第36話 弘法であっても

 今日はいよいよ公演前日となった。俺が重い体を引きずって部室へ入ると、既にみんなが机を廊下に出している。彼らはセッティングの準備を始めていた。そんなに来るのが遅かったのか。思わず呆然としてしまう。

「おはよう、国之! おい、何やってんだ? セッティングして全部通しするんだから早く荷物置いて。奏も言ってたでしょ? ほらぼんやりすんなって! 」

健太先輩が檄を飛ばしてくれる。はっとさせられた。そうだ。まだ何も終わっちゃいない。俺は慌てて我に返り、近くの棚にいつもどおりかばんを入れていく。今日は7時間授業だったため、部活自体にとれる時間も短い。ならばと奏先輩はこの日に通しをねじ込んだのだろう。本番前日だからというのもあるかもしれない。俺は急いで荷物をしまい切り、机を出す作業へ入った。俺は何ともなく1年生の影を探すが、今日は本番最後の通しということもあっていないようだった。少しでも客が欲しいとは思ったが、思えば演出だけでも事足りる。

「開始から5分です!! 」

首からストップウォッチを下げた好美先輩の声が響く。忘れるところだったが、セッティングの時間計測はこの段階で始まっているようだ。俺は机を出していく手を早めた。机を出し終えたら次いでパネルを出していく。俺はパネルと同時進行で道具の確認をしていく。唯一の大道具、ロッカーも問題なく置けたし、小さな道具たちも無いものはない。一瞬、グローブのところで息が詰まった。しかし、当然不具合はなく過ぎていく。

「舞台の道具チェック終わりました!! 」

高らかに宣言し、さっさと衣装に着替える。衣装がジャージということもあって、着替えは早かったここまでは、個人も全体も問題無く進んでいる。

「20分です! 」

好美先輩のコールが鳴り響く。だいぶいいペースだ。あくまでも、最低でもここまでは。あとは着替え終わりを待って舞台裏に入るだけのはず。最後の通しなのだから、明日へ向けてはずみをつけたい。ノーミスで行ってくれ。そういう俺の願いはもろくも崩れた。

「……あれ? 」

ふと誰かが疑問に満ちた声を上げた。喧騒に包まれているはずの部室が、一瞬静かになったように思えた。音源を見ると、声の主は音響担当のスタッフ専門部員、克己先輩だった。入部当時からほぼずっと音響をやり続けている彼の動揺は、俺を不安にさせるのに十分なものだった。突如、俺の胸に暗雲が垂れ込める。心音がまた加速してくる。

「どうした? 」

舞台関連のことが終わり、手空きになったらしい健太先輩が声をかける。 

「いや、多分スピーカーが悪いような気はするけど、なぜか音が一切出ないんだ。」

克己先輩の返答に、場は完璧に凍りついた。タイムコールをするはずの好美先輩でさえ、目を剥いてその場で固まった。突然すぎるトラブル。しかも、今まで経験したことのない音響で。

「とりあえず、あの端っこにある古いスピーカーを取ってもらえないか? 2つあるはずなんだが。」

当然、克己先輩の声もいつもより格段に張り詰めたものになる。前日のリハーサルだからと思うかもしれない。しかし、今の俺達にとってこれは本番とも同義だった。克己先輩の声を聞いた健太先輩が古いスピーカーを取り、パネル裏に走り込もうとする。しかし、それを鋭く遮ったのは好美先輩だった。

「パネル裏で女子まだ着替えてるけど!? 」

そうだ。そういう問題もあったのだ。あえなく健太先輩は戻っていく。

「今私行けるよ! 誰かこれお願い! 」

そう言って入口付近から駆け出したのは照明の佳穂先輩だった。健太先輩の残した箱を取り、パネル裏に入っていく。俺個人の仕事が終わり、今仕事を頼まれている以上すべきことは一つだろう。俺は佳穂先輩の残した仕事へ駆け寄った。

「克己、つないだから流してみていいよ! 」

「わかった!! 」

克己先輩の所作を見ていたのだろうか。慣れた手付きで佳穂先輩はスピーカーの接続に成功していた。照明機器のコードを束ねて床に貼り付けながら、俺は緊張してその光景を見つめる。

「克己! 今ほんとに流してるの? 」

程なくして、パネル裏から少しくぐもった声が聞こえてきた。その戸惑った響きから、俺は確信した。

「流してるよ!! 音量最大だし。スピーカーの方は? 」

「うん……こっちも音量マックス。」

残念ながら、1つ目は潰えてしまったようだ。幸運なことに、こちらの作業はだいぶ終わりつつある。

「25分です! 」

冷徹ともすら言える好美先輩のコールが響いた。やはり刻一刻と時間は進んでいる。授業が終わり、そこから開場までは約30分。後5分がデッドラインだ。なんとかしたいが、全く音響の経験がない俺ではいかんともし難い。もどかしさだけが募っていく。 

