#エゾシカと正面衝突するとジープは全損するそうです

海野しぃる

かの女神曰く映えよインスタ

 よく来たね。君は今日も世界の真実とやらを探索しに来たのか。

 僕が夜にカーテンを開けない訳。

 大学にほとんど通ってない訳。

 その割に毎週末は東京の観光地をフラフラする訳。

 鹿の剥製を見ると青ざめて逃げ出す訳。

 そんな奇人変人の類が語ることに、真実への手がかりがあるとでも思っているのか。

 気分のいい話じゃないぞ。

 しかもこれは今も続いている話だ。実のところ、僕がまるでメンタルやべー奴みたいにふるまってるのは、君たち何も知らない人類の為なんだぜ? そんな苦労話聞いて面白いか? 狂人の作り話としか思えないだろ。

 じゃあ良い。聞いていけよ。特別だぜ。

 ……おい、お茶淹れてくれよ。ああ、君に言ったんじゃないよ。奥で惰眠を貪ってくださっているありがたい居候様さ。こういう時くらいは働かせないとな。目のパッチリとしたかわいい女の子? 何処かで見たことがある? 知らなければそう見えるよな。羨ましいこって。


 さ、雑談はここまで。


 話を始めようか。僕の出会った鹿の女神と、それにまつわる世界の終わりの話をしよう。


     *


 叔父の家は北海道の中心、空知の国多尼クタニ町にある。

 大学生活や人間関係のトラブルに疲れてしまった僕は、あろうことか真冬に北海道の地を踏んでしまった。町外に通じるバスは一日に六本しかないということで、新千歳までは叔父が車で迎えに来てくれた。

 レモンみたいな色のジムニーシエラ。雪の中でも見間違えそうにない。

 叔父は40代にはとても見えない若々しい人で、女性のように長い髪を後ろで束ねている。血は繋がってなくて、叔母の旦那というだけなのだが昔から良くしてくれる人だ。

 彼の車の中に入ると、頬を刺すような冷気は和らぐ。そして、暖かな空気でやっと動き出した嗅覚が、車の中の白檀の香りを捉える。


「シートベルト締めた?」

「はい」


 車は真っ白い雪で固まった道を軽快に走り出す。まるで雪なんて存在しないかのようだ。東京に居た時はこの程度の雪でも交通機関がことごとくストップしていたのに。レモン色のジムニーは当たり前のように雪道を突き進む。

 車はすぐに高速道路に乗って、更に速度を上げていく。


「高速道路は良いよ。なにせシカが出ない」


 叔父はそう言って笑う。


「シカですか? クマじゃなくて?」

「クマは怖いけど、クマはそう簡単に道路まで出てこないからねえ」

「でも北海道だとよくニュースになってるイメージがありますよ?」

「殺人事件だって毎日ニュースになるけど、零斗君の身の回りで殺人事件は起きないだろう? それと同じようなものさ。クマが出てくるのは、そういつもあることじゃない」


 偶にならあるんだ。


「シカはいつも出てくるんですか?」

「出るねえ。高速道路みたいに壁があったり、橋の上だったりすればそんなに怖いものでもないんだけどさ」

「シカ、そんなに怖いんですか?」

「ジープって車知ってる?」

「でっかくて丈夫で山道走ったり、映画でアメリカ軍の人が乗ってる奴ですよね?」

「シカに直撃すると、あれが廃車オシャカにされる」


 シカって、草食の小さい動物じゃないのか。


「エゾシカって本州のシカの倍以上でかいからね」

「怖いっすね……」

「食うとこれがまた美味しいんだ。栄養を蓄える夏の間が一番美味だけど、今頼んでもまだ冷凍したものが残ってる筈だから美味しいのが食べられると思うよ」

「マジっすか……」

「僕も偶に趣味で撃って食べるしねえ」

「猟銃免許持ってたんですね」

「君のお父さんも持ってる筈だぜ」

「へぇ……」

「猟銃免許は精神衛生に一番の薬だよ。ムカつくやつが居ても……おっと」


 こんな事を言うと君の叔母さんに怒られるな。

 叔父さんはそう言って子供みたいに笑った。


     *


 叔父さんの家は御殿のように広く、僕が生まれ育った家とは比べ物にならなかった。そして、とてつもなく温かい。床も、壁も、全てに暖房が入っているのではないかと思うほどだった。一体どんなやばい仕事をしたらこんな豪邸が立てられるんだ。土地が安いと言ってもこれは信じられない。

