大人のかくれんぼ(妻編) その三

 ――――時間切れというように、夫二人の竹やぶから追い出された倫礼。


 芝生の上を歩いていた彼女は、遠くにガーデンテーブルを見つけた。降り注ぐ空の青の下でピンとひらめく。


「あっ! テーブルの下!」


 ベルベットのブーツで即行走り出そうとしたが、今までの隠れ場所を思い出して、慌てて急ブレーキをかけた。


「いやいや、それじゃ、ピアノの下と同じだな」


 外に出たのはいいものの。家が地球一個分。庭はもっと広い。物陰は少なく、見晴らしのいい風景。


 隠れる場所がなかなか見つからない。時間だけがいたずらに過ぎてゆく。それでも、どこかずれているクルミ色の瞳に、綺麗に整えられた植え込みが映った。


「よし、あっちだ!」


 自分の腰の高さまでもある植木の城壁。その向こうは、首都の街が広がる断崖絶壁。本当なら、景色を存分に楽しみたいところだ。


 しかし、今はとにかく隠れるだ。


 急がば回れ――。そんな言葉がある。だが、倫礼の辞書からは抹消されていた。


 いつもなら、しゃがんで垣根の向こうを確認するくらいのことはする。だが今は違った。


 植え込みの向こうではなく、パニクっていて、自分が歩いてきた背後に振り返っただけだった。


「ん? 誰もいない」


 よそ見したまま、一歩踏み出そうとしたところで、何かに足を引っ掛け、


「っ!」


 前へと倒れ始めた。はるか下に広がる街並みが見る見る近くなり、落ちてゆくしかない運命の中で、Gを感じる転落が幕開けだ。


 体は宙を舞い、捕まるものはどこにもなく、次に意識が戻るのは、身体中を貫く激痛の中。もしくは、死後の世界。


 だったが、一瞬のブラックアウトが起き、体の前面に何かが突如広がった。


「いつにも増して、落ち着きねぇな」


 何がどうなっているのかわからないが、ガサツな声があきれた感じで、重力的に下から響き渡った。


明引呼あきひこさん?」


 目を開けると、雄牛のツノと羽根型の、兄貴がこだわり抜いたペンダントヘッドがすぐ近くに見えた。


 足を引っ掛けたのは、ウェスタンブーツの側面。明引呼とは直角の位置で転んだはず。完全に体が崖の向こうへと出ていて、落ちそうになっていたはず。


 それなのに、夫の上に全身を預けるように倒れていたのだった。


「あれ? どうして……」


 慌ててやってきた妻の下で、夫は口の端をニヤリとさせる、その心の内は……。


 ――かくれんぼをしている。

 始まってから時間はだいぶ経過している。

 見つかっては隠れるを繰り返している。

 いつも一生懸命な妻。

 何度も失敗しているのなら、必死になる。

 妻が慌てている可能性は大。

 きちんと確認しない可能性が大。

 断崖絶壁にある場所。

 人が来る方向は決まっている――


 だから、ウェスタンブーツを妻がわざと引っ掛けやすいところに出しておいたのだ。


 それに見事につまずき、落ちそうになった妻。目をつぶった隙だらけの倫礼は、明引呼の上に瞬間移動をかけられてしまったのだ。


 他の配偶者から見たら、妻が夫を押し倒しているの図。庭の隅っこで。情事以外の何物でもない。


「すみません。すぐどきます」


 夫の気も知らず、礼儀正しく芝生の上に降りようとする妻。明引呼は筋肉質な両腕で倫礼をしっかり捕まえた。


「このままでいろや」

「えっ?」


 どこまでも突き抜けてゆくような高く広い空の下。夫のガタイがいい体の上で、妻の長い髪も服も何もかもが、淫らになだれ込んだままになった。拘束された体。


 急に吹いてきた風が、カウボーイハットをふわっと巻き上げ、首都の街の彼方へあっという間に消えてゆく。


「でも、帽子が――」

「飛ばせておけや」


 そんなのはどうでもいいのだ、今は。それに、瞬間移動ですぐに手元に戻ってくるのである。


 芝生の緑の匂いと空の青と、冬の風という野外。かくれんぼをしているのに、自分たちだけ、色欲漂う夜のようだった。


 鉄っぽい男の匂いが容赦なく体のうちへ入り込んでくる、ウェスタンスタイルの厚い胸板の上で、倫礼の鼓動は勝手に早くなってゆく。ドキドキが顔の火照りが止まらない。


 今はかくれんぼをしているのであって、何とか落ち着いて考える。この状態から解放される言い訳を。そうして、思いついた。


「明引呼さんが私の下敷きになってるので、重いからどきます」


 往生際のよくない妻。夫はもう一度瞬間移動というカウンターパンチをお見舞いしてやった。


 ずれていた顔の位置を真正面に。鋭いアッシュグレーの眼光の前に、妻のクルミ色の瞳を連れてきた。


「何言ってやがんだ? そっちの世界にはまっちまって忘れちまったってか?」


 妻は急にニコニコの笑顔になり、語尾をゆるゆる〜と伸ばす。できるだけ凛とした澄んだ声で。


「こちらの世界は重力が十五分の一。ですから、重くないんです〜」


 だから、片方の腕で妻をいつまでも抱きかかえられるのだ。自分と同じ高さまで、簡単に持ち上げられるのだ。


 明引呼の脳裏に鮮やかに浮かんだ。自分にプロポーズしてきた、あのマゼンダ色の長い髪とヴァイオレットの瞳を持つ夫のことが。しかも今日は、女装をしているという。いつもふざけている野郎のことが。


 夫はたくさんいる。それなのに、あの夫の真似してきた妻の前に、明引呼は口の端をニヤリとさせた。


「てめぇ、わざとやってやがんな?」


 アッシュグレーの鋭い眼光の向こうには、笑いという性格が隠れている。妻は知っている。だからこそ、ボケ倒しができるのだ。倫礼は彼女なりの含み笑いをした。


「むふふふ……」


 ドキドキしすぎて困ることなどあるか。勝手に結婚してしまったが、自分たちの間には子供がもういるのである。ときめきがないとは言い切れないが、初恋みたいな手に負えないものではない。


