Mistress Of Funeral Parades

跳世ひつじ

Mistress Of Funeral Parades



 オレンジ色のペンキは色褪せ、剥げかけている。窓から見下ろす街には、痛いほど春をよろこぶ梨の花が、そこかしこで開いていた。あの白い小さい花をむしって食べてみたい。漠然とした欲求を覚えて、ノラは足のゆびを丸めた。道のさきから、右手になにか罐詰を持った青年が歩いてくる。梨の木を通りがかりにちょっと見上げて、足を止める。うっとうしげな髪を掻きあげる。その仕草は彼の癖のうち、ノラの好きなひとつだった。(というのも、彼は顔にかかる暗褐色の髪――魅力的にカールしている――を切ろうとしないから、そうする必要があるのだ)。長い前髪がよけられると、青白い顔の、目のしたの隈、疲れた精神が滲みだして染みついた表情があらわになって、とてもコケティッシュだった。罐詰をぽんと投げては受け止めて、また投げて……不意にこちらを見る。ノラが窓越しに軽く片手をあげると、彼は一瞬、激昂を堪えるように躰を強張らせた。暗褐色の巻き毛が目元を覆い、閃いた緑色の眸は見えなくなる。間もなく彼はアパートへと戻るだろう。ノラはそっと窓辺を離れ、擦り切れた革のソファに身を投げ出す。週末にはきっと模様替えをしよう。古びたクッションの房をちぎりながら、ノラは目蓋をおろした。 はちみつ色の膚を這う、呪術めいた文様は、一見すれば少女を呪縛するもののようだった。武骨な蔓ばらは手ゆびのさきから這いのぼり、肩からは撫でおろす。小さな乳房を囲うように、ふくらみの両脇を通り、かたちのいいへそで一度、交差する。そして腰骨の左右のでっぱりで、つましい花を割かせていた。一年中。

 もう一点、背中にもゆるく這った蔓は、肩から肩甲骨のあいだを真っ直ぐにうねりながら進み、なめらかな背中を縦断し、お尻のふくらみがはじまる少し上、ちょうどへその裏側にもひとつ、味気ない褐色の、やはり武骨な固い花が咲いている。

はちみつ色の膚、褐色の刺青。

 イライジャはソファで丸くなって眠るノラの背中、そこに咲いた花にくちびるを落とした。雇用主からもらったトマトソースの罐詰は錆が浮いていた。掃除をしたら出てきたのだという。二年前の製造年月日が印字されていた。まだ食べられるだろうと彼女は言った。あとでトマトソースのスパゲティを作ろうと思っていた。なぜか手放しがたいのは、製造年月日というのがちょうど今日と同じ日だったからだ。先程窓からイライジャを見つめていたノラは、裸で、奇妙な動物のような有り様だった。誰が見るともわからないのに、すぐに裸のまま窓辺に座って、尖った膝を抱えて梨の花を見下ろす。その横顔のあどけなさ(ノラは鼻が低い)は、イライジャをぞっとさせた。何年経っても幼いままのノラ。イライジャはそのすがたを見るたび、なにも変わっていないのではないか、変わることができないのではないかとおそろしくなるのだ。ノラの成長と共に変わるはずの自分まで停滞してしまう。だからあまり、家にはいたくなかった。いつになればノラは、おとなになるのだろう。そしてイライジャ自身は?

「……なんの罐詰だったの? アビーはげんき?」

 眠っていたはずのノラが、ふと口をきいて、イライジャは頭を揺らした。

「起きていたのか」

「眠ってない。眠りたいのに」

「トマトソース」

「嫌い」

 ノラはそう言うと、くるりと躰を返した。ノラの躰の前面は、背中ほど幼くはない。あたりまえだ――彼女はとっくに一七歳をこえている。

 イライジャは少しむっとして、ノラの華奢な顎を掴んだ。ソファの横に跪いたイライジャを、首を曲げたノラがじっと見た。

「トマトソースのスパゲティを作るつもりだけど」

「ミートボールは?」

「ないよ。欲しいなら買ってきな」

「アビーはどうしてミートボールをくれなかったの? あたしがミートボールを好きだから?」

「そんなわけないだろう。アビゲイルには俺の昼飯の面倒まで見る義務がないってだけだ」

「あの女性ひと、けちだものね」

「アビゲイルの悪口を言うな」

「けちって言っただけで、怒らないでよ。はやくご飯を作って。お腹がぺこぺこ」

 ノラはイライジャをにらむと、顔を背けた。顎にかけた手はふっと払われる。イライジャは立ち上がると、ソファを蹴りつけた。フローリングのごみを巻き込んでざらざらといいながら、ソファが少しだけすべった。だが、それだけだ。

