だったもの

 

 弟は二十四時になると裏山の森へ這入ってゆく。這入って、朝になると、ふらふらと家へ戻ってくる。その間の記憶はなく、疲労ばかりが残るらしい。いまではもう弟は、夜そのものを恐怖している。が、わたしの父と母は、弟の恐怖を癒そうとしない。わたしの嘆願を聞こうともしない。だからわたしが医者を探した。が、毎回原因不明で弟はまったくよくならない。いまは病院の中にいて、拘束され二週間が経つ。やつれきった弟はうわ言で裏山を求めている。なにもすることのできないわたしを、わたしは軽蔑するしかない。

 そんなある日。

「お力になれるやもしれません」

 わたしのもとを、男がふらりと訪ねてきた。まんまるのグラサンをかけた、のっぽでもじゃもじゃ頭の男だ。

「申し遅れました、わたくし―――」と差し出された名刺をみて、「催眠術師、ですか」わたしは尋ねる。

「いかにも」男が頷く。

 以下云々をおおよそで記す。

「弟さんの噂を聞いた」

「わたしは催眠により、お相手の記憶を任意で念写し、消すことができる」

「人間をトラウマや、心理影響から解放できる」

「あなたの弟さんはおそらく、過去になにかと出逢っている。だから裏山へ呼ばれてしまう」

「それを解決する」

「わたしには、それができる」

 たいへん胡散臭かった。が、弟の困りが原因不明、原因不明と云われる以上、一度くらいは正体不明のなんらかを頼るのもよいと思った。ので、わたしはこの謎の男に弟をみてもらうことにした。

 男はどこからか運んできたブラウン管テレビを置き、弟に目隠しをした。右手をテレビに添え、弟の耳元で二言三言、なにかを唱える。弟は「ほう」と息を吐き、二週間ぶりの眠りにつく。わたしはすこし安心する。

「ではいまから、記憶をみます。あなたにもみてもらいますから、どうかよろしくお願いしますね」

「はい」わたしは頷いた。

 男の左手が、ゆっくりと弟の額に触れた。

 テレビが映った。

「これが」

「そうです」男が頷く。

 映し出された弟の記憶には色がなく、白黒だった。その中でなぜかわたしにだけハッキリと色がついている。それだけ兄であるわたしのことを慕ってくれているのだろうか、などと思いしんみりするが、記憶が過去に遡るにつれ、その発想は間違いと判る。次第にわたしの色がなくなり、弟の風景に色が戻る。最初は気のせいだと思ったが、確かにそうなっている。

「そろそろみえると思います」

 気づけば弟の記憶はほとんど色を取り戻し、いちばんはじめに弟とわたしが裏山へ行ったときの光景に近付いているのがわかった。そこに原因があるのだろう。わたしは一層テレビをみた。弟は裏山で虫取りをしていた。とても楽しそうだった。蝉がじいじい鳴いていた。そうした帰路、すっかり夕焼けた裏山の中で、突然、誰かの声がした。

「―――――に、――――いいかな。」

 聞き覚えのある声だったが、ノイズが邪魔で聞き取れない。けれど何事か云っている。背後から弟を呼んでいる。

「なあに」弟が答える。

 振り返る。

「みるな」

 わたしは叫んだ。

「きみのなかに、はいっていいかな。」

 が、弟はそれを見た。

「いいかな」

 あやふやななにかだった。

「いいよ」弟は云った。

 途端、あやふやだったなにかは、

「さあ帰ろう」

 わたしになった。

 色のないわたしに。

 愕然とした。

「どういうことです」わたしは問う。

「あなたは兄ではないのです」一息つき、男が云った。「あなたは人間ではなかった。この子の兄でもなかった。この子ははあなたの弟でもなかった。まったくの別物だったのです。無関係だったのです。山で遊んでいたこの子の中にただ気まぐれに這入りこんだ、色も姿もなかったなにか。それがあなたの正体です」

「そんなばかな」

「そりゃあ信じられませんよね。あなたお兄さまですものね。でも、そうじゃないんです。あなたはなんでもなかったんです」

「わたしは、わたしはこの子を、この子を治したくて。だからいろいろの病院に」

「それはこの子の両親です。それを都合よく改変して自分の手柄にしているのです。おかしいと思いませんでしたか。どれだけあなたが頼み込んでも見向きもしない両親のことを。けれどそれは当然のことです。だってあなたはこの子にしかみえない存在だったんですから」

 男が続ける。

「あなたは裏山のなにかだった。ほんとうならば生じたけれどすぐに消えるはずだったなにか。けれど、この子がいた。話しかけ、居場所を得た。だからこの子は裏山へゆく。あなたに一部をあげたから」

「わたしは、わたしはどうすれば」

「戻るんですね。裏山に」男は云う。「いますぐ戻って、消えるまでじっとしているんです。それがこの子を救う術です。救いたいと思うならば」

 そうしてわたしは裏山にいる。

 あの男がわたしに対し忠告してから、どのくらい時間が過ぎただろう。いまが何月何日なのか、もうわたしには判らない。記憶も思い出も、どんどんと薄れてきている。「男の言葉が嘘だったら」「わたしが催眠に掛けられていたら」―――そのような事柄が何度も過った。弟へ会いに行こうと思った。が、わたしが裏山へ這入って以来、弟はここへ来ていない。ということはつまり、よくなったのだ。わたしのことを忘却して、すっかり元気になったのだ。だからわたしはいつか消える。なんでもないなにか。無に。

「よかった」

 わたしは噛みしめる。

 兄でいられるうちに、何度も。

 

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