だんだん変人を見る目で見られているような気がした。

 交通事故から退院してから、早一週間経った。わたしはお母さんと一緒に病院に検査に行ったけれど、特に悪いところは見つからなかった。

 打撲でできた青あざも、一週間経ってからは薄くなってきて、あとちょっとで完全に消えてくれると思う。それにほっとした。

 もうそろそろ夏服になるからだ。足だったらロングソックスで誤魔化せるけれど、腕はなかなか誤魔化しが効かない。ガーゼで留めるのにも限度がある。

 でも、相変わらず事故の前後のことは思い出せなかった。学校の授業で忘れたら困ることがあるかなと思ったけれど、特に抜けや漏れもないし、わたしが入院して授業を受けていないこと以外は、特に授業の内容で飛んでいる部分もなかった。

 先生に触診されたり質問を受けたりしたけれど、やっぱりなにもなかったことに、わたしはほっとする。


「ええ、泉ちゃんはもう大丈夫ですね」

「そうですか」


 お母さんは心底ほっとした顔をしたあと、お金のことを話するからと、わたしは診察室を出された。

 待合席の硬めのソファーに座ってみると、アルコールや独特の薬の匂いがするので、思わず顔をしかめる。三日ほどこの匂いの中で入院していたはずだけれど、相変わらずこの匂いに慣れることはなかった。


「大丈夫だったか?」


 ふいに声をかけられて、わたしはビクッと肩を跳ねさせる。

 思わずキョロキョロすると、診察待ちらしいおばあちゃんと目が合い、にっこりと笑われる……変な子がはしゃいでいると思われた……と会釈しながら思い、わたしは小さな声で隣に声をかける。


「レンくん……だよね? どうしてここにいるの?」

「え? お前が病院に行くって聞いたから」


 ちょっと待って。わたしが病院に行くことなんて、沙羅ちゃんや絵美ちゃんくらいにしか言ってない。どうしてわたしが診察受けること知ってたんだろう……。

 わたしは怪訝な顔でビクビクと隣を見る。相変わらず誰もいない中で、ソファーにひとり分の空白がある。


「そんなに怖がるなって。色々あるんだよ、色々と」

「ん……でも」

「そんなことより、お前のほうは大丈夫だったのか? ほら、体。どこも後遺症とかはなかったんだよな?」


 話を強引にすり替えられたような気がするけれど、レンくんの声はいつも明るく人懐っこい色をしているのに、今のは真剣そうだった。だから多分心配してくれているんだと思う。ちゃんと答えないと。そう切り替えて、わたしは素直に結果を報告する。


「本当に、なんにもなかったよ。心配してくれてありがとう」

「そっか……あー、よかった」


 そう言ってレンくんは声に明るさを滲ませるので、わたしはほっとする。

 見えない彼は、どうにもわたしのことを心配してくれていたみたいだから。そう思ったとき、ふいに向かいに座っていたおばあちゃんと目が合った。さっききょろきょろしたときに目が合ったおばあちゃんとは別の人だ。やっぱりにっこりと笑われてしまった。

 思わず周りをぐるっと見回していて、気が付く。こちらのほうをときどきちらちらと見ている人がいるということに。

 腕を組んで新聞を読んでいるけれど、ときどき新聞越しにこちらを見ているおじさん。小さい子はあからさまにこっちを見てくるのに、お母さんは「お姉ちゃんのほうをじっと見ないのよ」と注意されている。

 ……もしかしなくっても、こちらを見て変な子扱いされているんじゃ。途端にわたしは顔を赤くして、立ち上がろうとするのに、レンくんは怪訝な声を上げる。


「おばさん待ってるんだろ? 大丈夫か?」

「こ、ここにずっと座ってたら、わたし変人扱いされるから……」

「ふーん?」


 レンくんは少しだけ間延びした声を上げたものの、あっさりと言う。


「他の奴らにどう思われようと、別によくないか?」

「レ、レンくんはともかく、わたしは気にするの」

「別に他人がどうこう言ってもおんなじだろ」

「違うよ」


 見えないレンくんだったらいざ知らず、見えるわたしがひとりでぶつぶつしゃべっていたら、やっぱり変な子に思われる。無視してしまえばいいのに、ついつい返事をしてしまう自分が憎らしい。

