5-2

 貴嶋が不在の港区の屋敷ではリビングのカウンターの上でスパイダーがノートパソコンを操作していた。


原昌也の携帯電話と彼の自宅のパソコンのデータは彼が逮捕された時点であらかじめ仕込んでおいたウイルスを発動させて内部データの破壊を完了した。

これで警察や早河がどれだけ調べても原から組織に繋がる情報は一切見つからない。


 西東京市にいる貴嶋がパソコンで観ているリアルタイム映像をスパイダーも観ていた。階段を降りてくる音が聞こえて振り向くと、寺沢莉央がリビングに入って来た。


『ケルベロスが捕まりました』

「そう。残念ね」


 彼女は表情を変えずにキッチンに向かう。スパイダーも莉央を追って広さのある大理石のシステムキッチンに入った。

莉央はケトルに水を入れて火にかける。この屋敷のキッチンは最新式のIHクッキングヒーターで見た目には火は見えない。


『キングにケルベロスの計画を話したのはクイーンですよね? ケルベロスは今回の早河探偵を始末する計画を貴女以外の人間には内密にして進めていました。僕は貴女の命令で夏以降のケルベロスの動向を探っていましたので彼の計画は知っていましたが、僕と貴女以外には知りようもない。薄々気付いていたのはファントムくらいでしょう』


スパイダーの話を聞いているのかいないのか、莉央は平然として紅茶の茶葉が入る瓶を両手に持って、どちらにしようか思案している。

今度は戸棚の前でティーカップを選ぶ莉央の背後にスパイダーが近付いた。彼は莉央の耳元に唇を寄せてもう一度同じ言葉を囁いた。


『キングにケルベロスの計画をバラしたのは貴女ですよね』

「人聞きの悪い言い方ね」


莉央は身体の向きを変えてスパイダーと向き合った。長い睫毛の奥の漆黒の瞳が微笑んでいる。


『キングは貴女からケルベロスの計画を聞き、わざとケルベロスの好きにやらせた。そして最後はケルベロスを切り捨てた。でもそうじゃない。ケルベロスを本当に切り捨てたのはキングではなく……』

「スパイダー。それ以上はダメよ」


 スパイダーの口元に莉央の細い人差し指が優しく触れる。彼女は背伸びをして、動きを封じたスパイダーの思考も封じた。

スパイダーの唇と莉央の唇が触れ合い、重なる。彼女の身体を纏う芳醇なローズの薫りが彼の鼻腔をかすめた。


莉央の赤い舌がスパイダーの唇をペロリと舐める。魔女や吸血鬼の餌食にされた男の気分とはきっとこういうものかもしれない。

濡れた唇の感触をそのままに、スパイダーは無表情で莉央を見下ろす。


「ケルベロスが香道なぎさに手を出さなければ、ほうっておいたわ。香道なぎさは私の獲物。あの子を殺していいのは私だけ」


 また莉央はスパイダーにキスをした。今度は少し長く、スパイダーも片手で莉央の腰を引き寄せて、互いに唇のスキンシップを楽しんだ。

そのうち眼鏡が邪魔になり、彼の眼鏡を莉央が外す。二人は笑いながら唇を重ねた。


 この恐ろしく魅力的な女は天使か悪魔か、女神か魔女か。


 カオスの男達は皆、少なからず莉央に淡い恋をしている。

キングは言わずもがな。スパイダーもスコーピオンもケルベロスもファントムもラストクロウも、莉央の頼みは何でも聞いてしまう節がある。


莉央の父親も二人の異母兄あにも莉央に陶酔していた。寺沢莉央は生まれながらに男を支配する、天性のクイーンだ。


 長いキスを愉しんでスパイダーから離れた莉央はケトルの火を止めた。まずティーポットとティーカップを温め、茶葉を入れたポットに熱湯を注いだ。


「同じように早河仁を殺していいのもキングだけよ。キングのお楽しみを奪ってはいけないの」


ピアノが奏でる音色のように、気品のある声で残酷な言葉を紡ぐ女王陛下。


「ねぇ、お部屋まで運ぶの手伝ってくれない?」


グレージュの髪を掻き上げて莉央は可愛らしく顔を傾ける。さっきまで官能的なキスを交わしていた彼女が今は甘え上手な猫に思えた。


莉央から返してもらった眼鏡をかけ直してスパイダーは苦笑する。彼女には敵わない。


『クイーンが火傷や怪我をされたら僕がキングに叱られます。その代わり、ティータイムをご一緒してもよろしいですか?』

「あなたなら大歓迎よ。キングが買ってきてくれたケーキがあるの。一緒に食べましょう」


 二人分のケーキを載せたトレイを持って莉央が先にキッチンを出る。スパイダーもティーポットと二つのカップを載せたトレイを持ち上げた。リビングを横切る時に部屋の片隅に置かれたチェス盤が目に留まった。


(チェスの最強の駒はクイーンなんだよな……)


貴嶋佑聖と早河仁、ふたつのキング。

宿命の二人のそれぞれの最強の駒は

寺沢莉央と香道なぎさ、ふたつのクイーン。

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