第16話 猫宮花梨さん

「十時さん」


「――うう、ん……」


「十時さーん」


「……どうしたの、後輩君、今やっと、再び睡眠に堕ちたばっかりなのに」


 貯水タンクの上からひょっこりと、不機嫌そうな十時さんが顔をのぞかせた。


「それはすみません。でも緊急事態なんです」


「それはわたしの睡眠より大事?」


「絶対に大事です」


「そんなものがこの世にあるとは思えないんだけどなあ……」渋々ながらも、十時さんは僕の話を聞いてくれるらしかった。「一体どうしたのよ?」


「いろりさんがここに来ませんでしたか?」


「……後輩ちゃんが?」


 十時さんは唇に人差し指を宛てて考えるそぶりを見せる。そんな彼女の顔は難しい表情に変わり、そして数秒後には、にたぁーっと、悪戯をした少年のような無邪気な笑みを見せた。


「もしかして……痴話喧嘩?」


「違いますよ……」


 僕の態度から真剣さが伝わらないのだろうか、と僕は純粋に疑問に思う。


「そうなの? じゃあ普通の喧嘩?」


「……喧嘩じゃないけど。…………えっと」


 僕が口ごもったのを見て、十時さんは何かを察したらしく「はいはい、もういい」と楽しそうに笑った。


「だけど残念、ここには来てないわ」


「……そうですか」


 まあ、ダメ元だった。だろうなと言う感想、しかしそれにしては落胆が深かった。

屋上には十時さんがいるから逃げることは無いだろうなと思いつつ、それでも手がかりの無い僕は気が付けばこの場所にたどり着いていた。


「でもね、ちょっと前にこの屋上に誰か来た。あんまりバタバタ来たから、わたし目を覚ましちゃった」


「それはいろりさんじゃなかったんですか?」


「分かんない。向こうがわたしの存在に気付いて、それでそのまま帰っちゃったのよ。もしかしたら後輩女子だったかもしれない」


「……なるほど」


「力にはなれたかしら?」


「そのちょっと前というのは、具体的には?」


「……五分くらい前? それからすぐに寝ようとしたから、間違ってるかもしれないけれど」


「そうですか。とても助かりました」


「そう? ならよかったけど」


 十時さんの顔が見えなくなった。どうやら寝る姿勢へ戻ったらしい。「もし来たら教えてあげるよー」という間延びした声。これから寝ようという人の台詞ではないけれど、一応感謝はしておこう。

「ありがとうございます」とお礼を言って、僕は屋上を後にした。


 屋上に昇ってくる際に教室は一通り見たけれど、もう一度、階を降りながらいろりさんを捜索。もちろん上級生の教室も念のために除く。

 だけれど、やはりいろりさんはいなかった。やはり――そう感じてしまう程、どこにもいろりさんの即席は感じられなかった。


「――っ!」


 僕の教室の前を通りかかったところで――教室の中に窓際の席に座る女子の人影が視界に入る。そこは……僕の席だ。まさかいろりさんか?

 僕の存在に気が付いて振り返ったその人物は、しかし違っていた。猫宮花梨さんだった。


「……花梨さん」僕は彼女の名前を呼びながら、教室に入った。「僕の席で何を?」


「……どこ探してもいないから、頭を使ってたの」


「なるほど……?」僕は前の席の椅子を一八〇度回転させて、そこに腰を下ろした。「僕の席に座る意味は?」


「……いろりの気持ちにだってどこに逃げたか考えようとして。そしたらいろりがどうして野渡くんにだけ心を許したんだろうってことが気にかかって。それで野渡くんの気持ちになろうとしてみたの」