「うるさい」

 吐き捨てても結局、イライジャはキッチンに立つ。


 電話をとったのはノラだった。煮え立つ湯のなかでくねくねと揺れるスパゲティを見つめるイライジャは、こういったときに目を離すことはどうしてもできない。電話はキッチンの作りつけの棚のうえにある。ノラが大儀そうに起き上がったのは、彼女が鳴りっぱなしの電話をとても許せない性質だからだった。

「はい」

 不機嫌な声で問う。ノラの声は低く、掠れている。生まれつきそういう声だった。歌がうまければよかったのに、とイライジャは昔ノラに言ったが、ノラは歌うことは大嫌いだと言って怒った。

「ノラよ。イライジャはスパゲティを茹でてるの。わかるでしょ、……そう、兄さんはばかだから、スパゲティ鍋にかかりきりなの。何の用件なの、アビー?」

 どうせこのアパートに電話をかけてくるのは、通信販売の会社か、アビゲイルだけだ。前者ならノラはとっくに電話を切っている。アビゲイルなら切らない。ひどい態度をとってはいても、ノラはなんとなくアビゲイルのことを突き放しきらない。それはイライジャを思ってのことか、この貧困な生活をせめて維持させようという気持ちなのか……判断はつかなかった。代われと言いたいが、スパゲティが茹るまではあと二分三二秒あった。それまでこの通話がつづく確率は低い。

「トマトソース? いまスパゲティを茹でてるって言ったでしょ。知らないよ、そんなの。アビーがくれたんだから。お腹を壊したらアビーのせい。どうしても食べるなって言うなら、うちにピザでも配送してよ。あたしはチーズの乗らないやつがすきだからね。あ、ドミノピザを寄越したら、アビーのこと訴えるから。従業員に腐ったトマトソースを食べろって言ったうえに、腐れピザを寄越しましたって」

 ノラの悪態が続く。イライジャが堪えきれず彼女を見ると、ノラはいやそうに顔をしかめて、子機を持ったままソファに戻ってしまった。どうせ狭いアパートだが、スパゲティを茹でていては見えない。キッチンタイマーを見ると、あと一分十六秒。イライジャはため息をついた。

「……じゃあ有給休暇をちょうだい。いいでしょ? なんてけちなの、あんたって。いいって言うの。わかった? ずっとイライジャを抱っこしてないと息ができないわけじゃないでしょ、たまにはあたしだって兄さんに甘えたいの。ピザか、有給休暇か、どっち?」

 ふん、と小さく鼻を鳴らして、ぴっと通話を切る音がした。ちょうどキッチンタイマーが鳴り響き、シンクにお湯をすてる。ぼこん、とシンクを裏側から叩くような音がした。熱湯を流すと水道管が傷むからやめろと言われている。だがいつも先に鍋を持ってしまうから、イライジャは蛇口をひねることができなかった。

 たまには兄さんに甘えたいの。

 胸が悪くなる。かすれ声がそんなばかげた嘘を吐くのは、いつ聞いても嫌なものだった。嘘つきの妹は、そんな兄を見てきっと暗くよろこんでいるのだろう。そうでなければ、傷ついている。傷つくことを愉しみながら。彼女のほかの誰にも傷つけることのできない彼女自身。

 茹で上がったスパゲティをフライパンに移して、罐詰のトマトソースをかけた。黒っぽい色をしていた。罐切りであけた罐詰のふちはぎざぎざとしていた。

「痛っ」

 気をつけようと思った矢先に、ゆび先がふちに引っかかって、つんと一瞬痛む。皮が少しだけめくれて、血を流していた。人さしゆびの腹を咥えて、左手でスパゲティを掻き混ぜる。キッチンに古いバジルの壜がある。振りかけて、適当に炒めればおしまいだ。ノラの皿はオレンジが描かれたもの、イライジャの皿は青い縁取りのあるもの。取り分けて、ソファの前に置かれたローテーブルへと運ぶ。キッチンに引き返して同じフォークを持ち、なぜかむくれて座るノラに手渡した。

