第9話 スケジュール管理(後編)


  ◇◇◇



 その店は大通りから一本外れた所にあり、ちょっとした隠れ家を思わせる雰囲気があった。赤茶けたレンガの壁を蔦が垂れ幕のように覆っているため、看板の下に掲げられた角灯ランタンが灯っていなければ、それと気付かず通り過ぎてしまうだろう。


「あーもう最低。やっぱ『提督』、変わってなかったわ」


 リーザ・マリエステルは頬杖をカウンターにつきながら、独り、グラスに注がれた琥珀色の酒をじっと見つめた。


 普段は一分の隙なく軍服を纏う彼女であるが、今日は十年ぶりに再会した士官学校の同期と食事をするため、盛装とまではいかなくてもそれなりの格好をしていた。


 リーザは肩口まで伸ばした漆黒の髪の合間から見える、瞳と同じ色をした紅玉の耳飾りを無意識のうちに左手で触れていた。

 その時、店の戸口がゆっくりと開いた。


「あらいらっしゃい」


 黒い鉄板が載せられたカウンターの内側にいる、明るい栗色の髪を一つに束ね、赤い格子柄のエプロンを着た若い女性が、客に向かって愛想良く声をかけた。右手にびちびちと跳ねる大きな海老をわしづかみにしたまま。

 彼女はアスラトルで唯一『海鮮焼き』料理を出す19才の若い女将である。


「お、おう」


 最初に入ってきた年嵩の男は常連なのか、若女将の声もどこか親し気である。かなり背が高く、くすんだ緑色の作業服を纏っている。


「え? ホープ船匠せんしょう?」


 リーザは見知った顔に思わず驚いた。それは店内に入ってきた年嵩の男――ホープも同じように、白くなった眉をあげてリーザの顔をまじまじと凝視した。


「こりゃーどうも今晩は。マリエステル艦長」


 ホープがぺこりとリーザに向かって軽く頭を下げる。

 その拍子に彼の後ろにいた連れの姿が見えた。エルシーア海軍のケープがついた青い軍服を着ている若い男だ。


「マリエステル艦長ですって?」


 若い男もまた驚いたように小さく叫んだ。

 叫んだ後でリーザに聞こえただろうか、それをいぶかしむように、右手を上げて口元を押さえている。


 ――聞こえてるわよ。グラヴェール艦長ったら。


 リーザは口元を引きつらせつつ、若い男に黙ったまま小さく頷いてみせた。月影色の淡い金髪を一つの三つ編みにした彼は、リーザの姿に驚きつつも、穏やかな笑みを口元に浮かべて、ホープと同じように頭を下げた。


 そこでリーザは再び吹き出しそうになった。庶民的で田舎の台所という店内の雰囲気のせいか、軍服姿でも華やかな外見をしたシャインは、どことなく別世界から来た人間のようにいるのだ。


 店内は木片に黒いペンキで書きなぐられたメニューが、レンガの壁にずらりと並べられ、香草や腸詰めが天井からいくつも吊り下げられている。


 カウンターを隔てた向こう側は厨房で、鍋や料理道具などが所狭しと置かれていた。この店の料理で秀逸なのが、種類豊富な塩辛なのだが、毒々しい赤や黄色をしたそれらの瓶が棚一面に並べられている様は、アルコール漬けにした薬酒のようにもみえて結構不気味だ。


 ――どうも彼のイメージじゃないのよね。この店は。

 どっちかといえば、ホープ船匠の趣味。

 