 僕はコートを玄関の壁にかけ、案内されるがままに居間のソファーに座る。


「さて、遠くからお疲れ様。この町には何もないように見えるけど、自然と食生活だけは豊かだから、ゆっくりすると良い」


 そう言って叔父さんは冷蔵庫からワインを取り出すと、マグカップにそれを注いで僕に差し出す。


「おっと、零斗くんはいけるクチだったかい? 大学生になったから自然に用意しちゃったけど……」

「あ、いえ、いただきます!」


 渡されたワインを一息に呷ると、濃厚なぶどうの香りが喉の奥から逆流する。

 勢いよく飲んだせいでアルコールが喉を焼き、ビリビリとした刺激に続いてネットリとした甘みが後から追いついてくる。

 ゲホゲホとむせる僕を、心配そうに見つめる叔父さん。


「大丈夫?」

「ご、ごめんなさい……」

「こういうのはゆっくりでいいんだよ。一気にるのは学生の飲み会だけにして、こういう酒はゆっくり飲むんだ」


 叔父さんはウインクする。

 髪が長く細面の叔父さんがウインクをすると妙な可愛らしさがあった。

 飲んだワインのアルコールが薄かったのもあって、すぐに咳は止まった。

 叔父さんは棚から袋に入った干し肉を持ってきて、皿に開けつつ話を続ける。


「これは函館のワインでね。海外から輸入したワインを甘口に加工して自社の製品を混ぜているんだが……このメーカーの他の製品よりも美味しいんだよね」

「なんですかそれ? じゃあ函館のワインじゃないような……?」

「あははは、美味けりゃ何でも良いよねって話。細かいこと気にすると老けるぜ。酒は酒、肉は肉、俺は俺。それでいいじゃん」


 僕がゆっくりともう一度ワインを賞味していると、叔父さんは干し肉を持ってくる。いたずらっぽい笑みを浮かべているのを見ると、ビーフジャーキーではなさそうだ。


「で、これはシカジャーキー。俺が撃ち殺したのを塩漬けにして燻製にしたやつ。折角だから味わってもらおうと思ってね。その甘いワインと相性が良いんだよ。少し齧ってから飲むと甘みとしょっぱさが絶妙にマッチしてねぇ……そして甘いはずのワインの苦味もじわっと出てきてこれがまた……」


 叔父さんはろくろを回すポーズで語り始める。

 言われたとおりに僕はジャーキーを噛んでからワインを飲む。

 最初に塩と胡椒の刺激が来て、次に鹿肉のわずかな獣臭さ。それが塩と胡椒の単調さに変化を与え、最後にやってくる鹿肉の旨味を引き立てる。脂肪分の少ない牛肉に近い歯ごたえで、味も牛肉に近い。塩気がもう少し薄ければ、いくらでも食べられそうな気がした。


「それは比較的脂の乗った鹿肉なんだけど、それでもさっぱりとしているだろう? 独特のニオイを上手く処理すると、酒が進むんだよ」

「お酒と合わせる為にわざと塩辛くしました?」

「バレたか。でもそれだけじゃないんだ。今時期、すごい勢いで乾燥が進むから、あっという間にカラッカラになって味が濃くなるんだよね。俺は悪くない。塩抜きがちょっと甘かったのも事実だけど」

