椿が枯れたら(9)

 それは今から三百年前、歴史でいうなら江戸時代。季節は夏。今の暦(こよみ)で八月ごろだ。まだ六歳で幼かったあたしは村の子供たちとともに大人の漁を手伝いに行っていた。当時から八百は漁業が盛んで、とれた魚介類を京の朝廷に献上していた。

 仕事が終わると村の子供たちと一緒に海に遊びに行く。あの日も同じだった。

 あたしは当時から好奇心旺盛だった。当時は迷信も多く海には化物が出るとか、夜になるとあの世から怨霊(おんりょう)が現れて連れ去られるとか言われたが、あたしには関係ない。


「はよ、みんな来て!」

「チカーっ! 待ってくれよ!」


 あたしは子供たちの何メートルも先を走っていた。とにかく、海で遊びたかった。

 当時も今と変わらず海は太陽に照らされて白く輝き、山は深緑を反射させる。村には友人もいるし、家族もいる。明るくて温かなひと時がそこにはあった。見るものすべてが素晴らしかった。


 海に到着した。砂浜は当然人の手がほとんど加えられていない、まさに自然そのもの。あたしたちは男女問わず海に飛び込んで遊んでいた。羞恥心とか、そんなの全く関係ない。

 だけど、その日は何か違っていた。


「あ、なんか打ち上げられてるよ」


 友人の女の子が海を指さしている。目を細めてみると海と砂浜の境目に魚の腹部のようなものが、鱗を太陽の光に反射し、銀色に美しく煌めいている。だが、はたから見るそれは不気味だった。


「なんだろ……行ってみようぜ!」

「おう!」


 竿(さお)や銛(もり)を持った男の子たちが走り出す。あたしたちも後を追った。

 魚のような “何か” の傍までくると、先行していた男の子は突っ立って、身体を震わせていた。


「どうしたの?」

「こ、こ、こ……れ……」


 あたしが顔をのぞかせると男の子は血の気が引いていた。唇は紫になり、痙攣(けいれん)するように震えている。額から汗がじわりと流れる。それは、夏の暑さによるものではない。

 男の子が震える指先を向けた先、波間から “何か” が全貌をあらわにした。

 魚の腹部とまるで人の顔の様な頭部。口は左右に大きく裂け、上下に歯がむき出しになっている。目は爛々と光り、まるで獲物を狙う狼のようだった。

 不気味に笑う “化物” がそこにいた。

 あたしは言葉を失い、立ち尽くすだけだった。だけど、


ドサッ


 何かが倒れた物音に、あたしは現実に引き戻された。

 男の子が数人、倒れていた。ある子は悶えながら砂浜をひっかき、ある子は倒れたてビクビクと体を痙攣(けいれん)させていた。あとから来た女の子も苦しみながら座り込んでいる。


――た、す、け、て……

――ううう……


 声も今にも枯れそうで、消えていく。

 急速に何かが抜けていくように体が動かなくなっていく。


「ど、どうしたの、みんな!?」


 あたしは突然の場面に狼狽(ろうばい)してうろたえるが、声は届かなかった。一緒に来ていた子供たちはすでにぐったりしていて、息をしている者はいなかった。


 あたしは呆然と立ち尽くすだけだった。目の前で起こった光景が信じられなかった。

 我に返ると、徐々に今の状況が整理されてきた。


 目の前で倒れる子供たち、波に揺れる不気味な “何か” 。

 心の奥底から得体のしれない何かが湧き上がり、あたしの心を根底から揺さぶる。恐怖が、心からじわりと体全体を覆う。


 みんな……なんで……死んじゃったの……?

 ねえ、どうして……どうすればいいの?


 視界が真っ暗になる。


 いやあああああああああああああああああああっ!!!!!


***


 何を考えていたか、わからない。あたしは暴れ続けていたが、駆けつけた役人に取り押さえられていた。

 気が付くとあたしは暗い石造りの部屋に閉じ込められていた。あたしの前には村の役人たちが蝋燭(ろうそく)を持って立っていた。

 身長が二メートルを超える筋肉質の大男があたしを見下すように眺める。


「チカ、本当にお前がやったのかい」

「あたし……何も」

「嘘をついちゃだめだ。あの状況、どうやってもお前がやったとしか見えんだろう」


 あたしの周囲で死んでいた子供たち。そして、海に顔を向けた人魚。あたしは何もやっていない。しかし、大人たちはあたしが子供を殺したように見えていたらしい。


「人魚が……浜辺にいて、それを見て……」

「あれのことだね」


 大男は部屋の隅にかけてある風呂敷に目をやった。あそこに人魚が寝かされているという。


「確かに人魚だね。でも、人魚なんてこの世にいるわけがない。つまり、何者かが妖術か何かで出したとしか考えられない。その罪人は……チカ、お前じゃないのか?」


 大男の声音が押し上げる感情で刀のようにあたしを突き刺した。


「答えろ! 人魚を呼び出したのはお前だろ!!」


 胸ぐらを掴まれ、簡単にあたしの身体は浮き上がった。締め付けが強まり、息苦しくなる。苦悶の汗が滲み出る。


 ごめんなさい! ごめんなさい!


