愛染一✕相里莉緒

 俺の部屋には基本的に特別なものがない。

 テーブル、椅子、座布団、小さなテレビ、食器入れの戸棚、本棚。

 テーブルを挟んで向こう側に座っているのは相里莉緒。

 俺の幼馴染である。


「やっぱり兄さんは何も分かっていません」


 莉緒は少し不満げに唇を尖らせている。

 確かに俺は分かっていない。彼女の言う通りだ。

 自らの首に手を当てる。困った時に気持ちを落ち着ける為のルーティンだ。


「……すまない」


 俺が生きている時間は精々五年かそこら。

 あの研究所に居た頃の俺はモルモット、備品、そういうものだった。俺は生きるということを知らない。普通の生活というものも知らない。


「同じ種類では飲み物を交換できませんよ? どっちも普通のコーラじゃないですか。というかなんで冷蔵庫にコーラしかないんですか。健康に悪すぎますよ」

「コーラ……好きだからな、甘くてしゅわしゅわして」


 これを飲んでみたくてUGNに反旗を翻した実験体チルドレンも居たと聞く。自我が有る子供チルドレンというのは難儀なものだ。苦しいだけだったろうに。

 俺が彼らに同情してしばらく黙っているのを、コーラを味わっていると思ったのか、莉緒はプスーっと頬をふくらませる。


「全く、兄さんは分かっていません。甘くて美味しい飲み物なら世の中には色々あるんですよ。ほら、この水筒にミルクセーキを作ってきてあげたのでコップを出してください」

「ミルクセーキ? 俺に宿題を教えてもらう為にわざわざ作ったのか? 確かとても手間暇がかかる飲み物では……」


 報酬と考えても非合理的だ。もっと手間がかからず、宿題を教えてもらう代わりに持ってくるのに手頃な飲み物があったはずだ。

 俺が面食らっていると、彼女は早口に俺を急き立てる。


「兄さん、コップを出してください! はいストロー!」

「なんだこのストローは、変わった形をしているな……?」

「これは幼馴染の男女が一緒に飲み物を飲む為に作られたストローですよ」

「なに? そんなものがあったのか……勉強になるな」

「変なところで世間知らずですよね、兄さん」

「うむ、親戚のおじさんや親戚のお兄さんにも心配されている。まあ幼い頃からずっと入院していたのだからこんなものだろう」

「そういうところですよ兄さん?」


 俺が戸棚から用意したコップに、莉緒がストローをさして、互いに顔を近づける。

 いやこれ、飲みづらくないか? 何故ストローが途中で2本に分かれているんだ。最初から2本用意した方が替えも効く筈だ。


「しかしこれ、面倒じゃなかったか?」

「面倒でしたけど」


 面倒だったんじゃないか! 何故こんな真似を……!

 とはいえ、莉緒にもこのようなことをした何か合理的な理由があると推測される。


「じゃあ兄さん。何故こんなことをしたか分かりますか」


 とりあえずミルクセーキを飲んでから考えよう。あ、美味しい。


「あーっ!? 全部飲んでる! 早い! ちょっと早いです!」

「とても美味しかったから……すまない。時間があったらまた作って欲しい」

「もう……折角作ったのにもっと味わってください!」

「後を引く苦いレモンの匂いがした。隠し味か? 美味しかったぞ、ミルクの風味が際立って」

「あ、分かりましたか? 珍しいですね兄さん」

「だろ? ところで甘いものを飲んで頭が冴えてきたのだが」


 と、言うよりも、今の反応から推測したのだが。

 もしやこのストローを長時間使うことに目的があったのではないか。

 彼女自身もこのストローの存在に興味を持っていたのではないか。


「ゆっくりお茶をしたかった……宿題はついで……じゃないか?」

「ふふん、兄さんは何も分かっていませんね」


 この『分かっていません』はそこまで外れていないと見ていいだろう。俺の感覚8がそう告げている。

 しかしなんてことだ。与えられた任務への態度が軽い……! 普通の世界というのはやはり面妖だ。俺は真面目に宿題をやっているというのに……!