「冬ですもんね……」


 そう言ってカーテンを少し開けようと手を伸ばす。

 その時だ。


「ああ! カーテンは開けないでくれないか」

「何か不味いことでも?」

「ああー、その、なんだ。明かりが外に漏れると良くないんだ。野生動物が寄ってきたりするからね」


 こんな真冬に野生動物なんているのだろうか。

 まあ北海道だし、僕が知らないだけでそんなこともあるのだろう。

 僕はそう思ってカーテンへ伸ばした手を引っ込めた。


「外の風景が気になっても、夜の間はあまり大きくカーテンを開けないでくれ。そして窓、窓は絶対に開けちゃ駄目だ。良いね? 一度外気が入ると冷えるし、掃除も大変だ」

「あっ、はい」


 それまでの楽しそうな様子から一転、真剣な目で叔父は語る。

 何が起きたのか全く理解はできないが、嫌ですなどとは言えない。


「さて、俺は眠る。wifiのパスワードはこの紙に書いてあるから、好きに寛いでくれ。このリビングの隣の部屋が君の部屋だから、眠たくなったらそっちで寝てもらって構わない。それじゃあおやすみ」


 叔父は自分の分のワインを飲み干すと、いそいそと寝室に行ってしまった。


「窓、窓……」


 カーテンの隙間からそっと顔を覗かせる。窓枠には中心に瞳のようなものがついている星型の彫刻が施されている。ここでも白檀の香りがする。

 見上げる。外は一面の雪景色。おそらく夏は田んぼだったのであろう場所が真っ白に染まっている。遥か離れた隣家の輪郭が、橙色の街灯によってぼんやり映し出されている。それすらも、降りしきる雪に包み込まれて判然としない。この風景の中で確かなものは雪と、空と、大地だけだ。


「……?」


 ツンとした硫黄の香り。視界の隅で何かが動いた。

 黒いキャンバスに白で点描したような光景の中で、橙色の明かりを受けて何かが駆け抜けた。ヌタヌタと、骨格のあやふやな動き

 田んぼの近くの木立から現れ、また別の木立の中に何かが走って消えていく。

 三本足の生き物だ。聞いたことがない。


「……いや、なんだよあれ」


 怪我をしている訳ではなかった。

 鹿にしてはいやにずんぐりしている。熊だろうか?

 熊は冬眠するはずだ。

 体の色はハッキリ分からなかったが、黒っぽかった気がする。鹿だとは思えない。

 スマートフォンでシカの生態を調べてみる。エゾシカは冬眠しないらしい。

 気味が悪くなって、カーテンの隙間から外を覗くのを止めた。


     *


「三本足? 怪我でもしてたんじゃないか? そうなると長くは無いだろうな……冬場じゃ餌も取れないだろうし」


 翌日、叔父さんは鮭シチューを温めながら呑気にそういった。

 他人事という感じがして、何処か恐ろしい。死ぬのが日常というか、当たり前というか。ここではそれが自然なのかも知れないけど、僕にはなじまない。


「でも怪我してた割にすごい速さで走ってたんだよ。びっくりしちゃった」

「案外クマだったのかもな。足の数なんてすばやく動いていたら分からないだろ?」

「そういうもんかな……? 足跡を見ればわかる気がするんだけどなあ」

「雪が積もってるから無駄だよ」


 叔父さんはシチューの上にいくらの醤油漬けを二粒乗せる。

 シチューのクリーミーさに、いくらの塩味が良いアクセントになってこれも美味しい。はちみつのたっぷりかかったトーストと、豆から挽いたコーヒーを飲んでいると昨日の出来事もなんだかどうでも良いような気分になってくるから不思議なものだ。