 妻もふざけた女郎だった。明引呼はしゃがれた声で、野郎どもにいつも口走っている言葉を吐き捨てた。


「てめぇ、ジャーマンスープレックスだ!」


 倫礼は目を見開いて、


「いやいや、プロレスの技でリングに沈めるのはやめてください!」


 ジタバタしたが、夫の腕の力は強く、逃げることはできなかった。そうして、明引呼から技の内容でツッコミ。


「できっかよ。オレの背中後ろにブリッジさせんだろ」


 抱き合っている状態ではできないのである。相手の背中から両腕を回してつかみ、そのままブリッジして、リングに相手の頭をぶつける、技なのだから。


「むふふふ……」


 含み笑いをする妻。できない技だと知っていて、ふざけてみた。全然、ラブロマンスにならない二人。笑い笑いなのだ、このペアは。


「少しはキスさせろや」


 耳元で黄昏気味な声がささやくが、その言い回しに妻はほれ込んで、親指を立て、歯をキランときらめかせながら渋く微笑んだ。


「兄貴、カッコいいっす!」

「家で兄貴って呼ぶんじゃねぇ」


 妻の手をつかんで封印し、自分の体の上でバランスを崩させて、再び密着した。だがしかし、倫礼は男らしい胸板に埋もれた顔を上げて、猛抗議。


「え〜!? 呼びたいです!」


 なぜだ。部下は呼んでもいいのに、妻が呼んでいけない理由がどこにあるのだ。倫礼の首の後ろに花柄のシャツの腕が回され、無理やり引き寄せられた。


「静かにしろや」


 負けてなるものか。倫礼は沈ませられたリングからパッと起き上がり、


「いやいや、全然静かにしな――」

「キスでふさいでやっからよ」


 アッシュグレーの鋭い眼光は、カウンターパンチを放つボクサーのように鋭く切り込んできた。布を強く引っ張るような感触が、唇に急に広がる。


「ん……」


 黙らせられた妻は瞳を閉じた。真っ暗になった視界の中で、相手の温もりがお互いの胸を通して伝わってくる。


 ――溶けてしまうほどの熱いキス。


 二人の上を、他の宇宙へ向かう飛行機が飛んでゆく。心地よい風が頬を服を柔らかに揺らす。


 しっかりと地面の上にいるはずなのに、フラフラとめまいがするような灼熱が、唇から全身へと燃え伝わってゆく。


 どれだけ時が過ぎたのだろう。朦朧もうろうとする意識の中で、いつの間にか離れた唇。


 まぶたを開く暇なく、倫礼は大きな手で頭を抱き寄せられ、頬がすり合う位置で、しゃがれた明引呼の声がささやいた。


「惚れてんぜ――」


 藤色の長めの短髪と芝生だけの視界で、鉄っぽい男の匂いを倫礼はあおる。


 ――この男はいつも熱いハートで生きている。二千年という月日で手に入れた知恵を持っている。感覚なのに理論。


 妻の夢を叶えるために、陛下の元へ直談判に行き、約束を取り付けてくるような、恐れも何もかもを、熱さで乗り越えていってしまう。超絶タフな男。野郎どもに慕われてやまない男の中の男。


 爆弾が投下され続ける危険な戦地でも、自分を抱えて、情熱と勘だけで前へ前へと走り抜けてゆくような男。


 下ろしてほしいと頼んでも、最後まで力づくで連れてゆく男。立ち止まる暇があるくらいなら、燃えたぎる熱情でがむしゃらにはいつくばってでも立ち向かえと背中で語る豪勇。


 自分と同じ感情で動いているのに、決してあきらめない。どんなに危険な道だろうと進めと、一緒に走ってやると言う。


 そんな愛の形もあったのだなと、今まで出会ったこともない男だった――


「愛してます……」


 心が熱くなり、目頭もついでに熱くなった、倫礼だった。だが、明引呼はふっと鼻で笑い、


「あの野郎、嘘つきやがったな」

「えっ?」


 倫礼はびっくりして、涙も引っ込んだ。驚いている妻はとりあえずいい。それよりもあの、クールなパンチをいつもしてくる夫のことが今は優先だ。


 瞬間移動をする気はないが、到達地点をのぞき見ることはできる。本人がフィルターをかけていないのなら。


 明引呼の脳裏に浮かぶ。青で統一された部屋で、白と黒の鍵盤を激しく弾く綺麗な夫。彼と妻の関係は誰でも知っている。


「今日が初めてじゃねぇな。前にも言われてんだろ?」

「前にも言われてる?」


 好きと言わない妻。策士の夫。陛下の命令のもと、二人は出会い、恋に落ち、結婚する運命を迎えた。


 罠を仕掛けて言わせたことなど、過去にあるだろう。だから、青が似合う夫が最初に見つかったのだ。


 初めて言うのと、二回目は戸惑いが違う。そうなると、交換条件にできる可能性が高い。そうして、妻に約束させたのだ。


 夫たちだけが集まった時、青の夫が言われていないと返事を返したのは、最後から二番目。瞬発力があって、真っ先に言葉を発するのに不自然だ。


 そこまでで、自分の愛する夫たちは、七人も言われていないと言っている。策士だからこそ、嘘をついたのだ。


 明引呼の前にいきなり現れて、頭の良さ全開で話しかけてきた男。数ヶ月後には結婚して、夫夫になった。あの優雅な悪戯王子に、兄貴はそそられっぱなしの毎日。


「惚れさせやがんな、あれはオレのことをよ」


 同じ激情を持つ男同士、いや夫同士。男のロマンだったが、二人が共有している妻は親指を立てて、歯をキランときらめかせて渋く微笑んだ。


「兄貴、カッコいいっす!」

「から、家で兄貴って呼ぶんじゃねぇ」


 ビジネスとプライベートを一緒にするな、なのである。明引呼の太いシルバーリングをしたごつい手で、倫礼の親指はねじ伏せられた。


 また同じ笑いが繰り返されそうだったが、二人の頭上近くに白いミニのチャイナドレスが立った。


「おや〜? 海賊ごっこですか〜?」


 凛とした澄んだ女性的な声がおどけた感じで割って入ってきた。


 空を見上げる形で芝生に寝転がっていた明引呼。彼の鋭いアッシュグレーの瞳に、しっかりと月命るなすのみことのスカートの中が映っていた。


(てめぇ、モノが見えてんだよ)