「今晩は。マリエステル艦長」


 リーザは穏やかなシャインの声で我に返った。

 シャインの背後の天井で、ぐるぐると腸詰めの固まりが回っている。


 ――やっぱり似合わないわ。

 リーザは腸詰めから視線を引きはがし、無理矢理笑いを噛み殺した。


「今晩は。グラヴェール艦長。へぇー、あなたもこういう店によく来るの?」


 リーザはシャインとホープに手招きした。

 店内は十人ほどが横一列に並んで座るカウンター席しかない。

 今はリーザ一人しか客はいないが。


「いや、今夜はホープさんが誘ってくれたんです」


 シャインがそういうと、ホープがにこにこと頬をほころばせながら後に続いた。


「食通で有名なマリエステル艦長がここにいらっしゃるのが嬉しいのう。この店はワシの孫娘がやっているんでね」

「えっ」


 リーザとシャインは顔を見合わせた。


「お二人は海軍の方なんですよね? どうもうちの頑固ジジイがお世話になってます」


 カウンターの中から若い女将(本当はまだ19才の娘さん)は輝くような笑顔の後おじぎをすると、気合い一発、板の上に置かれた青魚の頭を切り落した。


「頑固ジジイは余計じゃ、エミリア」


 ホープの孫娘――エミリアは慣れた手付きで魚をさばいていく。


「だって、おじいちゃんはいつもいつも船のことばっかり考えていて、この年になるまでロクに私達に会いに来てくれなかったじゃない」


 ホープの顔が怒りと気恥ずかしさのせいか、みるみる赤くなった。


「エミリア!」

「まあまあ、ホープ船匠落ち着いて。そちらの家庭の事情はさておき、おすすめの『海鮮焼き』をまずは食べさせて下さい。ねっ?」


 シャインがホープの腕をとって彼の怒りをなだめている。


「こっちへいらっしゃいよ。お二方。一人で飲んでてさみしかったのよ~」


 リーザは再び手招きした。

 丁度良い。店を出るにはまだ宵の口だから、話し相手が欲しかった所だ。


 ホープが恨めし気に魚をさばきつづける孫娘を見つめ、ふうっと大きく溜息をついた。


「さ、マリエステル艦長がお呼びじゃよ。グラヴェール艦長」

「あっ、ホープさん」

「若い者は若い者同士がいいじゃろ」


 ホープがシャインの腕をとってリーザの隣の席に座らせた。


「お、お邪魔します。マリエステル艦長」


 リーザはカウンターに再び頬杖をついて、隣に座ったシャインに話しかけた。


「どうぞ。そんなに遠慮しなくても」


 シャインが気遣うように周囲を見回した。


「いや。ひょっとしたらどなたかと約束されてるんじゃないんですか?」


 ――勘の良い人。

 リーザは引きつった口元を隠すように無理矢理笑顔を作った。


「いいのいいのー。気にしないで。ちょっと知り合いと飲んでたんだけど、時間がきたから帰ったのよ、彼」


 シャインが思わず目を細めて凝視した。


「彼?」


 リーザはシャインの問いを無視して、カウンターで待機している若い女将に声をかけた。


「エミリアさん。私の奢りで二人に食前酒をお願いするわ。グラヴェール艦長はシシリー酒。ホープさんは……」


 ホープは気遣い無用といわんばかりに大きく頷いて、エミリアに「いつもの」と注文した。

 先程までの怒りはどこへやら。

 ホ-プの視線は厨房をひとりで切り盛りする孫娘の姿に釘付けだ。

 きっと彼女に会うのは久しぶりなのだろう。ホープは造船所の敷地内に家を建ててそこに住んでいる。しかも齢60才を超えた今も現役で海軍の軍艦を作り続けているので忙しく、家族に会うこともなかなかできないようなのだ。


