第8話 レッツ青春
結局、仮入部届は提出しなくてもいいらしかった。形式としては仮入部届を提出した方が良いらしかったけれど、「別に活動をする訳でもないし、届を出さなかったことで本入部には一切支障がないからな」との事だった。
このまま何事も無ければ、僕たちは週明けに本入部届を提出して、それで晴れて――晴れずに天文部員となるらしい。
「本当にあるんだね、こういう部活……」
諏訪部先生は以上の事柄を告げると、「今日は忙しいんだ」と悔しそうにソファを見つめてから部室を後にした。十時さんはそもそも部室に来ていなかった。
だから、今天文部にいるのは僕といろりさんの二人だけ。そう、二人だけ――まあそれだけだ。
いろりさんは諏訪部先生お気に入りのソファに身を沈めている。大分年季の入った逸品だけれど物自体は悪くないらしく、またしっかり手入れはされているらしく、随分と書いてきそうだった。
僕は部屋の隅に積み上げられていたぼろっちい勉強椅子に座っている僕とは雲泥の差だ。だけれどまさか、いろりさんの隣に座る訳にもいくまい。
「こういう部活って?」
「漫画とかである、活動の一切ないだらだらする部活みたいなの。いろりちゃんびっくりですよ」
「ああ……確かに」
この部活が特殊なのか、それとも全国的に結構あるものなのか。
それは僕には判断できないけれど、でも意外とあるだろうなと僕は予測した。
「……さて」
僕は小さく咳払いをして、閑話休題を示した。
その途端に空気が変わる。いろりさんの表情が強張る。しかし僅かに口角が上がったのを、僕は見逃さない。
「うん」
いろりさんは頷いた。それだけで意思の疎通が完了する。やはりこれも、僕たちがつうかあという訳では無くて、僕と彼女を結びつけるものが「それ」しかないからだった。
「まず聞いておきたいんだけど、これは確認とか前置きとかそんな感じのセンテンスなんだけど」と長ったらしい前置きの前置きをしてから、「いろりさんは自分の死にたい理由について、凄い色々考えたんだよね?」と尋ねた。
「当然! そればっか考えてる」
「だよね。だよね。だけど分からないから悩んでる。そういうことだよね」
「うん。……えっと」
どうしてそんなことを聞くの、という目で僕をみるいろりさん。
申し訳ない、口下手な僕は、自分の回路がひねくれねじれ捲った思考をそのまま口に出すという形でしか物事を喋れないのだ。
端的に要所だけ話す、ということができない。
それでも、どうにか重要な所をかいつまんで話そうとしてみる。
「思ったんだけど、それだけ考えても分からないってことは――探しても見つからないってことは、きっと身近にあるものじゃないんじゃないかな」
「……というと?」
「つまり、自分では全然思いもしないようなことが死にたい理由なんじゃないかってこと。右だと思ったら左だった、それくらい真逆の、思いもしないような理由」
「な、なるほど……」
「もしくはずっと経験出来なかったこととか。自分とは違う世界だって思ってずっと触れてこなかったこととか。……何か心当たりないかな?」
いろりさんは顎を撫でながら、難しい表情で唇を尖らせた。視線を斜め上に動かして、時計を眺め、それが窓の外の景色に移り、埃をかぶった望遠鏡で止まる。最後に僕へと視線を戻して、「うむむむ」と俯いた。
「……あ」
しばらくその状態で考え込んでいたいろりさんだけれど、唐突に何か思いついたように顔を上げた。
「心当たり、ありそう?」
「うん……。いや、でも……これは…………」
いろりさんは何やら口ごもる。あまり口に出したくないことなのだろうか。
それならば……まあしょうがない、それ以上僕には聞き出そうと食い下がることはできない。
「……言いたくないことはしょうがないよ」
「いや、そういう訳じゃないの。ただ……その…………」
上目がちに、僕を見た。その表情はばつが悪そうに苦笑い。
確かに、恥ずかしさから口に出せない、といった風ではなかった。じゃあどういうわけなのだろう?
「……言ってもいい?」
「そうしてもらえると、有難いけど……」
だけれどいろりさんはすぐに口を開くことはせず、たっぷりと間をおいてから、ためらいがちにぼそりと言った。
「青春、です……」
「……えっ?」
「青春」
今度はハッキリと、その言葉を口にした。
……青春?
「私と最も縁遠いものは、きっと青春なのです。今までこの息の詰まる閉塞感のせいで、私は人生を無駄にしてきました――人生が無駄だと思っていました。私から最も縁遠い、想像もつかないことは、多分それ。私の対極にあるものは、純粋に楽しい、キラキラした青春……だと思う」
「…………」
だけれど、そうだとすると非常に困ったことがある。
困ったというか手詰まりというか。
だって、僕はそれを知らないのだ。
僕自身も楽しい青春というやつとそれの送り方を知らないのだ。
これはもう――詰みというやつでは?
