(4)艦長室

 アビゲイルはそろそろと寝台から起き上がった。

 もつれた髪の毛はジャーヴィスが今朝梳いてくれたので、指が通るほど滑らかになっていた。


 ジャーヴィスは信用できる。それを実感する前に、アビゲイルは彼の申し出を受けて髪を梳いてもらっていた。


 見ず知らずの、しかも男性に、髪を触れさせるなど通常なら絶対ありえない。けれどアビゲイルはジャーヴィスにそれを許した。


 慣れているのねと言ってみると、あの几帳面そうなジャーヴィスは、幼い妹の機嫌をいつもこれでとっていたんだと、苦笑交じりに答えた。


 アビゲイルはズボンのポケットに押し込んでいた茶色の紐を取り出すと、それで肩甲骨を覆うほどの長さの黒髪を首の後で一つにまとめた。寝台から降りて、目の前の水色のカーテンを開く。


 アビゲイルは裸足だった。シスリアル号で父親の目をごまかすために、水夫の見習いの少年に見えるように振舞っていたからだ。

 結局は見つかって、アノリアへ強制送還されるはずだったのだが。


 アビゲイルは艦長室の中へと歩いていった。天気が良いのか、船尾の四角い窓からは緑がかった青いエルシーアの海と、羊のように雲が浮かぶ空が見える。

 窓の前には、この部屋の主が使っている木製の執務机が置いてあった。

 机上には何も置かれていない。


 アビゲイルは暫し部屋の中へ視線を泳がせていたが、おもむろに執務机の方へと近づいた。

 大きな引き出しが一つと、右側に小さな引き出しが四つついている。

 その小さな引き出しの一番下だけが、施錠できるように鍵穴がついている。


 アビゲイルは誘われるようにその引き出しへ手を伸ばした。鍵がかかっているはずだが引っ張ってみると引き出しは開いた。

 中に入っていたのは、青い封筒が一つだけ。

 それを取り上げると、アビゲイルは封を開いて出てきた書類に目を止めた。


 錨と剣を組み合わせ、それらに絡みつくように伸びた錨綱の紋章が目に入る。エルシーア海軍の発令部が発行する海軍の命令書だ。


「……シスリアル号の行方を探索することを命じる。オルド・スターマインと密かに接触し……」


 アビゲイルは書類から視線を引き剥がした。背後で扉が閉まる音がしたのだ。

 息を詰めて振り返ると、扉の前にはエルシーア海軍の航海服を纏った金髪の若い士官が立っている。


 アビゲイルは命令書を慌てて裏面にして机に伏せた。だが金髪の士官――この船の艦長シャイン・グラヴェールはその様子に反応はせず、ただ、右手に持った小さな鍵をアビゲイルに向かって見せた。


「多分君はそれを探すだろうと思っていたから、わざと鍵をかけなかった」


 アビゲイルは執務机から離れた。寝台があるカーテンの方へ後ずさりする。


「私、私、知らないわ!」


 シャインがゆっくりと近づいてきた。

 その視線はひたとアビゲイルに向けられている。怒りという感情はシャインの顔に浮かんではいない。だが、シャインにいろいろ尋ねられることはわかりきっている。


 シャインの視線から逃れるように、寝室と執務室を区切るカーテンへアビゲイルは身を絡ませた。部屋の中でシャインの声だけが静かに流れる。


「君の目的は、オルド・スターマインがもっていたこの包みだろう?」


 シャインは航海服のふところから小さな包みを取り出していた。


「私は何も知らない。私のことなんか構わないで!」


 シャインの瞳に見つめられることが何よりもこわかったが、ちらりと視界に入ったあの包みには見覚えがあった。父親が大事そうに、いつも肌身離さず持っていたのを見ていた。


 ちょっと待って。どうしてあの包みを彼が持っているの?