 おやまあ、セ◯キが露出。愛する夫としてはいい眺めだった。図書室で夕霧命が笑っていたのも、今となればよくわかるというものだ。


 だが、何がどうなって見えているのかの詳しいことがわからない、月命のミニスカートの中。


 あんなにパンツをのぞきたがっていた妻だったが、うつ伏せになっている倫礼に見えるはずもなく、気にすることもなく、海賊という言葉をきっちり拾った。


「あぁ、それいいですね。明引呼さんを船長にして、みんなで宝島に行くという物語を作る! 『野郎ども! 俺について来やがれ!』って言って――」


 そんな熱い野郎どもとは遠い存在の、月命はニコニコ微笑みながら、こんな言葉でさえぎった。


「それでは、僕が海に入って、サメの餌食えじきです〜」

「えっ!? 何で、自ら死ににくんですかっ?!」


 倫礼はびっくりして、思わず女装夫を見上げた。だが残念ながら、角度的に妻からは夫のスカートの中は見えなかった。白いチャイナドレスが青空を反射して、水色の光沢を放っている。


 ピンヒールで悩殺全開で立っている、曲線美を持つ足を、明引呼は手でバシンと強く叩いた。


「このドM野郎」


 パンツまで見せて、いやセ◯キまで見せて、サメに食べられたいと願う。だが、問題はそこではなかった。


「――っつうかよ、サメさんも分別あるっつうの」


 倫礼はこの世界の法則を思い出して、大声を上げた。


「あぁ! そうですよ。家族で海に泳ぎに来ただけじゃないですか! 他の人は食べないです!」


 サメだって、普通に生活しているのである。兄貴の職業は、食肉生産の農家だ。


「うふふふっ」


 失敗するの大好きな夫の前で、妻はさらなる隠れ場所を探しに、すっと姿を消した。月命の内手首の時計は、


 ――十五時四十八分三十七秒。


 男二人きり。プロポーズした男。された男。月命の女性的な声が深まった秋風に舞うと、気だるい男の中のそれが応えた。


「明引呼?」

「あぁ?」


 逆立ちしてお互いを見ているように、ヴァイオレットとアッシュグレーの瞳はまっすぐ絡み合う。セ◯キを見せてきている相手。誘惑以外の何物でもない。


 白いチャイナドレスがそっとかがみ込むと、二人の顔はマゼンダ色の長い髪で隠れた――――



 ――――西の空にオレンジが混じり始めた中で、芝生の上を急ぎ足で、倫礼は進んでゆく。我が家と空の境界線を見上げようとした時、妻は見つけた。


「あっ、その手があったか!」


 地球一個分ある屋敷に向かって猛ダッシュ。


「よし! ゴーゴー!」


 あと十数メートルで、家の壁に激突するところで、倫礼は気合いと根性の雄叫びを上げた。


「とりゃぁぁっっ!!!!」


 浮遊を使って、空へ舞い上がり、深緑のベルベットブーツは無事に、屋根の上にシュタッと綺麗に着地。振り返って、神がかりに整備された街並みを眺める。


「うわぁ〜! 屋根の上はやっぱり違うね〜」


 落ちないように気をつけつつ、横へと歩いてゆく。しばらく行くと、白いものが屋根の上に落ちていた。


「あれ? 誰かいる?」


 寝転がるその人は、漆黒の長い髪を指先でつまんでは、空へ向かってつーっと伸ばしもてあそぶ。


「ん? あれって……孔明さん?」


 屋根の上でのんびりと隠れていた策士。聡明な瑠璃紺色の瞳は倫礼へ向くことはなかったが、陽だまりみたいな声はきちんと話しかけてきた。


「ボク、何番目〜?」


 無防備に妻は考え始めて、指を折ってゆく。


「え〜っと……ひかりさん、蓮、焉貴これたかさん、夕霧さん、貴増参たかふみさん、独健どっけんさん、明引呼さん……!」


 何をしているかわかっていない妻は、人差し指を顔の横でピンと立てた。


るなすさんを抜かして、最後です」


 不親切である。妻は夫に自分で計算しろと言うのだ。夫は数字の中で生きている。だから、何番目かと聞いたのだ。八番目が正確な答え。


 なぜ妻の回答がこうなってしまったのかを、帝国一の頭脳を持つ大先生は知っている。だから、わかりやすく、こう言った。


「そう〜?」


 教えを説く身。親切丁寧になど教えたら、本人の学びになどならない。ましてや、自分の妻だ、この女は。


 わざと語尾が上げられた。合っているのか、それで。の意味だ。


 こんな会話を他人と繰り返したら、人は離れていくだろう。聞いたことと違うことをあの人は返してくると。自分の話を聞いていないと思って。


 めぐりめぐって、妻が辛い想いをするのだ。本人にそんなつもりはなくても、人を傷つけ、裏切りをし続けることになるのだから。


 この夫なりの妻への愛だったが、


「え……?」


 不思議そうに聞き返しただけの倫礼。彼女の背後で、毎日同じ時刻に空を横切る飛行機が通り過ぎてゆく。あれは時計がわりだ。


 ――十五時四十九分零二秒。残り十七分五十八秒。


 何気ない会話だからこそ、自分で気をつけないと変えられない。時間制限が今はある。待っても気づかない妻は放置。


 飛行機を見ていることなど、知られないように、孔明は感慨深くため息をついた。


「空 綺麗きれ〜」


 倫礼はささっと片付けて、すぐそばに腰を下ろす。すると、ワンピースからはみ出した太ももに、屋根の冷たさが広がった。


「そうですね。いつも一人で来るんですか?」

「そうかも〜?」


 返事がおかしい。二重仕掛けの言葉。


 黒のワイドパンツは、立て膝にもう片方を足組された。布地をたっぷり取られたモード系ファッションが風に揺らめく姿などほったらかし。どこかずれているクルミ色の瞳には空ばかりだった。


