれそうにない患者は早々に退院させる

・医療設備に金をかけすぎていて経営は厳しい

・院長は超ワンマンで、院長に逆らった意思や看護士はすぐ首になる

・医師や看護師の出入りが多い

・優秀な医師がいつかない

・内科部長は女癖が悪い

・病院内には必要以上に監視カメラがついている

・事務長が怪しい人物に脅されているのを見た

「なるほど。なんかみんな言いたいことをただ言ってるって気がしないでもないけど。ひょっとして、この中に真実が含まれているかもしれないわね」


 一週間の人間ドッグも終了となり、恋は久しぶりに事務所に出た。

「お久しブリーフ、ごきげんヨーデル」

「なんですか、それ」

 鬼瓦が狐につままれたような顔で言う。

「今流行ってるの知らないの? サンタズロースって言うのもあるけどね」

「知りませんよ」

 怒ったように言う鬼瓦。

「まったく何にも知らないのね、ごんぞうは」

「そんなの知らなくても生きていけますから。ところで、どうでしたか?」

「着るものがダサかったし、私なんか下着姿を検査技師に見られちゃったし…」

「ああ…」

 そう言って遠い目をする鬼瓦。

「想像してんじゃねーよ」

「想像はしてません。妄想はしましたけど」

 と言ってニヤリとした鬼瓦。

「最低」

「でも、私が訊きたかったのはそういうことじゃなくて…」

「そうならそう言え」

「でも、ボスが勝手に話すもので、つい…」

「もう。で、何が訊きたいわけ」

「今回の依頼案件に関することで何か発見がなかったかなと」

「なんだ、そんなこと?」

「そんなことって、そのために人間ドッグを受けたんですよね」

「そうなのよね。でも、心配しないで。私、万里小路恋とわが探偵事務所のエースの観音寺育美が潜入調査に入ったわけで、山のような収穫をしてきましたわよ。聞きたい?」

「聞きたいって、仕事ですから聞かざるを得ません」

「何、その上から視線」

「はい?」

「知らないの、上から視線」

「上から目線ですね」

「冷静なツッコミだこと」

 大野総合病院の案件についての作戦会議を行うべく、関係メンバーが集められている。10日ほど前からから看護師として病院に潜入している吉井麗奈も勤務終了後に事務所に来ることになっている。二人の後を引き継ぐ形で人間ドッグ専門の看護師となった麗奈は環境適応力が高く、あっという間に病院関係者たちの中に溶け込み、同時にドッグ利用者たちからも慕われる身になっているらしい。特に男性陣の受けがいいようだ。そんな噂を耳にした育美が忌々し気に言った。

「男なんて、所詮そんなものなのですかね」

「育美ちゃんはまだ男ってものを知らないからね~」

「そんなことないですよ」

 怒り心頭という表情で言う育美。

「じゃあ、知ってるの?」

「えーーー、まあ、知ってますよ」

「下ネタかい」

「私、下ネタ言ったつもりはないですけど」

「まあまあ」

 鬼瓦が思わず間に入る。ちょうどそこに麗奈が現れ、恋の真向かいの椅子に座った。そして、

「今日も外科部長に誘われちゃったんですう」

 開口一番に放った言葉がそれだったため、みんなは思わず顔を見合わせてしまった。麗奈は絵にかいたような美人なので愛想がないかと思いきや、実は明るく屈託のない、誰にも好かれるタイプの子で、かつ先天的なぶりっ子キャラなので年上の男にはたまらないようだ。

「それで何と言ったの?」

 ちょっと興味があったので恋が訊く。

「今度気が向いたらねって言ってあげましたあ」

「なかなかいいんじゃない」

 この子は男の転がし方を知っている。恋は気に入ったが、恐らく育美の嫌いなタイプ。ちらっと育美を見たが、案の定にこりともしていない。

「ところで、何か新しい情報はないんですか」

 育美が不愛想な顔を麗奈に向けて言った。

「あっ、そう言えば今日発見があったの」

 最後を『の』で終わらせるなんて、いったい誰に対して口を利いているのか疑ってしまうが、これも麗奈独特なところなのだろう。しかし、いかにもカワイサ満開のべテべタしたしゃべり方に苛ついている育美の顔が恋にはおかしくて、つい笑ってしまった。

「所長、私のこと見て何笑ってるんですか?」

「あら? 私、育美ちゃん見て笑ったわけじゃなくてよ。もう、育美ちゃんたら自意識過剰なんだから。私は、麗奈ちゃんがツボにはまっちゃっただけ」

「まあ、それはわかるような気もしますけど…」

「それで麗奈ちゃん、その発見とやらを教えて」

「はい、あの病院の内科部長って、実は事務長の息子さんなんですって」

「えーーーーーーーーーーー」

 これには一同思わず声を揃えて驚いた。しかし、当の麗奈はみんなの驚きの声に驚いたようだ。

「そんなにびっくりすることなんですかあ。副所長なんか椅子から落ちそうでしたけど」

 身体のデカイ鬼瓦はもともと椅子からお尻がはみ出ている。その鬼瓦が驚いて身体を反らしたものだから椅子からずり落ちそうになり、その際隣に座っていた恋の腕をつかもうとしたので、恋はその手を振り払ってやったのだ。

「そりゃあ驚くわよ。でも、そんな話誰からも聞いてないわよね」

 恋が育美を見て言う。

「確かに聞いていませんでしたね。でも、それほんとなんでしょうかね」

 育美は麗奈のことをまだ信用していない。

「みんなには隠してるみたいです。でもお、元官房長官の田中のおじいちゃんが言ってたので間違いないと思いますよ。疑うなら一応調べてみてくださいよお」

 自分に敵意をむき出しにしている育美を嘲笑うような顔で言った。

「OK,、山岸君早速調べてみて」

 育美の代わりに恋が答える。元官房長官の田中を『おじいちゃん』と平気で呼んでしまうあたりに麗奈の魅力があるし、きっと田中もまんざらでもないのだろう。麗奈はこの短期間でえげつない情報をつかんだことになる。もしこの情報が本当だとしたら、大きな手がかりの一つになる可能性がある。すぐに調べる必要がありそうだ。

「はい、わかりました」

「それにしても、もう元官房長官まで手なずけちゃうなんて、麗奈ちゃんってボスのような能力の持ち主ですな」

 鬼瓦が感心したように言う。鬼瓦も山岸もすでに麗奈に魂を抜かれ始めつつあるのを見て、育美がますます不機嫌になっていくのが見える。

「う~ん、麗奈ちゃんのは天然だから、私とはちょっと違うけどね。ところで、山岸君のほうは何か情報はある?」

 恋は自分にも天然なところがあるとわかっていない。

「まず、株式会社大谷の板垣昇の件ですが、所長たちのおっしゃってた通り板垣組の組長です」

「やっぱりね。俳優の町村俊のほうは?」

「まだはっきりしないのですが、いろいろ怪しい噂があるようです」

「怪しいって?」

「怪しいクラブに出入りしているとか。付き合っている人種がおかしな外国人だとか、です」

「なるほど」

「それと、私が気になるのは、町村があの高額な人間ドッグを年に何回も利用している点です」

「そんなに頻繁に利用しているわけ?」

「そうなんです。それも看護師たちの間で噂になっていました」

「ほお、何かあるわね。引き続き調べて」

「わかりました。でも、町村についてはうちの芸能事務所の丸山さんのほうが情報持ってるんじゃないですかね」

「ああ、そう言われればそうね。じゃあ、私が彼に訊いてみるわ」

「お願いします。それと、町村とは関係ないんですが、ちょっと気になる情報が入ってきました」

「ほおー、どんな?」

 鬼瓦がもともと怖い顔をより怖くすることで威厳を保とうとしながら訊いた。しかし、今鬼瓦の頭の中は、恋、育美、麗奈の3人の美女に囲まれたハーレム状態にデレデレになっていることを恋は知っている。前の職場ではこんな経験皆無に違いないので無理もないのだけど。