「アビゲイル、なんだって?」

「古いトマトソースについて検索したらお腹を壊す可能性があるってヒットしたから、食べるのをやめてって言ってた」

「やめたほうがいいかな」

「平気じゃないの? だったらピザをうちに送ってよって言ったら嫌だって」

「ふうん……」

「ね、けちでしょ? だからお腹壊したらイライジャは有給休暇。わかった?」

「ああ」

 途端、なにか食べ物らしくない顔つきになったスパゲティを口に運ぶ。炒める時間が足りなかったのか、すこしだけ冷たい。トマトソースのありふれた味がした。やや塩辛い。

 イライジャが食べるのをじっと見つめていたノラは、ソファに乗り上げた。眉を上げると、赤い舌をちろりと覗かせる。

「食べろよ」

「いらない。あたしさっき、トマトソースは嫌って言った。アビーから電話がかかってくる前に」

 そうだったっけ、と思いながら、イライジャは自分のスパゲティを完食し、ノラの皿のうえでわだかまるスパゲティはゴミ箱に棄てた。


 アビゲイルが死んだという連絡を受けたのは、それから三日後のことだった。 トマトソースは古びていた。イライジャは腹を壊し、吐き気と腹痛に苦しんでいた。ノラは食べるものがないとぼやきながら、一本だけのミネラルウォーターを独占し、イライジャが床でうなっているときもいつも通りだった。ようやく体調が回復し、有意義とはとてもいえない有給休暇を終えた日の朝、アビゲイルの家から連絡があった。彼女の夫のルーカスから、「妻が死んだ」と、たったそれだけの言葉……。葬儀に参列しろとも、その葬儀がいつとも、ルーカスは言わなかった。だからその日はそのままゆっくりと過ごした。ノラがあまりにも怒るせいで、イライジャは病み上がりの顔のままでスーパーマーケットに行き、ミートボールを買った。

「イライジャ、葬儀、あしただって。北の墓地だって」

 ノラは帰ってきたイライジャにそう言った。子機が床に落ちている。

 拾い上げながら、イライジャはすこし驚いていた。

「ルーカスが連絡を?」

「イライジャは嫌われているから教えてもらえないんでしょ。ノラは来てもいいの。わかる?」

「そうなんだ」

「でも、イライジャも行くよ。ノラが行くんだから」

「行くのか」

「イライジャは雇用主の葬儀にも出ないつもり? だから男娼みたいな仕事しかできないんだよ」

 ノラの辛辣な言葉を聞き流しながら、一年前から調子の悪い冷凍庫にミートボールやグラタンをしまってゆく。グラタンを買ってきてしまったが、このアパートに作りつけのオーブンはもうずっと壊れたままだ。オーブントースターに入るだろうかと考えながら、喪服について考えていた。見透かしたように、ノラが口を開く。

「喪服、あるよ。クロゼットに入ってる。あたしのも、イライジャのも」

「買ったっけ」

「ううん。叔母さんがくれたやつ。イライジャのは、叔父さんのでしょ」

「そんなに葬儀に出ていたかなあ」

「出たよ。いっぱい」

 新たな仕事を探さねばならないだろう。ここらは寂れていて、よそ者に優しくない。たまたま仕事をくれたアビゲイルは嫌われ者だったし、新たな仕事が見つかる可能性は低いだろう。また引っ越しをしなければいけないかもしれない。ノラは嫌がるだろうが、度重なる引っ越しが嫌いなのはイライジャだって同じだ。このアパートには長く居ついたほうだった。それもすべて、アビゲイルという女主人がいたおかげだ……。

「ミートボール、買ってきたよ」

「いらない」

 ノラがふてた声で返事をして、裸の躰を抱いた。


 アビゲイルの葬儀には、たくさんのひとが参列していた。

 重々しい空気のなかで、ノラとイライジャは手を繋いでうしろのほうに立っていた。埋葬のときにもついていった。ルーカスはノラと一度だけ握手をしたきり、もうこちらを見向きもしない。涙も見せず、夫にしては淡泊すぎるほど淡泊に、アビゲイルの葬儀を進めた。死んだ彼女を見るのはいやだったが、埋葬のときには見ないわけにはいかない。だから、ノラを前に押しやって、彼女の背中の花を見ながら、白百合を暗い穴に投げ捨てた。

 アビゲイルのことは好きだった。だが、死んでしまったらそれまでだ。厭らしい死体になってしまえば終わりだ。彼女の躰に花は咲いておらず、白かった膚に呪いはかかっていない。ミートボールを拒んだノラの、ここ数日でさらに痩せた肩からは、喪服が少し浮いているように思えた。

