茫漠とした闇の中

猫目 青

水の都

 そこは水の都だった。

 青々とした竹が、雨期の増水した川に浸かってその青い姿を逆さまに移しこんでいる。その川の至る所に、まるで釣鐘草をひっくり返したような笊型の船が留まって、どっさりと南国の珍味を山積みにしているのだ。

 船に乗せられているものは水晶やら瑪瑙をごちゃまぜにした鉱石だったり、それを加工した蜻蛉やら、蝶や、大きな蟷螂の宝石だったりした。浅黒い人々がそんな船に乗って、異国の言葉でなにやら喚いたり話したりしては、自分たちの品物をやり取りしている。

 品物の代金は自分の船に乗る商品であったり、今はもう使われていない日本の100円札や500円札や、ドルや、元や、ポンド、あるあらゆる国々の紙幣が流通していた。 

 秩序がない。

この水の都には、国家という名の秩序もなければ、民族という概念もない。どこの国にも属さず、どの民族も渾沌としてこの水の都に集っている。

 水の都とこの場所を称するのは、ひとえに多くの人々と品物が行き交うせいではない。

 川の両岸を埋め尽くす竹の中には、コンクリートでできた遺構が延々と続いている。遺構の建物を竹が何層にもわたってぶち破り、緑の大地を作り出している。

 竹に覆われた遺構の中には、ときおり旧日本軍が使っていた錆びた95式戦車だったり、砲台だったり、打ち捨てられた銃剣や、移動に使われた牛の骨や、トラクターが垣間見えるのだ。

 祖国日本の軍事基地があった場所に、この水の都は築かれている。さながら竹に蹂躙された基地跡は緑の都を想わせ、その緑の都を映す川を行き来する人々は、その都の住人である。

 竹で編んだ笊のような形をした船にゆられ、私はその都を通り過ぎていくのだ。

 ジャポネーゼ! ジャパニーズ! 日本人!

 浅黒い肌の人々が、様々な国の言葉で私が何者であるかを叫んでくれる。中には訳の分からない赤い果実や、緑のバナナを差し入れて、両手を突き出してくる人々までいた。何を渡していいかわからないので、とりあえず懐にあった日本製の飴や、ガムや、小さな付録の豆本などを手渡していく。

 みんな嬉しそうに目尻に皺を寄せて微笑んでくれる。前歯の抜けた子供たちが二三人、私と同じ笊の船に乗ってこちらにやってきた。占領軍のアメリカ軍よろしくチョコを渡すと、子供たちは笊の中で飛び上がる。彼らを乗せた大きな笊はひっくり返って転覆した。

 この水の都の主は、日本人たちだった。

 太平洋戦争当時(最近調べて分かった。日本側からこの戦争を見ると、大東亜戦争という呼び名がふさわしいらしい。私たち日本人には欧米人側から見た戦争のあり方が教えられたそうだ)欧米諸国から輸入を規制された日本は、石油をはじめとする資源を求めて東南アジアに侵攻する。

タイ以外のほぼすべての地域が欧米人のものであった東南アジアを黄色い肌の猿たちが蹂躙した。白人たちからすれば、これは侵略以外の何物でもない。後世の日本人から見ても、侵略と捉える人がほとんどだ。

 それを戦前では解放と言っていた。白人からアジア人の手でアジア人の土地を取り戻すから、解放なのだそう。そういった取り組みのことを大東亜共栄圏構想といったそうだ。

 だからこその大東亜戦争。日本から見るときちんと大義名分がある正義の戦争になるから不思議だし、アメリカから見ても日本人たちから土地を取り戻す防衛戦争になるわけだ。

 まるで水に映る竹のように、敵対する二つの勢力はどこまで行っても鏡写しで、どこまでいっても交わらない。

その戦争と関係のあることで、私は異郷の地であるここにやってきている。

ここは東南アジアのすみにある島だ。その島はもともと英国の植民地で、あとからやってきた日本兵たちが基地を作った。戦後は、どこの誰の土地ということもあやふやになって、好き勝手に人が住み着くようになったらしい。

