番外編(読み切り短編)

第1話 「ご機嫌伺い」

・本編「ロワールハイネス号の船鐘」の番外編です。

 (第1話読了済が推奨です)


◆◆◆


 エルシーア王立海軍に属する帆船・ロワールハイネス号の副長ジャーヴィスは、士官学校を超が何個もつくほど優秀な成績で卒業している。


 毎月行われる定期試験では、在籍した三年間ずっと首席の地位を守り、(例外として2回だけ、同期のリーザ・マリエステルにその座を奪われた事がある)愛読書は人を殴り殺せるような分厚さを誇る『エルシーア海軍規定書』だ。

 よって、彼につけられた渾名は『歩く規律』――。

 

 十七才で海に出て――はや十年。

 海軍士官としては遅い出だしではあったが、経験を積んだジャーヴィスはベテランの域に入る。


 けれど海軍のお偉方との縁故が全くないせいで、二十七才となった彼の階級は、未だ中尉どまりである。


 自分にとってまだ三隻目となるロワールハイネス号は、三本マストの縦帆船スクーナーで、乗組員は20名に満たない。軍艦の中でも最小クラスの大きさだ。


 そんなロワールハイネス号の仕事は、外洋に出ている大型軍艦へ連絡文書や補給物資を速やかに運ぶことだ。


 通称「使い走り」と揶揄されているが、ジャーヴィスはその仕事に誇りを持っている。これは快速を誇るロワールハイネス号にしか務まらない。


 いや、決められた日数で素早く積荷を運ぶことができるのは、びしびしと水兵たちをしごくジャーヴィスがいるからこそ。

 副長として――実質船を動かす監督者として、ジャーヴィスは誰からも信頼されている人物である。


 そんな彼が、このロワールハイネス号で唯一緊張する場所がある。

 それはロワールハイネス号の最高責任者が詰める部屋。

 いわずもがな、船尾の一角を贅沢に占領している艦長室である。


 ジャーヴィスは黙ったまま艦長室の扉の前に立ち、白い手袋をはめた右手を上げて口元に添えると小さく咳をした。


(何故、ここに来ると意識してしまうのだろうな?)


 ジャーヴィスは眉をしかめながら、秀でた額に垂れてきた栗色の前髪を払いのけた。


 この薄い扉を開けた先にはジャーヴィスの上司がいる。

 しかも、ただの上司ではない。

 普通の人間なら、彼の部下となったことで自分の海軍人生を諦めたかもしれない。

 あるいは、出世への足掛かりができたと大喜びするかもしれない。

 ジャーヴィスの上司は、エルシーア海軍で参謀部の長を務めるアドビス・グラヴェール中将の一人息子なのだ。


 大抵の士官達は皆ここで青ざめる。

 グラヴェール中将は若い頃から数多の海賊を撃破し、その功績によってエルシーア海軍ナンバー2の地位に実力でのし上がった猛者もさである。


 彼のお陰でエルシーア海から横暴な海賊は姿を消していった。

 同時に、その意に沿わない者も海軍省から消えていった。

 彼の機嫌を損ねた者がどれだけいて、闇討ち――いや、罷免されたのか数はいうまい。

 安全な陸の海軍省で怠惰な平和を貪る将官達は、グラヴェール中将に睨まれることを心底怖れている。


 その息子の副官だなんて、誰が一体好き好んでなるだろう?

 万一その身に何かあったら。怪我などさせたら。

 グラヴェール中将の不興を買い、どんな報復を受けるか。考えるだけでも背筋が凍るほど恐ろしいことである。


 ジャーヴィスも確かにその圧力感プレッシャーは感じていた。

 けれどそれは、自分の保身を考えてではない。



『あれはちょっと危なっかしい所があってな……』


 ジャーヴィスをロワールハイネス号の副官に推挙したのは、他ならぬグラヴェール中将自身だ。

 けれどグラヴェール中将とジャーヴィスは全く面識がない。

 ジャーヴィスの士官学校での成績が、運良く彼の目に止まっただけだ。


 しかしグラヴェール中将がジャーヴィスを気に入った本当の理由は、素晴らしい成績の割に未だ中尉どまりという世渡りが下手な青年――金にも権力にも媚びない、惑わされない、誠実さにあった。