「そうか。そうだったか。それは済まないことをした」

「罰として兄さんからコーラを取り上げます」


 飲みかけのコーラを取り上げてコップに注ぐ。


「何を……!?」

「やり直しです!」

「再挑戦の機会が与えられたというわけだな……見ていろ。見事お前の期待に応えてみせよう。構えろ莉緒。俺はやるぞ」


 時間をかけて……時間をかけて……。

 顔が近い。

 肩まで伸ばした長い髪が空調で揺れている。

 良い匂いがする。

 丸く開かれた瞳は吸い込まれてしまいそうになる。

 今日の髪留めの色は赤か。

 そんなことを考えると莉緒が俯く。


「あ、あんまり見つめないでください……」

「幸せだなと思ってつい」

「もう兄さんはすぐそういう事を言う!」

「ところでコーラから炭酸が抜けてしまったがこれは良いのか?」

「良いんです!」


 そうか、炭酸の抜けたコーラも良いものらしい。

 とにかく甘いばかりで口の中がとっても甘くなってしまうが良いのだろうか。

 そんなことを考えていると、莉緒は俯いたまま俺の頬を掴んでムニムニし始めた。

 コーラは飲まないのだろうか。


「おやおやコーラを全部飲んでしまうぞ」

「沢山あるじゃないですか! 気にしませんよ!」

「俺が次のコーラを渡すとは言ってない。しかしまあ欲しいと言われたら渡してしまうだろうな。あんまり甘いものを飲ませないようにおばさまから言われているのだが。お腹のお肉を気にしているそうじゃないか」


 莉緒は俺の頬を思い切り引っ張ってから腕を組んでプイと顔をそむける。そう言えば最初に会った頃からスタイル良くなったよな。正直グッと来る。


「何聞いてるんですか!? 兄さんのバカ! エッチ!」


 まあエッチか否かと言われれば俺はエッチだが……。好かれたいし、素直にそんな事は言わないが、かといって否定もできないので痛いところを突かれてしまったな。しかしそうか、お腹周りはエッチな判定が出るのか。覚えておこう。


「んふふ、そうだったな。悪いことをした。だがそういうのは普通のことだろう? 身体を壊さない範囲で好きにやったら良いと俺は思う」


 ……おや、怒られると思ったらぽかんとしている。

 珍しいものを見るような表情というやつだ。

 彼女はその表情のままで俺の頬にそっと手を寄せる。


「笑った」

「なに?」

「兄さん、普通に笑ってましたよ」

「俺が? それは面白いな。俺も笑うんだ」


 莉緒はニンマリとしながら両腕で頬杖をつく。


「もう、やっぱり兄さんは何も分かっていません。けど今回は特別に教えてあげましょう」

「なにをだ?」

「あのね、兄さんが笑うのは――」


 声が遠くなっていく。夢、なのだろうか。

 テーブルの上にはコップ、お菓子、まだ終わっていない宿題。

 テーブルの向こう側で相里莉緒が微笑んでいる。

 この部屋に特別なものがあるとすれば彼女しかない。

 俺の幼馴染である。


     *


「――っ」


 夢を見ていた。

 目を開ければ、そこはいつもどおりの俺の部屋。

 口の中に、今の夢の苦いレモンの香りが残っている。

 耳に残る声が俺に囁いている。

 俺が笑うのは……。


「にこー……違うな」


 ……俺が笑うのは、莉緒と二人きりの時だけらしい。

 首にぶら下げた時計を見る。午前二時だった。台所に行って水を飲む。ベッドに戻る。

 相里莉緒にまた会う為に、俺は静かに瞳を閉じた。

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オーヴァードたちの横顔 ~Fragments of Big "N" ~ 海野しぃる @hibiki

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