第21話 アルバイターと社会人3

「蓮見さん。ちょっといいかな」


 そう言って私に声をかけてきたのは、同じ部署の上司である加賀部長。

 フロアの一番端っこにある机で、仕事をしていた私の元に、何やら用事で来たらしい。


「この資料、昼休みまでにまとめて置いてもらえるかい?」


 そうして部長に差し出されたのは、分厚い何かの書類。

 見るだけで気分が悪くなりそうなぐらい、細かい文字で色々と書いてある。


「昼休みまでって、今日の昼休みですか」

「そうそう。午後の会議で使いたいんだよね、この資料」

「はあ」


 ——なら自分でまとめればいいでしょ。


 とは流石の私でも言えない。

 なので、仲の良い同僚に教えてもらった裏技で、なんとか誤魔化してみることにする。


「あの、私課長にも仕事頼まれてて。二ついっぺんにだとちょっと」

「ああー、そうなんだ。それじゃ仕方ないよね」

「はい、すみません」

「いいよいいよ。他の人当たってみるから」


 そう言うと部長は颯爽と私の元から歩き去った。

 向かった先は、遠くで仕事をしていた若い男性社員の机。

 おそらくは、私と全く同じ話を彼にもしているのだと思う。


 ——あの人、いつもかわいそう。


 私が上司の仕事を断ると、必ずと言っていいほど彼の元に飛ぶ。

 もちろん私的には楽できていいのだけど、それでもちょっとかわいそう。

 まるでいつも私の世話をしてくれる同居人みたい。


「でも、男はうまく利用した方がいいって夏美も言ってたし」


 私と仲の良い夏美は、いつもこうやって男の人を使っている。

 たとえそれが上司だろうと。年上だろうと。

 何か少しでもめんどくさいと思ったら、所構わず利用する。


 この前だってそう。


 課長に資料の修正を頼まれたのに、夏美はやらないまま放置して。

 それに気づいた課長が「いいよいいよ」って言いながら、結局自分で修正してた。


 流石に私はそこまでしないけど。

 なぜかこの会社の男性社員は、みんな私たちに優しい。


 それは先輩後輩に限らず。

 私や夏美が少しでも甘えると、みんなそれに応えてくれる。

 嫌な顔一つせず、失敗を補ってくれる。


 ——ホント、なんでだろ。


 私の周りにいる人たちはみんなそんな人たちばかり。

 だから私が何もしなくても他の人がやってくれる。

 任せていても、大丈夫だと思える——。


「あの、蓮見さん」

「あ、はい」


 突然声をかけられたから、少し驚いちゃった。

 部長に続いて今度は課長って。

 一体私に何の用なんだろう。


「頼んでた書類、できたかな?」

「あ」


 すっかり忘れてた。

 そう言えばさっき課長に書類を作るように頼まれてたんだ。

 めんどくさいから後でやろうって、PCの上に置いたままだった。

 部長に言ったあれ、別に嘘じゃなかったんだ。


「あの、すみません。やろうと思ってたんですけど」


 そう言いつつ、私は全く手をつけていない書類を課長に見せた。

 今思えばこれを頼まれたの、私が出社してすぐの時だったような。

 いくら私たちに甘いとは言っても、これは流石に怒られるかも。


 と、思っていたけど——。


「あ、ああ、いいよいいよ。代わりに僕がまとめておくから」


 そう言うと課長は、まっさらな資料を私から受け取った。


「ごめんね、忙しいところ」

「あ、はい」


 終いにはそんなことを言って、私の元から歩き去る。

 そして自分の机に戻ったかと思えば、険しい顔を浮かべながら、全く進んでいないその資料を1人でまとめ始めた。


 ——怒られなかった。でもなんで?