「昔からこの空は綺麗です」


 大先生の罠にやられないように整理しておこう。孔明の目的はふたつ。


 好きと妻が言うこと――

 チュ〜をすること――


 そうして始まった、大先生の罠が。聡明な瑠璃紺色の瞳が、隣に座る妻の横顔に初めて向けられ、間延びした声で言う。


「倫ちゃん、この間、ボク、はくくんに叱られちゃったぁ〜」


 策が張られているとも知らず、女子力のない妻は、風で胸元に落ちてきてしまった髪をガバッとつかみ、乱暴に背中に放り投げた。


 人の名前が出てきた話。空から視線をはずし、小さくなってしまった庭のガーデンテーブルを少し眺める。


「白くん? あぁ、明引呼さんの子供ですよね?」


 この行動とは、妻の記憶力がどの程度なのかが、ひとつ情報漏洩している。夫の瞳という視覚と、耳という聴覚から。


「そう」


 孔明はただうなずく、春風みたいな軽やかな声で。だがそれは、先を促している。


 この妻の性格なら、これだけで勝手に話をしてくる。自身の情報漏洩はさけて、彼女のものだけ引き出せる。仕掛けた通り、倫礼は自分で質問してしまった。


「何したんですか?」


 漆黒の髪の中にある、精巧な頭脳にデジタルに記録されてゆく。


 聞きたがっている。

 この話に興味がある。

 になる。つまり、

 次回以降の会話が進みやすい候補に入られる。妻とスムーズにコミュニケーションを取るためには重要なことだ。


 倫礼と孔明の視線が初めて交わった。妻と夫の普通の会話に見える罠。


「ボク、散らかってたから、片付けようとしたんだけど、僕がやるから、パパはやらないでって言われちゃったぁ〜」


 他の夫たちの子供が自分の子供となってしまったのだから、難しいのだ。


 全員、五歳で一旦止まる成長。しかも、この世界は六百八十七年で、一年と数えるのだ。


 だからこそ、小さな子供でも、それなりの歴史がある。特に、はくは複雑な事情が隠れている。


 妻は十五年前にも話したことがある、五歳の我が子を熟知していた。


「それは仕方がないですね。白くん、見た目は五歳でも、千年以上生きてますから、片付けぐらいできます。自分で」


 明引呼が護法童子として、作った化身なのだ。ずっと五歳止まりだった、十五年前までは。下手をすれば、大人顔負けな人生を送っているのである。


「パパは難しいなぁ〜」


 間延びした言い方をしながら、孔明の大きな手がすっと伸びてきた。倫礼はそれをつかみ返して、母として生きてきた九年間を振り返る。


「やらせておけばいいんです。子供はやりたいんですから……」


 そうして、孔明は妖艶ようえんに起き上がって、エキゾチックな香を匂い立たせながら、左耳のチェーンピアスを揺らしながら、こんなことを言うのである。


「倫ちゃん、チュ〜してなぐさめて〜?」


 子供に叱られた。感情で取るなら、凹む。

 だが、デジタルに取るなら、そういう事実があった。終わり。


 もちろん、大先生は後者。


 子供の悩み事を、相談されたのは今日が初めて。大先生でも、育児は大変なのかと勝手に判断するのだ、妻は。


「孔明さんでも落ち込むんですね」


 違和感を抱いた妻だったが、夫はこうやって巻いてしまうのである。


「そうかも〜?」


 二重仕掛けの言葉。


 可愛く小首を傾げると、漆黒の長い髪が、白いカーディガンの肩からさらっと落ち、屋根の上で絡み合う蛇のようで――エロティックを連想させた。


 人のこと優先。

 愛する夫。

 彼が落ち込んでいる。


 大先生の手で、この条件は見事なまでに並べられ、孔明の凛々しい眉に、倫礼の顔はすっと近づいてゆく。青空を背景にして、自宅の屋根の上で、妻と夫の口づけの時間が迫る。


 自分でしたいと思ったように見せかけられて、そばに来た妻。


 夫は陽だまりみたいに微笑んで、彼女の頬に手を添え、瑠璃紺色の瞳とクルミ色のそれはすっと閉じれた。


 冷たい風が吹き抜けてゆく中で、触れた唇だけがやけに熱い。


 ――計算され尽くしたキス。


 漆黒の長い髪がリボンで結んだように、しばらく二人を優しく包み込んでいた。


 そうっと離れて、孔明は両膝を片腕で抱え、可愛く小首を傾げる。五十センチ違いの背丈。孔明の大きな手が、倫礼の髪を優しくなでてゆく。


「倫ちゃん、ボクのチュ〜好き〜?――」

「す――」


 つられて言いそうになって、倫礼は言葉を途中で止めた。


 好きは好きなのだ。どんな意味でも。ましてや、キスを好きと言ったら、愛していると同意義だろう。結婚しているのだから。駆け引きしている恋愛ではないのだから。


 こうして、大先生は二つの目的に近づいたのである。


「罠だったんですね……」


 怒りはしない。自分の勉強不足だと思う、倫礼は。この夫の頭の中を理解したいと願うのだ。


 だがしかし、自分の普通の頭では紙に書いて、落ち着いて考えないと、どこでどんな罠が張られているのかわからないのである。


 下手をすれば、六重の策なんてことは、当たり前にあるのだ。


 自分の髪と妻の髪を混ぜて、つーっとすいている孔明は、春の陽だまりみたいに微笑む。


「そうかも〜?」


 不確定と疑問形の、二重仕掛けの言葉。


 いつも言っているから、口癖だと思ってしまいがちだが、倫礼はこの言葉の深意を知っている。


 ――ふんわりして、好青年で、間延びした言い方。わざとやっているのだ、この男は。


 人の警戒心を半減させる効果がある。相手が油断して、情報を漏洩させる可能性が上がるのだ。


 神の申し子、天才軍師とうたわれた男。


 話せば、少なからず相手に情報漏洩する。それは避けられない。だからこそ、他のことに引きつけておく罠が必要になるのだ。


 この男の手口は、相手が自分から望んだように見せかけて動かすこと。それを平然としてくる。


