逃げるように、眠る




 私は恵まれてる。

 それは分かってる。

 顔も平均以上だし、勉強も苦手じゃない。

 運動は得意ではないけど、苦手ではないし、嫌いでもない。

 友達も多かったし、家族と仲が悪い、なんてこともない。

 生まれ持った環境の運で人生の難易度が大きく変わるというのなら、私の人生はイージーモードだと、堂々と宣言できる。

 


 私は恵まれている。

 好きなものは大体手に入れることができた。

 私は容姿が良いから、大抵のことは許してもらえる。

 やりたいことが見つかったら、だいたいは障害なくその方向に進むことができる。

 基本的に、私に手に入れることができない物なんてない。 

 飽きっぽい性格も相まって、何にでも興味を持ったし、やりたいことができればすぐに方向転換しながら生きてきた。

 高校で生物に興味が出て理系を学んだけど、大学入試前に心理学に興味が出て文系大学に推薦で受験し、面接では愛想を良くしていただけで受かった。

 就活ではできる女っぽくてかっこいいという理由で銀行に就職し、その後も一年単位で転職をしながら四年。

 苦労とは縁遠い人生だ。

 もちろん顔だけで全てが上手くいくわけじゃないし、必要なことはしたけど、でも、恵まれていることは間違いない。

 やろうとしてもなかなか出来ない、恵まれた人生だという自覚はある。

 でも、そんな私だって、日々の中で嫌なことの一つや二つはある。

 基本的に手に入れられないものなんてない私だけど、捨てられないものが一つだけあった。

 いや、捨てられないんじゃない。

 それは、捨てようとしても、私の手から離れてはくれなかった。

 噛みついて、食い込んで、どれだけ手を振り回しても、振りほどくことができなかった―――――――。



 仕事が終わって、マンションに着く。

 セキュリティ面がしっかりしていて、女性が多く住んでいるマンションだ。

 ポストを確認する。



 「また…………」



 ポストに入っているのは、ペラペラの紙と、細長い茶封筒。

 ペラペラの紙は、二週間くらい前の日曜日に利用したピザ屋さんのチラシだった。

 一人で本を読んだりしたいときはここを使うことが多い。

 手を汚したくないからピザはフォークでカットして食べる。

 ピザを食べながら本を読んで過ごす休日はけっこう好きだ。

 あべこべな感じが逆に落ち着く。

 普遍的で、よくある感じの休日を過ごしていると、不安になってくる。

 また利用しようかな。

 いや、もう利用することはないかもしれない。

 だって、やっぱり今日もこれがあるから。

 細長い茶封筒には、手紙が入ってる。

 一日一枚、必ず入っている手紙。

 差出人は不明。

 中には毎日、違う言葉で同じ内容を紡いだ手紙が入っているはずだ。

 その手紙にはいつも、怖気を震うような愛の言葉と、最後には同じ言葉。


 『僕のものになってくれ。 そうしたら絶対に幸せにしてあげる』


 必ず、そう結ばれる。

 毎回言葉は違う。

 時にはストレートに、時にはロマンチックに、様々な言葉で私への想いを紡ぎ、最後は決まり文句で締められる手紙。

 よくもまぁこんなにいろいろ言葉が思いつくなと思っていた時期もあったけど、引っ越してしばらく経ってからは文章なんてほとんど読んでない。

 一応違う人からだったらまずいから手紙を開いて、やっぱりこの人だって分かったらそのまま捨てる。

 それが、私が家に帰ってきてから一番最初に行う日課。



 「あんたがいなくなれば最高に幸せなんだけど……」 



 そう呟くのももう何度目か分からない。

 そもそも、全く正体をさらさないのに『僕のものになってくれ』と言われても困る。

 もちろん一番困るのは、私が抵抗できない状況で正体をさらされることだけど。



 私は恵まれているけど、でも幸せではない。 

 ストーカー。

 最初にポストから手紙を取り出したときは、まさか自分がストーカーなんてされるわけがない、と思った。

 信じたくなかった。

 順風満帆だった私の人生が、ストーカーなんかに壊されるだなんて、考えたくなかった。

 考えたくなかったけど、行動は早かったと思う。

 本当に壊される前にどうにかしないといけない、と思ったから。

 痴漢は、容姿よりも気弱そうかどうかを判断材料にするらしい。

 なら、ストーカーにもそういう基準があるんじゃないのか。

 そう思って、ありとあらゆることを試した。

 ストーカーをやめたくなるように。

 私に対する好意を下げるために。

 すぐに警察にも連絡したし、親にも知らせた。

 警察は協力的だったけど、成果は出なかった。

 ある日の手紙で、私が出したゴミから生理の周期を割り出したということが書いてあって、ゴミ収集車が来る直前にしかゴミを出せなくなった。

 転職を機に引っ越しても、三日後には手紙がまた届くようになった。

 親には実家に帰ってこいと言われたけど、ストーカーに実家の位置まで知られるのが怖くて帰れなかった。

 男性に対して少し冷たくするようになった。

 「ちょっと性格変わったよね」と言われることが多くなった。

 出来るだけ人と一緒に過ごすようにした。

 道を歩いている時、部屋に一人でいる時、ありとあらゆる時間が苦痛になった。

 この世の全てが恐怖の対象になった。

 今もどこかから見られているんじゃないか。

 盗撮とか、盗聴とかされてるんじゃないか。

 全男性が恐怖の対象になった。

 ストーカーの正体は、実は今目の前で話しているこの人なんじゃないか。