 昨日窓から覗いた風景をもう一度眺めてみる。

 すっきりとした青い空に、薄くたなびく白い雲。

 その雲の白さにまさるとも劣らぬ雪景色。

 左右に大きな山が聳える中を、白い絨毯がどこまでもどこまでも広がっている。


「大学の課題とか、ソシャゲの周回とかある?」

「特に無いよ。車の中で全部やった」

「じゃあちょっと雪かきの手伝いしてくれないか」

「肉体労働は役に立てるか分からないよ?」

「安心しろ、人間の力じゃこの雪は無理だ」


 朝食を食べた後、僕は一階の車庫に連れていかれた。


     *


「あの、無免許……」

「俺の家の敷地の中ならセーフだよ。ほら、教えるからやってみ」


 気づくと僕は巨大な除雪車の運転席に座っていた。

 よく揺れるシートだが、アクセルを踏むと素直に前に進み、目の前の雪を吸い込んで別の場所へと勢いよく投げ飛ばす。

 巨大な鉄の塊が、自分の思うように動くことに思わず妙な笑みがこぼれた。

 こちらに来るまで抱えていた鬱屈した気分も、いくらか晴れるかもしれない。


「どうだ?」

「これ、楽しいっす!」

「じゃあ何よりだ! ところで近所のじいちゃんばあちゃんの家の雪も片付けておいてくれない?」


 待て。公道じゃなきゃセーフって自分で言ってたよね叔父さん?

 近所のじいちゃんばあちゃんの家って、200mくらいは先だよね?


「大丈夫だ。国多尼クタニの駐在さんとは仲良しだ。それにこの時間に出歩くじいちゃんばあちゃんは大体隣町まで遊びに行ってる。そしてこんな真冬に外を徒歩でほっつき歩く人間は居ない」

「道民、インドア派?」

「道民、インドア派!」


 絶対にそういう問題じゃない。


「わかった。よくわかった。事故ったら大変だもんな。じゃあ玄関周りだけスノーダンプで軽く掃除しておいてくれ」

「スノーダンプ?」

「ググれ」


 ググった。なんかすごいおっきなソリとスコップの間の子みたいなやつだった。


「これで、200m先のお家の玄関を?」

「肉体労働も偶には悪くないぞ。江古田さんのお婆ちゃんの家の玄関周りを綺麗にしてくれたら日給一万円だ。除雪車でこのあたりを綺麗にしてくれる場合は日給三万円だ」

「一万円コースで」


 まあ正直言ってやることもないので、そういうのも悪くないかも知れない。

 何より日給一万円。これはすごい。実に素晴らしい。俺は安直に叔父の提案に飛び乗ってしまった。 


     *


 そして気づくと日が暮れていた。


「あーあ、安請け合いしちゃったよ……」


 足とか腰とか痛い。

 腕も痛い。大体痛い。

 痛くない場所が無い。

 なんとか作業を終えたものの、疲れ切って動けないでいた。

 田舎ならではの人との交流とか、その中で癒やされる僕の心とか、そういう物を期待していたのだが、現実は無限の雪との虚無虚無したバトルである。

 何もないのではない。雪があるじゃないか。誰だよ東北より雪が少ないとか言った奴。


「あなた、何処の人? お婆ちゃん家で何してるの?」

「僕?」


 声をかけられて振り返ると、そのイメージの通り、セーラー服の上からダッフルコートを着た女子高生が立っていた。ベージュ色のチェックのマフラー、長いまつ毛、短いスカート、白い肌。美人に対する興味以上に、寒くないのだろうかという心配が先立つ。

