楽園 ―兎が地を駆ける犬になる話―

くろめ

楽園 ―兎が地を駆ける犬になる話―

 月からの追放は突然でした。

 私自身、まさかその程度のことで追い出されるとは思っていませんでしたし、バレてもしばらく監獄に入るぐらいだと高を括っていたと思います。


 待っていたのは想像以上のものでした。


「掟破りめ」


 ええ。確かに約束事を破りました。しかし、その先でとても……とても美しいものを見られたのです。

 そんな言葉で片付けられたくないと、そう思う程に美しかった。


 ああ、もう一度見たい。自然とそんな言葉が出てきてしまう程に。それがどうやら、耳のでかい族長には聞こえてしまっていたようで彼の逆毛(げきりん)に触れてしまったのです。


「貴様は月をたたき起こした」


 まるで意味が分かりませんでした。族長は私を追い出したくて堪らなかったようです。

 なぜ。何故地球をこの目で視てしまうことが、そんなにもいけないこと……あってはならないことなのか。


 いや、知っているのです。遥か昔のお話は。

 ですが、それだけが理由で地球を視てはならないと。そんなこと、とても理解することはできません。


「地面でも寝床にしていろ」


 その言葉を最後に、私はオルゴールのような小さな檻に入れられました。

 その時は族長の言葉を、ただ檻の床を寝床にしろというなんとも安直な意味としか捉えていませんでした。寝具も何もなく、寝っ転がるのも苦労するような空間に、この身ひとつだけ放り込まれていましたからね。


 檻に入ることは想定済みでしたし、別にそれだけならいいと楽観的に考えていたように思います。


「おい、飯だ」


 知らない兎が持ってきたものは、それなりに高価な人参でした。色と見た目で判ります。

 しかし、少しだけ匂いが違いました。何処かで嗅いだことがあるような、摩訶不思議な匂い。決して鼻につく嫌な臭いではありませんが、しばらくは得体の知れない恐怖が体中を駆け巡ったことは言うまでもありません。


 しかし、空腹には抗えません。なにしろ数日間ろくに食べていませんでしたから。


 人参を食してからの記憶はありません。睡眠薬か何かが含まれていたのでしょうか。

 しかしまあ、悪い夢は見ませんでしたねえ。こんなことは生涯で指折りです。





 意識を取り戻して直ぐ、異変に気付きました。全身がむず痒いのです。

 無意識に身体中を掻き回しますが、何かがおかしいのです。


 寝起きの感覚が鋭くなるほど、痒みが増していきます。生涯で感じたことのない程に鋭い痒みとなったのは、どれだけ時間が経ってからでしょうか。

 身体中を駆け回る痒みにのたうち回ったことはありますか? それだけの鋭さです。さっさと忘れてしまいたい記憶ですけれど。


 少し痒みが引いたのは、それから途方もない時間が経過した後です。

 ようやっと他のことを考える余裕ができた頃と言いましょうか。


 先ほどから邪魔なものが視覚の中央下に映ります。

 それを謎に思いつつふと自分の手を見てみますと、手が異様な形をしていることに気が付きました。爪も鋭く尖っていたのです。皮膚や毛並みも違う。顔に触れると形が違う。鼻や口が前に大きく突き出している。目下に映る邪魔者は、鼻と口だったのです。


 今でこそこの姿が「犬」という存在であることは明らかになっています。

 しかし、この当時そんなことは理解していません。伝説上のヒトと兎以外の生命を知りませんでしたから。


 どういうことなのか。

 全身を弄れば弄る程に脳裏に疑問符が浮かびます。

 冷静にならねば。焦っているときこそ冷静に。


 もしや……と私は考えます。

 昨日食べた人参です。あれには姿形が変わってしまう、悪魔のような効果が秘められていたのではないかと。一種の呪いではないかと思ったのです。今は呪いだなんて、そんな汚いものだと思っていませんが。