 だからジャーヴィスが真に怖れているのは、彼の息子のことではない。

 副官に推挙してくれた、グラヴェール中将の信頼を失いたくないのだ。

 純粋に自分の能力を認めてくれた、彼の期待を裏切りたくないだけなのだ。




 ジャーヴィスは右手を上げて艦長室の扉に向き直った。

 時間だ。

 航海中は毎朝10時になったら総員甲板に集合して、艦長の訓示を聴く事になっている。そろそろお出ましになってもらわなくてはならない。


「グラヴェール艦長。ジャーヴィスです」


 ジャーヴィスは呼びかけながら扉を二度軽く叩いた。

 同時に中の部屋の物音に耳をすます。


「ああ、そろそろ時間だね」


 部屋の向こう側でやんわりと穏やかな声が返ってきた。

 ジャーヴィスはそれに安堵して把手を手前に引き、艦長室の扉を開けた。


「……!」


 部屋に入った途端、ジャーヴィスは自分の間の悪さを痛感する。

 彼の上司――シャイン・グラヴェール艦長は、窓を背にした執務机の前の応接椅子に腰掛けていた。すでにケープがついた青いコートタイプの航海服に着替えているが、いつも三つ編みにしている月影色の淡い金髪だけが、束ねられることなく肩の上に無造作に流れ落ちている。


 艦長室の四角い窓から差しこむ朝日を受けて、それがきらりと光るのをジャーヴィスは目にした。嫌な予感と共に。


「悪い。まだ身支度ができてないんだ。ロワールがどうしても自分がやると言ってきかなくて」


 ジャーヴィスに向かってシャインは気まずそうに微笑した。


「……」


 ジャーヴィスは顔を青ざめさせていた。

 シャインの身支度が終わっていなかった事に対するそれではなく、彼の後ろに、紅髪を波打たせた小柄な少女が立っているのが見えたからである。

 彼女の華奢な白い手には、乱れたシャインの髪の束がのっていた。

 どうやら彼の髪を三つ編みにしようとしているようだが、うまくできず丁度崩した所のようだ。


 けれど、そんなことはどうでもいい。

 少女はジャーヴィスを睨み付けていた。

 水鏡のように透き通った瞳には、強い強い敵意が込められていた。


『今すぐ出てって!』

 

 まずい。

 ジャーヴィスの額にじわっと嫌な汗が浮いた。


 彼女はこのロワールハイネス号に宿る魂(船の精霊)レイディと呼ばれる存在で、普段は艦長であるシャインにしか姿を見せない。


 彼の前に現れる時は十七才ぐらいの華奢で可憐な少女の姿なのだが、それに惑わされてはならない。ああ見えても彼女は、自らの意志でこのロワールハイネス号を動かしたり、操ったりすることができるのだ。


 万一その機嫌を損ねたら、どんな騒ぎを起こすか予想もつかない。

 下手をすれば暴走し、大海のど真ん中で自沈する、なんてこともありうるのだ。


「……邪魔しないでよ」


 唇を上向かせて少女――ロワールがジャーヴィスをにらみつけながら呟く。

 目がすわっている。心なしか彼女の夕焼けを思わせる赤い髪が、くねくねと生き物のように動いている気がする。


「……うっ!」


 ジャーヴィスは戸口で立ち尽くした。

 彼女はわざと自分の姿をジャーヴィスに見せているようだ。

 それが意味するのはただ一つ。


「いっつも、いっつも、あなたが来て、私とシャインの二人だけの時間を壊すんだから!」

「い、いや……私は別に、そんなつもりでは……」


 ロワールは激しく首を横に振った。


「現にいま邪魔してるー! ねえ、シャイン。副長なんていらないわよ。船を動かすだけなら私もできるから、こんなお邪魔虫は海に捨てちゃいましょうよ~」


 シャインは肩をすくめ、ロワールの方へ振り返った。

 エルシーアの青緑色の海を思わせる、優し気な瞳を向けながら。

 こういっては何だが、シャインは本当にロワールに甘い。

 彼女の言いなりとまではいかないが、船の航行に支障がないかぎり、どんなことも好きなようにさせている。


 ジャーヴィスはごくりと唾を飲み込んだ。

 まさか、自分を本当に海へ捨てる、なんて言いはしないだろうか。


 あの穏やかな海のような微笑の下で、シャインが何を考えているのか、それを見抜ける人間は皆無だ。

 処女航海の時から、この年下の上司の行動には驚かされっぱなしだった。

 ジャーヴィスは自分の持っていた常識や価値観を根底から覆させられた。

 そんな苦労をしたからこそ、ひょっとしたら、と思ってしまう。


 ジャーヴィスは平静を装いながら内心焦っていた。

 シャインは決して口にしないが、本当はジャーヴィスの存在を疎ましく思ってはいないだろうかと。


 気に入られなくても良い。気に入られようとも思わない。

 ただ一つだけ譲れないことがある。


 ジャーヴィスは深呼吸して焦る気持ちを落ち着かせた。

 これだけは誇れる。

 私は一度だって仕事に手を抜いた事はない。 

 絶対に。


 シャインは笑みを浮かべたまま目を細めてロワールを見ていた。

 ジャーヴィスを一瞥することなく。

 