「これは患者さんからではなくて、元大野総合病院に勤務していた看護師さんから聞いた話なんですけど」

「それで」

 何かを察したのか育美が真剣な顔で先を促す。

「数年前に外科部長がした腹腔鏡施術の後で、たて続きに10人くらいの人が亡くなっているというんです」

「どこぞの大学病院でもそんなことがあったよな」

 鬼瓦が記憶を探りながら言った。

「そうですね。どうやらその大学病院での出来事と同じような時期らしいんです。大野総合病院にも院内に臨床試験審査委員会があって、事前に申請して審査を受けるという内規があったらしいんですが、院長が黙認する形で行われていたようなんです」

「その結果多数の人が亡くなってしまったというわけだ」

「そうです。いずれも術後に容体が悪化して亡くなっているということです」

「これは大きな問題ですね、所長」

 育美の目が輝いてきた。

「もちろん、そうよね。ただ、一人の看護師の話だけではまだ信憑性に欠けるわ」

「いや、所長。私がその話を聞いたのは3人の元看護師からです」

「そうなると、事実の可能性が出てきたわね」

「しかし、もしそうだとして、あの大学病院の場合はニュースになったけど、大野総合病院の件は表沙汰になっていないぞ」

 鬼瓦が冷静に指摘した。

「そこなんです。当然、当時いた看護師さんたちが騒いだようなんですけど、何らかの力が働いてうやむやになったらしいんです。私に話してくれた看護師さんたちはそうした状況に嫌気がさして病院を辞めたと言っていました」

「なるほど。ここにも大きな闇が隠されていそうね。私の推理だと、それにはあの元官房長官の田中も関係しているような気がするわ」

「おおー、なかなかの推理ですなあ」

 鬼瓦が感心したように言う。

「皆の者、探偵小説で鍛えた私の推理力の凄さを知れ―って」

「はいはい、わかりました」

 育美がバカにしたように言う。

「何よ、その言い方」

「まあまあ。しかし、これで全体の構図がなんとなく見えてきましたな」

 鬼瓦がまとめようとしている。

「確かにね。今の段階ではごんぞうの頭みたいに、うすぼんやりしているけどね」

 最近、鬼瓦の頭がみるみる薄くなってきたことに、みんな気づいてはいたが、さすがに口に出す者はいなかった。それを、恋がみんなの前で指摘したので、鬼瓦は無言で自分の頭を撫でている。

「スカルプDとかミノキかなんか買ってあげましょうか。ミノキなら生えるって言ってるし」

 恋が追い討ちをかけたところで、みんな堪え切れずに吹き出した。

「もう。ボス、恥ずかしいからやめてくださいよ」

 顔は怖いが気持ちは優しい鬼瓦なのだ。

「冗談はさておき、全体図が見えてきたことは確かね。ただ、問題の根が深そうだから、ここからが肝心。では、根っこを掘り出すために分担を決めましょう」

「そうですな」

 鬼瓦が頷いた。

「まず、板垣組と事務長の関係は副所長にお願いします」

「了解」

「事務長の行動調査と、内科部長の件は育美ちゃんと山岸君で」

「はい、わかりました」

「元官房長官については、育美ちゃん山岸君ペアに調査してほしいんだけど、麗奈ちゃんのほうでも引き続き注視してほしいの」

「ええー、あのいじいちゃんですかあ」

「簡単でしょう。すでに、手の中で転がしてるんだから」

「別に、私、転がしてなんかいませんけど…」

「そうね。勝手に相手が転がってるのかもね。でも、そのほうが仕事はやりやすいわよ。田中は背後でいろいろ関係しているかもしれないし、そういう意味ですごい重要な役割なんだから頑張ってよ、麗奈ちゃん」

「は~い」

 重要な役割と言われて嬉しかったようだ。単純でカワイイ子なのだ。

「さっきも言ったように町村については、私が丸山ちゃんに訊いてみる。それから山岸君」

「はい?」

「元看護師の3人がいたじゃない。その人たち他にも何か知ってそうな気がするから私に会わせて」

「わかりました」

 

 板垣組と事務長の関係については鬼瓦に調べてもらうことにした。

 なんたって。ああ見えて。かりそめにも。腐っても鯛。いろいろな言葉を並べてみたが、鬼瓦は泣く子も黙る元警視庁捜査一課長なのだ。その力をいかんなく発揮してもらいたいものだ。

「ねえ、ごんぞう」

「ボス、それやめてくれないですかね。ボスが、ごんぞう、ごんぞうって言うものだから、いつの間にか、みんなもごんぞうって言うようになっちゃったんですよ。私、拓也なんですから」