 恥ずかしい子扱いされて、いいわけなんか全然ないのに。

 レンくんは一瞬黙ったものの、やっぱり口を開く。また単純なことを言われちゃうんだろうかと思って身構えていたら、意外なことを言われてしまった。


「ん、ごめんな。間宮が嫌がってるのにしゃべりかけてさ」

「え……」


 明るい声がしゅんとした声に変わってしまい、途端にうろたえる。


「ごめん。俺の自己満足だっていうのはわかってるけどさ、どうしても」

「ちょっと待って、どうしてレンくんが謝るの?」


 そんな声で謝られてしまったら、まるでこっちが悪者になってしまったみたいだから厄介だ。

 たしかに、見えない相手に色々話しかけられて、ついつい答えてしまうわたしが悪い。でも見えないレンくんに八つ当たってしまってもどうしようもない話だ。

 レンくんは「中途半端に立ってるんだったら、もう一度座り直せば?」と言うけれど、わたしは首を振った。


「ううん、わたしトイレ行く……は、入ってこないでね」

「ばっ……入る訳ないだろ!?」


 わたしはレンくんが悲鳴みたいな声を上げるのを耳にしながら、本当にトイレに向かった。

 特に催しているわけでもないので、ただ洗面所に入って手を洗うだけで留めた。


「はあ……」


 この一週間、レンくんにあれこれと声をかけられてしまった。

 図書委員の当番のときには、ときどき本の話をされ、学校でも人がいないときにぱっと声をかけられる。

 最初は人の目を気にして、できるだけ声をかけないように、そう努めていたはずなのに、気付いたらレンくんの言葉に返事してしまっている迂闊な自分がいる。

 でも……不思議なことに、わたしのプライベート空間では話しかけられたことが一度もなかったんだ。わたしの家とか、お風呂とか、寝るときとか。

 だから、病院で待合室にいるときに話しかけられるなんて思ってもいなかったから、テンパって変なことを言ってしまったような気がする。

 レンくんはちっとも悪くないと思うんだけれど……。いや、そもそも彼が幽霊なのか透明人間なのかなんなのか、ちっともわからないことのほうが問題なんだ。

 そもそも。彼はどうしてわたしのことを知っているんだろう。最初からわたしのことを「間宮」と呼んでいるし、わたしが交通事故で病院に運ばれたことを知っているみたいだった。

 知り合いで事故に遭った人なんていないし、病気で亡くなった人なんていないはずなんだけれど……。

 そこまで考えて、わたしは「ん?」と気付いた。

 わたしは、何故か交通事故に遭ったときの前後の記憶が抜け落ちているのだ。おまけに一日眠っていた。

 ……その間に、亡くなった人がいたんだとしたら?

 そう考えて、小刻みに震えが出てくる。わたしと一緒に事故に巻き込まれた人が、レンくんだとしたら?

 わたしは濡れた手をハンドタオルで吹きながら、意を決して待合席に戻る。

 もし、レンくんがわたしにくっついてきている理由が、交通事故のせいだとしたら。あまりにも申し訳がない。


「あの、レンくん?」


 きょろきょろと辺りを見回す。やっぱり見えない。

 周りの生温かい視線が恥ずかしい。でも、わたしだとレンくんがどこにいるのかわからないんだ。テレパシーでなんでもわかるわけでもないから、彼としゃべらない限り意思疎通なんてできない。


「ん、トイレ終わったか?」

「そう、いうのは、いいから……!」


 レンくんはわたしがさっきまで座っていたソファーにいるらしかった。わたしは恐る恐る彼の隣のソファーに腰をかけると、頭を下げる。


「なに?」


 レンくんがきょとんとした声を上げる。


「ご、ごめんなさい」

「なにが?」

「えっと、わたし。交通事故に遭ったときの記憶が、全然なくって……今でも思い出せてないから……」


 上手く言葉にできないし、どう考えてもわたしを励ましてくれているひとを悪霊呼ばわりもしたくなかった。

 でも、どうにかたくさん読んだ本の語彙を駆使して、言葉を絞り出す。


「レンくんがどうして死んだのか、全然わからなくって……本当にごめんなさい……わたしが生き残っちゃって……」

「間宮」


 途端に「ブフッ」とくぐもった声が聞こえた。え、なに……? もしかしなくっても、噴き出されたの?

 レンくんはこらえきれなかったように、声を上げて笑い出してしまった。きっと見えていたらお腹を抱えて足だってバタバタさせて笑っていただろう。

 それに、わたしは思わずポカンとする。

 ええっと……違ったの?