 とはいえ、待ち望んだ地元の人との交流。楽しみだ。


「そ、あなた」

「えーっと……雪かきの手伝い」

「もしかして久住のおじさんの知り合い? 玄関口なら別に気にしなくて良いのに」


 久住というのは叔父の名字だ。

 どうやらこの家の子供らしい。江古田さんのお孫さんか。


「そうそう、その久住の叔父さんの甥っ子。零斗」


 彼女はそれを聞いて少し表情をこわばらせる。


「ふーん……なんでこんなところに遊びに来たの? なんも無いっしょ?」

「そうなの? 来たばっかりだからよく分からないな。僕からしたら、わりと何もかも新鮮だけど。住んでる場所って退屈に見えるよね」


 彼女はクスリと笑う。


「確かに、住み慣れてるとつまんなく感じちゃうかも。レートさんって呼べば良い? あたしはカナコ」

「良いよ、呼び捨てで」

「じゃあレート。レート、なんでこんなところにきたの?」


 話そうか、話すまいか、少し悩む。

 だけど僕は話してしまうことにした。

 叔父に直接話せるようなことでもないけど、知らない女の子になら話しやすい。


「大学生活一年目にしてボッチになっちゃってさ」

「レート、その割にはよく喋るよね?」

「揉め事に巻き込まれて孤立したの。俺は困ってた子の話し相手になっただけだったのに、何時の間にか悪者にされちゃってて」

「胡散臭いわね」

「よく言われるけど、深夜三時まで電話口でお悩み相談の相手をしていた根性は褒めてほしいな」


 それを聞くとカナコは驚いたような顔をする。それからキャーと小さく叫ぶ。


「もしかして、もしかして! そのお悩み相談の相手さんを狙ってたりしたのー?」


 図星だ。僕は肩を竦める。


「僕の方がその子を幸せにできると思っちゃったんだよな~」

「あはは、なにそれおかしい。でも大学生って楽しそうだね! だけどレートなら、もしかしたら上手く行ってたかもね」

「まあ後少しだったんだけど、このザマだよ」


 二人でケラケラと笑う。

 それからカナコはふと真面目な顔になる。


「ねえ、一つ相談していい?」

「なになに?」

「私、バイトしてお金貯めてさ、東京旅行に行きたいのよね。人がいっぱい居るところって興味があるんだ」

「見るほどのものは何もないぜ?」

「えへへ、そりゃ住んでるから言えるんだよ」

「一本取られたな」

「それでさ、それでさ。東京に行ったら女の子一人だと不安じゃない? 街の案内とかしてくれないかしら? 久住さんの甥っ子ならある程度信頼できるし」


 まあ変なことしたら叔父さんを通じて僕が大変なことになるからな。


「それなら構わないけど、好みに合うところに案内できるかな」

「じゃあ調べておいてよ。人の子が群れなして歩いているところ、見てみたい」


 おかしなことを言う子だな。

 まあ人懐っこいし、嫌いじゃないタイプだし、細かいことは突かないでおこう。

 おかしな奴って意味じゃお互い様だし。


「オッケーオッケー。中野プラザのスタバで、行列を作る人の子を見下ろそう」

「あはは、その案、気に入っちゃった。連絡先渡しておくわ。行く時になったら連絡するから、約束忘れないでよ?」

「わかってるって」

「零斗、悪い人っぽさそうだからなあ。騙したら叔父さんに言いつけるからね?」

「わかったよ。代わりに俺の傷心旅行の理由は秘密だぜ?」

「はーい、わかりました」 


 僕はそう言って携帯電話を取り出す。

 LINE、メール、その他SNSを用いて大量のメッセージが叔父から来ていた。


『ごめん。想定外のことが起きた。』

『電話はできない。メッセージを見ていたらすぐに家に戻ってくれ。』

『今話している相手との話はすぐ切り上げるんだ』


 要約するとこんな感じ。

 一体何が起きているんだ?

 昨日の叔父との会話を思い出す。

 会話内容ではなく、その真剣な面持ちを。

 となると、叔父と連絡をとっていることを勘付かれるのも良くないかも知れないな。

 念には念を入れておこう。


「どうかした?」


 カナコは首を傾げて画面を覗き込もうとする。

 僕はLINEの画面をスムーズに閉じて、笑顔を作る。


「あー、まあ見せていいか」


 画面をほとんど見ないまま他の奴から来てた適当なトークを開き、写真を開いて彼女に見せる。操作している間は身体で携帯を隠して、指の動きを見られないように気をつけた。

 

