たったひとつの願い事

小林礼

たったひとつの願い事

「おまえの願いをかなえてやろう。ただし、ひとつだけだ」


 煙とともにカイの前に現れた少年は、浅黒い胸をそらせてそう告げた。


「ひとつねえ」


 ほりほりと頬をかきつつ、カイは首をかしげた。


「こういう場合は三つが定石じゃないのか?」

「誰がそんなこと決めた」

「いや、正確な出典を求められても困るんだが、昔そんな話を聞いたような気がする。ランプをこすると愉快な親爺が出てくるっていう……あれ、おまえの親戚じゃないのか?」

「そんなやつ知らん」

「ああそう。じゃあ、願い事を三つにしてくださいっていうのは……あ、無しね。わかったわかった」


 少年の目がくわっと見開かれ、カイはひらひらと手をふる。


「早くしろ」

「そんな急に言われても」

「財宝か、美女か、それとも」


 少年は外見に似合わぬ老成した笑みをうかべた。


「おまえの国を、とりもどしてやろうか」

「……へえ」


 カイは色の薄い瞳をわずかに細めた。


「よく知ってるな。ずっとランプの中にいたくせに」


 カイの国は三日前になくなった。東方の帝国に滅ぼされて。王族のはしくれであったカイは平民の身分に落とされ、三十年と少し過ごした王宮を追われた。


 宮殿を立ち退くにあたり、宝物庫から一点だけ持ち出すことを許されたカイは、最初に目にとまったランプを選んだ。それを市場で売る前に、少しは綺麗にしておくかと袖でこすった途端、この少年が現れたというわけだった。


「そりゃなんたって魔神だからな」

「その魔神がなんだってランプなんかに閉じ込められていたんだ?」

「いろいろあったんだよ」

「そのいろいろが知りたい」

「やかましい!」


 魔神にしてはだいぶ人間くさいな、こいつ、とカイは思った。


「いいから早くしろ」

「わかったよ」


 何を願うか、じつはとっくに決めていた。ただ、少しばかりこの少年と話をしていたかっただけなのだ。自分は自分で思っている以上に人恋しくなっているんだなと自嘲しつつ、カイはその願いを口にした。


「おれの記憶を消してくれ」


 少年の黒い瞳が丸くなる。


「おれがランプをこすってから、いまこのときまでの記憶だ。簡単だろう?」

「……財宝は」

「いらん」

「美女は」

「いら……なくはないけど、今回は遠慮しておく」

「ふざけるな!」


 魔神は乱暴にカイの胸倉をつかんだ。


「おまえの国は! 憎くないのか!? あの皇帝が!」

「むしろ恩しか感じないね」


 慈悲深き征服者に神の祝福あれ。亡国の王族など、まとめて首をはねられても文句は言えないところだ。それを助命してくれた上に土産まで持たせてくれるとは、なんとも寛大な御仁である。あの君主に治められたほうが、民もよほど幸せというものだろう。


「金! 女! 権力! どれも欲しくないとは、おまえ本当に人間か!?」

「失敬な。人間にもいろいろあるんだよ」

「そのいろいろって何だよ!」


 やかましい、とさっきの魔神の台詞をそっくりそのまま返してやってもよかったのだが、魔神とちがって親切な――と自負しているカイは丁寧に説明してやることにした。


「仮に、おれが財宝を願ったとする。駱駝十頭の背に積めるだけの宝石とかな」

「おお、いますぐに」

「最後まで聞け。おれはめでたく財宝を手に入れ、贅沢三昧の暮らしを送る。しかし、ある日ふとこう思うんだ。なぜおれはあのとき、駱駝十頭分だなんてつまらない願いを口にしてしまったのだろうと。どうせなら百頭、いや千頭分を願えばよかったのに……」

「千頭だな。よし」

「だから聞け。あるいは、おれが美女を望んだとする。黒絹の髪、翡翠の瞳、紅玉のごとき唇の……」

「胸はあったほうがいいか?」

「大きさより形が重要……って、なんてこと言わせんだ。しかしだな、毎日美女の顔をながめているうちに、おれはこう思うようになるだろう。黒髪もいいが、金髪の乙女も捨てがたい。いや、夕陽のごとき茜色もまた……」