「だってしょうがないじゃない。拓也って顔してないんだから」

「そんなこと言わないでくださいよ。私にだって娘がいるんですから」

「そうらしいわね。どっちに似てるの?」

「お風呂に入る時に右足から入る癖は私に似てるんですけどねえ」

「誰がそんなどうでもいい癖なんか訊いてるのよ、顔、顔」

「ああ、顔ですか。顔は妻に似ています」

「それは良かったじゃない。不幸中の幸いね」

「不幸中の幸いって、どういう意味ですか」

「そんなところ掘り下げるな。言ってるほうだってたいして考えていないんだから」

「もおー」

「もおーとか牛みたいに吠えるな。熊みたいな顔して」

「相変わらず口が悪いですな」

「その分、顔がいいので、許してニャン」

「もうー、カワイイんだから」

「惚れるなよ。オイラには夫がいるんだから」

「わかってます」

「ところで、板垣組と事務長の川口ことで何かわかった?」

「ええ。まず板垣組のことなんですが、以前は大谷組と名乗っていたんです」

「なるほど。株式会社大谷があるのはそういうことなのね」

「そうです。大谷組の先代の大谷勝が亡くなった時、跡目争いで内紛が起こったようなんですが、結局頭脳派でやり手だった板垣が勝ち残ったらしいんです」

「ふ~ん」

「板垣は、跡目を争そった人間を株式会社大谷の社員として残し、自分は板垣組を名乗り新たな船出をしたようです」

「さすが頭脳派ね」

「そうですね。そして、二つの組織をうまく使い分けしているのです。経済活動は株式会社大谷で、従来の仕事は板垣組でというように」

「なるほど。頭いいわね」

「そうですが、所詮ヤクザです。薬も扱っているに違いないと、知り合いの刑事が言っていました」

「やっぱりね」

「それと、トバを開いているようです」

「ええー、蕎麦屋もやってるの?」

「蕎麦じゃなくて、賭場です。要するに賭博場です」

「ああ、そっちね」

「そっちって、ちゃんとわかってます?」

 さっきいじられたので鬼瓦が反撃に出た。

「わかってるわよ、うるさいわね」

「ちんちろりんとかですよ」

「やめてよね、得意の下ネタ」

「下ネタじゃないし、私、下ネタ得意でもないし」

「じゃあ、何なのよ、そのちん…ちらって?」

「グフ。猫じゃあるまいし」

 鬼瓦が堪え切れずに熊のような笑い声を発した。もっとも熊が『グフ』と笑うかは知らないけれど。

 その後、鬼瓦は30分かけて『ちんちろりん』について恋に講義をした。

「と言うことですが、その客の中に事務長の川口がいた可能性はあります」

「じゃあ、あとは証拠をつかむ必要があるということね」

「そうです」

「どうするの?」

「そこは私に任せてください。私、こう見えて元警視庁捜査一課長なんですよ」

「そんなの最初からわかってるわい」

「時々自分から言わないと、みんな忘れてるみたいなので」

「マア、可哀そう」

「同情されるのも辛いです」

「そんなことはどうでもいいから、どうするつもりか早く言って」

「蛇の道は蛇です」

「ジャノメミシンはジャノメ?」

「何ですかそれっ」

「だって今そう言ったでしょう」

「いや、私が言ったのは蛇の道は蛇です。その道の専門家は熟知しているという意味です」

「ふ~ん。それをなんでそう言うのかしらね。カエルの子はカエル的なこと?」

「蛙の子は蛙は、子供の性質は親に似てしまうという意味ですから全然違います」

「なんで私がごんぞうに説教されなきゃあいけないのよ」

「説教してるつもりはないんですけど、なんかすいません。話を戻しますけど、実は昔私が関わったある事件の関係者が板垣組に内通しているんです」

「それで?」

「その男に小遣いをやれば内部の情報を手に入れることができます」

「いわゆる情報料ってやつね」

「ほお、知ってるんですね」

「探偵小説に出てきたわよ」

「また、探偵小説ですか」

「いいでしょう。あってるんだから。それで、いくら払うの? 50万くらい?」

「それだったら、私がほしいです」

「やめてよね、うちの所員ってみんなお金の亡者なのかしら」

「いやそんなことはありません。5万で十分です」

「あっ、そう。わかった。じゃあ、早速動いて」

「了解しました」

 その日のうちに鬼瓦は行動に移したようだ。3日後、恋の元へ得意げな顔をしながら鬼瓦がやってきた。

「ボス、おまんたせいたしました」

 受けると思って言ったようだったが、その日の恋は出がけに夫婦喧嘩をしたようで、ここ数年で一番機嫌が悪いのだった。そのことを知っている周りの者たちは、恋の近くに寄らないようにしていた。それなのに、何も知らない鬼瓦がやってきて、いきなり恋に向けて『おまんたせ』と言ってしまったので、みんな『やっちまったな』という顔をしたが、後の祭りである。

「最低。最悪。言語道断。極悪非道。そんなヤツは日本から出て行けー」

 恋のあまりの剣幕に意気消沈する鬼瓦。

「すみませんでした。私は、あのお、軽い冗談を言ったつもりだったんですけど…」

「ふざけんじゃないわよ」

「どうしたらいいんでしょう」

「三回まわってワンと鳴け」

「ええー」

「1回まわってニャンって言うのもあるらしいけど」

「もう、勘弁してくださいよ。何でも言うこと聞きますから」

「ほんとだな」

「はい」

「じゃあ許す。早く用件を言って」

「はい。内通者と会って依頼しましたところ、やはり賭博客の中に事務長がいました。これが客リストのコピーです」

「ふ~ん」

「それと、もう一つわかったことがあります」

「何?」

「ある時、事務長の川口は大負けしたそうです。もっともそれも板垣組のほうで仕組んだものだったようですが」

「やりそう」

「要するに、大きな病院の事務長と知ってカモにされたのでしょうね」

「あり得るわね。それで?」

「とんでもない借金を被せられた川口は、借金返済のためもあって板垣組のいいなりになるしかなかったというわけです」

「それで、薬の売人をやらされてるのね」

「恐らくそうでしょうね」

「あっ、そう言えば、町村のことを丸山ちゃんに訊いてみたのよね」

「ええ。それで丸山さんは何と?」

「さすが丸山ちゃん。だてに芸能界で長く生きていないわね。ちゃんとした情報を持ってたわ」

「どんな?」

「丸山ちゃんが言うにはね、町村は若くして売れたことで小金を持ったらしいの。それから悪い遊びを覚えたようよ」

「よくある話ですね」

「その延長で薬を始めたという噂が前からあって、どうやらマトリも動いているらしいの」

「ほお」

「でも、まだ尻尾がつかめていないらしいのよ」

「そうですか」

「これも私の推理なんだけど。尻尾が見えないのは、あの病院の人間ドッグフロアーをうまく使っているせいなのではないかと思うの」

「なるほど。可能性はあります。確証がほしいですね」

「事務長を追っている育美ちゃん、山岸ペアか、麗奈ちゃんのほうできっとつかむわよ」

「そう願いたいものです。しかし、それにしても事務長の川口は板垣に他にも何かやらされている可能性はありますよ」

「そうかもね」

 恋には思い当たる節があった。


 今回の案件のキーマンは事務長の川口だったので、事務長の動向を探ることは必須事項だった。そこで、その任はエースの育美と山岸に担当させることにした。

 山岸が事務長の下で働く中村とやりとりをして、事務長におかしな動きがみられた時、日々張り込みをしている山岸に連絡がくることになっていた。そして、ついにある日動きがあった。