「今、衣装の方は大丈夫ですか? 」

「もう少しでみんな着替え終わります! 」

好美先輩は舞台全体の確認をしているようだ。張り上げた声に、衣装メイク担当のチーフ、由香里先輩が答える。向こうは順調か。

「舞台大丈夫ですか? 」

「パネルは完全にオーケーです。」

「道具大丈夫ですか? 」

程なく俺の番が回ってきた。

「大道具、小道具の設置、準備等完全に終わってます! 」

俺は状況を伝えきり、また作業に戻る。残すは音響と照明だ。

「照明大丈夫ですか? 」

「今国之と健太にしてもらってるやつでさいごです! 」

「こっちはもうすぐ終わります!! 」

「わかりました! 」

こっちも、舞台も、道具も衣装も準備完了。ならば、やはり後は。好美先輩はあえて聞くことをしなかった。

「こっちも、鳴らないか。」

舞台裏では、2つ目のスピーカーもだんまりのようで、無音の空間を作っているところだった。

「しょうがない、最後にもう一回、もとのスピーカーでやってみよう。」

克己先輩の指示で、元々のスピーカーにコードをつなぎ戻す。しかし、結果は同じだった。

「だめか……。しようがない、放送部さんにスピーカーとかを借りて……」

この上なく絶望したような声で先輩がつぶやく。また他の部活の人に迷惑をかけるのか。そう俺も暗澹とした気持ちになった。

「ねぇ、待って。」

そう声を発したのは、衣装のチェックを終えてパネル裏から出てきた由香里先輩だった。その凛とした言葉に、一筋の希望が宿る。彼女はコードの根元部分を指している。よく見ると、スピーカーから伸びたコードが、発音機器に刺さっているところに問題があるらしかった。

「あのさ、今右から来てるコードがL、左から来てるコードがRのところに刺さってるだけど、これって……。」

由香里先輩は心底疑問だというようにつぶやく。俺は何が何やらだったが、それを聞いた克己先輩は最初以上の驚きようだった。

「え!? ……本当だ。本来、Lが左でRが右のはずなのに…。佳穂、いまこっちコードを付け直すから、スピーカーの音量確認してもらえるか? 」

この上ない緊張の瞬間だ。克己先輩が大きく息を吸ってボタンを押す。一瞬部室が空白と化し、ついで皆の耳を鼓膜が破れるような爆音が叩いた。俺は思わず少し飛び上がり、一瞬待ってから現状を理解した。これは他でもないスピーカーからの音だった。成功したのだ。みんなの口から一斉に安堵のため息が漏れ、少し笑顔に包まれる。

「ありがとう。」

克己先輩の、心と実感のこもった声。消え入るようにか細い声だったが、それは確かに由香里先輩に向いていた。音響問題も方がつき、ようやく俺たちは舞台裏に足を踏み入れる。ここでしばらく、始まるまでは待機の時間だ。耳をロック調の力強いメロディーが揺さぶる。幾度となく聴いた「客入れ」と呼ばれる曲だ。その曲に載せられて気持ちも高まっていく。

「それじゃ、最後の通し、開演します。行きまーすっせい! 」

明日が本番である以上、この手の音を聞くこともしばらくは無い。乾いた音とともに電気が消え、最後の通し稽古が幕を開けた。

 終わってみれば呆気なかったものだ。自分でも細かい動きなどはよく覚えていない。ただ、衣装を着て行えたことで柿田と同化したような錯覚と高揚を味わっていたのは事実だ。

「通しの反省会します!! 円になってください。」

終了後、奏先輩の号令で俺たちは円になった。この反省会までが完全通しだ。細かいダメを言われたのはいつもどおりで、これは役者レベルでなんとかしないと行けないことだ。やはり話は、克己先輩の方へと向かって行った。

「結局、克己、音響が流れなかったのはどうしてなの? 」

直球勝負の質問が、克己先輩のミットに突き刺さる。

「それは……、俺がコードを刺し間違ってたからです。右に刺すべきコードを左に、左に刺すべきコードを右に刺してしまいました。本当にごめんなさい。」

克己先輩は俺が過去に聞いたことのないような暗い声を出している。奏先輩は言葉を受け入れるように間を置き、うなずき、そして言った。

「本番は大丈夫だよね? 」

念を押すような言葉。

「はい。」

克己先輩は、弱々しいながらも確かにそう言った。彼に影響されるように、最後の反省会は粛々と進んで行った。

「それでは、今日のことを活かして明日は絶対に成功させましょう! 今日上手く行った人はこの調子で。少しでもミスをしてしまった人は繰り返さないように。新入生を感動させてやりましょう!! よろしくお願いします!! 」

「はい!! 」

奏先輩の宣言で、反省会は幕を閉じた。

「明日、最初に来た人は部室の鍵と、後は2階の教材室の鍵を取りに行ってください。明日部活に来たら、荷物はそこに置いてくださいね。あとは、クラスでの宣伝もよろしくお願いします。」

奏先輩以外、ミーティングでもほとんど発言する者はいなかった。その日の部活はいつにも増して緊張の中で終わっていく。少し胸が詰まるような思いだった。

 夕暮れ、もう日も落ちきった溶暗の中で、俺達は学校を出た。みんな緊張しきっているのか、示し合わせたかのように誰も言葉を発しない。しかし、そんな沈黙が破れたのは去山駅でだった。みんなが帰っていったあと、少し遅れて帰ろうとする由香里先輩。

「由香里! ちょっとだけ、時間いいか。」

そう言って由香里先輩を引き留めた克己先輩。俺と残った人たちの間に衝撃が走る。彼が人に話しかけるのは大抵悪い時だからだ。しかしみんなの戦慄とは裏腹に、克己先輩の様子がおかしい。克己先輩は俺達の目を避けるように目を伏せている。 

「ん? いいけど、どうしたの? 克己。」

答える由香里先輩の戸惑った声が、やけに響いて聞こえた。日はもう完全に落ちきった。不審に思う俺の心音が、秒針と重なって響く。

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