 今話しているこの人は本当にただの友達なのか。

 いつも上司が見せる優しさは、本当に心からの優しさなのか。

 家の周りを巡回してくれている警察の人は、ほんとに巡回をしているだけなのか。

 人の目が気になって仕方がない。

 何かに没頭することができない。

 一人になりたくない。

 一ヶ月休職したけど、家で一人で何もしていないと不安で頭がおかしくなりそうで結局すぐに復職した。

 仕事をしている間は、ストーカーのことを少しだけ忘れることができる。

 でももちろん、それで何かが解決するわけじゃない。

 ストーカー被害に遭ってから三年。

 何も、変わらなかった。

 ストーカーは三年間、姿も見せず、証拠も見せず、ひたすら手紙だけを送ってきた。

 


 もう、私には正しい思考なんてできない。

 私の恵まれていて幸せだった人生は、たった一人のストーカーによって瞬く間に壊された。

 光に満ち溢れていて、視界も未来も明瞭だった毎日は、今では見る影もない。

 私の毎日は、もういつの間にか輝きを失ってしまった。 

 


 かつての日々は、いろんなものが光り輝いていて。

 あらゆるものに興味が湧いて。

 出会う全ての人々と、仲良くなれる気すらしていたのに。

 もう、今では恐怖だけが頭の中を渦巻いている。

 


 鍵を開けて家に入ると、真っ暗だった。

 電気を付ける瞬間が一番緊張する。

 もし、部屋の中にいたら。

 そんな不安と恐怖に指先を震わせながら、電気を付ける。



 「……」



 いない。

 すぐに浴室やトイレ、クローゼット、ベッドの下、人が入れそうな場所や死角を確認する。

 ……大丈夫そうだ。



 「……ふぅ」



 明日は休日だ。

 きっと今日も不安で眠れない。

 明日、家に押し入ってきて襲ってきたらどうしよう。

 そんな不安が胸中を支配する。

 睡眠薬に頼って、やっと眠れるかどうかだ。

 


 「あー、もう逃げたい…………」


 

 そう呟くのも何度目か分からない。

 顔すら分からないストーカーに怯え続ける毎日。

 手紙以外なんの情報も得ることができないストーカーに、怯えるだけの毎日。

 今すぐ逃げたい。 

 でもきっと、逃げることなんてできない。

 もう諦めている。

 私が何をしても、逃げることは出来ない。

 何をしても意味なんてなかった。

 警察ですら、何の情報も得ることができなかった。

 犯人どころか、その糸口すら、何も。

 私もどうすれば逃げれるか考えて、調べて、実行して。

 そうして無数の失敗と絶望を積み上げて、気付けばもう思い浮かぶものは一つだけになっていた。



 「……もう、いいんじゃない? 私」



 何度も頭をよぎって、でも慌てて追いやっていた方法。



 「まだ、何もされてないんだし」



 今はまだ、ストーカーは手紙以外に行動を起こしてこない。

 今は、まだ。

 でも、その時が来ないとは限らない。

 いや、絶対にいつかはくる。

 来るはずだ。

 ……嫌だ。

 襲われたりするのだけは、絶対に嫌だ。

 絶対に。

 それだけは。

 襲われて初めてを奪われるなんて、絶対に耐えられない。

 本気で恋愛をしたことはないけど、でも、幸せな恋愛に憧れてはいた。

 もう今では、そんな余裕はないけど。 

 だからと言って、何もかも諦めたわけじゃない。

 どうせ無理なら。

 最悪の終わりを迎えるくらいなら。

 もし、私がストーカーに何か仕返しができるなら、もう一つしか思い浮かばない。



 「……よし」



 改めて考えてみれば、もうそれしかなかったんだ。

 蹂躙されるのを待つか、その前にこうするか。

 それしかなかった。

 それしか、思い浮かばなかった。

 私は睡眠薬のストックが十分にあるのを確認して、お母さんに、明日の夜このマンションに来てもらえるように連絡をしておく。

 何日も放置されるのはやだし。

 そうして決心がついて、やり残したことがないか確認する。

 両親と友達には、とっくに手紙を書いてある。

 出来ることはやったはずだ。

 やるべきことも。

 決心がついた時のために、もう準備はしてあったから。

 だから、もう大丈夫。

 親には申し訳ないと思っているけど、謝ることしかできない。

 伝えたいことは、全部手紙に書いた。

 できれば、あまり落ち込まずに前を向いて歩いてほしい。

 


 「……ま、そんなの無理だよね……」



 でももう、この人生を、この先を歩むことは出来ない。 

 私には、もう耐えられない。

 


 「死んだら、楽になれたらいいな……」



 楽になるって言っても、死後の世界とか別に信じてないけど。

 天国とか、地獄とか、信じてないけど。

 でも、もしそんなのがあるなら、そこでは、穏やかに過ごしたい。

 何もないなら、それでもいいけど。

 とりあえず、恐怖に塗れた今より良くなるなら、なんでもいい。


 

 そんなことを考えながら、ゆっくりと、睡眠薬を口に含んで、飲み込んで、飲み込んで、飲み込んで、飲み込んで――――――――――。



 意外と、怖くはなかった。

 恐怖から解放されていくような、光に包まれるような、そんな安心感と、闇から解き放たれる開放感すら感じていた。



 ――――――――そうして、私はいつの間にか、意識を失った。



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