岬け家訓第25条『逃げちゃいけないことなんてない』

 足がガタガタと震える。

 腰が見事なまでにぬける。

 それでも、わたしは前に進まなければならない。

 わたしを逃がしてくれたレーコさんとヨルさんのために。

 そして……まともに歩けないわたしに、また肩をかしてくれている、緑ちゃんのために。

 3年生の教室前の廊下までの道のりは、気が遠くなるくらい遠かった。

 じっさいの距離はたいしたことはないのに、わたしのからだは、そちらに向かうだけでぶるぶる震え、どれだけ強い意志の力でも、言うことを聞かせることができなかった。

 そして、やっと、やっと、3年生の教室が見えてくる。

 その前に、水死体のように力を失って宙に浮いている、レーコさんの姿があった。

「レーコさん!」

 わたしの声で息を吹き返したように、ぶはっ! と激しくせきこむレーコさん。

 だけどそのからだは力を失ったまま、空気に流されているだけというありさまだった。

「ばかっ、なんでもどってきた!」

 顔だけをなんとかこちらに向けて、レーコさんは本気でわたしをしかった。

 だけど今はそんな小言に耳をかたむけているひまはない。

「本当に……なんでもどってきたんだ、緑」

 緑ちゃんとわたしを守るように、ヨルさんがすたっ、と床におりてくる。

 だけどその息は絶え絶えで、なんだかからだの輪郭がぼやけて見える。

 気のせいかとも思ったけど、ヨルさんはそのぼやけたからだを痛そうにおさえていた。

「ヨルルン……」

「あのな」

 ヨルさんは半分消えかかっている右手で、緑ちゃんのひたいをこつんとたたく。

「もう言うのもつかれたけど、人前でその呼び方やめろ」

 ヨルさんの精一杯の空元気に、緑ちゃんは痛ましそうに笑った。

「……下がってて、ヨルルン」

 緑ちゃんはわたしをやさしく廊下に置くと、さっき見たときから、一歩もその場を動いていないミナミさんと向き合う。

 いや……正確には、その奥でどうすればいいのかわからずに、だけど逃げだすこともできずに固まっている、美砂ちゃんを……まっすぐに見つめる。

「美砂ちゃん! ミナミさんを止めて!」

「ばかっ、先生がそんなことで止まるわけないだろ!」

「いや……」

 レーコさんが空中で寝返りをうって、うつぶせの体勢になると、すばやく考えをめぐらせる。

「こいつ……ミナミは、『優依をやっつける』というお願いで動いている。そのお願いを受けた以上、ミナミは止まらない。だけど、ひるがえって美砂のお願い自体が意味を失えば……」

「なにをする気だ……緑」

「美砂ちゃん!」

 緑ちゃんはあいかわらず、にこにことした笑顔を浮かべたままのミナミさんへと一歩ふみだす。

 べこん! と音がしそうなプレッシャーが緑ちゃんをおそう。

 一歩。たった一歩近づいただけで、緑ちゃんは全身を上から押しつぶされたように、からだを倒しかける。

 それでも、さらに一歩、前に出る。

 べこん!