「それはできないよ、ロワール。ジャーヴィス副長は確かに間の悪いお邪魔虫かもしれないけど、俺がこうしてゆっくりと朝の時間を持てるのは、他ならぬ彼のおかげなんだから」

「でも~。シャインが甲板に上がったら、ぜんぜん私に構ってくれないじゃない」

「じゃあ、仕方ないな」


 擦り寄るロワールを右手でなだめ、シャインは戸口で立ち尽くすジャーヴィスに視線を向けた。


「ジャーヴィス副長」

「……」


 ジャーヴィスは一瞬反応が遅れた。

 シャインが自分を海に捨てる事をあっさり却下したことにほっとしていたからだ。


「ジャーヴィス副長?」


 怪訝な声でシャインが再びジャーヴィスを呼んだ。


「あ、はい」

「どうしたんだい? ぼーっとして。君らしくない」

「……すみません……」


 どちらかといえば、ぼーっとしているようにみえるのはシャインの方だ。

 そんな上司にたしなめられて、ジャーヴィスはようやく自分を取り戻した。


 けれど、シャインの瞳は見る間に真剣味を帯び、温和な表情がその顔から消え去ったのだった。その変貌にジャーヴィスは再び緊張した。


「どうか、されましたか?」


 シャインは硬い表情のままつぶやいた。


「今日の訓示は中止にしてくれ」

「えっ?」


 ジャーヴィスは目を見開いた。

 毎朝行う艦長の訓示は、船内の士気を高めるために必ず行わなければならない。ジャーヴィスの愛読書『エルシーア海軍規定書』にもはっきりと明記されている。


「しかし、訓示は規定書にも定められた、日々の日課で……」

「規定書? ああ、あれはただの指標にすぎない。そんなの律儀に毎日やっている船はうちぐらいだよ。俺が士官候補生で乗っていた船じゃ、二週間に一度しか艦長の訓示はなかった。下手をすると一ヵ月に一度」

「で、ですが」

「じゃ、反対にきくけど、君が今まで乗っていた船ではどうだった?」


 シャインは椅子の肘置きに右腕をのせて頬杖をついた。

 青緑の瞳を半ば伏せ、優雅に足を組んで濃紺の応接椅子に腰をかけるその姿は、絵になるほど様になっている。


 おかしい。

 正しい行動をしているのは自分のはずだ。

 ジャーヴィスはこめかみにじわりと汗が浮かぶのを感じた。


「まさか、覚えてない? 君ほどの人が?」


 シャインのあの余裕は何処から出てくるのだろう。

 ジャーヴィスは悔し気に目を細めた。

 そんなこと、わかりきっているじゃないか。


 シャインは現状を知っている。いや、知り過ぎている。ジャーヴィスよりも海軍の内情には詳しいのだ。

 彼の家は代々将官クラスの人間を輩出している海軍一家なのだから。


「いいえ。覚えています。確かに艦長の訓示を毎日やっている船は……仰る通り、エルシーア海軍の中でも、うちぐらいでしょう」


 険しかったシャインの表情が穏やかな海のように戻った。


「そうだろう?」


 シャインは目を伏せて、右肩に滑り落ちてきた金髪の一端をつまんだ。


「俺は一応新米艦長だから、君の言う通り今までやってきた」

「はい」

「決してそれがいけないとは言ってない。毎日できるならそれにこしたことはない」

「はい」

「だけどね、ジャーヴィス副長」

「はい」


 シャインはたまりかねたように、両手で乱れた金髪を首の後ろでかき寄せた。


「わかってくれ。今日は支度が間に合いそうにない! 皆を待たせてまで話す話題もないから、君は甲板に戻って解散を命じてくれ」


 ジャーヴィスは黙ったまま唇を噛みしめた。

 要するに、出ていけという事だ。

 一旦航海に出た船では、艦長の言葉は絶対で法律にも等しい。

 それが七才年下で、気分屋で、船の精霊レイディに頭が上がらない新米艦長だったとしても――例外ではない。


「わかりました。仰る通りにいたします」


 ジャーヴィスは手袋をはめた手をぐっと握りしめ、シャインに一礼して艦長室から退出した。扉を閉めるとロワールの叫び声が聞こえた。


「ちゃんとできてたんだから~三つ編み! あのバカ副長が入ってこなかったら!」

「……」


 ジャーヴィスは思わず溜息をついた。

 だから緊張するのだ。この部屋に入る時は。





 【第1話】ご機嫌伺い -完-

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