五月に

雪桜

死ぬのが常というのなら、それは礼儀にも似たものだった。






在り来りな人生なのだから、在り来りな音しか浮かばないのは私の性であった。

純粋無垢な昼下がり。無音にも似た教室の中で、私は、自分の人生が積み上げてきたなにかを探していた。音楽が好きだった。何よりも好きだった。だが、好きなだけでは私はどこまでいっても、凡人の領域から出ることは無かったのだ。教室の匂い。コンクリートと、隣の彼女の、残り香。薄い酸素は私の呼吸を掻き乱した。音は私の価値を認めなかった。あの賛美歌さえも、鳴らなかった。私の頭は何処までも静寂だった。曖昧な静寂だった。無さえも音になるというのなら、私のそれは、曖昧であった。悲しくはない。ただ、今はただ、この煩い静寂が、虚しかった。窓から自分の汚い机を照らす光が、虚しかった。音を描く度にそれが苦しみをもたらすこともまた、私の性であったのだ。


様々な思考に襲われ、ペンを握る手についに力も入らなくなると、私は窓の外の景色に目を向けた。殆ど無意識であった。その時、私の中の虚しさが、形となって現れた。私の瞳の先では昨日の雨で少し湿った、外廊下の端から小さな少年が、こちらを見ていた。少年の瞳が、こちらを見ていた。それは遠く、しかしはっきりと、少年の瞳には私の待ち焦がれた、窓の外の風景が、映っていたのだ。

それは私に言った。木々の囁きと、群青の空だった。彼は死ぬのだと、そう言った。或いは死にたいかもしれない。未だにわからぬままの私は、その時彼の願望が遠くの雲に溶けた時、無慈悲に突き落とされたことだけを知ったのだ。彼は私の虚しさか。そしてあの曖昧な静寂なのか。名も知らぬ彼が、私を見た。ただ、それは生きていた。呼吸をして、瞬きをしていた。天使の吐息にも似た、安らかな風が彼の髪を揺らした時、私は静かに首を横に振った。五月の無垢な風だった。春でも夏でもなかった。私は五月に名前を与えることは、一生出来なかった。

冷たいコンクリートの上に立つ小さな体が、あと一歩空に踏み出したのなら、潰された折り紙のようにくしゃくしゃになって、元に戻ることは無いのだろう。不規則な折り目が付いた。無慈悲な空に、捨てられた。雲は彼を見放した。私は目を逸らした。見ることも無いと思った。幼い頃、失敗した折り鶴を丸めて捨てたことを思い出した。薄い紙きれが、瞬く間に小さくなり、そしてその存在価値を失ったあの時、私は確かに感じたあの血の色を、忘れていなかった。だから目を逸らした。私は、あの日を忘れていなかった。だから、首を横に振ったのだ。視界の端で群衆は四角い画面を空にあて、泣いていた。彼らは折り鶴を丸めて捨てた。くしゃくしゃにして、捨てた。


瞬きを、一度して、少年の最後に、自分がいた事を悟った。

音を求めて音を上げた。動かぬ右腕に、ついに匙を投げた。虚しさに、身を預けた。そんな自分を、少年は見ていた。私が全てだった。彼を救いたかった。なんてことは無い。彼はもう私のことを忘れてしまった。ただ最後に私がいた。それだけなのだ。美しい絵画にも似た風景だった。歓喜に涙が溢れた。それは確かに生きていたから、私は人の最後を知った。知っていた。馬鹿な仲間が蔓延るこの臭い、狭い教室の中で、私だけが知っていた。だから彼は死んだ。安心して死んでいった。折り鶴は無残に潰されることを望んでいた。それを知っている人間に最期、出会ったが為に。私がペンを置いたことを知ったが為に。


音が風景を映し出した。彼の瞳の中の風景だった。

私はどこまでも自由だった。五本の線に、私の自由と、彼の死が、浮かんで咲いた。




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五月に 雪桜 @sakura_____yu

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