 たえきれず、膝をつく緑ちゃん。

 だけど力をふりしぼって立ち上がり、また、一歩。

 みしっ……。

 緑ちゃんのからだ自体が、出してはいけない音を出した。

「緑! あのばかっ……!」

「ヨルさん、動かないで」

 わたしは緑ちゃんを連れもどそうとしたヨルさんを止める。

「岬け家訓第25条『逃げちゃいけないことなんてない』。わたしは、そう言ったんだけど……緑ちゃんは、逃げてない」

 わたしは緑ちゃんに、ごめんとあやまった。

 わたしのせいで、ミナミさんという本物の死神に立ち向かうなんて。

 だけど緑ちゃんは、首を横にふった。

「たぶん、あやまらなきゃいけないのは、わたしのほうだから」

 わたしには、まだその言葉の意味はわからない。

「美砂……ちゃん!」

「緑……?」

 そうか……ミナミさんの後ろにいる美砂ちゃんには、ミナミさんの発するすさまじい『気』をまったく感じとれないのだ。

 ただ遠くで、みんながわけもわからずふらふらになっていくだけにしか、見えていない。

「おい緑、なんで、そんな、苦しそうな顔してんだよ。あの転校生なら、すぐに先生がやっつけてくれるから、だから……」

「そんなことは、させない」

「なんで、だよぉ……なんで、あんなやつを……」

 緑ちゃんはそこで、一気に立ち上がると、バチバチとからだ中から悲鳴をあげながら、美砂ちゃんのもとへ一気に走りだした。

 そのまま、美砂ちゃんにタックルをして、馬乗りになる。

「優依ちゃんは! わたしの! ともだちなの!」

 襟首をつかんで、緑ちゃんは美砂ちゃんに思いきりさけぶ。

 そのとたん、美砂ちゃんは顔を真っ赤にして緑ちゃんを突き飛ばし、今度は逆に自分が馬乗りになった。

「なんだよ! なんだよ! 緑は! 緑は……! あたしのものだろっ!」

 美砂ちゃんは、緑ちゃんの上で、ぼろぼろと涙をこぼしはじめた。

「なんだよ、そりゃ、あたしだって、緑にちょっとひどいことしたかなって、思ってるよ。ランドセル運ばせたり、宿題かわりにやってもらったり、いっつもジュースをおごらせたり……」