「ラーメンの写真だよ。ボッチになった俺にもかまってくれる酔狂な奴が居てね」

「うっわなにそれ? 本当に食べ物?」

「二郎は美味いんだぞ!!!!!!!」


 悪友から送りつけられたラーメン二郎全マシマシの写真を見て、カナコは納得してくれた。感謝である。


「はいはい……とりあえず振れば良い?」

「良いよ~」


 連絡先を交換して、別れの挨拶をしてから家に戻る。彼女と話している間に足取りは不思議なくらい軽くなっていた。単に気持ちが高揚しているだけだろう。どうせまた後でドッと疲れが来る。

 家に帰ると、顔面蒼白の叔父さんが待っていた。

 

「零斗、誰と話してた?」


 声が僅かに震えている。事態は思ったよりも差し迫っているみたいだ。


「え、隣のお婆ちゃん家のお孫さん」

「……そうか、何かお願いとかされなかったか?」


 これは明らかになにかある。


「叔父さん、あの子は何者?」


 叔父さんは何も答えない。

 流石に背筋が寒くなる。

 スマホを使っていた。LINEの連絡先交換までした。


「LINEはブロックしておいた方が良い系の子?」

「LINE!?」


 叔父さんは頓狂な声を上げる。

 彼女がLINEを使うこと自体が信じられないらしい。

 丁度その時、連絡が来る。


『今日はありがとう! 東京案内よろしく! 雷門の近くでタピオカドリンクの写真撮りたいんだよね! あ、そうそう東京旅行の話はまだ叔父さんには内緒でお願い(*^_^*)』