「あの、違ったの……かな。レンくんの正体」

「ぜんっぜん違う! 間宮ー、お前本っ当に想像力豊かだなあ、本読んでるとそうなるのかなあ……ああ、腹痛い……!」


 レンくんが声を出してなおも笑うのに、今度はわたしのほうが戸惑ってしまう。

 これは、交通事故で死んだ幽霊じゃないってことで、いいんだよね? そのことにほっとしたと言うべきか、じゃあレンくんの正体ってなにと言うべきか。

 ようやく笑い声は治まり、声のトーンを落として、レンくんは「まあ」と声を上げる。


「そこまで気にすんなって。むしろ俺、間宮にうっとうしがられてもしょうがないと思ってたから、謝られるとは全然思わなかったんだけどなあ」


 あ、変にお節介だなあという自覚はあったんだ。

 わたしが目をパチパチとさせていたら、レンくんは「だから」と続ける。


「間宮が俺のこと、思ってるより嫌わないでくれたことのほうが嬉しい」


 そのしみじみとした口調で、わたしは思わず固まってしまった。

 よくわからないけれど。レンくんが優しいとは思っている。でも、むしろわたしはどうしてレンくんに優しくされているのかのほうが、わからないのに。

 わたしはただの本好きで、特に取り柄がなくって、地味で目立たず生きている。見えない男の子がわざわざ気にかけてくれる理由が、全く思いつかない。

 見えないけれど、それが厄介だと思っているだけで、嫌ってなんかいないのに。


****


 病院の一件があったせいか、気付いたら学校でもふたりっきりじゃないときにもレンくんは話しかけてくるようになった。

 授業中には話しかけてこないけれど、移動授業になった途端にレンくんが声をかけてくるんだ。


「間宮、絵はどこまで描けたんだ?」

「ひゃっ!?」


 またも、廊下を歩いているタイミングで声をかけられ、わたしは素っ頓狂な声を上げてしまった。

 もっと慣れればいいのに、本当にレンくんがどこにいるのかわからないし、足音だって聞こえない。気配だって感じないから、いつどんなタイミングで話しかけられるのかがわからず、すぐに悲鳴を上げてしまう癖が抜けきらない。

 おまけに。わたしが奇声を上げるのが、だんだん沙羅ちゃんや絵美ちゃんにも見られるようになってきたのだ。おまけに滝くんにもなにかと話しかけられるようになったものだから、滝くんのファンの子たちにも自然と目撃される訳で。

 これでもっと冷たい目で見られるんだったら、もっと強くレンくんに「やめて」と言えるのに、何故か周りの視線は生ぬるいんだ。別にマゾヒストじゃないから冷たくされても嬉しくないけれど、こんな目で見られる謂れがないから、ますます変人扱いされているんじゃあと肩を跳ねさせてしまう。

 次の移動授業は芸術。美術、書道、音楽の中からひとつ選んで受けるのだ。わたしは中学時代に美術の油絵の具を買ったから、それがもったいなくって美術を選んだ。沙羅ちゃんは小学校の頃から使っている書道セットを捨てるのがもったいないから書道、絵美ちゃんは教科書代だけで残りは小学校、中学校からのリコーダーが使えるからという理由で音楽だ。

 レンくんがてくてく美術室まで歩くわたしに聞いてくるので、わたしはどう答えたものかと迷う。

 今描いている絵は、静止画。皆でリンゴと瓶をモチーフに据えて、それを写生していたのだ。


「どこまでって言われても……絵って人によって違うでしょう?」

「そっかそっか。今日って品評会じゃなかったっけ?」

「あー……」


 完成していてもしていなくても、個展を開くくらいに熱心な美術の先生は、皆でそれぞれの絵を見ようと言って、一旦キャンバスから離れて絵を見ないといけない。

 絵が上手い子だったらともかく、ただ絵を描くのが好きなだけのわたしには、荷が重い。

 でも、レンはどうしてそんなことを知っているんだろう?