 流石に今のは私でもまずいと思った。

 絶対怒られるって。


 なのに課長は何も言わなかった。

 それどころか「ごめんね」って——。


「んん、よくわかんない」


 なんでかは全然わからないけど、代わりにやってくれるなら良かった。

 それに私が資料を作るより、課長が作った方が絶対正確だろうし。

 私は私の仕事だけをこなしてればそれで……。


「……それで……いいのかな……」


 なんでだろう。

 なぜか課長の必死な顔を見ると、胸のあたりがチクリと痛む気がする。

 いつもなら何も気にしないで、自分の仕事に集中できるはずなのに。


 ——もしかして私……悪いことしてるのかな……。


 ううん、きっとそんなことない。

 だって課長は、いいよいいよって言ってたし。

 多分そんなに怒ってなかったと思うし。


 それよりも今は、自分の仕事をしなきゃ。

 タダでさえ私は仕事が遅いから、残業にならないように頑張ろう。


「えっと、マウスマウス」


 そして私は、スリープモードになっていたPCを再び起動した。

 マウスをちょんちょんって動かして、出てきたロック画面に自分のIDとパスワードを入力する。


「あれ、Dってどこだっけ」


 ”SARAUDON”って打ちたいけど、D場所がわからない。

 確かキーボードの左の方だったような気がするけど……。


「あ、あった」


 こんなわかりやすいところにあったんだ。

 端の方かと思ってずっとそっちばっかり見てた。


「あとはOとN……」


 と、私が残りのアルファベットの場所を探していると。


「ねえ桃子ー。桃子ってばー」


 私の名前を呼ぶ声が、すぐ後ろから聞こえてきた。

 声の感じからしておそらくは夏美。

 それに私を下の名前で呼ぶのは、夏美以外に多分いない。


「桃子ー、こっち向いてー」

「え、何。私今忙しいんだけど」

「忙しいって、ただパソコン眺めてるだけじゃん!」


 仕方なく私が振り向くと、そこにはやっぱり夏美がいた。


 私とは両極端の短くて明るい茶髪。

 そして華奢でごくごく平均的な背丈。


 私とは同期で年齢も一緒だけど、その割には顔立ちが幼い。

 多分いつもうちで着ているあのジャージを着せれば、間違いなく女子高生くらいに見えると思う。


「ねえ桃子ー、疲れたからジュース買いに行こー」


 そんな夏美はいつものように、私を休憩に誘ってくる。

 とは言ってもこれはただの建前で、本当は仕事をサボりたいだけ。

 いつもこのくらいの時間になると、決まって私の机に遊びに来る。


「ねえ、桃子早くー」

「行くけど、ちょっと待って。あと2文字だから」

「そんなの後でもいいよ。いいから行こー」

「待って」


 私の肩をポンポンしてくる夏美に構わず、私は残りの2文字を探す。

 確かOとNは、どっちもキーボードの端の方にあったはず——。


「てか何”SARAUD”って。もしかして”SARAUDON”?」

「うん、夏美もOとN探して」


 キーボードを見つめながら、私がそう言うと、


「ふはっ! 何そのパスワード、おもしろーい!」


 私のパスワードが気に入ったらしく、夏美がすぐ後ろで吹き出した。

 別に私は面白さを求めていたわけじゃないんだけど。


「ねえねえ、なんで”SARAUDON”なの?」

「え、なんでって。パスワード決めた時に食べたかったから」

「ぷふっ、何それ!」


 理由を教えてあげると、夏美はまたもや吹き出した。

 だから私は面白さよりも、早くこのロックを解除したいんだけど。


「あとさ、OとNならここだよ。上の段と下の段」

「あ、ホントだ」


 笑いながらも夏美が指差した先に、探していたOとNがあった。

 それも私が思っていたところとは全然別のところにあったので、これはちょっと驚きだ。


「なんで知ってるの? OとNの場所」

「そりゃ毎日パソコン触ってれば覚えるよ。桃子がおバカなだけだって」

「え、私っておバカなの」

「おバカだよ。すごくおバカ」


 ケラケラと笑いながらそう言う夏美は、いつもと変わらず調子がいい。

 多分今も誰かに仕事を任せて、抜け出して来たに違いない。


「ねえ、いいから早く行こ」

「うん、わかった。いくから」

「やた」


 私が椅子から立ち上がると、夏美はニコッと笑って見せた。

 そして足軽にフロアを抜け、まっすぐ休憩所を目指す。

 私はそんな夏美の後を、ゆっくりとついていった。

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