 心の中で必死に叫ぶ。


「ご……めんな…さい」


 声は漏れるだけだった。

 大男は物を投げるようにあたしを突き飛ばした。床に背中が打ち付けられ、鈍い痛みが全体に走った。痛みと同時に激しくむせる。


「何をしたかは知らんが、白状するんだな。殿様に突き出してやる。無事で済むと思うなよ」


 大男はぎっとあたしを睨むと、部屋の戸を閉めた。

 ガチャリ、と鍵がかかる音がした。


 あたしはすぐに戸を開けようとした、がびくともしない。

 叩いても、蹴っても、体当たりしても一ミリも動かなかった。


 あたしは一人、光が差し込まない暗室に閉じ込められた。絶望の暗闇に叩き落され、頭の先からつま先まで、やり場のない思いが暴れ回っていた。体は過熱し、思いは膨張し、爆発する。


 どうして……! どうして……!!


 あたしは頭を掻きむしり、転がり、壁を叩きまくった。声にならない声で絶叫した。

 だが、手足は硬い壁に阻まれ痛むだけだし、声は壁に反射されるだけ。


 誰も気づいてくれないし、助けに来てくれない――


 しばらくして、あたしは憔悴(しょうすい)しきってしまい、部屋の壁にもたれかかるように倒れた。目を開けると、ぼんやりと暗室の天井が見えてくる。石が敷き詰められた頑丈な天井。


 ああ……子供の自分の力じゃ壁や天井を壊せない。当たり前だが、残酷な現実があたしの前に突き付けられた。


 いったい、どうすればいいのよ……。


 暴れまくってエネルギーを使い切ったのか、お腹が空いてきた。そういえば昨日の昼から何も食べていない……。


 ふと、視界に盛り上がった風呂敷が入る。この時あたしは判断力が鈍っていただろう。


「あれは確か人魚が……」


 独り言を漏らし、風呂敷を取り払うとあの不気味な人魚が姿を見せた。

 あたしは思わず息を呑んだ。

 これを見てみんなは死んでしまったが、あたしは大丈夫だった。役人たちはいつ戻ってくるかわからない。

 今は飢えをしのぐほかない。

 異物を食べるのに強い抵抗があった。だけどあたしは目を閉じて心を落ち着け、生きるためには仕方ないと言い聞かせた。


 意を決してあたしは人魚をかじった。

 生臭い匂いと何とも言えない嫌な味がする肉があたしの口腔に充満した。体が拒絶反応を起こす。今すぐ吐き出したいが、あたしは喉に力を込めて、肉を胃に流し込んだ。早く解放されたいという叶わぬ願望が脳を支配することもあるが、それでも肉をかじり、胃に送っていった。


***


 すべて食べきったときには半日近く経過していた。朝日が戸の隙間から差しこんできている。

 あたしは口元についていた肉を着物の袖で拭った。


 不思議と力が湧いてくるのか、身体がほっと温かくなっていく。今なら何でもできそうな気がした。


 あたしは戸口に向かいあった。今ならこの戸を突き飛ばせる気がする。右足を前に出し、あたしは渾身の力で戸に体当たりした。

 大きな音を立てて、戸口は外れる。それどころか戸に大きな穴ができていた。


 出られた……!

 思わず安堵の息が肺から吐き出された。

 だが……。


「な、なぜ外に出てるんだ!?」


 入口に人影が見える。巡回に来た役人で、昨日あたしを締め上げた男だった。


「中に戻れ!」


 役人が走ってくる。帯刀しており、今にも引き抜こうとしている。

 自分より一回りも二回りも大きな男が迫りくる。あたしに猶予は残されていない。今なら、この男にも勝てるかもしれない。


「戻れって言ってるだろ」


 決意を固めると、あたしは走り出した。


「なにっ!」


 大男は驚いたのか、声を発する。

 しかしあたしは男の懐めがけて突進する。

 男は反射的に刀を引き抜く。

 あたしは男に思いっきり体当たりした。


「ぐはっ」


 現代の基準で、十秒はかからなかっただろう。


 大男は腹に強い衝撃を受け、何かを吐き出した。しかし、あたしも腹部に斬られたような衝撃と痛みが走った。

 だけど、あたしは構わずに走った。とにかく、光のあるほうへ。


***


 牢獄から脱出すると、激痛が走るお腹を押さえながら、あたしは茂みに隠れた。

 お腹を押さえていた手を離すと、両手が真っ赤になっていた。そして、腹部を横一直線に真っ赤な鮮血がどっと流れていた。

 一瞬ショックでめまいがした、しかしその直後。


 まるで動画を逆再生するかのように、傷口が塞いでいく。着物は真っ赤になっているが、痛みもひいていく。


 うそ……まさか、さっき食べた人魚のおかげ?


 しかし、不思議に思っている時間はない。大男が牢屋から出てきたのだ。


――おい!! 出てきやがれ!! どこにいるんだ!!


 こんなところにいるわけにはいかない。あたしはすぐに逃げ出した。


 しかし、直後大男は役人や村人たちに報告したようであたしは追われる身となった。子供を殺し、脱獄までしたあたしは犯罪者だ(前者は冤罪(えんざい))。捕まれば間違いなく死罪は免れない。

 槍や銛を持った役人や村人が追いかけてくる。弓や石が背後から飛んでくる。短刀を投げてくる者もいる。しかし、それらが当たったところで関係ない。傷はすぐに癒えるからだ。

 あたしは山の奥に逃げた。そして、自分の故郷から姿を消した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る