「どうして知ってるの?」

「内緒」

「ずるい! レンくんはわたしのこと色々知っているみたいだけど、わたしは全然あなたのこと知らないんだから」


 思わずそう言うと、レンくんは「あはは」と笑う。笑うところなんてちっともないのに。


「まあ美術室でおいおい」


 そう言ってまだ笑い声を上げているのが癪だった。

 なにより一番癪だったのは、彼がわたしに話しかけてくるのにいちいち驚いている癖に、それがすっかりと馴染んで当たり前になってしまっている今の自分だ。


****


 美術室に入ると、油絵の具とテレピン油の匂いがつんと鼻に刺さる。

 先生はそれぞれを机に座らせると、「それじゃあ、残り三十分を切ったところで、皆の絵をそれぞれ見て回るので、今日は二十分で仕上げなさい」と声を上げたら、一部からは「えー」という非難の声、一部からは「えー!!」という悲鳴が上がり、それぞれの席について絵を描きはじめる。

 わたしはいつもの調子でペタペタとパレットの絵の具をテレピン油で溶いて、キャンバスに色を乗せていたところで、隣のキャンバスには誰も座っていないことに気付いた。

 美術室全体が窓を開けていてもなお、油絵の具特有の匂いが抜けきらないけれど。キャンバスが乾いていたら、匂いなんて微々たるもののはずなのに、隣のキャンバスからもつんと油の匂いがする。

 どうして? わたしは何度も目を凝らしたけれど、それはわからなかった。


「こら間宮。よそ見してないで絵に集中しなさい」

「あ、ごめんなさい」


 一瞬だけわたしに視線が集中したのに縮こまっていたら、くすりと笑い声が聞こえたような気がして、わたしは思わず耳をそばだててしまった。さすがに授業中にきょろきょろとするような真似は、挙動不審が過ぎてできない。

 今の笑い声は、レンくんのものだったような気がする。

 筆を動かしてどうにか色を乗せる。それを見て、先生は苦笑してわたしの絵に口を挟む。


「間宮は色が淡すぎるなあ。油絵の具なのに、これじゃ水彩みたいだ。絵の具を溶き過ぎだ」

「ええっと……すみません」

「もうちょっと油絵の具を溶かずに、キャンバスで色をつくるんじゃなくって、色を乗せることを考えて塗ってみなさい」

「あ、はい」


 わたしの絵は、どうにも薄すぎてぼんやりとしているように見える。

 自分だと濃く塗っているつもりなのに、どうもはっきりとしない。わたしはそれに首を傾げている間に、時間が来た。


「時計回りに見て行って。感想があったら伝えてあげなさい」


 先生の合図の元で、皆の絵をそれぞれと眺めていく。

 わたしみたいに画材のよさを生かし切れずに水彩みたいに色が薄くなってしまっている絵もあれば、いかにも油絵という感じでべったりと絵の具を塗って、それを何度も何度も塗りながらタオルや雑巾で拭ったせいで、不思議な色合いになってしまっている絵もある。

 そして。わたしは自分の右隣の絵に差し掛かったとき、思わず目をぱちぱちとさせてしまった。

 リンゴと瓶を並べてそこに光と影を書き込むシンプルな構図をシンプルなままに描いている。本当に教科書通りの無難な塗り方で、上手くも下手でもないんだけど。問題はそこじゃない。

 瓶の光の中に、うっすらと白い絵の具で字が描いてあったのだ。瓶の光を表現したと言ってしまえばすぐに見落としてしまうような文字。


【Ren】


 筆記体で書き流しているその文字で、わたしは皆で絵を見ていた列に振り返ってしまう。

 隣のキャンバスはたしかに空いていたはずなのに。でも、レンくんの文字が入ってる。

 なんで、どうして……?


「間宮さん、次のテーブルに移動して、次の絵も見ていくよ」

「あ、はい! すみませんっ!」


 先生に促されて、それからも絵をぐるぐると眺めていたけれど、目は泳いでしまって、どうしても絵をゆっくり鑑賞している気分じゃなくなってしまっていた。

 レンくんが、この教室にいる。

 今までどうして気付かなかったのかわからなかったというくらいに、衝撃的だった。

 わたしには見えないのに。いるの?

 でもどうして誰もなにも言わないの? わたしが変なの?

