出・予備校記

藤原誠治

夕焼けの揺曳

 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコ12章29〜31節)


 相田は予備校の薄暗いじめじめとした地下室で簡単な昼食を済ませると、予備校を抜け出して電車に乗り込んだ。行き先があるわけではなかった。予備校は無関心の箱だった。無関心の箱から宝物が出るはずもない。マザーテレサが言っていたじゃないか「愛の反対は憎しみではなく無関心です」と。

 

 相田は電車に揺られながらこれまでの人生の無意味について考えた。

 人生の記憶を遡る時、決まって遠い幼少期の頃の記憶に思いめぐらすのであった。

 

 祖母の家、先祖の遺影、8畳の茶の間。薄暗い部屋には自分しかいないはずなのに無数の視線があるように思われる。古風なアンティーク調の掛け時計は、午後2時の少し手前のところで低く鈍い音色を響かせる。掛け時計の左隣には、いくつかの肖像が飾られていた。その人たちは感情の抑揚のない表情でこちらを見ていた。それは見られているというのではなく、見守られているような印象であった。相田は飽きることなくその肖像をじっと眺め続けていた……。


 ……人生はいつも節目節目に無意味の壁を築いてきた。

 幼稚園、小学校、中学校、高校と……。

 

 大学受験に失敗し、地元の予備校に通うことになったのも相田にとって意味のあることとは思われなかった。


 気がつくと、電車は日本海にほど近い駅に停車していた。どうやら終点だったらしく、電車から降りると目の前には海がどこまでも広がっていて、水平線から砂浜にかけての紺碧の濃淡の階調が色鮮やかだった。

 その日の天候は8月に長く続いた雨とは一転した爽やかな乾燥した日本晴れで、日光は夏の木々や舗装された艶のあるアスファルトを惜しげもなく照射していた。

 9月ともなれば泳ごうとする人はいなかったが、その日の海岸は、ろくに8月の海を楽しめなかった人たちが失われた8月を取り戻すかのように海を眺めていたり、海水浴を楽しんでいたりしていた。

 海辺まで出ると、海水浴場に隣接したT水族館へ向かう観光客が多くある。

 9月にもなって海へ行こうという発想は、それほど奇異なことではなかった。海水浴シーズンが過ぎれば海が無性に恋しくなったり、あるいは、学生などは新学期にかかわる生活の不安から癒しを求めて海へ行ったりするものである。殊に九月の快晴の日いたっては。

 生活にかかるあらゆる不安は常に未来に対する観念の表出である。我々が未来に不安を抱く時、その不安の多くは未知に対する解答を強く要請する。解答が手詰まりになったり、あるいは明瞭な解答を提出できない場合に、我々は生に対して強い不安を抱くのではないか。しかし、公式も知らぬ未来に対してどうして明確な解答が得られよう?その多くは解すら持たない生活に。

 生はこうして死という観念を深い海の底から呼び起こすのだった。

 現にT水族館では統計上、9月1日に自殺が多発することから営業日を延長したり、9月以降も多くのイベントを開催したりと、若者の自殺予防をしていた。

 T水族館は日本海に面した八角形の建物で、一角は海面から30メートルほどの高さところに長方形の見晴らしの良い展望デッキが突出している特徴的な建造物である。この建物は昭和後期に市の生体保全と観光資源の確保を目的として建てられ、その土地では昭和の時代を代表する建造物として有形文化財として指定された。艦隊を模したその外装は豪奢である。ところどころでヒビ割れていて、その亀裂のひとつひとつが過ぎ去った時の重さを誇示しているかのようだった。

 水族館に入ると中は薄暗く、青黒く映える水槽が幻想的に見えた。

 相田は館内を一通り見て回った後、2階にある休憩スペースで一息ついた。

 その時であった。休憩スペースから外を眺めると幼い少女が展望デッキから身を乗り出して今にも落ちそうに宙ぶらりんになっていた。辺りを見回しても親らしき人はおらず、それにその少女の状況を認識している人は相田を除いて誰一人いなかった。

 その瞬間、ほんの一瞬ではあったが、相田にふと次のような想念が浮かんだのだった。

 『落ちろ』という残忍な想念。ぐっと全身に力が入った。『落ちろ。落ちろ』と強く念じた。強く念じるほどに、相田の嫌悪は増大した。『お前はそこで無意味を終えるんだ。果てしない無意味。家庭は情痴に耐えられず、学級はいじめに崩壊し、卑劣な教師は保身のために職務を放棄して、職場は金と権力と地位のために操られている……。お前の眼前には無意味の壁が堆く積まれているんだ』

 なぜ、相田にこのような残酷な想念が生まれたのか相田本人ですら分からなかった。相田は決して酷薄な性格ではなかった。おそらくそれは、相田が作り出した想念ではなく、状況が相田に与えた想念であった。日本が相田に与えた途方のない無意味だった。

 相田は、日常から外れたこの瞬間、この少女の消失を夢見、さらなる世界の崩壊を夢見ていた。相田にとって、目の前の少女と世界は同義となった。

 ほんの5メートルほど右側では、ペンギンショーが愉快に催されていたのでペンギンが浮き輪潜りに成功すると盛大な歓声が上がった。

 何という無意味だろう、何という無意味と相田は何度も繰り返し強く思った。ペンギンショーを観ている人々の顔は千歳飴のようにどこまでいっても同じだった。


 相田は目眩がして頭を押さえて項垂れた。


 宙ぶらりんだった少女はなんとか体勢を戻し、落下を回避した。

 ………相田がうなだれている間、どれほどの時間が過ぎただろうか。ペンギンショーは終わり、あたりにはすでに人はいなかった。


 頭を上げると、眩しいほどの褐色の空が世界を包んでいた。

 夕焼けを望む海は太陽光によって二つに分かたれた。


『これが、これこそがかつてモーセの見た海だ。いつか時代に追い越されると思われた建造物は、ついに時代を追い抜いたのだ』 

 相田は展望デッキから夕焼けの海を眺めながらくだらない妄想に没頭した。

 さざなみは夕陽に反射し、きらきらと輝いて、風に揺れていた。

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出・予備校記 藤原誠治 @sono_saki

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