「は、はあ……」


 よく分からなかった。言っている意味が良く分からない。

 彼女の思考は分かる。だけれど、それでどうして、僕の席へ座れば僕の考えが分かると思ったのだろう。


「野渡くん――ああ、もう砕けるね。あんた、変わってるよね」


「……らしいね」


 僕にその自覚は無かったが、どうやら僕は変人らしかった。

 僕は自分のことを全うな、普通かもしくは劣っている人間だと思っているのだけれど――それをずっと信じているのだけれど、僕が周りから下される評価は往々にして「変人」だった。


 僕のその答えに何か面白さを見出したのか、猫宮さんは「ふっ」と小さく笑った。


「いろりに死にたいって言われて、その協力をしてる。あんたがそういう状況にあるんだろうなって予想は、今日話す前から付いてた」


「……うん」


「でも、それであんたをどう評価していいか分からなかった。クラスメイトを死に導こっていうその非道さと、自殺補助っていう罪に問われるかもしれないのに力を貸すっていうお人よしさ。その行為には、この相反する二つが同居してる」


 そして、猫宮さんはじいっと、まるで値踏みするかのように僕の顔、それから胴、足を順番に見つめた。


「……あんたが死を軽く考えてるヤバいやつなのか、どんな願いでも聞き入れる成人なのか、分かんなかったんだよ。それは今日、初めて話してもやっぱり分からない――どころかもっと分からなくなった」


「少なくとも、ヤバいやつなんかじゃないとは思ってるけど」


「……」猫宮さんは、僕の言葉に対して否定も肯定もしなかった。「ビンタされてもそれをすんなり受け入れたりとか。何ていうのかな……自我が薄い、って感じがした」


 ……自我が薄い、か。

 それは初めて言われた言葉だけれど、わりとしっくりくる言葉でもあった。


 だけれど、そっくりそのまま当てはまる訳じゃない。ちょっと、根本的な部分がちょっと違うのだ。

 僕は自我が薄いんじゃなくて、行動に自我を干渉させないのだ。


 つまり、周りのいいなりになる――と言えばちょっと言い片が悪いな。

 僕風に言うなら――ああ、これ以上適した言葉はないな。甘いのだ。人に甘い。


 そう、僕は人に甘いのだ。

 人に甘くする。人の言うことを聞きいれてあげる。人を否定せずに肯定してあげる。相手の求めている言葉を掛けてあげる。そこには自分の意見なんて含めずに、ただ相手が気持ちよくなれるようにしてあげる。それが人に甘いということだ。


「それで、分かったよ。野渡くんは、お人よしなんだ」


 ……おひとよし?

 おひとよし。オヒトヨシ。お人よし。


 その五音の言葉が漢字に変換され、そして意味を呼び出すまでに時間がかかった。だって、それは僕から最も遠い言葉だったからだ。お人よし。気立ての良い人のことだ。人に甘いだけの僕とは対極に位置すると言っても過言ではない。


 白に黒というようなものだ。猫に犬と呼ぶようなものだ。男を女扱いするようなものだ。それくらい――冗談としてしか成立しない、掛け離れた言葉だ。


「お人よし……? 僕が……?」


「うん」猫宮さんは頷くと、傍らに置いてあった自分のバッグを持ちあげて、中から何かを引っ張り出した。「これ、冬雪から。ありがとうって」


 猫宮さんが取り出したそれは見覚えがあった。僕が中二の頃から使っている革張りの財布だ。親戚から貰ったもので、学生が持つにしては少々ものがいい。だから見間違えることはない。


「白鯛さんに会ったんだ」


「うん。あんたに言われて見張ってるってのも聞いた。それでこの財布も……」


「……これはお人よしなんかじゃないよ」僕はポケットに財布を突っ込みながら答えた。「目の前で席をして苦しそうにしてる人が居たら何かしてあげるものでしょ。相手の為とかじゃないよ。ただ、ほったらかしたら自分の気持ちが咎めるから。……僕の一見善意に見える行動なんて、どれもこんな動機だよ」


「いや、あんたはお人よしだって」


 自覚がないのか?