「ごめんね、変なこと言っちゃって……」
「いや……大丈夫…………」
「あの……気にしなくていいんですよ? 戯言だと思ってもらっていいから……」
いろりさんはそう言ってくれたけれど、しかし、この方法は間違っていない気がする。
一度楽しく華やかな高校生活を経験することで、今までその対極にいた自分の姿を客観視することができるようになるのではないか。
今まで袋小路だと思えてたけれど、それは迷路に迷っていただけで、正解の道筋が導き出せるのではないだろうか?
その方法は、僕には皆目見当もつかないのだけれど……。
「……今日の帰りにマックでも寄ってみる?」
「それはさすがに青春を舐めすぎだとあたくし思うのです
……冗談で言ってみただけだ。
ごんごんと乱暴に扉が叩かれる音が聞こえて、思わずびくっと身体を跳ねさせて身構える。いろりさんはそんな僕を不思議そうに見たけれど、女の子と二人だけの空間で喋っているという状況は、なんというか、悪い事じゃないけれど人に知られちゃいけないと感じてしまうのだ。
「はいどうも」
だけれど、扉の向こうから現れたのは十時さんだった。僕はほっと息を吐いた。
「おっと、お邪魔だったかなあ?」
そう言いつつも二人だけにしようというつもりはさらさらないらしく、いろりさんの隣にどかっと腰を下ろした。
「イチゴミルク取って」
十時さんは僕に向かってそう言って、赤い小型冷蔵庫を指さした。僕は立ち上がって冷蔵庫を開くと、少なく見積もっても十本以上のイチゴミルクの紙パックジュースが鎮座していた。
「わたしと胡桃ちゃんの共同イチゴミルク保管庫なの」
「へ、へえ……」
「欲しかったら飲んでいわ。その代り、ちょこちょこ買い足すこと」
「……了解です」
僕は十時さんにイチゴミルクを手渡した。ぷつりとストローを突き刺すと、わずかに薄ピンク色の液体がテーブルに跳ねた。十時さんは忌々しそうにそれを見てから、ブレザーの裾の内側からシャツの裾を伸ばして、それでこぼれたイチゴミルクを拭き取った。
「え、汚れちゃいますよ?」
いろりさんがやや驚いたように十時さんに言うと、「ティッシュ取るの面倒くさいから」とストローを噛みながら言った。シャツが汚れてしまうことなんてどうでも良いらしかった。
僕は少し悩んでから、紙パックをもう一つ取り出していろりさんの前に置いた。「え、あ、ありがとう」といろりさんがお礼を言うと、「わたしのだけどね」と十時さんが水を差す。いろりさんは苦笑しながら十時さんにもお礼を言って、ストローをパックに刺した。
「そうそう。わたし、二人に用があったんだったわ」
イチゴミルクを飲み終えて紙パックをゴミ箱に放り投げてから、十時さんは何か忘れていたことがあったらしく、顔の前で手を合わせてそう切り出した。
「歓迎会。どうしようかなって」
「……考えるのはまだ早いんじゃないですか?」そう答えたのはいろりさんだ。「まだ仮入部期間も終わってないことですし」
「うん、でももう新入部員も来ることないでしょ」
「そうとも限らないじゃないですか?」
「ほんとにー? この天文部だよ?」
「……えっと」
いろりさんは苦笑して、黙ってしまった。
十時さんの言い分の方が理があるな、と僕も思う。
「やるとしたらどんな風になるんですか?」
「ファミレスでも行くか、お菓子とかジュースとか買ってきてこの部室でやるかのどっちかかなあ。他に選択肢があるのならそれでもいいわ」
ちなみにある程度なら部費も出るよ、とソファに身体を溶かすようにだらけながら、十時さんは付け足した。
「僕は……どっちでもいいですけど…………」
「どっちでもいいってのが一番困るのよ、後輩君?」
「……じゃあ、部室の方がいいです。そっちの方がいろいろと気が楽じゃないですか」
「まあそれは同感。後輩ちゃんは?」
「私も……それでいいと思います。その方が諏訪部先生も参加しやすいですよね?」
「あ、そっか。胡桃ちゃん混ぜるならその方が良いな。……うん、じゃあそれで決定」
そう言うと十時さんはやおらに立ち上がって、僕に「ん」と右手を開いて差し出した。十時さんの意図が汲みとれず「え、っと……」とうろたえていると、「イチゴミルク」と言ったので冷蔵庫から一つ取り出して手の上に乗せた。
「ありがと」
十時さんはそういうと、かったるそうに足を引きずるようにしてドアに向かって歩き出した。「じゃあ、色々はやっておくから明日集合ね」。そう告げると、こちらを振り返らないまま手をひらひらと振って部室を後にした。
「なんというか……」
ドアが鈍い音を立ててしまってから、いろりさんは呟いた。
「本当によく分からない人だね……」
いろりさんも僕と同意見らしかった。
十時さんは女性である以前に変な人だから、僕も変に緊張せずに済むから、そこは助かるのだけれども。
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