「結局女なら何でもいいと」

「よくわかってるじゃないか……って、だから何を言わせるんだ、この腐れ魔神が」


 咳払いをしてカイは次の話にうつる。


「はたまた、おれが国を欲したとする。三日前に滅びた国を甦らせ、おれをその王にしてくれと……」

「ようやく本音が出たな。なら早速」

「なあ、ひとの話は最後まで聞けって習わなかったのか? 習わなかったんだな。まあ、それでおれは念願の――だから、これは例えだからな、例え――玉座につく。だが、しばらくすると、やはりおれはこう思うんだ。ああ、こんなちっぽけな国の王位など、何の価値があるだろう。なぜおれはあのとき、地の果てまでをこの手におさめることを望まなかったのか、と」


 そこでカイはちょうど通りがかった水瓜の売り子を呼びとめ、よく熟れたひと玉を買った。小刀で切り分け、半分を魔神にさしだす。しばらく二人は黙々と水瓜をかじった。


「つまり、人間の欲には限りがないってことだ」


 口をぬぐってカイはつぶやくように言う。


「おれがおまえに何を願い、かなえてもらったところで、おれはやがてそのすべてに不満を抱くようになるだろう」


 そして死ぬまで、身が焼けるような後悔に苛まれるのだ。選ばなかった無数の願いを思って。


「何も願わずおまえと別れるのもだめだ。なぜあのとき何も願わなかったのかと、やはりおれは悔やみ続けることになるだろう。そんな人生はごめんだね」


 皮だけになった水瓜を手に、どこかぼんやりした顔でこちらを見つめている少年に、カイは笑いかけた。


「おれはずっと、こういうのに憧れてたんだよ。市場のすみに座って、たまたま知り合ったやつと水瓜を分け合うような暮らしに」


 夕暮れの風がカイの頬をなでる。市場を行き交う人々の顔は明るく、足どりはかるい。


「だから、おまえに会った記憶を綺麗さっぱり消してくれ。それがおれの願いだ」





「――それで? カイヴァール」


 ひと月ぶりに顔を合わせた幼馴染のラシッドは、挨拶もそこそこにカイに尋ねた。


「まだ気は変わらないのか」

「そのようだ」


 すまして答えるカイに、いまや帝国書記官となった旧友はあきれたような眼を向ける。


「つくづくもったい男だな。せっかく陛下がおまえを名指しでご所望だというのに。この街を無血開城に持ち込んだおまえの手腕を、陛下は高く評価しておられるのだぞ」


 ラシッドはそこで声をひそめた。


「おまえなら、いずれ大宰相の地位にも手が届こう」


 旧友のささやきにカイがただ微笑を返したとき、勢いよく扉が開いた。


「水瓜を買ってきたぜ」


 一人の少年が部屋に入ってくるなり、カイの前に水瓜をおいた。


「こら、客人の前だぞ。すまんな、ラシッド。こいつはおれが読み書きを教えている近所の子でな、イフリートという」

「イフリート?」


 ラシッドの顔に失笑がよぎる。


「たいそうな名だな。魔神イフリートとは」

「魔神だからな」


 胸をはる少年を見上げて、カイはぼやいた。


「魔神なら宝石のひとつも出してみろ。なんだって水瓜ばかり持ってくるんだ、おまえは」

「だって好きなんだろ? これ」

「いくら好きでも毎日は飽きる」


 一緒に食べていくかというカイの誘いを断り、ラシッドは腰を上げた。


「また近いうちに顔を出す。それまでによく考えておいてくれ」

「考えても答えは同じだと思うがな」


 戸口まで見送りに出たカイを振り返り、ラシッドはため息をついた。


「昔から変わったやつだったよ、おまえは。王族のくせに教師になるのが夢だなどと言って。願いがかなって満足か?」

「そうだな」


 照りつける日差しに眼を細め、カイは口の端を持ち上げた。


「さしあたっては」

 

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