 だからこの島の言語はばらばらだし、水の都があるこの場所は無法地帯なのだ。

 ここに私の祖父が眠っていると聞かされた。

 語ってくれたのは、色の浅黒い祖母だ。この水の都の人々と同じ肌の色をした女性だ。

 死ぬ一週間前に、彼女は私を呼び出していった。

 どうか、どうか、私を爺さんのところに連れて行ってほしいと。

彼女は今、私の背負うリュックの中にいる。祖母細かく砕かれた祖母の遺骨は小瓶に詰められ、私と一緒にこの地に渡ってきたのだ。

 現地人である祖母がどうやって日本に渡ってきたのか、どうして祖父はこの地で命を落としたのか。私はついに聴くことができなかった。

 私は私のルーツともいえる二人のことが知りたくて、ここに来たのかもしれない。

 笊の船を櫂で動かしながら私は往来する船を避けて、水の都を遡る。ふと横に生える竹を流し見ると、その竹が綺麗に切り取られた一角があった。

 四角く竹が切り取られた一角には、どんっと破損を免れた95式戦車が鎮座している。その上に茶や白の入り混じった雄鶏や雌鶏たちが乗っていた。

 あったあった。私が探していた場所が。

 櫂を漕いで、私は戦車のもとへと船を動かす。コケコケと、驚きながら鶏たちは戦車の上から飛びのいていった。

 ぐわりと櫂をあげて、戦車の装甲をたたいてみる。甲高い金属音があたりに何度も響くが、戦車からは何の応答もない。

 おかしい。ここに住んでいると祖母には聞いていたのだが。

「うるさいなぁ! バカ野郎!!」

 大声とともに戦車の扉を開けて、男が出てくる。日に焼けた肌が現地人と同じ褐色をしているが、喋っているのは日本語だ。

「あの、日本から来た目黒です」

 私は、その初老の男性に頭を下げていた。男性は驚いた様子で私をじっと見つめ、口を開く。

「目黒一等兵の……親族の方かな?」

「はい。祖母が亡くなりまして」

「ヒマリがなくなった……?」

 大きく眼を見開いて、じっと彼は私を凝視する。

「そうだ。君はヒマリの娘……いや、孫か。彫り深い顔つきがよく似ている。そうか、ヒマリの孫かっ」

 彼は破顔する。

「おぉ、どなったりしてすまなかった。ほら、寄ってくれ。こんな所じゃなにもないけどなっ! 茶ぐらいだったら出せる!」

 彼は両手を動かし、私に寄るよう促してくる。

「お邪魔しますっ!」

 私は弾んだ声をあげて、笊の船を岸部に近づけていた。船着き用のロープを投げると、彼はそのロープを戦車の砲身に結び付けてくれる。笊の底は深く、中から出ていくのはなかなか大変だ。そんな私の体を彼は引っ張って、岸に上がることも手伝ってくれた。

「あの、岩岸上等兵ですか?」

「ああ、そうだ。目黒の上官だった岩岸だ。よく来てくれたっ! こんな世界の果てまでよく来てくれた」

 私の両手をしっかりと握りしめ、彼はその手を激しくふってみせる。

「あの……」

「すまん。ずいぶんと日本に帰っていないから、嬉しくてついな……」

「そこまでして、墓守のお仕事を?」

「それが生き残った私の、せめてもの罪滅ぼしさ」

 皺の寄った手が優しく私の黄色い肌をなぞってくれる。褐色に染まったその手は、本来私と同じ黄色い色彩をしているはずだ。

「いまじゃ、こっちのほうが故郷みたいなもんだよ」

 彼は私の手を放して、川へと顔を向ける。笊の船で行き交う人々は、相も変わらず様々な言葉で語り合い、様々なものを売っている。

「ここには、敵も味方もない。国も民族もない。そのせいか死も生もあやふやになるときがある……」

 竹に囲まれた日本軍基地の遺構を眺めながら、彼はそっとため息をつく。たしかに、この水の都は生と死があいまいになった場所だ。死んだ戦争の遺構が周囲にあるというのに、生き生きとした人々の営みが流れる川面の上に展開する。

 その生と死がないまぜになった場所に、祖父の墓所はある。この水の都に祖父は眠っているというのだ。

 岩岸さんは日本を離れ、戦友たちを弔うためにこの水の都で暮らしている。日本から連れてきたお供は、数羽の鶏だけだそうだ。

「君ぐらいだな、ここに来てくれたのは」

 そういって彼は戦車に登り、その中へと潜っていった。彼の声が寂しげなのは気のせいだろうか。入り口から出てきた彼の手には、ボロボロになったやかんが握られていた。

「ちょうど薬湯を呑んでいたところだ? 一杯どうだい。今日の祭りには、必要だからね」

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