 事務長が一本の電話を受けた後、慌てて外出の支度をし出したというのである。駐車場から出てきた事務長の車を、山岸の乗る車が追跡を開始した。

「今事務長の乗る車は新宿方面に向かっています」

 山岸からの連絡を受けた恋が、隣にいる育美にその旨を伝える。

「案の定ですね」

 板垣組の事務所と株式会社大谷の事務所が新宿にあることは調べが済んでいた。

「しかし、何の用事でしょうね」

 恋と育美が人間ドッグに入っている時から、事務長が板垣に必要以上に怯えている様子は見てとれていた。

「きっと薬よ」

「薬?」

「覚醒剤よ」

 鬼瓦からその可能性が高いことをすでに聞いていた恋は、あたかも自分の推理であるかのように話した。

「う~ん、可能性はありますね」

「どう? 私の推理?」

「鋭いです」

「事務長は何らかの理由で板垣から脅されて薬の売人をやらされている。その客の一人が俳優の町村よ」

「だとすると、今日は薬を取りに行ったと」

「そういう可能性がある、ということ」

「今回は所長の推理が当たっているような気がします」

「今回は、ってどういうことよ」

「だって、時々的外れな推理するじゃないですか」

「まあ、私も人間だから、時に外すことだってあるわよ」

「時にねえ?」

「時にねえってどういうことよ」

「どういうこともこういうことも、その通りの意味です」

「相変わらず、私には冷たいんだから」

「なんか違うんだけどなあ。だって所長、外す時は桁違いに外すからですよ。この間だって、私が宅配便の人を好きだとか言ってたでしょう」

「だって、すごく仲良さそうに話してたから…」

「あれは、配達時間について訊いていただけなんですから。勘違いも甚だしいです」

「あら、めんご、めんご」

 ちょうどその時、山岸から再び連絡が入った。

「歌舞伎町の近くの駐車場に車を入れて、区役所通りを歩いています。あっ、今雑居ビルに入りました」

「ビルの名前を確認して。きっと、KTビルだと思うけど」

「そうです、そうです。KTビルです」

 そのビルの中に板垣組と株式会社大谷の事務所が入っている。

「了解。そのビルの3階と4階に板垣の事務所が入っているのよ。たぶん、そんなに時間かからないで出てくるでしょうから、山岸君、近くで見張っていて」

「わかりました」

 コーヒーを飲みながら山岸からの連絡を待っていると、育美が思い出したように言った。

「そう言えば所長、内科部長の件ですが」

「うん」

「麗奈ちゃんが言っていたように、事務長の川口の息子に間違いありませんでした」

「でも、名前が違うわよ」

 事務長の苗字は川口、内科部長の名字は東海林だ。

「ええ。妻の実家に養子に入ったからです」

「なるほど。で、その息子はいつ大野総合病院に入ったの?」

「今から5年前です。事務長が東京の病院からあの病院に引き抜かれてきてから3年後でもあります」

「ふ~ん」

 そう言って、恋は考えるふりをした後、育美の腰当たりを見て言った。

「なんか臭いわねえ」

「えっ、私オナラなんかしてないですよ」

「誰もそんなこと言ってないわよ」

 実はオナラをしたのは恋のほうだった。

「だって、今私の腰辺りを見ましたよね」

「気のせいよ」

「なんか納得いかないなあ」

「さっさと話を進めて」

「はい。息子は当時大学病院に勤務していて、将来を嘱望された優秀な医者だったそうです」

「そんな優秀な医者を個人の総合病院に呼び寄せたということは、何らかの狙いがあったと思われるわね」

「恐らく院長の後釜に据えたいんじゃないですか。院長は高齢で先は長くないと思われてますし」

「でも、院長の息子の外科部長がいるじゃない」

「そうなんですけど。外科部長のほうはどうやら最近病院内で力を落としているようなんです」

「その理由は?」

「まだわかりません」

「調べる必要ありね」

 そこへ山岸から電話が入った。

「事務長が若い男と一緒に出てきましたよ」

「そう」

「なんか、若い男にペコペコ頭を下げてますよ」

「ふ~ん。板垣組に弱みを握られている証拠ね。とにかく、この後、事務長がどんな行動をとるか引き続き追跡して」

「はい。わかりました」

 それからしばらくして、再び山岸から連絡が入る。

「新宿を出た事務長は渋谷方面に向かっています」

「わかった。じゃあこれから育美ちゃんをそっちへ向かわせるから途中で拾って」

「はい、わかりました」

 山岸一人では不安だったのと、証拠写真を撮るためには二人のほうがいいからだ。その後合流した育美から連絡が入る。

「所長、事務長は渋谷から赤坂、六本木を回り、数人と会って何かを渡し、引き換えに金を受け取りました」

「やっぱりねえ。ちゃんと写真撮ったんでしょうね」

「もちろんです。動画も撮りました」

「さすが育美ちゃん。たぶん、この後病院に戻ると思うから、そこからは麗奈ちゃんにバトンタッチさせるわ」

「わかりました。でも、彼女大丈夫ですかね」

「育美ちゃんって、麗奈ちゃんのこと嫌い?」

「誰もそんなこと言ってません。ただ、探偵事務所の所員としてはまだ不安があるというだけです」

「確かにそれはあると思うけど、あの子ああ見えてやれる女だと思うわよ。私は女優より探偵の仕事のほうが向いているんじゃないかとすら思ってる」

「所長、その意見には賛成しかねます」

 どこまでも麗奈のことが嫌いな育美であった。

「育美ちゃんの気持ちはわかったわよ」

「それならいいんですけど」

 不満げな育美。

 そんな育美は無視して、恋は早速麗奈にメールで連絡を入れたが、仕事中と見えて繋がらなかった。しばらくすると、麗奈のほうから電話があった。

「今遅い昼食で外に出ていますけど、何か用ですか?」

 やっと昼食の時間になったところで電話がかかってきて不機嫌なのだろう。

「用があるから電話したのよ」

 やんわりと皮肉を言ってやる。

「そうですか。で、あのお、麗奈これから昼食に…」

「さっきから、昼食、昼食って何回言ったら気が済むのよ、こっちは業務連絡を入れているんだから、黙って聞くんじゃい、このドアホー」

 さすがの恋も切れた。

「ごめんなさい」

 恋の剣幕に驚いた麗奈が今にも泣き出しそうな声で言った。

「ごめんで済むなら警察はいらないって学校で習わなかった?」

「はい、習いませんでした」

 真面目に答える麗奈。こういうところがカワイイのよねと、恋は思う。

「もういいわよ。それでね、もう少ししたら事務長が病院に戻るのよ」

「そうなんですか」

「そう。病院に戻ったら町村のところに行って何かを渡すはずなの」

「ええ」

「その様子を押さえられたら押さえて」

「はい」

「ただし、受け渡しが部屋の中で行われることも考えられるから、事前に町村の部屋に盗聴器を仕掛けておいてほしいのよ。わかった麗奈ちゃん。あなたならできるわよね」

「はい。じゃあ急いで食事に行って戻ります」

「よろしくね。いつもカワイイわよ麗奈ちゃん」

 最後にやる気にさせる言葉をかけておく。


七 

 大野総合病院に勤務していた3人の元看護師が事務所にやってきたのは、水曜日の午後2時だった。今はそれぞれ別の病院で勤務しているが、休みを合せて来てくれたという。

「お待たせいたしました」

 恋が3人の待つ応接室へ入って行くと、3人は恋の容姿に釘付けとなったようだが、恋のほうも3人の容姿に釘付けとなった。もちろん、まったく違う意味で。3人とも見事に太っていた。顔はほんとうはそれぞれ違うのだろうけど、お相撲さんと同じで太っていると目が横に引っ張られた同じような顔に見えてしまう。

「あっ、どうも」

 一番年長の女性が軽く頭を下げただけで言った。挨拶の仕方も知らないのかい。

「私、この事務所の所長をしております万里小路恋と申します」

 名刺交換をしながら、それとなく様子を見るが、明らかに場違いなところに来てしまったという落ち着きのなさが伺える。真ん中に座った、一番年長の女が金田圭子、その横に座る二番目に偉そうな女が中井京子。反対側に座る気の弱そうな女が田村明子という名前であることが判明した。

「とにかくお座りください」

 そう言わないと、いつまでも立ったままでいそうだったので、着席を促す。

「しかし、綺麗な事務所ですね。所長さんも綺麗ですけど」

 探偵事務所と聞いて、雑居ビルの中にある薄汚い事務所を想像していたようだ。

「おかげさまで。綺麗なのは生まれつきでございますのよ」

 度肝を抜いてやる。

「はあ、そうですか」

 間抜けな答え。もっと気の利いた返しができないのだろうか。

「今日はお忙しいところお越しいただきましてありがとうございます。さて、早速ですが、いくつか質問させていただいてよろしいでしょうか?」

「どうぞ」

 金田が代表して言った。

「まず最初にお聞きしたいのは、外科部長の腹腔鏡手術の件ですけど。山岸から聞いたところによると、結局うやむやになったようですが、なぜそうなったのですか? 少なくとも、ここにいらっしゃるお3人は問題にしようとなさったのですよね」

 恋の問いに3人は顔を見合わせた。何をどこまでしゃべっていいのかを思案しているようである。

「大丈夫ですよ。私どもには守秘義務がありますし、みなさんに迷惑がかかるようなことは一切ありませんので安心してください」

「はあ、そうですか」

 金田があまり納得していないようなのを見て、恋が得意の、あの手に打って出た。

「そうそう。言い忘れていましたけど、うちの事務所では、お話いただいたら情報料というものをお渡ししているんですのよ」

「じょ、じょ、じょうほうりょう」

 3人が声を揃えて言った。

「金額は、その内容によっても違いますけど、最低でも一人当たり5万円です」

 本当はもっと出してもいいのだが、この間、鬼瓦から聞いた情報料の相場を提示してみる。

「そ、そんなに」 

 一番気弱そうだった田村の目が急にギラギラした。その他の2人も嬉しさを隠しきれない。どうやら、この金額で問題ない。しかし、この3人も金に目がないようだ。

「ただし、嘘の情報を話されても困りますので、ちゃんと裏どりをいたします。万が一、嘘の情報だった場合は、うちの副所長で元警視庁捜査一課長の男が黙っていませんのでご注意を」

 鬼瓦の元の役職と、あの風体はそれだけで十分役に立つ。現に、それを聞いた田村は身体を震わせていた。

「大丈夫ですよ。私たちは真実しか言いませんから」

 金田がニヤリと笑って言った。この女は度胸がある。恐らく3人のリーダー格なのだろう。

「それはありがたいです。では、うやむやに終わってしまった理由はどこにあると思いますか?」

「それはねえ、事務長からの脅しですよ」

 金田が怒りを抑えきれないという表情で言った。

「脅し?」

「そうです。へんな噂を流したら、即刻馘だと脅されたんです」

 金田の言うことに他の2人も頷いている。

「でも、それだけじゃないんです」

 今度は田村が話し始めた。

「何があったんです?」

「外科部長の腹腔鏡手術に立ち会う看護師がなぜかいつも決まっていて、それ以外の人が関わることがなかったんです。しかも、その看護師たちはその後みんな出世しているんです」