 アビゲイルは息を詰めた。

 父親が呪いのように呟いた言葉が脳裏を過ぎった。


「で、出てって。今すぐ。ここから出て行かないと、大声を出すわ」


 シャインは包みを再び懐へと戻した。大声を出すという言葉がシャインを踏みとどまらせたのか、扉の前に立った彼はアビゲイルと距離を保ったまま動かない。

 けれどその顔は霧に浮かぶ神秘的な湖のように静謐だった。

 やがてシャインは再び口を開いた。


「そうか。知らないのならいい。だが君はシスリアル号の唯一の生存者だ。俺は詳しい事情を君から聞いて、海軍省へ報告しなければならない。話すことがあるなら、今俺に話してくれないか。アスラトルに着いたら、君の身柄は本部へ移すことになる。できればそのような事は……したくないんだ」


 何を今更。

 カーテンにしがみつきながらアビゲイルはシャインを睨みつけた。


「まるで罪人扱いね」

「俺はそんなことは言っていない」

「同じようなものだわ。だって――」


 不意に父親の顔が目の前に浮かんできた。

 父親はアビゲイルをとても可愛がってくれた。頼めばどんな所へも連れて行ってくれたし、きれいな服も靴も宝石も買ってくれた。ただ、時折仕事の都合で船に乗り、半年以上アスラトルを離れることがあった。長いときは一年帰って来ない事もあった。


 今回は置手紙だけを残して一人で航海に出てしまった。その手紙を読んだアビゲイルは愕然とした。もう家に帰ることはないと書かれていたからだ。


 それが意味することは、父は二度とアビゲイルの所に帰って来れない事を予期していたのだ。どうしてそんなことを予期したのか。

 目の奥が熱い。俯いたアビゲイルは声にならない声で呟いた。


「何て言ったんだ?」

「……」


 アビゲイルは右手の拳で目に溢れた涙の雫を拭った。

 その様子にシャインが一瞬、戸惑いの表情を見せた。


 憐れんでいるの?

 でも私は、騙されない。

 あなたが聖堂の御使いのような姿と言動で振舞っても、私はあなたの正体を知っているのだから。


 アビゲイルは絡みつくようにすがっていたカーテンから手を離した。

 今度は一歩、一歩と、自分からシャインへと近づいていく。


「話しても、いいわ」


 シャインは黙ったままアビゲイルを見下ろしている。


「あなたになら、話してもいいわ。でも誰かが立ち聞きしているかもしれないから、耳を貸して」

「……わかった」


 シャインが身を屈めた。月影色の金髪の合間から見える青緑の瞳がアビゲイルを一瞥した後、足元へとそっと伏せられた。

 アビゲイルはシャインにさらに近づくと、彼の耳元に顔を寄せ密やかに囁いた。


(私の父は、アドビス・グラヴェールに殺された)


「なっ……!」


 シャインは僅かに驚きの声を発すると同時に、右手でアビゲイルを突き飛ばすように自らの体から離した。アビゲイルは後方へ後ずさったが、執務机の縁につかまった。そこに上半身を預けながらシャインの方を見た。


 濃紺の航海服の左脇腹をシャインが顔をしかめて見つめている。彼はアビゲイルの視線に気付くと、顔を上げて再びこちらに向かって歩きだそうとするしぐさを見せた。


「近寄らないで!」


 アビゲイルは掌に収まるくらいの小さな短剣を握り締め、それをシャインに向かって突き出した。

 少女である自分に気を遣い、ロワールハイネス号の乗組員はアビゲイルの体に一切触れようとしなかった。だからこの短剣も右手首に革紐で留めた隠し場所から奪われていなかったのだ。


「私だってこれぐらいの護身術は身につけてるの。さあ、あなたと話すことは何もないわ。さっさと出ていって。さもないと――」


 アビゲイルは大きく息を吸い込むと、まるでこの世の終わりを見たかのような、凄まじい悲鳴を上げた。




 ◇


 