 ううむ、これはひどい。

 美砂ちゃんは罪を告白するように、次々に今まで自分が緑ちゃんにしてきた仕打ちを話し続けた。

「でも! でも、緑はずっとあたしといっしょにいてくれたじゃないか……! なのに、なんで、こんな転校生のこと、ともだちなんて言うんだよ!」

「優依ちゃんが、わたしを、ともだちだって言ってくれたから!」

 心からの、さけびだった。

 わたしは、べつに大したことを言ったつもりはない。

 クラスがいっしょなら、それってもうともだちでしょ? くらいの感覚。

 でも、緑ちゃんにとってはちがったんだ。

 転校生のわたしに、緑ちゃんがこれまでミサキ小学校でどんなふうにすごしてきたかなんて、わかるわけもない。それはきっと……わかっちゃいけない。

 緑ちゃんが、わたしをともだちだって思ってくれてることは、きっととても重要なことなんだっていうことだけ……わかっておこう。

 ははは……すがすがしい笑みがこぼれる。

 ふしぎと、足の震えが止まっていた。

「ヨルさん、わたし、緑ちゃんのとこに行かなきゃ」

「はあ? あのなあ、先生に狙われてるのは、どこのだれだかわかってるのか?」

「だいじょうぶ。もう、立てる」

 わたしがゆっくり立ち上がると、ヨルさんがぎょっと目を見開く。

「なんだこいつ……先生の『気』を打ち消した……?」

「岬け家訓第26条!」

 これは、緑ちゃんに伝えた第25条『逃げちゃいけないことなんてない』の、「つづきもの」。

「『逃げなきゃいけないことなんてない』!」

 声を張り上げるのと同時に、かけだす。

 ミナミさんは、きょとんとした顔で、走ってくるわたしを見ていた。

 首をかしげたまま、右手をすーっと払う。

 ヨルさんがわたしの前にすべりこみ、ミナミさんと同じ動きをして見えないなにかをはじき飛ばす。

 わたしの前髪をかすめたそれは、進行方向を曲げられて校舎の天井にぶつかり、雨のようにほこりが落ちてきた。

「急げ! ふせげてあと一発だ!」

「ありがとうヨルさん!」

 ミナミさんをにらむヨルさんを飛び越え、わたしは猛ダッシュで緑ちゃんのところまで突き進む。

 ミナミさんが、ゆったりと、右腕を上に向ける。

「先生……読めてましたよ!」

 ヨルさんがミナミさんの目の前に一気に飛びつき、パシン! とミナミさんの右腕を両手ではさむ。

「あらら、ヨルちゃん。『死神の授業』をとちゅうで放り出したのは、惜しいことをしましたねえ」

 ここで、はじめてミナミさんが動いた。

 ただ、右足をぐっとふみこんだだけ。

 それだけのはずなのに、ミナミさんの右腕をつかまえているヨルさんは、真っ赤な顔で歯を食いしばって、ようやく立っていられるような状態に追い込まれていた。

 あれは……たんに、右腕にこめる力を強めただけだ。

 その力を両手でおさえこんでいるヨルさんは、たったそれだけで全身が吹き飛んでしまうようなすさまじい力でむかえうたなければならない。

 でも……ありがとう、ヨルさん。

 おかげで、たどりついた。

「岬け家訓第19条!」

 イッペンさんに教えられたばかりのものだけど、もうすでにわたしの中にしっかりと刻まれている。

「『友と言わずに友をやれ』!」

 わたしが声を張り上げると、緑ちゃんに馬乗りになっていた美砂ちゃんが、真っ赤な目で見上げてくる。

「なんだよ……またあたしを放り投げるのかよ」

「そんなことしないよ」

 まあ、前科はありますが……今はそんな状況じゃない。

「第三者の厳正な視点で言わせてもらうとね」

 ふふん、とわたしは腕組みをする。

「緑ちゃんと美砂ちゃんは、ともだちでしょ?」

 ……。

 …………。

 ………………。

「……えっ?」

「は、はあ~~~?? ななな? なんであたしが、緑なんかとともだちなんだよ!?」

 ながーい沈黙のあと、ふたりはまるでちがう反応を見せた。

 緑ちゃんは完全にぽかんとしている。

 対する美砂ちゃんは、目をあちこちに泳がせながら、首をぶんぶんふってわたしの厳正なる審査結果を受け取らない気でいる。

「えっ……美砂ちゃん、本当に……?」

 いやあ、さすがにこれだけわかりやすい動揺っぷりを見たら、だれでもわかるよね。

「そそそそんなわけないだりょ!? 緑があたしの、と、と、ともだち……なんて! 身のほどをわきまえフギャっ!」

 緑ちゃんがあわてふためく美砂ちゃんの手を、そっとにぎった。

 しっぽをふまれた猫のように、美砂ちゃんは変な声をあげてびくりとからだをこわばらせる。

「あのね、美砂ちゃん。わたし、自分には友達がいないって、ずっと、ずっと、思ってた」

「……うん、知ってる」

「でも、ちがったんだね。こんな近くに、ずっと、ずっと、ずっと、ともだちがいてくれたんだ」

 必死に顔をそむけようとしている美砂ちゃんだったが、視線はどうしてもちらちらと緑ちゃんの顔に向いてしまうようだった。

「まあ、それはそれとして……美砂ちゃんがしてきたことを、ゆるしたわけじゃないよ?」

「なっ! なんで今そんなこと言う!?」

 緑ちゃんはあわてる美砂ちゃんの顔を見て、楽しそうに笑った。

「回路途絶。行動停止……あらら? ヨルちゃん、どうしたんですか? そんなボロボロで」

 ミナミさんは自分の腕をおさえこんでいるヨルさんを、ふしぎそうな顔でながめていた。

「ホント、やっかいですよね。本物の死神ってやつは」

 ヨルさんはほっと息をつき、力尽きたのか、その場にへたりこむ。

「そうですねえ。わたしのもともとの規格を、こちらの規格に無理に押しこめていますから。どうしても、いろいろなところが制限されてしまいますよねえ」

 どうやら、ミナミさんは止まってくれたらしい。

 それってつまり……。

 わたしは怒ったように文句を言い続ける美砂ちゃんと、それをにこにこ笑ってなだめている緑ちゃんを見て、もうだいじょうぶだと安心した。

 とたんに、視界がぐるりと回って、わたしは廊下にあおむけに倒れこんだ。

「優依ちゃん!?」

「あはは……岬け家訓第7条『眠れば見えることもある』……というわけで、おやすみ……」

 テレビの電源を切るみたいに、わたしの意識はぷっつりと消えた。

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