 猫宮さんがそう言った訳ではないけれど、呆れたように肩をすくめた猫宮さんの顔にはそう書かれてあった。


「どうして」ややむっとして僕は訊ねる。「いろりさんもそうだけど、みんな僕を過大評価しすぎだよ。飲み物を驕ったくらいでそんなにいい人扱いしないでほしい」


「……飲み物を驕るにしても、普通の人は財布ごと預けたりしないよ。それも、今日初めて話したようなやつに」


「……それは、僕は急いでたから」


「にしてもでしょ。財布には勿論かなりのお金が入ってるし個人情報だってある。それを良く知らない人に預けるなんてことは、不用心を通り越してアホじゃない?」


「僕はアホだよ」


「かもしれない。アホかもしれないね。だって、その財布を中身を確認せずにポケットにしまうんだから。中身が抜かれてるとは考えないの?」


「……抜いたの?」


「抜いてないよ。でもいくらでも抜くことはできた。……流石にそんな予想がつかない程アホじゃないよね?」


「…………人を疑うのは好きじゃないんだよ。これも誤解されないように言っておくと、『人を疑うより信じて騙される方が良い』とかいう高尚な理由じゃなくて、疑うのは疲れるからだよ」


 疑い出したらきりがない。

 疑いなんて、どんな事にも挟みこむ余地があるのだから。


 白鯛さんか猫宮さんが僕のお金を盗んだのではないか?

 冬雪さんと花梨さんはいろりさんのことにいやいや付き合っていたのではないか?


 その成れの果てがいろりさんの自意識だ。

 疑うことなんて、無駄に精神を磨耗するだけなのだ。


「あんたの言うことは間違ってるとは思わない。……でも普通の人は、それが分かってても、そんな簡単に疑うという選択を捨てれないんだよ。信じたくても疑っちゃうのが普通」


「じゃあ僕は疑うことを知らないアホってこと?」


「信じることができるお人よしってことだよ」


「……違うよ。甘いだけだって」


「あんたは自分のお人よしを甘いって言って、そしてそれは悪いことだって思ってるかもしれないけど、でも事実としてそれはいろりを救ってるんだよ。あたしたちには出来なかった『いろりの自殺欲求を肯定する』という行為のおかげで、いろりは心を救われた気持ちになってたんだよ」


「それは――」


「それは事実。誰が何と言おうと、まぎれもない事実だから」


「……」


「あたしと冬雪としてはそれは受け入れ難い――肯定できないことだけど、でもいろりを幾ばくか楽にしてあげたのは、事実だから」


「…………」


「……色々言っちゃってごめん」


「……いや、大丈夫」


「いろりを探さないと。……どう探したらいいか分からないからこうしてたんだけど」


「……それなんだけど、猫宮さん」


「なに? 女子トイレなら全部見たけど」


「猫宮さんは外に行った方が良いかもしれない」


「……どうして?」


「下駄箱にはいろりさんの靴があったけど、それはカモフラージュかもしれない。僕たちに校舎にいるって思わせるために、あえて上履きで外に行ったのかも」


「…………それは、たしかにあるかもしれない」


「でも僕はこの街を全然知らないから。だから外を探してもいいと思う」


「分かった。……何か進捗があったら連絡する」


 猫宮さんはそれだけ言い残して、ここまでのやり取りはなんだったのかという程あっさりと教室を後にした。もしかしたら僕のことを気遣ってくれたのかもしれなかった。というか、そうだろう。


 僕は――混乱していたのだろうか。それすらも判らない。よく分からない。

 考えがぐちゃぐちゃして――なんか自分が良く分からくて――よく分からなかった。


 俯いてどうにか思考をまともにしようとしていた僕の顔に影が差した。「猫宮さん、どうしたの?」。そう訊ねながら顔を上げると――「おいおい、女子高生と大人の女を間違えるんじゃない」。

 何故だか不敵な笑みを浮かべた諏訪部先生が座っていた。

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