第23話 二人の距離は臨界点

 フェルミは混濁した意識の浮き沈みを散々繰り返し、何時間経ったかも分からない後に目覚める。それはまるで、深海のあぶくゆっくりとが浮かび上がってくるようであった。


「ここは……、私は一体……?」


 ゆっくりとベットから身体を起こして周囲を見渡し、ここがいつもの及川と暮らしてるアソシアマンションである事を確かめた。一瞬ここが何処か分からなかったのは、寝ている場所が、いつもの遠慮して寝ているソファではなく、及川のベットの上だからだった。自分の身体もよく見ると、裸になって過剰なまでに包帯がグルグルと巻かれている。


「あっ! エンリコ起きたの!? 大丈夫!? あなた丸一日眠っていたのよ!」


 ちょうどその時、包帯の替えを持って来たらしい様子の及川が、寝室のドアを開けて、目覚めたフェルミを見つける。


「ホントに大丈夫!? どこが一番痛む!? わたしもう、心配で心配で……。事が事だけに、病院にも見せられないし、一体どうしたらいいのかって……」


 慌てて駆け寄った及川は、半ばパニック気味にフェルミの容態を訊ねる。おかげでフェルミは、答える為に彼女が落ち着くのをしばらく待たねばならなかった。


「私は大丈夫だ波美くん、少し落ち着きたまえ。演算者(オペレーター)からの生命力(ネゲントロピー)供給さえあれば、私たち物理学者(フィジシャン)は自動回復する。もうほとんど修復は終わってるさ」


「そう……、よかったぁ……。全く、あの我妻たちめ……、今度会ったらただじゃおかないんだからっ……!」


 その言葉を聞いて、フェルミは意識を失う直前の記憶を思い出して、どこかばつの悪い気分になる。敗北の記憶を思い返して、自身の手の平を見つめた。


「そうか……、私は負けたのか……。私の力が至らなかったせいだ。本当にすまない……」




「あなたのせいじゃないわ……。物理演算(シミュレート)も使えないわたしは、戦闘において何の役にも立たなかった……」


 凹むフェルミを見て、自責の念を感じていた及川は、首を横に振って涙ぐむ。


「やっぱり、最初の時にわたしが自分の手で岩平を殺しておくべきだったのよ! 戦闘だってそう! 学校が壊れるのを、わたしが厭わなければ、あなたは全力で戦えたっ……!」


「波美くん……」


 自分を責めて、溢れそうな涙を手で必死に抑える及川。フェルミはそんな彼女の肩に、優しく手をあてて引き寄せる。


 しかし、その次にフェルミがとったのは、意外な行動だった。彼女を諫めるように、彼女の頬を強く叩いたのである。


「めったな事を言うもんじゃない! 波美くん! 私は君に、殺人者になんかなって欲しくないんだ! 私はいくら汚れたって構わない。もう私の研究は、血にまみれてしまっているのだから。だが、物理学者でも無い君は違うだろう? 君はこの戦いに巻き込まれただけの、ただの数学者なんだ! こんな戦いが終わった後は、すぐにいつもの日常に戻るべきなんだよ」


 それは優しいビンタだった。フェルミの思いやりに心打たれた及川は、すぐに涙を拭う。


「ありがとうエンリコ……。でも、わたしは平気よ。あなただって『万物理論』が欲しいのでしょう? 私はただあなたの願いを叶えてあげたいだけなの……。その為なら、私はなんだって協力するわ……」


「すまない、波美くん……。どうも『万物理論』ってやつは、物理学者の性(さが)でね……。欲しくないと言えば、嘘になってしまう。最初は私だけが戦って、さっさとこの真理論争を終わらせるつもりだったが、実際はこんなに苦戦して君に迷惑をかけるとは思わなんだ……。波美くんには、本当に申し訳ないと思っている……」


「そんなの遠慮する事なんてないわ。数学者だって、真理を探究する心は一緒だもの。わたしも、出来れば『神の数式』ってやつを一生に一度は見てみたいと思ってたし」


 すっかり泣き止んだ及川は、フェルミの手を取って笑いかける。


「それにあなたはまだ、あの『奥の手』を使っていないじゃない! それさえ使えば、今度アイツらと戦う事になっても、あなたが負ける事なんて決してないわ……!」


 その言葉を聞いたフェルミは、ベッドの横の机に置かれた2冊の物理学書をちらと見て、決意を固めた。


「そうだな……、次は必ず勝つ……。それにまだ、私の本は盗られてはいないし、それどころかこちらには、新たに獲得した熱力学の本がある。結果だけ見れば、私たちの方が俄然有利だ。これならまだ、逆転の可能性は十分に残されている」


 そう言って、フェルミは熱力学の本を手に取って広げる。フェルミが今しがた思いついたのは、この本を使って出来る、新たな裏ワザ的な方法だった。


「そう! この熱力学の本を使って、私の妻である『ローラ・フェルミ』を再・物理演算(シミュレート)で呼び出すんだよ! 私が呼び出された時と同じなら、理論上は十分可能なハズだ。それだけではない、もしそれが出来れば、増えた本の数だけ私達の味方は増える事になる。まさしく、この真理論争に勝ったも同然だ!」


「えっ……!? 奥……さん……?」


 喜々として自身のアイデアを語るフェルミだったが、及川はさっきの言葉に別の衝撃を感じて、一瞬動きが止まる。それは、さっきの情報に、及川が考えもしていなかった内容が含まれていたからである。


 そう、及川はフェルミに、既にもう奥さんがいるなんて事は考えもしていなかったのである。

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