 通常、罠が仕掛けられていたとは気づかない。気づいたとしても、取り返しがつかなくなってからだ。


 百戦錬磨。反則と多くの人々に言わせるほどの頭脳で、見事なまでに勝ち取ってゆく。神をもうならせる男。完璧な男。


 だが、子供のことに関しては失敗する。そんな一面があったのかと、微笑ましくなるのだ。本気で凹んで、相談してきた。嘘ではないのだ、さっきのはくのことは――


「……好きです」


 感情に流されない夫は、ここまで話した会話をデジタルに覚えている。その中から抜き取る、二十三個前の妻の話を。


 間延びした言い回しで、真意を隠す。帝国一の頭脳を持つ男は。


「あれ〜? ひかりに何か言われちゃったのかなぁ〜?」


 疑問形だ。要注意。


 ここまでで、光命の話をしてきた夫は、全員で七人。何の警戒心もなく、倫礼はこう言ってしまった。


「え、どうしてわかるんですか?」


 認めたのと一緒である。


 大先生の頭脳はたった、零.一秒ではじき出していた――


 光命が見つかった順番は一番最初だった。

 彼は負けず嫌い。

 かくれんぼをするならば、見つからない場所に隠れるが可能性大。

 それが、一番最初に見つかっている。

 ――おかしい。

 彼はみんなが聞きたがっているという話を聞いている。

 彼は他人が優先。

 妻に夫たちに好きと言うようにと言った可能性大。

 妻の性格は素直で正直。

 自分に言ってきた。

 そうなると、ここまでの全員に言った――

 になる可能性が九十九.九九パーセント。


 孔明の頭の中の言葉が、ゆる〜っと伸びた語尾で夕風に乗る。


「事実からの可能性の話〜?」


 だが、妻も負けてはいなかった。倫礼はわざとらしく髪をかき上げて、ぎこちな言い方をする。


「え? 事実? 可能性? 何のことやらさっぱりで……」


 妻も情報漏洩をさけてみた。気絶してまで学んだ、理論だ。事実と可能性をどう使うかぐらい知っている。あとで落ち着いて考えればわかる。今はわからないが。


 頭のいい女が好きな孔明は、さっと倫礼を抱き寄せて、


「そういう倫ちゃん、ボク大好き――。ず〜っとチュ〜してたいくらいに〜!」


 エキゾチックな香の香りが、二人を屋根の上でそっと包み込んだ。


 頬に再びキスをされた時だった。二人の背後の真ん中に人影が立ったのは。


「こ〜う〜め〜い〜!」


 鋭利な刃物で一回ずつ体深くをえぐり取るような言い方。倫礼は恐怖で、孔明は瞬発力で左右にパッと離れた。


 マゼンダ色の長い髪と白いチャイナドレスのミニスカートの、月命が倫礼と孔明との狭い隙間に、夫を真正面に、妻を背中にして割って入ってきた。


「彼女から手を引いてください〜。僕の番です〜」


 聡明な瑠璃紺色の瞳には、あちこちから飛んでくる飛行機の線が、時計がわりで映り込む。


 ――十五時五十六分十七秒。あと十一分四十三秒。一人、十分ずつ。だから、制限時刻の九十分前に、かくれんぼは始まった。


 夫の目の前に無防備に横向きの線を作る、白のチャイナドレス。孔明の手はその裾を素早くつかんで、上に引っ張り上げた。


「えいっ!」


 突如広がった衝撃的なシーン。少し遅れて妻の目が思わず見開かれた。


「えぇっ!?」


 月命のミニスカートを、孔明がまくり上げたのだった。これぞまさしく、スカートめくり。妻が気になっているのだ。スーパーエロ二号も見たいだろう。


 背後にいる妻からは全く見えない。だが、瑠璃紺色の聡明な瞳には何の障害もなく見えた。


 それはあちこちに向けられ、陽だまりみたいな穏やかで間延びした感じで、衝撃発言をした。


るなす〜、パンツ履いてないんだぁ〜」

「何っ!?」


 見えなかったのではなく。元々そこになかったのか。確かにそうだ。あの腰上のスリットからも、下着の線はどこにもなかった。


 そうなると、ノーパンでずっとかくれんぼをしていたことになる。この小学校教諭は。妻としては子供の教育上、注意しなければいけない。


 いや、ぜひとも見たい――


 ここは自宅であって、子供は今はいないのであって、ただの男で夫だ。妻は全然オッケーである。いやむしろ歓迎だ。


 妻はめくり上げられているスカートの前へ行こうと、屋根の上に両手をつき、のぞき込もうとした。


「気になる……」


 あの女性的でありながら男性のセ◯キを持つ夫。それが普通の時はどんな形になっているのかと、単純に興味がそそられるのである。


 スリットが開ききっている横を通り過ぎ、あと一歩でというところで、月命が孔明の手からスカートを引き抜いて、元へ戻した。


「うふふふっ。孔明も冗談が過ぎますね〜」

「っ!」


 倫礼はギクリと動きを止めた。


 怒らせてしまった。この邪悪なヴァイオレットの瞳を持つ男を。血祭りに上げられるである、帝国一の大先生も。


 だが、そんなことは計算のうち、孔明は春風みたいに微笑んで、悪戯坊主のように言う。


「ふふっ。なーんちゃって!」


 ノーパンは嘘。きちんと履いている、いくら女装する夫でも。


 スカートはめくられてもいいのだ、月命は。愛する夫なのだから。ドMとしては、ぜひめくられたいのだ。


 そこではなく、孔明が事実を歪めていることに、月命は怒っているのだ。


「ん?」


 頭の回転が早すぎてついてゆけない倫礼は戸惑い顔をした。その前で、孔明の手が月命の曲線美を描くセクシーな足を伝って、スカートの中に入っていった。


「レースのパンツだぁ〜」

「何っ!?」


 レースのパンツ。妻もそんなものは履いていない。立っている夫、座っている妻。もう少し近づけば、スカートの中は見えるのである。


 チラ見せ効果があるレースのパンツに包まれた、女性的な男性セ◯キ。両性具有満載だろう。ファンタジーが現実だろう。それはぜひとも、この機会に見せていただきたい、妻である。


