第50話

 6階のナースセンタに顔を出してから、看護婦のあとについて当然いるはずのない中西の病室に行ってみることにした。病室に入ると、いつもの消毒薬の臭いが鼻腔を叩いた。誰もいないベッドのシーツが渦のように捻じれて、残された皺が悲惨な出来事を連想させた。

 看護婦は真田たちを促してフロアーの隅にある階段のところまで連れて行くと、ここから投身されたのですと無表情のまま指差した。言われて階下を覗くと、そこには通行禁止のテープが張り巡らしてあり、まだ微かに血糊の残ったステップが何段か見えた。

 そんな凄惨な現場を見せられると、つい悲しみが込み上げてきて、真田は項垂れながら深く瞑目した。

 中西が死に至るまでを病院側の説明を付加した上で推測すると、午前3時半の巡回のあと中西はベッドから身を投げ出すようにして床に降り、ドアのところまで匍匐すると片脚をついて肱までの腕で取っ手を引き、開いた隙間にまず顔、その次に躰を入れて病室を出ると、階段までやはり匍匐ですすむと、ステンレスの手摺りに躰を預けて真っ逆さまに身を投じたということになる。なぜそこに階段があるのを知っていたかは、階段のすぐ横に患者用のエレベーターがあるので、検査で別の階に行く時にストレッチャーから何度も見たのだろう。

 1階の霊安室へ担当医と係り員に同行した真田は、部屋の前に佇んだ時、まともに中西を見ることができるかどうかの不安が過ぎった。中西がどんな姿でいるか想像がついたからだ。しかしこの期に及んで目を背けるわけにもいかない。

 真田は覚悟を決めて霊安室に足を踏み入れた。線香の匂いを嗅いだ時、いま自分がどのようなところに身を置いているかを覚醒した。これまで何度か嗅いだことのある類の香りではあったが、それらとはまったく違ったものに感じられた。線香の烟は、強い換気のせいで烈しく縺れて行き場を捜しているように見えた。

 台の上に横たわった白い布に包まれた中西の遺体は、半分ほどの長さしかなかった。部屋に入った4人は、中西の頭を囲むようにして立つと、申し合わせたようにお互いに顔を見合わせた。部屋に入ってからずっと4人の間に言葉はない。

 医師が真田に向かって合図のようにゆっくり頷くと、心得たように合掌したあと顔にかけられた白布の隅を摘み、ぐっと唾を飲み込みながらおもむろに捲った。

 中西の頭には白い包帯がまるでターバンのようにぐるぐる巻きにされてあった。左前頭部の1部に見られたわずかな血滲みが、逆に死への悲惨さを増幅させた。真田は思わず右掌で口元を押さえる。自分で不思議なくらいの烈しい嗚咽が込み上げてきた。

 白布をもとに戻す前にもう一度中西の顔をしげしげと眺めた真田は、胸の奥でのようにつかえていたものが綿菓子のようにふわりと消えた。二度と目を開くことのない中西の目蓋には、苦痛というものがまったく覗えなかった。むしろ自分の人生をまっとうしたという満足感に浸っているように見えた。

中西は散々悩んだあげく決心したに違いない。仮に自分が中西の立場だったら同じ行動をとっていたことだろう。真田は納得した表情になって別れの合掌をした。


         

               ( 了 )



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