 そういえば、外が静かだ。

 この時ようやく外に意識が向いて、檻の外をついに見てみたのです。


 私は、追放されていました。

 遠くに見える黄色い丸。あれが月だと無意識に自覚できたのは、それまで暮らしていたからなのでしょうか。しかし何故か、ショックだとは感じませんでした。それどころか、月の存在を少し憎らしいと感じたのです。思い返してみても、いい思い出が無いからでしょうかね。


 幼いころに両親を亡くし、祖父母も既に他界済み。

 そんな中で一人残された私は仲間にも恵まれず、働かないことに因縁をつけられ、殴られ蹴られるといった暴力を日常的に振るわれていました。当然、働かないのではなく、働くための力がないだけにも関わらず。


 その過去が尾を引いて、族の兎関係はそれからずっとまともに良くはなりませんでした。

 成長し、働き始めてもどんくさいと罵られます。それに留まらず「今は良くても昔はダメだったからお前はダメだ」「八方美兎。いや、八方醜兎」「悪魔と関わった親の子」などという無数の暴論を浴びせられ続けられました。理不尽の連続であったと表現しましょうか。


 そんな楽しくもない日常ですから、私はそのうち刺激を求め始めました。

 どうせ嫌われるのならば、悪さをしていこうと。その方が楽な気持ちでいられると思ったのでしょう。


 嫌われる勇気を持ってからは気が楽でした。馬鹿にされ、罵られることには変わりありませんでしたからね。ただそこに「盗人」「畑荒らし」「変態」が加わった程度なのですから。


 しかしながら、これらの悪事を働いていた兎は私だけではありません。数えきれません。

 単なる軽犯罪群では収監されても直ぐに出て来れますし、その分何度でも繰り返せます。更生の余地などありません。それが己の生きている理由ですから。

 せめてずっと閉じ込めてくれれば、族としては気持ちも楽であったことでしょうに……。


 ……ああそうか。おそらく族長も、私を追い出す口実を探していたのでしょう。

 ヒト……悪魔と因縁のある「地球」をこの眼に焼き付けること。それは月兎にとって極悪非道の事柄であるとされていたのでしょう。

 兎が地球を視るということは、同じく悪魔が月を視る。すなわち見つめ合うことになるのですから。それが間接的なものであったとしても、許されることではなかったと。

 臭い物に蓋をするという考えもあったのかもしれませんね。知る由もありませんが。


 ええ。だからこそ月の裏側で生きてきたのでしょう。

 裏側であれば、決して地球を目にすることはないのです。逆に、地球の人間たちに見つめられることはありません。約束された範囲内で生きていたならば。絶対に。





 月から目を離すと、そこは大地でした。

 数多な生き物の声がする、緑の森。その中心に自分はいました。


 檻は消え去り、そこにあるのは我が身ひとつだけ。

 ただ、一つだけ。たった一つだけ、自分の良く知るものが頭上にありました。


 丸く黄色い、憎きそれ。

 考えるだけで無性に腹が立って、腹と喉がはち切れそうになります。なので、大声で吠えました。


 ……自分でも驚くほど大きく高い声です。そこに昔のような弱々しさはありません。

 私はもう、別の生き物である。その別の生き物としてこの大地を踏みしめるのだと再度実感した瞬間です。

 



 ――思い出話が過ぎました。

 今考えれば、あの日地球を視たことはの素敵です。こうして、あなたと出会えて幸せな暮らしが出来るようになったのですから。


 あなたが声を聞きつけ助けてくれた時、本当に嬉しかった。

 そして先ほど、お話を聞いてくれたこと。これにも感謝しなければいけませんね。

 月には、そういう過去があるのです。


 今日が新月でなくていいのです。満月でいいのです。私はあの日ついに、兎たちの嫌う「悪魔の視る側」になれたのです。新月に吠えるなんて、犬らしくないではありませんか。

 この地で貴方たち人間と共に居られること。とても幸福に思います。首輪のついた暮らしであろうと、それでも貴方が一緒なら、とても幸せなのです。


 ありがとう。これからも遠くに吠えましょう。あなたのために。

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