16話 黄泉比良坂
「いつつ……」
もはやどこが痛むのかわからない。全身がずきずきと痛む気がする。あたりは真っ暗で、地面は土のような感触がするが、どうにもはっきりしない。
「ま、愛奈、いるか?」
「あたしは大丈夫」
「落ちたのは……俺たちだけか?」
「……たぶん?」
微妙な返事が返ってくる。少し迷ったあとに、声をあげた。
「……おーい! 誰かいるかー!」
少し待ってみたが、声は返ってこない。それどころか、どこを見ても真っ暗だ。
見回そうにも、真っ暗な背景に自分だけがぽつんと突っ立っているように、あたりが見えない。
どうして自分だけは見えているのだろう――そう思った瞬間、横からぐっと頭を両手で持たれた。愛奈の悪い癖だ。見てほしいものがあるときに、後ろから頭をつかんで無理矢理向かせようとする。
「お、おい、何すん――」
「それより、あそこを見て」
「あそこ?」
答えを貰う前に、視線がそこに吸い込まれた。
遙か上に穴が開いていて、光が漏れている。まるで洞窟の出口のようだ。そこだけが自分と同じようにぽつんと光っていて、その下に少しだけこちらに向かっている下り坂が見える。
「あそこから転がり落ちてきたのよ。ちょっと坂になってるから、上がればきっと帰れる」
「そっか。よく覚えてたな、えらいぞ」
「そうね」
愛奈は素っ気なく言った。
褒めてやったのに、どういうことだ。
「とにかく帰ろう。どこにいるんだ?」と、あたりを見回そうとする。
「待って!」
けれど、愛奈の鋭い声が飛んだ。
「な、なんだよ!?」
「ここは――ここは絶対に後ろを振り向いちゃだめよ」
「え? な、なんで」
「いいから!」
あまりの剣幕に思わず怯む。
「いい? 化野って人から貰った袋、あるでしょ」
「あ、ああ」
「それはお守り代わりだから、握っておいて。それから右手だけをこっちに差し出して」
「こうか?」
右手を差し出す。
「うん……うん、これでいいわ」
愛奈が手を握ったのを感じると、俺はギュッとその手を握り返した。そのまま、ゆっくりと歩き出す。光に向かって。
俺も愛奈もしばらく無言のままだったが、俺は決心して口を開いた。
「愛奈――ここから帰ったら、二人で暮らそう」
俺は思っていたことを言った。
父さんと茜さんの巣から出て、母さんの遺影と一緒に。
すぐに嬉しいと返事が来るかと思っていたのに、愛奈の声はなかった。
「……愛奈?」
聞こえなかったのかと、名前を呼ぶ。
妙に心がざわめく。
ぎゅっと強く握ってみても、なんだか存在が遠い。握っているはずなのに、透明なものを握っているようなのだ。
「お兄ちゃんさ、それ本気で言ってる?」
聞こえてきた声は、いつもの空気があった。
「本気だ! 父さんはお前が引きこもったのも無視して……! 俺だって受験で色々忙しいのに、あんな女一人あてがってどうしようもない。俺の家族は母さんと父さんと愛奈だけだった。愛奈だって頑張ってたのに。愛奈が頑張るっていうから俺も安心してやろうと思ったのに、それなのに……」
「だからお兄ちゃんってバカなのよ」
「だから……え!?」
思わず愛奈を振り返りそうになる。
「あたしがほんとにそれを望んでると思ってたの? 手放しで『嬉しい、そうしよ』って言うと思ったの? ここまで何しに来たの?」
その声にやや怒りが混じったようで、思わずびくりとする。
「だ、だってお前――」
「あたしが望んでたのはそんなことじゃないわ。というか、お兄ちゃんてば全然わかってなかったのね」
「わかってないって、何を」
「あたしからも、ここに来てからも逃げてばっかりだったじゃない。そんなんでどうやって二人で住もうなんてバカなこと言えるわけ?」
「お、おまえ……どこから……」
背中に冷たいものが走る。
「別に責めてるわけじゃないわ。あたしはね、目をそらさないでほしかったのよ。状況を理解するっていうの? だからお兄ちゃんは罪を背負うことになってしまったでしょ。もっと早く、自分が目をそらしてるってこと気付いてほしかったの。お兄ちゃんが逃げてること、まだ間に合うはずだったから」