 叔父さんは目を丸くしている。


「何したんだお前」

「仲良くなった」


 叔父さんは天を仰いでため息をつく。


「……ああ、最悪だ。なんでそんなことになってんだ。後で説明する。出るぞ」

「出るってどこに?」

「町から一旦出よう。叔母さんが帰ったなら手の打ちようもあるけど、こればかりはどうしようもない」


 僕はジムニーシエラに乱暴に押し込まれる。

 叔父さんは近所の人々にせわしなく電話をしていた。


「あー、近藤さんごめんね! 数日家を空けます! 帰ってきたら除雪手伝うわ!」

「悪い。シカが出てさあ」

「シカが出たから気をつけてね」

「おい、江古田さんのお家の軒先までシカが来てたみたいだ。処理しておいてくれ。俺は甥っ子を連れて一旦町の外に出る」


 叔父さんはシカが出たと様々な家に伝える。


「連絡網とかライングループとか無いの?」

「あるけど不確実だ。特に今年は誰も“出る”って思ってなかったしな」

「叔父さん、シカじゃないでしょ」

「シカだよ」


 叔父さんは車を発進させる。

 車はまるで法定速度を無視した速度で農道を駆け抜け、そのまま国道から高速道路へと入り込む。

 その間に言葉は無い。


「明治初期の話だ。当時、このあたりは食うものが無くてな」


 高速に乗ってからしばらくして、叔父さんはポツリポツリと話し始める。


「そんな時に、アイヌの伝承を真似て、開拓者の誰かが食べ物を祈ったんだよ。そうしたら大量のシカが降りてきたそうだ」

「祈った? 何に?」

「さあな。そんなの誰にも分からない」

「誰にもわからないってことはないでしょ。元になった伝説があるはずだよ」

「ただ、シカはまだ居る。そして祈られるがままに、食われる為に彷徨っている」

「あの子はシカじゃないだろ。名前だってあった」

「名乗ったのか?」

「叔父さん。何なのこの状況? そんなに不味いことになってるの?」

「知れば知るほど、お前まで深く関わることになる。やめておけ」


 ばかみたいな話だ。

 そんな危険な訳ないだろうに。

 だってあれはどう見てもただの女の子だ。

 スマホが震える。


『もう帰っちゃうの?』

「答えるな零斗」

『既読スルーされると傷つくなあ』

「それは人じゃない」

『あ、もしかして返事できない状態?』

「ブロックしろ。スマホが使えるってだけで、まだそれで何かができるわけじゃない。まだあいつらは文明を理解しているだけだ」

『大丈夫だよ、こっちから見えてるから』


 顔を上げる。

 居た。だけどカナコではない。黒くテラテラと光る皮膚を持った牝鹿のような生き物。


「目をつぶってろ。適当なところにしがみつけ」

「叔父さん、何するつもり?」


 叔父さんは低く唸るように何かを唱えながらアクセルを踏み込む。

 お経ではない。聖句とも違う。そもそも何処の言語か分からない。サブカルクソ学生をしている言語オタクの僕が分からない。これはおっかない。

 ぼっとしていると加速のGで席に縫い付けられる。

 車の扉についた手すりを掴むが、恐怖は消えない。

 速度は既に140 km/hを越えている。


 パチュン


 シカのような生き物は、ジムニーシエラに轢き殺されてしまった。

 水風船が弾ける時みたいに、黒い液体を白い雪の中に撒き散らして、あっという間に蒸発していく。

 僕は直視していた。直視してしまっていた。


「偶に居るんだよ。自分が何になるべきだったか忘れるとぼけた個体が。そういう奴らは無節操に願いに応える。そしてその中で自我に目覚める。だから封じ込めておかなくちゃいけない。国多尼クタニ町の中で封じ込めておけば、残りは全部只のシカなんだから」


 僕は何も言えなくなって、高速道路の壁の向こう側の小高い丘の方を見る。

 

「――ッ!」


 ずらりとエゾシカが並んでいた。

 雪のちらつく中、感情の読み取れないシカたちの瞳がずらりと並んでこちらを見ている。

 携帯が震える。


『やほ(*^^*)』


 LINEにはカナコからのメッセージ。僕は彼女のアカウントをブロックする。


「普通に携帯が使えるってことはさ。誰かが契約したんだよね。誰かが口座を持ってて、誰かがそこから支払っている」


 叔父さんは答えない。

 それは国多尼クタニ町にだって携帯ショップはあるのだろうけど、誰かがそれと知られずに契約を無事にしおおせたということになる。それが誰なのか、調べる手段はあるのだろうか。

 調べることができたとして、人間の生活圏の中に入り込んだそれを排除する方法があるのだろうか。

 

「誰かが働いていて、誰かが買い物に行って、誰かが生きてて、誰かには……子供だっているかもしれない。願われたら叶えるんでしょう? だったら、もう」

「この話はもう終わりだ。いいか零斗。シカはシカだ。シカは人里にすぐ降りてくる。だからクマより怖いんだよ。それだけだ。それ以上でもそれ以下でもない」


 叔父さんは空港につくと東京行きの便をすぐに手配し、僕を急かすようにして送り出した。


     *


「……はー」


 散々な北海道旅行だった。

 来たと思ったら働かされて、続けざまに訳のわからない事件に巻き込まれて、最後には追い出されるようにしてとんぼ返り。

 飯がうまかったことしか記憶に残らねえ。

 両親から心配するLINEが来ているが、適当に返事をしてあとは未読スルーだ。

 叔父さんの家に行くのに反対してたし、今頃きっと喜んでいるに違いない。

 窓の外は相変わらず雪。飛行機が止まったら面白いのにな。

 

「やっほー、レート」


 ビクリと体が震える。


「隣失礼するわね」


 空いていた通路側の席にカナコが座る。

 何故居る。さっき、見送りに来たって。


「久住さん、慌てて国多尼クタニ町に帰っていったわ」


 カナコはそう言って自分のチケットをひらひらと見せつける。

 スマホの契約ができるんだから、航空券の予約もできるって訳か。


「まずはブロック解除! それに東京案内、してもらうからね」


 無邪気に笑う彼女の顔を見てる内に僕の意識はゆっくりと薄れていった。

 次に目を覚ました時、飛行機は東京に着いていた。

 彼女は無防備に僕の肩に頭を載せていた。良い香りがした。かくして僕は全てを諦めた。

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