「シシリー酒、お待たせしました」


 シャインはエミリアから淡い紫色の酒が入った、瀟洒な足付きのグラスを受け取った。

 ――やっぱり、これよね。

 店の内装とシャインの雰囲気のずれに未だ慣れないが、酒の選択は間違っていなかったようだ。

 そんなリーザの個人的な思惑とは裏腹に、シャインはまだ遠慮しているのか申し訳なさそうに眉をしかめている。


「すみません、マリエステル艦長」

「遠慮しないでって言ったでしょう? それに今は休暇中だからリーザと呼んで。肩書きで呼ばれたら折角の開放感が消えちゃうわ」


 リーザは飲みかけの自分の酒のグラスを手にして、ふと失言に気付いた。


「ああ……ごめんなさい。あなたは一仕事終えた後だったわね」


 シャインはゆっくりと頭を振り、グラスの酒を一気に干した。

 余程喉が乾いていたのだろうか。

 酒を飲み終えたシャインは大きく息を吐いて、エミリアに二杯目を注文した。


「グラヴェール艦長。いかんな。そんな飲み方をしては旨い酒も味がわからんぞ」


 ホープは普段自分が飲んでいる『名酒・頑固一徹』とラベルに書かれた素焼きの酒瓶を脇に置いて、一杯目をちびちびとやっている所だった。


「ほれ、エミリア。艦長にアレを焼いてやってくれ。具はサテンスペルの海老と帆立貝。エーマールの白身も忘れずな」

「わかったわ。で、おじいさんは何にする?」


 ホープははや頬を赤くして孫娘ににやりと笑いかけた。


「ワシにも同じものをくれ。そうだ、後、上に卵をのせるのを忘れずにな」


 エミリアがカウンターの鉄板の上に海老や白身魚の切身をのせ、それらを塩ベースのタレをからめながら焼いていく。同時に小麦粉を水で溶いたもの鉄板の上に垂らして広げ、薄い生地にして何枚も焼いていく。

 生地に具を巻いて食べるのが通常の食べ方だが、ホープは最初から生地に具をのっけて、その上に卵を落とすのが通の食べ方だと語った。


「『海鮮焼き』ってどんな食べ物か知らなかったけど、素材をたれで絡めて焼いただけなのにとっても美味しいですね」


 食べ物を胃に入れて、シシリー酒で体が暖まったのか、シャインの頬は幾分上気している。


「そうよ。私もこのお店でそれを知ったわ。それ以来、ここは私の密かなお気に入りの店」

「……で、今夜はジャーヴィス副長と食事をされたんですね?」

「……!」


 リーザは飲みかけていた酒を思わず吹き出しそうになった。

(勿論それは必死で堪えた。淑女として当然のことである)


「あ、リーザさん。黙ってる。さては図星だったかな。これは失礼いたしました」


 青緑の瞳を悪戯っぽく細めながら、シャインは悠々とシシリー酒のグラスに唇をつける。

 何なのよ。

 わざとそう言ってみたくせに。

 店に入って来た時とは別人じゃないの――?