 頭の中でぐるぐるといろんなものが渦巻いて、授業が終わるころには力が抜けてしまった。

 いつもよりも重く感じる油彩セットをぶら下げて、すごすごと教室に戻る。体が妙に重く感じるのは、衝撃が強過ぎたのかもしれない。


「間宮、大丈夫か?」


 そうレンくんに声をかけられて、わたしは力なく頷く。


「うん、大丈夫」

「元気ないみたいだけど、また体が痛いとか?」

「……ううん、体は全然痛くない」


 記憶喪失……病院では体にはなんの不具合もなかったからと見過ごされていたことだ。

 わたしはもしかして、交通事故の前後のことだけじゃなくって、なにか忘れてしまっているんじゃ。レンくんが見えないのは何故なのかは、それじゃ説明できない気がするけれど。


「あの、レンくんは……いるんだよね?」

「ん? いるよ。俺は、ここにいる」

「……見えないから、ときどきわからなくなる。声だけは聞こえてるのに」


 見ているものが正しいのかが、あやふやになる。たしかに人としゃべっているし、言葉の受け答えもできているのに。

 わたしが頼りないことを言うと、レンくんはやんわりと口を出した。


「あんまり抱え込むなって。ちゃんといるから」

「……どうしてわたしに声をかけたの」

「ん、じゃあ間宮は俺が声をかけなかったほうがよかった?」


 そう言われてしまうと、黙ってしまう。

 レンくんとしゃべっていても、楽しいから全然嫌じゃない。ひとりでしゃべってて変に見えるんじゃと思うこともあるけれど、何故か生ぬるい視線で見られることはあっても、誰も変なものを見る目で見てこない。

 もしレンくんが黙ってしまったら……わたしはレンくんを見つけられない。そのままいないものとして扱ってしまうと考えたら……それはひどく寂しいことだと思った。


「本当に……嫌じゃないんだよ? 嫌じゃない」

「そっか。あー、よかった」


 そう嬉しそうに噛みしめて言われてしまうと、本当に彼を責めることなんてできない。

 レンくんは何者なのかも教えてくれないし、卑怯だとついつい当たってしまいたくなるけれど、何故か嫌になりきれないんだ。


****


 その日は天気が悪く、お昼を過ぎた頃から空が群青色になってきたと思ったら、下校時刻になった途端に土砂降りになってしまった。


「……最悪」


 わたしは傘立てを見て呆然としてしまった。持ってきていた傘を誰かに取られてしまったのだ。お気に入りだったのに。

 絵美ちゃんは「傘入ってく?」と言ってくれたけれど、わたしは首を振る。絵美ちゃん家とわたしの家はちょうど真逆だから。仕方がなくわたしは「購買部にビニール傘まだ残ってるかどうか見に行ってくるよ!」と言って、急いで購買部へと踵を返した。

 廊下は雨で濡れて滑りやすくなっている。気を付けないとすぐに滑って転んでしまうと、わたしは足早に歩いていたとき。


「……川くん、誰にでも優しいって、それって誰に対しても冷たいってことと一緒だよ?」


 購買部のある廊下の近くの階下で、見慣れた長い髪が、誰かとしゃべっているのが見えた。

 あれは、沙羅ちゃん?

 沙羅ちゃんは今日は掃除当番で先に帰ってと言っていたのに。わたしは思わず足を止めて、階段の後ろに回る。

 沙羅ちゃんが誰としゃべっているのかは、わたしには見えなかった。普段は穏やかな沙羅ちゃんが、明らかにチクチクとした棘を出しているのが不思議だ。

 ……なにをそんなに怒っているんだろう?


「責任を感じてるんだったら、期待させるようなことを言っちゃ駄目だよ……私も、泉ちゃんとおんなじだから、わかるもの」


 わたしの名前が出てきたのに、思わず肩がヒュンとなる。誰? 沙羅ちゃん。誰としゃべってるの?

 どうにか耳をそばだてて聞こうとしていたけれど、それは中断に追い込まれてしまった。

 階段から一年生の子たちが走っていて、階段から滑り落ちてしまったのだ。そのまま尻餅着いたのにびっくりして、沙羅ちゃんは避けてしまった。


「あの……大丈夫?」

「すみません! 大丈夫です!!」


 沙羅ちゃんが思わず手を差し出したけれど、慌てて立ち去ってしまう一年生たちの後ろから、わたしもゆっくりと階段を降りて行ったとき、沙羅ちゃんはびっくりしたように目を見開いてしまった。