「なぜかね」

 中井が相槌を打った。

「でも、その看護師の中で一人だけ急にいなくなっちゃった人がいるんですよ」

「どういうこと?」

 恋が確認する。

「ある日突然病院に来なくなって、そのまま行方がわからなくなっちゃったんです」

「それはへんね」

「そう思いますよね。私たちは裏事情を知り過ぎて消されちゃったんじゃないかって言ってたんですよ」

「ほお、探偵小説のようになってきましたね」

 思わずおもしろがる恋に、金田が冷たく言い放った。

「そんなのんきなものじゃありません」

「あら、すみませんこと。ところで、患者の家族から問題視されることはなかったのですか?」

「もちろん、そいう家族もいましたが、外科部長がもっともらしい理由を話して押し切ってしまいました。その知恵をつけたのが事務長と言われています。家族としても、手術と死亡を結び付ける証拠を持っているわけではないので引き下がるしかないんですよ。それに、腹腔鏡手術をしたすべての患者が亡くなったわけでもないのでね」

「なるほど。当時の外科部長はどんな感じでしたか?」

「すごい尖がってましたよ。まだ若かったし、院長の息子だって言うのもあって」

 中井がいかにも嫌そうな顔をして言う。恋が会った外科部長とはずいぶん感じが違うので驚く。

「ほおー。最近はへらへらしていますけどねえ」

 恋が先日会った時の感想を言う。

「腹腔鏡手術の後始末をやった事務長に首根っこをつかまれてから、ああなったんですよ」

 最近外科部長の力が院内で落ちているという噂の原因はここにあった。

「路線変更せざるを得なかった」

「でも、あれが本性だと思いますよ。ただのスケベなオヤジです」

 なぜか田村が力強く言った。

「ひょっとしてセクハラでもされました?」

 まさかとは思ったが訊いてみた。すると、田村に代わって金田が言った。

「セクハラさえされませんでした」

「はい?」

 女と認めなかったという意味だろうか。

「まあ、そういうことです」

 金田が曖昧な答えをした。

「ところで、元官房長官の田中さんが絡んでいるっていうことはないですか?」

「ああ、田中さんね。田中さんって医師会の顧問をやってるんですよ」

 これは新情報だ。

「そうだったんですか?」

「そうだったんです」

 恋の言葉を繰り返しただけの中井。こいつも恋のことをバカにしているのか。

「それで、復空鏡手術の件が表に出ないように、事務長が田中さんに頼んだみたいですよ」

「なるほど。いい情報をありがとうございます。では、次に事務長に息子さんがいるのをご存知ですか?」

「内科部長のことですか?」

「えっ、息子さんが内科部長だっていうことを知ってるんですか」

「ええ。みんな知らないことになっているんですけど、実はみんな知っています」

「あら、そうなの?」

「隠したってわかっちゃいますよ、そんなこと。確かに名前は違うし、顔も似てませんけど、背格好とか体型とかはそっくりだし、話し方もそっくりだしね」

「ええー、そうなんですね」

「それどころか、事務長が自分の息子をいずれあの病院の院長にしたいと思っているって、元愛人が言ってましたよ」

 田村が言った。

「元愛人って、あの事務長に愛人がいたわけ?」

「ええ。蓼食う虫も好き好きです」

「隣の竹垣に竹立てかけた、うんぬんみたいな?」

「それはただの早口言葉です。実はその愛人は私が仲良くしていた看護師で、あの病院の人間ドッグフロアで働いていた子です。その子から直接聞いたので間違いないです。もう辞めてますけどね」

「そう。それは信憑性高いわね」

「事務長の野望ですよ」

 金田が決めつけるように言い始めた。

「あの人、貧しい家庭に生まれたみたいで、院長一族のような金持ちに対する偏見や敵愾心が強くて、彼らを追い落とすことで留飲を下げたいと思っていたようです」

「なんか暗くてドロドロしていて嫌ねー」

「でも、そういう人たちのエネルギーってすごいんですよ。だから、目的のためにはどんな手段でも躊躇なくできるんです」

「そういう意味で事務長も歯止めが利かなくなってしまった可能性はあるわね」

「そうだと思います」

「最後にお訊ききしたいのは、板垣昇のこと。何か知っている人いますか?」

 すると、再び金田が口を開いた。

「人間ドッグを年数回受けている人ですよね」

「そうそう」

「私たち一般病棟担当の看護師は直接関わることがないからよくはわからないんですけど、たまに一回の売店の隅で事務長とひそひそ話をしているのを見かけましたね」

「やっぱりね」

 すると、中井が衝撃的な証言をした。

「私は新宿の喫茶店で事務長と板垣さんと田中さんが一緒にいるところを見ましたよ」

「それはすごい。オールスターの勢ぞろいですね」

「ええ。なかなかの雰囲気でした」

「その時の事務長の様子はどんな感じでしたか?」

「そうですねえ。事務長は二人の話に必死に耳を傾けているという感じでした」

「なるほど」

 3人はなかなかの情報をもたらしてくれた。そこで情報料として10万円ずつ渡した。ただし、嘘が混じっていたことがわかった場合は、元警視庁捜査一課長の鬼瓦が回収に行くという脅しを改めてつけ加えることを忘れなかったが。