 夫がまくったのだ。妻だってまくっていいはずである。倫礼はそうっと、手を伸ばす。白いチャイナドレスのミニスカートへと。いざ、官能世界へと。


 だが、結婚指輪と女物のブレスレットをした手でギュッとつかまれ、阻止された。


「おや〜? おいたはいけませんよ〜」

「っ!」


 倫礼はこんな煩悩は今日限りで捨てようと、心に決めたのだった。妻の手は、女装夫に強く握られたまま、夫同士で話が進み出す。


「ふふっ。玄関ロビーでいいの〜?」


 元の場所だから戻るのではなく、そこでないといけないのだ。頭のいい同士で、妻を置き去りにして、話が進んでゆく。


「孔明もさすがですね〜」

「焉貴と光も、最初からわかってたんじゃないかなぁ〜?」

「僕の想定内ですから、彼らはいいんです〜」


 月命が答えると、白と黒のモード系ファッションはすうっと屋根の上から消え去った。


 策士二人に、わざと抜かされた修飾語。妻に多大なる被害を生み出していた。


「玄関ロビー? ん? どこかに宿泊ですか?」


 それには答えず、月命は疑問形を重ねる。


「それでは、僕と一緒に行きましょうか?」


 鬼は隠れなくていいのである。一手間省けているという、月命の策だった――――



 ――――ブラックアウトが一瞬起こると、景色がガラッと変わった。


 近くにあった空はいつもの高さにあり、天井が少しだけ広がる。かすかに香るヒノキの深緑の匂い。


 キョロキョロとする倫礼の、どこかずれているクルミ色の瞳には白いものが映り込んでいた。


「え? ここどこ?」

「本家の縁側です」


 月命の内手首にある腕時計は、


 ――十五時五十七分四十八秒。十六時零七分零零秒まで、残り九分十二秒。


 ベビーピンクの口紅をしている夫の口から出てきた場所が場所なだけに、


「えぇっ!? 父上の家っっ!?!?」


 倫礼のびっくりした声が屋敷中に響き渡った。この夫は何てことをしてくれたのだと、妻は思うのである。


「えぇ」


 月命は涼しい顔をして、どこから出してきたのか、湯飲みを両手で品良く持って、緑茶をすすった。この家の三女は婿養子に近づいて、小声で懸命に注意する。


「叱られますよ! 玄関からじゃなくて、いきなり中に入ったら……」


 筋の通っていないものを許さない家長である。突然、縁側になんか来たら、絶対に畳の上に正座である。その運命は免れない。


「そちらの時はそちらの時です〜」


 言っても聞きやしない。いや、家長よりもはるかに長く生きている夫。正座など大したことではないどころか、逆に楽しいのである。ドMにとっては。


 倫礼はあきらめて、自分の隣にいつの間にか置いてあった湯飲みを取り上げた。夫婦そろって眺める景色は、灯篭や砂紋が広がる和テイストの庭だった。


「でも、久しぶりです。ここのコの字の中庭を見るのって……」


 両斜め前には、きちんと閉められた障子戸が並ぶ。兄弟たちのほとんどが学校で、静かな屋敷。同じスカートを履いて、足を崩して座る妻と夫。


 月命の凜とした澄んだ女性的な声が不意に響いた。


「結婚当初はこちらで暮らしていたそうですね?」


 もう九年近くも前のことだ。子供もいない時。蓮がいきなり目の前に現れて、小さい頃の記憶はそのあとから付け加えられたもの。順番も出会いもめちゃくちゃでバラバラなスタートだった。


 倫礼は湯飲みを両手でそっと包み込む。


「はい。でも、叱られました」

「なぜですか?」


 倫礼のファザコンっぷりが出てくる。


「蓮と結婚してるのに、私は父上、父上だったんです。だから、家から出て、二人で生きなさいって言われて、隣に家を建てたんです」


 ヴァイオレットの瞳は斜め右前にある障子戸のひとつをちらっと見た。


「親心だったんでしょうね」

「はい」


 父の言葉がなかったら、いつまでもたっても、蓮との距離は縮まらず、許嫁のままだったのかもしれない。今の結婚もなかったかもしれない。倫礼は素直に思うのだ。


 月命は基本、口数の少ない男だ。策を張る時は、相手の動きを制限するために、言葉が長く連ねるのであって、本来はあまり話はしないのだ。二人でただお茶を飲んで時がゆったりと過ぎてゆく。


 カコーンと鹿威ししおどしが響いて、精神を清めてくれる。


 不思議な運命だと、倫礼は思う。この縁側を娘として眺めていた頃、この男と結婚するとは思っていなかった。女性を気絶させ、プロポーズまでさせ、それでもきちんと結婚して、子供もいた。