 リーザは唇をひきつらせながら、ほほほと乾いた笑い声をたてた。


「どうしてわかったのー? 私、ひとっ言も『提督ジャーヴィス』のこと、言ってないはずだけど」


 シャインは懐から小振りの銀時計を取り出した。

 何気ない仕種で蓋を開け、時刻を確認する。


「今……20時30分を過ぎました。俺とホープさんが店に来たのは丁度一時間前の19時30分」

「それが、どうかした?」


 リーザは自分のグラスに手を伸ばし、残っていた酒を一気に飲んだ。

 一時間経ったのなら丁度良い。

 十分飲んで食べたし、シャインに妙なことをこれ以上突っ込まれないうちに帰った方がいい。絶対に。


「あら。もうそんな時間だったのね。じゃ、私そろそろ帰るわ」


 リーザは席を立とうとした。


「あ、リーザさんまで。門限か何かがあるんですか?」


 リーザはシャインのその一言で思わず身を強ばらせた。


「門限? いえ、そういうわけじゃ……」

「じゃあ、もう少し付き合って下さってもいいでしょう?」


 シャインは机の上で両手を組み、意味ありげな微笑を浮かべながら口を開いた。


「ジャーヴィス副長みたいに門限がないなら、後少しだけ。なんか……一人でいると気が滅入ってしまいそうになるんです」

「……」


 リーザは酒を飲んだ人間の反応として、大まかに二種類ある事を知っていた。

 一つは陽気になり饒舌になること。

 そしてもう一つは飲めば飲む程陰気になっていく人。

 シャインは最初は前者で、酒が入ると後者になる複合タイプだ。


 このままではまずい。

 陽気な酒飲みは嫌いではないが、陰気なのは苦手だ。

 この手のタイプは愚痴や説教を垂れて、つかまったら最後、中々逃げる事ができないのだ。

 リーザは助けを求めるように、シャインの右隣にいるホ-プの方へ視線を向けた。


「すー、すー」

「あらあら。おじいちゃんったら。最近、お酒を飲んだらすぐ寝ちゃうのよね」


 エミリアがくすくす笑いながら、ホープの寝顔を眺めている。

 ホープは酒瓶を右手で握りしめながら、机の上に頭を載せて熟睡していた。


 ――だ、だめだ。

 ホープ船匠は役に立たない!


 リーザは肩をすくめ溜息を吐いた。

 けれど勘違いしたシャインは、空になったリーザのグラスにシシリー酒を注いで、彼女に同情するように深くうなずいた。


「ジャーヴィス副長は19時が門限なんです。時と場合によりますが、概ね彼は、自分の一日のスケジュールが決まっていて、それで行動する人なんです。俺には彼のような芸当は全くできませんから、すごいなーって思うわけです」


 シャインは苦笑しながら、小皿に載った海老を取り上げ、香ばしい小麦粉の皮をくるくると巻いた。

 リーザは再び椅子に腰を降ろしていた。

 すっかり忘れていたが、ジャ-ヴィスとの食事のことがまざまざと脳裏に蘇ってきたのだ。


「そう。彼、士官学校の時からそうだったわ。何があっても必ず19時には帰ってしまうの」

「何故ですか?」


 海老を巻いた皮をつまみ、シャインが口の中に放り込む。

 料理が気に入ったのか、彼は新たに帆立貝を小皿にとって、香草と一緒に再び小麦粉の皮を巻き付けている。


「何故って。そんなの知らないわよ」


 リーザはげっそりしたように、グラスの酒を一口飲んだ。


「子供の頃からの習慣じゃないの?」


 それを聞いたシャインは小さく笑い声をたてた。


「ジャーヴィス副長の家は躾が厳しかったんでしょうね。だけど、やっぱり……」

「やっぱりって?」


 シャインは口が滑ったといわんばかりに肩をすくめた。


「いえ。門限があっても、女性を一人店に残すのはいただけないなと。せめて家まで送っていくのが紳士としての義務でしょう」


 シャインはそっと席を立った。

 酒のせいか、いつも白い頬が赤味を帯びて血色がいい。


「お送りします。マリエステル艦長。今夜はあなたと話せて、気が紛れました」

「そ、それはよかったわ。他愛無い話しかできなかったけれど」


 リーザは何故かどぎまぎしながら席を立った。

 シャインのこの豹変ぶりがよくわからない。

 酔っているのかと思っていたのだが、シャインの視線はちゃんとリーザの方に向いているし、口調も普段の彼のものだ。


「お気遣い下さり、とても嬉しいですわ。グラヴェール艦長。あの馬鹿にきかせてやりたいくらい、嬉しい……」


 シャインははにかんだようにリーザから目をそらした。


「いえ。お礼を言うべきは俺の方なのです。あなたやホープさんのおかげで、今夜は楽しく食事をすることができましたから」

「グラヴェール艦長?」


 シャインははっと我に返り、口元を覆うように右手を添えた。


「やっぱり飲むんじゃなかった。だから酒は苦手なんです。つい、余計な事をしゃべってしまう……」


 リーザはふっと笑い、うつむいたシャインの肩を軽く叩いた。


「寂しいなら、早く彼女でも作りなさい。あなたの居場所が定まるように」

「……リ、リーザさん!?」


 リーザはシャインへにこやかに微笑みかけると、エミリアに向かって「お勘定をお願いするわ」と声をかけた。




  ー完ー

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