 甲板で当直していたジャーヴィスとシルフィードは顔を見合わせた。


「何ですかい! 今の悲鳴は!?」

「アビゲイルだ」


 ジャーヴィスはシルフィードに自分が様子を見に行くから持ち場を離れるなと叫び、急いで後部甲板から艦長室へと向かった。


「副長、今の叫び声は一体?」

「物凄い声だ。何かあったんでしょうか」

「私が様子を見るから、お前達は来るな! 余計状況がわからなくなる!」


 集まってきた水兵たちをなんとか艦長室へ行かせないように命じて、ジャーヴィスは一人その扉の前へと駆けつけた。


「アビゲイル、無事か!」

「いや、来ないで! 誰か助けて!」


 扉の取っ手を握り締めると助けを求めるアビゲイルの怯えた声が聞こえた。


「一体何があったんだ!」


 ジャーヴィスが扉を開けようとしたとき、唐突にそれが開いた。

 倒れるようにそこから出てきたのは、海図室にいるはずのシャインだ。


「グラヴェール艦長!?」


 シャインは何も言わずジャーヴィスの体をすり抜けるようにして出て行った。

 その背を追いかけようとしたジャーヴィスに、アビゲイルが背後から抱きついてきた。


「行かないで! ここにいて! 私を守ってくれるんでしょ、ジャーヴィス!」


 ジャーヴィスはアビゲイルの恐怖に怯えきった顔を覗き込み一瞬息を飲んだ。

 大きく見開かれた青い瞳から涙の雫が零れて青ざめた頬にいくつも筋を作っている。


「いや、それはそうだが、一体何があったんだ。アビゲイル」


 ジャーヴィスはシャインのことが気になりながらも、アビゲイルをこのまま一人にさせておくわけにもいかず、とり合えず彼女をなだめながら艦長室の中に入るよう促した。


 アビゲイルはただ泣き続けていた。ジャーヴィスの腕にすがったまま。

 ジャーヴィスは彼女と共に長椅子に腰を下ろし、その気持ちが落ち着くのを辛抱強く待っていた。

 やがて艦長室の中に黄昏の光が満ちる頃、ようやく安堵したのか、アビゲイルが顔を上げた。


「ご、ごめんなさい……ジャーヴィス。私……」


 ジャーヴィスはただ無言で頷いた。

 アビゲイルをなだめながら、ジャーヴィスは艦長室の中をどこか変わった事がなかったか見ていたが、アビゲイルがあのような凄まじい悲鳴を上げる要因はどこにも見つけることができなかった。

 ただ一つの事実を除いて。


「落ち着いたのなら、何故あんな風に取り乱したのか、理由を教えてくれないか? それに何故、グラヴェール艦長がここにいたのかも」


 グラヴェール艦長、という言葉にアビゲイルが再び肩を震わせた。

 ジャーヴィスは内心しまったと思ったが、アビゲイルは大丈夫です、と小さく呟いた。


「あの人、私のことを疑っているの。私は父様を追いかけてシスリアル号に乗っただけなのに、信じないの。アスラトルに着いたら私、密偵の容疑で海軍省の牢屋に入れられるわ。もう私、どうしたらいいのかわからない。私を助けて、ジャーヴィス!」


「助けるも何も――君にやましいところがなければ、本部の取調べだってすぐに終わる。何も恐れることはないんだ、アビゲイル」


「あなたも……そんなことを言うのね」


 アビゲイルは疲れたように長椅子の背に体を預けた。けだるげに瞳を伏せ、心底疲れたように息を吐いた。


「アビゲイル!?」


 アビゲイルの目はジャーヴィスではなく遥か天井を見上げていた。


「こんな思いをするのなら、あなたに助けてもらうんじゃなかった。父様と一緒に死んだほうがよかった」


 ジャーヴィスは目を見開いた。

 言葉より先に伸びた右手がアビゲイルの頬を打っていた。


「なんて馬鹿なことを言うんだ! 君は! 命は失ったら終わりなんだぞ!」


 頬を押さえるアビゲイル。青い瞳が再び涙に潤んでいた。


「だって……だって!」


 首にすがりつくアビゲイルの肩にジャーヴィスは手を回した。


「何もやましいことがないなら、堂々としているんだ。アビゲイル。グラヴェール艦長は確かに何かを私に隠している。それが君に関係することかどうかはわからないが……」


 ジャーヴィスはアビゲイルの肩から手を離すと、彼女の顔をひたと正面から見据えた。


「艦長と話してくる。いいか、兎に角おかしなことは考えるなよ、アビゲイル。絶対悪いようにはしない」


 彼女の目から溢れる涙を航海服のポケットに入れていたハンカチで拭いてやり、ジャーヴィスは長椅子から立ち上がった。


「いい子にしていたら、特別に私の自慢のパンケーキを焼いてやるから。いいな、アビゲイル」

「……うん……」


 ジャーヴィスのハンカチをお守りのように両手で握りしめながら、アビゲイルは長い黒髪の頭を揺らして頷いた。

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