 歴史教師として、カエルの被り物をして、小学校へ行って、どこか別世界の人だった。十四年前は、カエル先生と呼ばれ、今も生徒に慕われている男。


 白のミニチャイナドレスを着て、厳格な家長のいる縁側に堂々と座っている。筋の通った理由があるはずである。そうでなければ、今ごろ雷が落ちている。


「そういえば、どうして、女装してるんですか?」


 綺麗なメイクをした、ニコニコの笑みがこっちへ向いた。


「こちらの服装で学校へ行くと、生徒たちが、『先生、どうして男の人なのに、女の人の服着てるの? おかしい』と言って、笑ってくれるんです」


 昔もそう。子供が喜ぶから、カエルの被り物をしていた。幸せを分けてもらったようで、倫礼は淡い青に変わり始めた空を見上げた。


「生徒の笑顔のためですか……」

「えぇ」


 だが、気になるのだ。女装する夫。九人いても、一人しかいない。いや、できない。倫礼は湯飲みを置いて、膝の上に乗せられている、月命の手を取り上げた。


「でも不思議ですよね。手とかはどうやっても男の人の線なのに、ドレスが似合ってる……。ティアラもミスマッチなはずなのに合ってる」


 おかしいのだ。よく見ると違うのに、なぜか狐にでもかされたみたいなのだ。


「でも、それがるなすさんなのかもしれないですね」


 だが、こうやって、この妻は夫のことを、軽く飛び越えて理解していってしまう。


 月命の手から湯飲みは床に座らされて、妻の手を握り返した。凛として澄んだ儚げで丸みのある男性の声で、愛がつづられる。


いとしい僕のお嫁さん。愛していますよ――」


 ――この男が生きてきた、三百億年の月日はわからない。どんな時代がそこに広がっていたのかも想像がつかない。それなのに、そんな距離をなぜか感じさせない男。


 小さな人の心を守るためならば、自身の犠牲をいとわない。たとえ、自分と同じ世界で、限りある命であったとしても、強く泣くこともなく、何の戸惑いもなく、子供のために死んでいくのだろう。


 いや、違った。ピンチに陥ったら、知らない女に助けられて、どこまでも運だけで生き延びてゆくのだろう。……全然、シリアスにならない。


 そうではない。自分の生きている世界の法則に、どうやっても当てはまらないのだ。生きている時間が長すぎて。そんな不思議な魅力を持つ、女性的な男。


 教師のように導いてくるかと思えば、絶対に引かないと言って、そっぽを向くこともある。先生でありながら対等な関係――


「はい、愛してます」


 珍しく表に長居していたヴァイオレットの瞳は、すぐにニコニコのまぶたに隠された。わざとらしく、ゆるゆる〜っと語尾を伸ばす。


「君は正直で素直な人ですね〜」


 九人目。最後の夫。


「あれ? 何で全員知ってるんですか?」


 吹き始めた夕風が庭の松の葉を揺らす。平和な風景に、月命の末恐ろしい含み笑いが響き渡った。


「うふふふっ。君がそれぞれに伝えたんです〜」


 知っているのではない。気づいたが正しい。いつも言わない妻が、いきなり愛していると言ったら、夫たちはおかしいと思うだろう。


 ただかくれんぼをしていた倫礼としては、ワンクッション置かれている話。分家にいる紺の長い髪で、水色の瞳を持つ夫がいるであろう方へ向かって、頭を丁寧に下げた。


「あぁ、よくわからないですけど、光さん、言ってしまいました……」


 自分が愛している光命に頭を下げている、同じく彼を愛している妻。彼女のブラウンの髪の向こうには、底辺の違う縁側が横たわっていた。


「彼は優しい人ですね」

「そうですね。みんなのこと大切に想ってるんだから、いつも」


 パッと振り返って、倫礼は月命に微笑んだ。細かい理由などどうでもよく、夫たちが幸せなのは、妻にとって嬉しいものだ。


 振り返った衝撃で、妻の頬に絡みついた髪を、月命は指先ですうっと直す。


「君にもですよ」

「え……? 私もですか?」


 言っていないから言ってこいと言われた。自分の過失がそこにあると思って、倫礼は一生懸命、夫に言われるたびに、思っていることを言ったまでである。促してくれたことには感謝するが。


 そうして、月命の綺麗な唇から、こんな言葉が出てきた。


「君が僕たちに愛していると言えば、僕たちの気持ちは君の物です」


 和やかな縁側の空気が激変した――


 他人のこと優先。だが、引かないところは絶対に引かない、明智家の三女。倫礼は悔しそうに顔を歪めた。


「物じゃないです! 人の心は。捕まえたり、自分の思う通りにはできないです! その人の心は、その人にしか変えられません!」


 愛されたいから、愛していると言うのか。見返りを期待するなど、どうかしている。倫礼は絶対に譲らない。そんな愛は、真実の愛ではない。相手を愛してもいないのだ。


 ちょっとした言葉。物だとどこかで思っているのならば、通り過ぎてゆくだろう。


 三百億年も生きてきた月命。人の気持ちを変えられるなどという、傲慢ごうまんな女になど興味はないのだ。


 マゼンダ色の髪の上から、銀のティアラはすっと外され、縁側の板の間に置かれた。


「よくできました。ご褒美です」


 罠だった。この男も策士なのだから。


「え……?」


 怒っていることさえも忘れさせることができる、計算された策。月命の手が目隠しするように、妻の瞳はそっと閉じられ、ベビーピンクの口紅をした夫の唇は吸い付くように妻のそれに触れた。