八 

  麗奈から元官房長官の田中が人間ドッグを退院したと恋に連絡が入った。

「今朝退院したんですけど、私呼ばれちゃって」

「それで?」

「携帯電話番号を渡されて、電話ほしいって言われちゃったんですよ」

「あらそう。それはビックチャンスね」

「何でですかあ?」

「堂々と会って情報を入手できるじゃない。しかし、あのじいちゃんもよっぽど麗奈ちゃんのことが気に入っちゃったのねえ。それで何と答えたの?」

「奥さんに言いつけちゃうぞって」

「うふ。しかし、麗奈ちゃん、やるねえ」

「ええー、そうですかあ」

「たいしたタマだ」

「やだ、所長。麗奈は女の子だから、タマなんてないですよお」

「そういう意味じゃないわい。で、ちゃんと連絡先受け取ったんでしょうね」

「はい。あんまりしつこいから受け取りました」

「それで良し」

「でも麗奈あんなおじいちゃんと会うつもりないですう」

「何寝ぼけたことを言っちゃってくれちゃってるわけ。麗奈ちゃんにお願いしているのは仕事なのよ」

「そんなこと言われなくたって麗奈だってわかってます」

「あっ、そう。それならいいわ。そうしたら、麗奈ちゃんのほうから連絡して田中のおじいちゃんとデートしてちょうだい」

「ええー」

「ええーじゃない。今仕事だって言ったばかりでしょ。デートするのよ。その時に田中に訊いてもらいたいことはこちらで決めておくから心配しないで」

「そんなこと言われても、関係を迫られたらどうするんですか? 私こう見えてまだ処女なんですから」

「嘘だね」

「すみません、嘘です」

「大丈夫。麗奈ちゃんには盗聴器をしかけて、もしそういう状況になりそうになったら近くに配置する育美ちゃんと山岸君が助けに入るから」

「でもー」

 まだ不安そうな麗奈。

「何なら、鬼瓦ごんぞうも行かせる?」

「それはいいです」

 ごんぞうは拒否するのかい。ごんぞうのほうは麗奈にぞっこんだって言うのに。

「何でよ。いざという時に一番頼りになるのはあの腕っぷしの強いごんぞうだと思うけどなあ」

「でも麗奈、ああいうタイプ苦手なんですよね」

 ごんぞうも嫌われたものだ。まだ麗奈がぐずぐず言っているので、一発で落とせる手段に出る。

「じゃあ、特別手当って言うのはどう?」

「えっ、特別手当ですかあ」

 嬉しさのあまりか、急に声が一オクターブ高くなる。結局、お前も金かーい。

「でも、なんかお金で釣るみたいで麗奈ちゃんに失礼になるからやめようか」

 そんなこと思ってもみないが、わざと言ってやる。

「いえいえ、全然そんなことないですう」

 やめられては困ると思ったか、慌てて否定した。それどころか、

「ちなみに、特別手当っていくらですかあ」

 と、金額を訊いてきた。わかりやすい子だ。

「う~ん、10万でどう?」

 どうせ恋が自分のポケットマネーから出すもの。恋にとっては5万でも10万でもほとんど変わらない。

「ええーそんなにくれるんですか。俄然やる気になりました」

「よしよし、麗奈ちゃん。いずれにしてもデートの日時が決まったら連絡してね。見張り役の育美ちゃんと山岸君を配備する必要があるから」

「は~い、わかりましたあ」

 麗奈が田中と会うことになったのは5日後だった。Tホテルの本館中2階にあるレ・セゾンというフレンチレストランで食事をしないかと誘われたという。レ・セゾンは有名店で、恋もママと何度か行ったことがある。

「あらあ、良かったじゃない」

「でも麗奈はお仕事だしい」

「それはそうだけど、どうせおじいちゃんの奢りだろうから、美味しいもの食べちゃいなさいよ」

「は~い、そうします」

「詳細はメールを送っておくからよく見てね」

「わかりました。それで、ちょっとお願いがあるんですけど」

「何?」

「私、そういう高級なお店に行く時に着るお洋服持ってないんですけど…」

「しょうがないわねえ。わかったわ。一式プレゼントする」

 すっかり麗奈の独特なペースに乗せられているのを自覚するが、彼女をうまくつかいこなすにはこのくらいのことは必要経費と言えるだろう。

「ほんとですか。嬉しいです」

 当日は二人の様子を監視するために、育美と山岸を配置した。

『こんにちわー。待ったあ』

 麗奈が着いたようだ。二人の会話はすべて盗聴器を通して事務所にいる恋と鬼瓦の耳に入るようになっている。何せ、恋が用意したのは最新式の超高性能な盗聴器(べらぼうに高い)なので会話がはっきり聞こえる。

『おおー、麗奈ちゃん。今日は一段と綺麗だね』

 田中の声を初めて聞いた。

「いかにもおじいちゃんの声ですな」

 鬼瓦が嫌悪感を露わにして言った。

「声も年をとるのよ。ごんぞうだって、もうすぐこんな声になっちゃうんだから」

「やめてください。まだまだ先です」

『もおー、おじいちゃんたら、麗奈にぞっこんなんだからあ。でも、今日のおじいちゃんも素敵よ。そのお洋服すごーく、似合ってるう』

 麗奈の鼻にかかった声が聞こえる。まるで銀座のクラブのホステスのようだ。

「声もカワイイですね、麗奈ちゃん」

 と鬼瓦。

「いつも聞いている声じゃないか。デレデレするんじゃない。さっきからずっとキモいよ。まあ、ごんぞうはいつもいつもキモいんだけどね」

「ひどい言われようですな。逆セクハラで訴えますよ」

「どうぞどうぞ。訴えられるものなら訴えてみろ」

「なんか、すみません」

「そんなことより、麗奈ちゃんたら、田中に面と向かっておじいちゃんって言えるなんてすごくない?」

「さすが、麗奈ちゃんです」

『麗奈ちゃんにそんなこと言われたら、困っちゃう」

 田中まで鼻にかかった声を出す。

「気持ち悪。ずっとこんな会話聞かされるんですかね」

 確かに、ジジイの鼻声は気色悪い。

「しょうがないでしょ。麗奈ちゃんだって、いきなり核心に触れるわけにはいかないんだから」

「まあ、そうですね」

 その後も、似ても焼いても食えないような会話が続いていたので、核心に近づきそうになったら呼んでくれるように言い残し、恋は所長室へ逃げ込んだ。

 疲れていたのか、いつの間にやら睡魔に襲われ、ソファーで足を広げるというはしたない恰好で寝込んでいたら、内線電話で起こされた。口元の涎を手で飛ばしながら電話に出る。

「うるさいわね。なんだっていうのよ」

 寝込む前に鬼瓦と一緒に麗奈と田中の会話を聞いていたことなどすっかり忘れていた。

「はあ? それはないでしょう。こっちはずっとうんざりするような会話聞かされていたんですよ。そろそろ核心に入る感じだから連絡したんじゃないですか。さっさとこっちに来てくださいよ」

 鬼瓦が珍しく怒っていた。

「ああ、ごめん。そうだったわね。今すぐ行くわ」

 慌てて会議室に戻ると、明らかに不機嫌な鬼瓦の顔に出会うが無視する。盗聴器からは、だいぶ酔っぱらったと見える田中の声が聞こえる。

『麗奈ちゃんって、どんなタイプの男が好きなの?』

『だからあ、さっきも言ったように、おじいちゃんみたいにしつこくない人だって。それより、おじいちゃん、あの病院の内科部長って、事務長の息子だって知ってるんでしょう』

『そりゃあ知ってるよ。というか、ある人を介して事務長が息子と一緒におじいちゃんのところに来たんだから』

『えっ、そうなの。どうせ、良からぬ相談でしょう』

『麗奈ちゃんも悪そうな顔するんだね。でも、そういう小悪魔的な麗奈ちゃんもたまらなくいいよ』

『ヤラシイ顔。で、どんな相談だったの?』

『う~ん』

 さすがの田中も、言うのを躊躇っていると見える。

『う~んって、麗奈っちの質問に答えないわけ』

 麗奈も酔っているのだろう。自分のことを『麗奈っち』と言い出した。

『そうは言ってもねえ』

『じゃあ、麗奈っち帰っちゃうけど、いい?』

『ちょっと待ってよ。何でそういうことになるかなあ。わかった。麗奈ちゃんは口が堅そうだから教えてあげる』

『ありがとう。今おじいちゃんはアソコが硬いのかな?』

下ネタか~いと恋がツッコむ。

『う~ん、どうでしょう』

『プリティ長嶋かあ。それでそれで?』

 本家長嶋ではなく、プリティ長嶋を入れ込むあたりは麗奈ちゃんらしい。

『実は、あの病院を乗っ取るという計画があってね』

『えっ、そうなの?』

『うん。元々その計画を立てたのは株式会社大谷の社長をしている板垣という男なんだ。私と同じように、あの病院の人間ドッグの常連だから、麗奈ちゃんももちろん知ってるよね』

『うんうん、知ってる。あの気障男君ね』

『気障男?』

『だってさあ、麗奈っちの誕生日に真っ赤な薔薇の花束をくれて、前から麗奈ちゃんのことが好きでしたとか言ってたよ』

『板垣の奴めー、抜け駆けしおったな。けしからん』

『まあまあおじいちゃん。そんなに怒ると血圧が上がっちゃうよ。それより、話の続きは?』

『そうだったね。その板垣が事務長の弱みを握っていて、事務長を巻き込んで進めようとしているって言うわけさ』

『ふ~ん。で、おじいちゃんはその黒幕っていうこと?』

『さあ、どうでしょう』

『それ好きねえ。とぼけてもダメ。しかし、お主も悪よのお』

『麗奈ちゃん、そんな言葉どこで覚えたの?』

『水戸黄門のDVD』

『あっはっは。そうか、そうか。麗奈ちゃんはカワイイのお』

『その計画って成功しそうなの?』

『どうかなあ。最近、事務長がバタバタし過ぎているからわかんないね。でも、その時はその時で次の手は打っている』

『さすがおじいちゃん』

『成功の暁には麗奈ちゃんを10日間のハワイ旅行にご招待するよ』

『まさか、この麗奈っちと二人で行こうとか考えてるんじゃないでしょうね。麗奈はこう見えて、結婚するまでは純潔を守るタイプなんだからね』

『大丈夫。おじいちゃんの大切なアイドルの麗奈ちゃんなんだから、指一本触れません』

『それは嘘だね。こんな魅力的な麗奈っちのネグリジェ姿を見たら、理性なんて吹っ飛んじゃうこと間違いなし』

 最後の方はまたどうでもいい会話になってはいたが、二人の会話からは最上級の情報が得られ、恋と鬼瓦は飛びあがらんばかりに驚いていた。もっとも、鬼瓦が一番反応していたのは、麗奈ちゃんのネグリジェ発言のところだったが。