「泉ちゃん? まだ帰ってなかったんだ」

「傘を盗られちゃったから、購買部まで買いに来たの。沙羅ちゃんは? 掃除終わった?」

「……うん、さっきゴミ出しが終わったから、鞄取りに行ったら帰るつもり」

「誰か、いたの?」


 わたしが聞くと、沙羅ちゃんは廊下のほうをちらっと見た。

 さっきはしゃいで尻餅ついた一年生たちが、購買部で元気に傘を買っているのが見える。でも、沙羅ちゃんがしゃべっていた相手がいたのかまでは確認が取れない。

 わたしの視線に気付いたのか、沙羅ちゃんはゆっくりと首を振った。


「……ううん、なんでもない」

「そう、なの?」


 なにか聞いちゃ駄目なことだったんだろうか。普段、沙羅ちゃんは男の子とあんまり話せない。身長をからかわれたことがあるせいで、苦手視しているからだ。滝くんみたいに沙羅ちゃんより高い男子だったらまだ大丈夫なんだけれど。

「くん」付けで呼んでいたってことは、沙羅ちゃんがしゃべっていたのは男子だと思うけれど、どういうことなんだろう。

 わたしの疑問はよそに、沙羅ちゃんはわたしの背中を押した。


「それより、早く傘を買っちゃおうよ。この雨で傘なしは、結構大変だと思うから」

「うん……」


 風もだんだん強くなってきたし、購買部の傘が売り切れてしまったらシャレにならない。わたしの疑問はひとまず喉に引っ込めて、傘を買うことだけを考えることにした。


****


 水溜まりを避けて歩きたくても、雨が激しすぎて避けている暇もない。仕方がないから水溜まりをパシャンパシャンと踏みながら歩きはじめた。

 絵美ちゃんと別れて、わたしは沙羅ちゃんと並んで歩いていた。


「これだったら、本屋に行けないなあ……」

「私が貸した本、泉ちゃん全部読み終わっちゃったもんねえ」

「うん、どれも面白かった」


 他愛ない会話を繰り返しながらも、考えてしまうのは今日起こった不思議なこと、いろいろ。

 わたしは最近皆に笑われているような、とか。絵にレンくんの名前が入っていたこと、とか。

 話したくっても、そんなこと話されちゃったら沙羅ちゃんだって困っちゃうよねと、ついつい当たり障りのない話題になってしまう。


「あのさ」

「あのね」


 思わずわたしは沙羅ちゃんと顔を見合わせた。沙羅ちゃんはいつものように困ったように眉を下げる。


「泉ちゃんからどうぞ」

「いや、わたしは大したことがないから……沙羅ちゃんからどうぞ」

「じゃあ、言うね。泉ちゃん、最近学校楽しい?」


 突拍子もないことを聞かれてしまい、わたしは思わずまごついた。


「普通……かなあ?」

「そう? 最近泉ちゃんが楽しそうだから。入院して心配してたけど、すぐ普段通りになって、ほっとしてるんだ」

「そう……?」


 違うよ、退院してから、ずっと見えない男の子と話をしているだけだよ。

 そう思ったけれど、言い出したらただでさえ最近周りから変人扱いされてしまっているのに、余計に変人扱いされてしまうと、口をつぐんでしまう。

 わたしの挙動不審さはさておいて、沙羅ちゃんは傘でポンと肩を叩いて笑う。


「……うん、私は泉ちゃんが幸せだったら、それでいいなあ」

「沙羅ちゃん?」


 あまりにしみじみとした口調で言われてしまったので、わたしはどう反応すればいいのかがわからなかった。

 だって、まるでわたしが入院したことが不幸だったようなことを言うから。わたし、入院するまでそんなに不幸だった覚えがないんだけど……それとも。単純にわたしがその不幸だったことを覚えていないだけなの?

 聞いてしまいたいような、聞いたら藪蛇になってしまうような。

 結局意気地のないわたしは、聞き出すこともできずに、手を振って沙羅ちゃんと別れた。

 ひとりの家路を歩きながら、わたしはぼんやりと傘を激しく叩きつける雨音を耳にしながら、思い返す。

 普通の学校。普通の教室。地味で普通のわたしは、学校でも普通で目立たない女子だった……と、思う。図書館が好きで、前も図書委員だったからという理由で図書委員に指名されて。

 ……たしかにパッとしないけれど、これのどこが不幸なのかがわからない。いや、思い出せない。


「わたし、そんなに大事なことを忘れてるのかなあ……」


 記憶喪失だと言われてはいるけれど、不都合なことを忘れてしまっている自覚がなかったら、ただ事故に遭っただけなんだ。

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