「ねえイライジャ、アビーにノラは妹ですって言ったの?」

 ノラは葬儀の参列者を見ていた。イライジャは軽く頷く。ふたりで暗い穴から離れる。前を歩いているノラの歩幅は小さい。はやく遠ざかりたくて、イライジャは彼女の肩に手を置いた。

「妹と住んでいるんです、あの子はまだとても小さいんです」

 イライジャはアビゲイルにそう言った。アビゲイルは少しだけイライジャを憐れんだように見て、月々支払う彼への給与を上乗せした。それは小さな金額ではなかった。ほんとうはふたりは、彼らには相応しくない財産を持っていた。ここ二年間、アビゲイルから吸い上げた金だった。だがどうせ、ノラもイライジャも金の使い方なんて知らないのだ。ウォルマートや一ドルショップで買い物をするだけ。ほかにどんな使いでがあったろう? 車は一台あったが、ノラは運転できない。イライジャは仕事ばかり。

「……喪服を買おうか、今度おまえの。それはちょっと大きすぎるよ」

「うん」

 ノラは素直に顎を引き、イライジャの手をぎゅっと握った。

「ルーカスは退職金を支払うって言ってた。イライジャが行ってもきっともらえないから、あとでアビゲイルの家に送ってよ」

「おまえを?」

「そうだよ。ルーカスはあたしのことを気に入っているでしょ? だから受け取ってきてあげる」

「金なんていらない」

「そんなわけない。次はどこへ引っ越すの? あたし、テキサスのほうへ行きたい。北は嫌だ」

「いいよ。でも……でも、ルーカスは……」

「お金をくれるんだよ。もらうの」

 ノラは頑固だった。ルーカスは真っ当な人間だ。妻のアビゲイルの放埓な振る舞いを無視する、冷淡なおとこではあったが、彼はここらでは珍しいほど真っ当な人間だった。ほんとうに退職金を支払うのだろう。そして永遠に近づくなという話かもしれない。イライジャは彼に対して常に敬意をもって接していたが、ルーカスの気に入るようではなかったと気がつくまで長い時間がかかった。

 葬儀が終わって、ノラと手を繋いだまま、春にしては少し暑い陽気を仰ぐ。アパートまでの道を歩くことにしたのは、墓地と住まいがほど近いからだ。それに、ノラが車に乗るのは嫌だと言ったから。ひとのまばらな街で、ふとノラがイライジャの手を引いた。 梨の木の下。アパートの窓が見える。そこに裸のノラがいるような気がして、イライジャは反射的に顔をしかめた。だが、いま喪服を着たノラは隣にいる。

「あの花、おいしそうだよ」

 ノラがうっとうしげにヴェールを外す。イライジャは少しだけ焦った。 緑色のうねる髪があらわになる。イライジャがいつも染めてやる、毒々しい緑色の髪。そして底知れない灰色の眸が、梨の花を眩しげに見上げていた。おいしそう、と言った通り、ノラはそれを欲しがっているように見えた。イライジャは苛立ちを感じて、やや強引に歩き出した。

「梨は実を食べるんだ」

「お腹ぺこぺこ」

「俺の作った飯を食べないから」

「だっておいしくないから……」

 その声が悲しそうで、イライジャは振り向く。いつもと同じ顔をしたノラがいた。目が少し離れていて、鼻が低い。独特の顔をした、あどけないノラ。イライジャはいつも彼女の気持ちがわからない。繋いだ手を引き寄せて、腕を組んだ。アパートを通り過ぎて、角の花屋をのぞく。居眠りをする老婆がひとり、店の奥にいた。

「すみません」

 老婆が目を開ける。財布を取りだすべく腕を離すと、ノラはひとりで頼りなくアパートへと戻りはじめた。舌打ちをしたが、老婆はこちらへやって来る。急いで、イライジャは花束を作ってくれと頼んだ。老婆はもたもたとしながら、どんな花を? いくらで? 誰のために? と問う。梨の花みたいなのを、というと、何故か老婆は怒ったようになった。それから、白いだけで梨の花とはかけ離れた花々を集めて、花束を作る。その手つきはあまりにももたついていて、イライジャは叫び出しそうだった。

「はい」

 手渡された重い花束は、高価だった。白い花を下に向けて持ち、ほとんど走るようにしてイライジャはアパートへと帰った。

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