「しかし、麗奈ちゃん、すごい情報を引っ張りだしましたね」

 鬼瓦が興奮気味に言った。

「あの子は恐ろしい子ね。それを本人が自覚していないところが、可愛くて、私は好きよ」

「私もです」

 間髪を入れずに鬼瓦が言った。

「ん?」

「ボスの次に、です」

「そんなのどうでもいいわ。そんなことより、これで麗奈ちゃんの大仕事は終わったわけだから、田中の毒牙から麗奈ちゃんを救い出してあげなければね」

「ボス、それは私にやらせてください」

「何言ってるの。アホかあ。あんたはここにいるんだから。近くにいる育美ちゃんと山岸君に任せるから引っ込んでいて」

「そうですか…」

 しょげる鬼瓦を無視して、恋は育美と連絡をとり、麗奈を救い出すよう指示した。


 各人が与えられた役割を果たした結果、点と点が繋がり線となり、その線が描き出した完成図は、想像の域を超えるものだった。

「みなさんの頑張りのおかげで、全体像が浮かび上がりました」

 再び今回の案件の関係者全員が集まり、今後の対応を協議することになった。まずは、リーダーの恋がみんなの努力に感謝の意を表わした。

「しかし、ここまでとは思わなかったですな」

 鬼瓦が口火を切る。

「そうね。最初、中村さんから話を聞いた段階では、ここまで大事に発展するとは思わなかったわね」

「でも、すべては事務長から始まっています」

 育美がいきなり核心をついた。さすがはエース。

「その通り。今回の案件は欲望と欲望のぶつかり合いから起こったものだけど、中でもその欲望が一番強かったのが事務長なのよね」

「そうです。それを利用しようとしたのが、板垣と元官房長官の田中です」

「それ以外の人物は、みんなその渦の中に巻き込まれてしまったようなものね」

 ここまでの恋と育美のやりとりを、感心しきった顔で聞いているのが山岸。一方、麗奈はただぼおっとした表情で聞いている。

「でも、今回は麗奈ちゃんが大活躍だったわね」

 恋がその麗奈に向かって言う。

「いやあ、本当にそうです。彼女の活躍なしに今回の案件の解決はなかったといえるんじゃないでしょうか」

 麗奈が答える前に、鬼瓦がしゃべっていた。そんな中、一人苦虫をかみつぶしたような顔をしているのが育美。

「私ですかあ」

 恋と鬼瓦に名指しされて、それまで仮死状態だった麗奈が、とたんに華やかな笑顔を見せた。美人の笑顔は魔力を持つ。

「麗奈ちゃんって、案外探偵の仕事が向いているのかも。この際、女優を辞めて探偵専属になったら?」

「嫌です。絶対に嫌です」

 ここは断固として拒否した麗奈。どうやら、自分が好きなことと自分が向いていることとは違うということを理解できる人間が成功するものらしい。

「わかったわよ、麗奈ちゃん。ところで、副所長」

 こうしたちゃんとした会議では、ごんぞうとは呼ばないように最近はしている。

「はい?」

「どう決着つけたらいいと思う?」

 事件性のある事柄も含まれているので、まずは鬼瓦の意見を訊きたいと思ったのだ。

「今回のわれわれの調査でわかったことの中で、事件性の高いものは警察に届けなくてはなりません」

「具体的には?」

「薬がらみや違法賭博の件です」

「外科部長の腹腔鏡手術の件は?」

「現段階でわれわれが明確な証拠を掴んでいるわけではないので難しいと思いますね。ただ、患者の家族や元看護師たちが告発すれば、違った形で問題になるでしょう」

「そうね。じゃあ、育美ちゃんはどう考える?」

「副所長がおっしゃったことはその通りだと思います。ただ、その前に、わが探偵事務所としての決着は、調査で判明した事実を病院に報告することではないでしょうか。警察に届けるのも、病院にさせるべきではないかと、私は思います」

「さずがは育美ちゃん。正論ね。ただ、今回はその病院から正式に依頼を受けたわけではないし。もっと具体的に言えば、誰に報告すべきかが問題よね」

 すると、山岸が手を挙げた。

「どうぞ、山岸君」

「事務長をうちの事務所に呼んで、調査結果をすべて示して結論を出させてはどうでしょうか」 

 元凶たる事務長に事実を示し、認めさせた上で結論を出させるという方法は確かにある。

「あのお」

 それまで黙って聞いていた麗奈が突然口を開いた。

「何、麗奈ちゃん」

「私は、院長にすべてを報告して判断してもらったほうがいいと思います。そのほうがちゃんと調査費用も取れますし」

 麗奈が調査費用のことまで考えていたとは意外だった。

「ほおー。でも、院長って、ただのボンボンで、お飾り状態って聞いてるけど。院長に正しい判断ができるのかしらねえ」

「所長、それは誤解です。へんな噂を流している人がいっぱいいるみたいですけど、あの病院で一番まともなのは院長です」

「麗奈ちゃんがそこまで言うからには、何か根拠があるの?」

「はい。私の仕事はもう終わったので、あの病院を辞めようと辞表を出したんです」

 確かに、もう辞めていいと言った。

「それで?」

「そうしたら、院長室に呼ばれちゃったんです」

「院長に?」

 鬼瓦が納得いかないという顔をする。

「そう。それでえ、嫌々行ったら、君が美人で噂の吉井麗奈さんかって言うから、そうですって言って…」

 自分で美人って言っちゃったも同然だし、いつものように麗奈のとりとめのない話が始まると思ったのか、みんなの中にダルイ感じが生まれてしまう。だが、恋は根気よく対応することに決めた。

「それで?」

「なんで辞めるんだって言われたから、女王様の命令ですって」

 女王様って、私のこと?と恋は思ったが、当たらずしも遠からずなのでそのまま言わせておく。しかし、その場にいたみんなが麗奈が『女王様』といった瞬間一斉に恋のほうを見たのは納得がいかない。

「そうしたら、院長が女王様ってどんな人だって訊くから、ものすごい美人なんだけど、ものすごくワガママで、天然で…」

 お前にだけは言われたくないと、恋がみんなに聞こえないようにツッコむ。

「その上、口は悪いし、洋服のセンスが今一だし、挙句の果てに匂いフェチで、オヤジの頭の匂いを嗅ぐが好きっていう変態なんですよって言ったら、大ウケで…」

 こいつ、放っておけばどこまで飛ばす気なのか。恋が隠していたフェチまでばらしやがって。

「麗奈ちゃん、こんな雰囲気になっているけど」

 みんながシーンとしているのを見て、麗奈が言った。

「やだ。私、院長に訊かれたから素直に言っただけでなんですけど…」

「麗奈ちゃん、そんなことが言いたかったんじゃないでしょう」

「あっ、そうですね。すみません。院長は、なぜだか私が仕事ができる人間だと思ったらしく、辞めないで院長秘書にならないかって言ったんです」

「へえ~」

 育美があまりの驚きに、思わず語尾を上げていた。

「もちろん、断ったんですけど。そうしたら、院長は病院のことについて熱く語り出したんです。今後も病院を発展させたい。それにはいくつもの課題があるけれど、自分は解決してみせる。そのためには、君のような、一見奇想天外な考え方のできる若い人が必要なんだと」