 ――石けんのいい香りがするキス。


 不意に吹いてきた風が、二人の長い髪を宙で重なり合わせる。どこまでも静かな本家の縁側。


 もう鬼はいない。だから、誰も止めにこない。これも月命の策。妻にわからないように上げる、内手首の腕時計は、


 ――十六時零六分五十秒。あと残り十秒。


 落ち着きと冷静さは持っているが、感情のない夫は、妻からすっと身を引いて、


「それでは、僕たちの家の玄関に戻りましょうか? 時間ですから〜」

「時間? 何の?」


 人が多く関われば、思惑が交差する。どこかずれている妻の頭ではついていけないのだった。


 月命が瞬間移動をかけると、妻もお茶もティアラも全て縁側からなくなった。


 三女と婿養子が消え去ると、斜め右前の障子戸がすっと開いた。


 畳の上の文机には、大人の手で広げられた手紙があった。その文章は、漢字が混じっていたが、文字の大きさがバラバラでつたない線で書かれていた――――



 ――――分家の玄関ロビー。緑を基調としたステンドグラスを埋め込んだ両開きの扉は、廊下を挟んだ向こう側にある。少し奥まったところにある吹き抜け。


 長い朱色の椅子の上に、フェルト生地でできた雪の結晶、雪だるま、ミカンなどが、つるしびなのように下がっている。


 積雪をイメージして、乳白色の上にわざと敷いた白の絨毯。それが汚れることはなく、いつまでも新雪のようにフワフワと家族を出迎える。


 八人の夫たちがそれぞれの位置と格好で待っていると、すうっと倫礼と月命が最後の鬼ごっこを終えた戻ってきた。


 時計を常に気にしいている光命、焉貴、月命、孔明の心のうちで、密かにカウントダウンが始まる。


 ――現在の時刻、十六時零六分五十五秒。あと五秒。


 倫礼は雅な茶会にでも、イケメン九人が招待されたみたいな、玄関ロビーの入り口で、風景を思う存分楽しむ。


 ――あと四秒。


 嵐の前のような静けさ。


 ――あと三秒。


 誰も話さなくても、妻にはどうでもよく。


 ――あと二秒。


 玄関の扉を背に、無謀に立ち尽くす。


 ――あと一秒。


 倫礼の深緑のベルベットブーツは夢見ごごちに、その場でグラグラと揺れ出した。


 ――零、十六時零七分零零秒。


 その時だった。玄関の両開きのドアが、バターンと勢いよく開いて、小さい人たちが津波のように、ドッと家の中に押し寄せてきたのは。


「ただいま〜!」

「帰ってきたよ〜!」


 倫礼は現実に引き戻され、さっと後ろへ振り返った。龍先生の背中に乗って、学校から帰ってきた子供たち。スクールバスならぬ、スクールドラゴン。


 妻は一気にママに早変わり。今日も学校でいいことがあったのが、誰の顔を見てもよくわかり、倫礼はさっとしゃがみこんで出迎えた。


「お帰り〜!」


 時間などはかっていない。最初が何時だったのかも知らない。それでも、気になって、ポケットから携帯電話を取り出した。


「十六時すぎだ」


 超適当。子供たちの帰ってくる時刻は、二種類ある。週休三日制の学校。木曜日と日曜日は、一時間遅い。学校はきちんと同じ時刻で終わる。龍先生の飛行能力は優れている。よほどのことがない限り、同じ時刻に家に到着するのだ。


「今日、何曜日?」


 携帯電話の時計に気を取られているママに、チビッ子から可愛くツッコミ。


「日曜日〜!」

るなすパパが今いるから、木曜日じゃないよ」


 ボケているのが、倫礼ママ。しっかり者の子供もいるのだ。女装夫のマゼンダ色の長い髪をチラッと見て、倫礼はうんうんとすぐに納得した。


「あぁ、そうか。木曜日はるなすさん、クラブの顧問でもっと遅いもんね」


 温泉クラブの顧問。みんなで温泉に入りに行ったり、熱く語ったりするクラブ。お笑いをするには絶好のシチュエーション。そんな理由で入っている子供も多くいる。昔からあるメンバーが多いクラブ。


「倫ママだ〜!」


 滅多にこの家に来ないママ。チビたちにあっという間に囲まれた。


「元気にしてた?」

「うん、してたよ〜」


 子供が本当にたくさん増えた。それぞれ髪の毛の色が違う子供たち。結婚式という儀式で、十八人の親の魂は全員に入っている。つまりは、血がつながっているのと一緒。


 それでも、習慣はすぐには変わらない。家庭ごとのルールの中で、別の生活を送ってきた。だがこうやって、仲良く寄り添って、ここにいるのは、彼らが一人一人努力して、築き上げた絆の賜物たまものだ。


 ママは単純によかったと思うのだ。みんなの幸せが続いてゆくのなら。まわりを囲まれてしまい、しゃがみ込んだまま、かくれんぼのことなどすっかり忘れた倫礼。彼女のピンクのレースカーディガンがふと引っ張られた。


「……ママ?」


 妙に控えめな呼びかけ。いろんな子がいる。自分は滅多に彼らに会わない。だから、話しにくい子もいるだろう。笑顔で対応だ。


「どうしたの?」


 誰の子だかはわからない。だが、ふんわりとした品のあるタイプの子だった。


「おやつ一緒に食べよう?」


 そんな誘いは今まで受けなかった。勝手にダイニングまで猛ダッシュして走り去ってゆく。小腹が空いている子供たち。


 それなのに、一緒に食べようと言ってくる。だが、そんな気持ちもあったのだなと、気づかなかったなと。すぐに納得し、倫礼は笑顔でうなずいた。


「うん、いいよ」


 立ち上がって、小さな人たちに囲まれながら、終了したかくれんぼから、帰っていこうとすると、月命の凜とした澄んだ儚げで丸みのある声が背中からかかった。


「倫?」

「はい?」


 子供に手を引っ張られながら、倫礼が振り返ると、月命がニコニコの笑みでこんなことを言う。


「五分で戻ってきてください。もう一回やりますから」


 単純にかくれんぼは楽しかった。夕飯は六時から。今は四時過ぎ。もう一回やるなど、別に不思議でもなく、倫礼は快く返事を返した。


「あぁ、はい」


 ダイニングへ歩きながら、別の子がいいことを知っていると言うように、得意げに話しかけてきた。


「ママ〜、今日ね、隆醒りゅうせいくん、お誕生日会だって」


 隆醒が友達の五歳の誕生日会に招待された。夕飯はいらない。パーティー開始は五時から、終了は八時。親の誰かが一緒についてゆく。プレゼントを用意して。


 お返しのケーキが夜食で待っている。兄弟の自分たちも、ケーキが食べられて嬉しい。子供の話はこの意味。


 隆醒と言えば、我が子の中では、一番長い付き合いのある子供だ。しかし、最初の夫にそっくりで、個性的な我が息子。


「あぁ、そう。蓮に似てリアクション薄くて、口数も少ないから、友達どうかなと思ってたけど、そうか、そうか。仲良くなって……」


 倫礼の声がどんどん遠くなってゆく。月命のヴァイオレットの瞳には、時々振り返って、こっちに手を振っているチビッ子が何人かいて、それはダイニングに入るまで続いていた。

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