「なん、なんだよそれ、……だから一緒に出て行こうって」
「あのね。まだわかんないなら、前を向いたまま、聞いて」
「……」
「あのね――お兄ちゃん。茜さんと話をして」
「えっ?」
「そのまま聞いて!」
また振り向こうとした俺に、強い口調で言う。
一瞬迷ったものの、なんだよ、と思いながらそのまま階段をあがる。
「お兄ちゃんは勘違いしてる」
「なんだって?」
「あの人、引きこもってたあたしのこと、少しずつでも外に出られるようにいろいろしてくれたの。この髪も切ってくれたし、ちゃんと向き合ってもくれたの。あたし、外に出たかったんだよ。でも、その時にはどうしようもなくなってた。外に出るための服も無かったし、今更って感じだった」
思わず唇を噛む。
「そんなあたしとね、いろいろ話してくれたんだ。お母さんの話もたくさん聞いてくれた。お兄ちゃんの知らないところで、たくさん話をしたんだよ。どうして――茜さんがこの家にやってきたのかとか。どうしてあたしが疲れちゃったのかとか」
今度は、びくっと自分の肩が跳ねた。動揺を悟られないように、愛奈の手をぎゅっとつかむ。
手の甲をつかんでいるにもかかわらず、まるで指を三つくらいしかつかんでいないような感触がする。
「お兄ちゃん、あたしと茜さんがそんな風にしてたの、知らなかったでしょ?」
「いや、そんな――」
「二人のこともたくさん話したよ。お父さんとお兄ちゃんだって、本当はどうしていいかわかんなかっただけだって。たくさん……たくさん話をしたんだよ。知らなかったでしょ?」
困惑と戸惑いが渦巻いた。
俺は愛奈のことを心配して……。
いや、それよりも。どうして今そんなことを話すんだ?
「お母さんがいなくなったとしてもね、あたしの中からお母さんの思い出まで無くなるわけじゃないって。自分が新しい母親だったとしても、あたしのお母さんが無くなるわけじゃないって」
「……おい、愛奈……」
「聞いて、お兄ちゃん。お兄ちゃんは絶対にここから戻らないといけないの」
心がざわざわと警告を発する。
ぎゅっと手を握る。けれども、その握っているはずの手は指二本くらいしかつかんでいないかのように、妙に小さくて、希薄だ。
知っている。
俺はこの感触を知っている。あの、黒い――影のような――。
「だけど、あたしは駄目。それは絶対に駄目なことなの。お兄ちゃんはきっと振り向いてしまう。あのトラックの運転手がそうしたみたいに、あたしとお兄ちゃんは、そういう風に見立てられちゃったから」
俺は本当に愛奈と手を繋いでいるのか?
愛奈の声は震えているように思えた。
なぜ。
どうして。
どうしてそんなにも、永遠の別れのようなことを言うんだ。
これから二人であっちに帰って、二人で生きようと思ったのに。
手の感触は既に透明なものになっていた。
「あのね、お兄ちゃん――お兄ちゃんのおかげでもう一度この姿になれたし、怒ってないよ」
何かが決壊したように崩れ落ちた。
だが俺の膝が折れる前に、後ろから咆哮が聞こえた。奴らが追いかけてきたのだ、こんなところまで。
「お兄ちゃん! 袋を投げて!」
「ま、愛奈。俺は――」
「早く!」
左手に握った袋は、妙に現実感を持っていた。
こいつの中身は――おそらく、桃の種だ。
知っていた。気付いていた。この異世界が――どこであるか、なんて。
優しく冷たい言葉が、俺の心臓にすとんと落ちた。
今まで俺が隠し続けて、見ないように考えないように、自分で作り上げた虚構の中に埋めた真実は、もう愛奈にはわかっていたんだ。
掌の中の感触はもう無かった。俺はただ右手を握っていただけで、そこに愛奈の気配はなかった。
「愛奈……愛奈、ごめん……本当にごめん、俺は……!」
「お兄ちゃん、大好きだよ。今まで、ありがとう」
「……!」
声に向かって袋を投げる。
――そして俺は、後ろを――。
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