 麗奈の話を聞いて、恋は院長が人を見る目があるのかないのか、微妙な感じだと思った。

「確かに、そういう人物なら信用できるかもしれませんね」

 どこまでも麗奈がカワイイ鬼瓦が安易な同意を示した。

「わかったわ。今回に関してタイトルをつけるとしたら、『麗奈ちゃん大活躍の巻』だから、麗奈ちゃんの言うことを信じて院長に話をしましょう。あの病院のトップは院長だしね」

 みんなの顔を見ると、納得していない様子も伺えたが、ここは恋の独断で院長を事務所に呼んですべてを報告することになった。


 噂の院長が事務所に入ってくる姿を所長室のモニターで見ていたが、外見はさすが大物のオーラが出ていた。今回は警察がらみの案件でもあったため、恋と鬼瓦の二人で報告することにした。

「失礼します」

 鬼瓦が声をかけて応接室に入る。すると、院長はゆっくりと立ち上がった。年齢は79歳と聞いているがかくしゃくとしている。顔を見ると、確かにボンボンだった名残りはあるものの、長い年月を生き抜いてきた貫禄がにじみ出ていた。お互いに名刺交換をした後、席に着く。院長の名が大野信一郎だとわかる。ただし、恋は敢えて役職(肩書)の書かれていない名刺を渡した。

「わざわざご足労いただきましてありがとうございます」

 鬼瓦が珍しく丁寧な挨拶をしているのに驚く。その院長はさっきからずっと鬼瓦のことしか見ていない。きっと、恋のことを一事務員くらいにしか思っていないのだろう。そうやって、見た目や肩書だけで人を決めつけるのが男という生き物のバカなところだと、院長に目いっぱいの笑顔を振りまきながら恋は胸の中で毒づく。

「いえ。ただ、私は事務局の中村君に言われてこちらに伺っただけで、何の用件かはわかっていないのですがね」

 どうやらこの男は本当に何も知らないと見える。

「本当に何も聞かされてないんですか?」

多少の皮肉を込めて恋が言うと、院長は初めて恋にちらっと目を向けた。しかし、その目に好奇の色が浮かんだのを恋は見逃さなかった。所詮はスケベなジジイに違いない。それを確かめるために、ミニスカートの足を意味もなく組み替えてみると、案の定院長の目がそこをとらえた。どんなに偉そうにしていても、男なんて一皮剥けばみんな同じ。そこで、今度は第二弾としてウィンクを仕掛けて見る。すると、自分に気があるとでも思ったか、鬼瓦にわからないように恋側の片目を瞑ってみせた。おっとー、バカの二乗だ。素性がわかったところで、未だに恋のことをちゃんと紹介し忘れている鬼瓦に喝を入れる。

「ごんぞう君、早く私のことを紹介しなさいよ」

 慌てる鬼瓦。

「あっ、すみません。ご紹介するのが遅れましたが、こちらが当事務所の所長です」

「ええー、そうだったんですかあ」

 まるで地球が消滅する瞬間に立ち会った時のような大げさな驚き方だ。慌てて恋の名刺を確認しているがそこには肩書は書かれていない。

「そうなんですのよ。名刺に肩書を並べるのなんてダサイので入れてませんけど」

 先ほど院長から渡された名刺には、山ほど肩書が書かれていた。

「大野さんは、私のこと小生意気な娘だぐらいにしか思っていなかったでしょうけどね。さっきなんか、私が左目が痒くて瞑ったら、ウインクと間違われてウインクを返されちゃいましたけどね」

 院長の失態をばらすと、院長は耳だけ赤くして下を向いてしまった。この年になっても、恥ずかしいという気持ちはあるようだ。

「まあ、いいんですけどね。では、これから私のほうですべてを報告いたしますから、耳の穴をかっぽじってしっかりお聞きくださいませよね」

「はい?」

「あれ、聞こえませんでした? きっと耳も遠くなっていらっしゃるでしょうから、もう一度だけ言いますね。そのお顔の両サイドについているしわしわのお耳をかっぽじって聞いてくださいって申し上げましたのよ」

「かっぽじってって言うところだけ違和感がありますけど、わかりました。どうぞ、よろしくお願いします」

 恋の勢いに気圧されたのか、急に低姿勢になった。恋が調査でわかったすべてのことを報告し始めた。最初は神妙な顔をして聞いていた院長だったが、その顔が途中から歪み出した。無理もない。さすがの院長もショックだったようだ。すべてを聞き終えたところで院長は言った。

「すべて私の責任です。一切の弁解の余地もありません」

 これには恋も感心した。すべてを受け入れる心の大きさが院長たる所以なのだろう。自分に都合のいい話は受け入れても、悪い話はとかく他人のせいにしがちなのが人間だ。しかし、院長はそうでなかった。麗奈ちゃんの人を見る目は間違っていなかった。

「そうですか。それでどうされます?」

「犯罪に手を染めた事務長については警察に通報し、もちろん、即刻解雇とします。息子の手術の件は、院内に外部の人たちによる調査・検証委員会を立ち上げ、改めて調査いたします。それに、これは鬼瓦さんのお力をお借りしたいのですが、反社会的勢力との関係を根絶させていただきたいと思います。元官房長官の田中さんには私が腹を割って話します。その他、今回の報告書でご指摘いただいたことも含め、病院の大改革に手をつけたいと思います。ただ、なにせ私もいい歳ですので、病院内外から若くて優秀な人材を集め、実行に移していきます。もちろん、今回の件の調査費用についてはきちんとお支払いさせていただきますので、ご請求ください」

「わかりました。大変かと思いますが、頑張ってください」

 と、そこへ麗奈ちゃんがコーヒーを持って応接室に入ってきた。それに気づいた院長が、

「もしかして、君は…」

「ああ、彼女実はうちのスタッフなんですのよ」

 恋がそう言うと、よほど麗奈のことが気に入っていたみたいで、

「こんな逸材どこで?」

 って言ったから、みんなで人差し指を立てて、

「ビズリーチ」

 と言ってやった。

 手のかかった今回の案件も、これで一見落着となった。

「しかし、やっと終わりましたね」

 今日は久しぶりに育美とランチをとっている。

「思いの外、大事になったからね」

「でも、所長は楽しそうでしたよ」

「そりゃあ、浮気調査よりは面白かったもの」

「ですね。でも所長、本気で麗奈ちゃんを探偵にするつもりですか?」

「そうよ。私のほうは本気。でも、本人にはさらさらその気がないのよね」

「麗奈ちゃんは今まで通り、売れない女優をしてればいいんですよ」

「出ました育美ちゃんのドS発言。あなた、ほんとに麗奈ちゃんのことが嫌いよね」

「はい、嫌いです」

 以前訊いた時は、嫌いとは言わなかったが、今回ははつきり嫌いと言った。

「何で?」

「逆に、何で所長は麗奈ちゃんのことが好きなんですか?」

「私にないところをいっぱい持ってるから」

「ええー、信じられない。所長の持っているものと麗奈ちゃんの持っているものって、ほとんど同じなんですけど」

「ええー、それって育美ちゃんは私のこと嫌いって言うことー」

「ああ、そこは微妙に違うんですけどね」

 こんなどうでもい会話をしている最中に、再び思わぬ案件が事務所に舞い込んでいた。

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迷探偵・万里小路恋(までのこうじれん) シュート @shuzou

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