第17話 先生

「さっき連絡があったんだ、璃呼子から。何でもお前といろりが痴話喧嘩で別れそうだから、暇ならちょっかい掛けてみろって。それであたしは仕事をほっぽらかしてお前を探して校舎をふらふらしてた訳だが――そしたらどうだ、お前は教室で別の女子といちゃこらしてるじゃん。おいおい浮気はよくねーぞお?」

 諏訪部先生は何故だか楽しそうだった。にやにやと少年のように笑うその表情は、さっきの十時さんのものと似ていると感じた。


「……はあ」僕は返答に困って、そんな気の抜けた返事を返した。「それで、端的に聞きますけど、先生」


「あたしも端的なのは好きだ。なんだ?」


「僕たちの事情をどこまで知ってるんですか?」


「ちょっとしか知らねーよ。でも、まあ、予想は付くよ」


「そうですか……」


 驚きはしなかった。

 接点の無い僕といろりさんが仲良くしている時点で、ある程度察せられるものはあるだろう。そして今の僕と猫宮さんの会話が聞かれていたとすると――予想は難くない。


「そんな困ったような顔をするなよ。別に、だからどうしようって訳じゃない」


「教師として、それはいいんですか?」


「いい訳ないだろ」諏訪部先生は鼻で笑った。「これでもし何か起こりでもしたら大問題だ」


「……はあ」


「だから、あたしは説得に来たんだよ」


「説得……?」


「ああ。いろりを、なんとか救ってやってくれって、そういう説得」


 けらけらと、愉快そうに頬を吊り上げた。

 だけれど先生の目は先程よりもずっと真剣みを帯びていて――というか、口元とは対照的に、僕を睨むように鋭く見つめていた。


「まあ、あたしはそれに対して助言とかアドバイスとかはできないけどな」


「……無責任ですね」


「大人になるってのは、如何に責任から逃れる方法を身に付けるかってことだよ」


 諏訪部先生は、教師としてあるまじきことを言っているという自覚はあるのだろうか。


「――ただ、どうすればいいかのアドバイスはできないけど、お前の考えをまとめる協力はしてやるよ」


「考えをまとめる協力、ですか?」


「ああ。じゃああたしも端的に言うけどさ」諏訪部先生はそこで一旦言葉を切って、すうと息を吸い込んで――そして、十分に勿体づけてから。「お前、自分がいい人になるのが怖いんだろ」


「……良い人になるのが、…………怖い」


 僕は諏訪部先生の言葉を反復した。

良い人になるのが怖い……?

 いや、僕はそもそもいい人なんかじゃない。なりたくてもなれない、到底善人には届かない。それが僕だ。


「お前も責任逃れをしてるんだよ。だって、『良い人』じゃなくて『他人に甘い人』なら、いざという時に自分本位な選択をしても許されるからな。だって良い人じゃないんだから」


「…………いや、そんなこと」


「いや、違うな……。良い人ってのは他人を救う人だ。甘い人は他人に優しく接する人だ。少なくともお前はそう思ってる。お前は自分を甘い人間だとすることで、他人を救えなかった時の免罪符にしてるんだ」


「…………」


「善人になりたい。でもその能力が自分にはないし――責任も負いたくない。そういうことじゃないのか? ……いや、これは推測と憶測が多分に含まれてるから、違ったらそう言ってくれて構わないんだが」


「違う……と、思います」


 違うと思いたい。

 でも僕の心は、ある種の無気力感というか、脱力感というか――抵抗する気力を失っていた、まるで自分の本音を言い当てられたからのように。


「そうか。なら、いいんだが」すると諏訪部先生は、途端に僕に興味を失ったかのように、顎に手を付いて窓の向こう側を眺めた。「ただ、お前がいろりを救いたいのなら、そんな中途半端な意識じゃ無理だと思うぞ」


「…………僕って、中途半端ですか?」


「うん、結構な。責任とかけじめとかそう言うのを全部ひっくるめて背負う気がなきゃ、人を救うのには不十分だぞ」


*


 いつの間にか、諏訪部先生はいなくなっていた。

 呆然として、やっと魂が僕の肉体に戻って、気が付くと諏訪部先生は教室に居なかった。代わりに、僕の机にイチゴミルクが一つ残されていた。


「それが全部わかってるなら、先生がいろりさんを説得すればいいじゃないか」


 イチゴミルクにストローを突き刺しながら、僕は愚痴を漏らす。

 だけれどそれは言っただけ。突然先生がいろりさんの死を止めても、それは彼女には響かない。いろりさんを救えるのは僕の役割だと知っている。


 ほんの数滴、イチゴミルクが口腔内に流れ込む。その甘さに僕は眉をひそめた。

 心身ともに疲れた僕にその甘さは強烈だったし、きっとそれは先生のポケットに入っていたであろう、温くなった影響で余計に甘みを感じ取ってしまう。


 そう言えば、僕がこのイチゴミルクを飲んだのは初めてだということに気付いた。あの人たちはこんなものをぐびぐび飲んでいたのか。


 酸味や苦みの様な『きつさ』は感じないけれど、ここまで甘いものをずっと飲んでいたら病気になってしまいそうだ。


 ……僕はこのイチゴミルクと同じなのかな。なんて柄にもなくポエム的なことを考えた。大して上手くもないし。


「…………」


 僕は紙パックを潰してゴミ箱に放り込むと、屋上目指して廊下を歩きだした。

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