第二章

第1話 森にて


 少し前に私たちは自己紹介をし合った。

 こちらがレイラ・レナータと名乗ると、青年はルーク・アジュールと返す。

 今ごろ互いの名前を知るだなんて遅いにもほどがあるけれど、最初は彼と関わる気なんてなかったので、仕方がない。


「それにしても暑いわ」


 真っ青な空から降り注ぐ日光はエネルギッシュだ。飢えはしないけれど、のどは渇く。いつか力尽きてしまうのではないかと、じりじりとしたあせりが心に広がる。


「そちらはどうして余裕なのよ」

「言ったろ? 普通の人間とは違うって」

「だからなんなの? その言い方、曖昧あいまいすぎてよく分からないのよ」


 口では文句を言いつつも、内心では青年の発した言葉の意味は理解していた。

 要するに、彼は非凡であると言っているのよね。

 普通は炎天下では汗をかくけれど、ルークは涼しげな顔をしている。不公平だわ。神さまが贔屓ひいきをしているに違いない。

 文句を言いたくなるけれど、ぐっとこらえて無言で歩く。


 瑞々みずみずしい色をした草はなんの役に立たないくせに、イキイキと伸びている。こじんまりと咲いている花は鮮やかな色をしていて、目を惹かれた。いままで灰色の大地しか見たことのなかった私にとっては、とても新鮮だった。


 そうしてだらだらと歩き続けて、何時間。前方にはちょうど森が見えてきた。

 足を踏み入れる。森の中は太陽の光がさえぎられるのか、みょうに涼しい。暗くさえあって、ひんやりとした雰囲気がただよっている。歩くたびに湿った土の感触が靴越しに伝わり、あたりからは葉っぱの爽やかな香りが鼻孔をかすめた。


「多分、前に言ったとは思うんだけど、念のためにさ」

「なに? もっと単刀直入に切り出して」


 少しだけ首を傾けつつ、ルークをにらむような目で見上げる。


「俺、方向音痴なんだ」

「ああ……」


 一気にテンションが下がっていく。


「つまり、迷ったといいたいわけ?」

「実はそうなんだよ。知ってて勝手に進もうとしたんだけどさ。いやー、まいったまいった」

「バカじゃないの?」


 もう、カンカンよ。

 腰に両手を当てて、しかめっ面をする。


「そんなん言ったら、全部丸投げしたお前だって悪いじゃねぇか」

「他人任せにしたからバチがあたったって言いたいだけ? 生憎あいにくと、私もこの世界の地理は分からないわ。騎士さまなら地図くらいは持ってるんじゃないかって踏んで、任せただけよ」

「期待するな。俺は地図があっても迷う自信がある」

「そんな、胸を張って言わないでよ」


 本当にがっかりだわ。

 頭を抱えたくなってしまう。


「俺だってな、この森くれぇは攻略できるかなーって、な」

「このバカ。身のほど知らずにもほどがあるわ。そうやって何度も失敗を重ねてきたんでしょ? 私には分かるんだから」


 バカバカ言いすぎて、自分がバカになりそうだ。

 そもそも、バカってなんだっけ? 

 頭の悪い人のことをさすんだっけ? 

 頭がこんがらがってきたわ。


「失敗は重ねてなんぼなんだよ」

「できるだけ失敗を避けるのが基本でしょうが。取り返しのつかなくなってからじゃ、遅いのよ」

「アホか。危険だろうがなんだろうが、一度は挑戦するべきなんだよ。言うだろ? 『やって後悔より、やらなくて後悔するほうがいい』って」

「逆!」


 正確には、『やらなくて後悔よりも、やって後悔すべき』みたいな言葉じゃなかったかしら。気に食わない格言よね。『逆』と叫んだことで、結果的に彼の意見を肯定した風になったけれど、私は認めないわ。


「私はね、とにかく後悔したくないのよ。失敗して傷つきたくないの。分かる?」

「ああ、分かる分かる」

「本当に分かってる?」


 ヘラヘラとしているけれど、今の状況は理解しているのかしら。


「だいたいね――」

「なるほど、正反対か。面白い」


 突然、低い声が森の奥から響いて、急に喧騒けんそうが静まる。

 とっさに口を閉じて、あたりを見渡す。

 いまいち相手の正体がつかめずにいる中、声の主はのっそりとこちらへ向かってきた。


「だが、わしは挑戦者魂のあるほうを応援しよう。なんせ、うちの女王がその気質なものでな」


 大きな足音だ。

 大地を揺らして、森を震撼させようかというほどの迫力に、体がすくむ。

 小鳥たちも若葉のざわめきと一緒に飛び立って、高い鳴き声をさらしながら逃げていく。

 こちらは逃げられない。張り詰めた空気の中、やけに鮮明になった視界に、けものの影が入り込む。

 人間と同等かそれ以上の大きさはあろう巨体は、徐々じょじょににこちらへ迫る。


「イノシシだ……」


 影の正体を見て、気の抜けた声が自然に漏れた。

 明らかに森の主を連想させる風格がある。こちらからすると大きな山が動いているようにも見えた。

 木漏れ日が止む。あたりが暗くなる。急にひやりと背筋が凍りつく。皮には鳥肌が立つ。獣のとがった瞳がやけにギラギラとした輝きを放っていた。

 息が詰まりそうだ。時が止まったかのように停滞して張り詰めた空気の中、状況は頑なに動かない。

 いよいよ余裕がなくなってきたところで、かすみ色にくもりつつ在る視界に、一本の腕が横たわる。

 パッと目を見開く。

 見上げると、純白の防具を身に着けた青年が真剣な目で、前方の獣を見えていた。

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