幽霊が彼氏面してくるような気がした。

 ギブスを外してもらって、検査を行ったけれど、やっぱり異常は見つからなかった。打撲で青あざはできてしまっていたけれど、これくらいだったら一週間くらいで消えると先生が教えてくれた。

 その間、わたしはずっとそわそわしているのに、お母さんは怪訝な顔でこちらを見てくる。


「どうしたの、泉? さっきからずっときょろきょろして。明日から学校行ける?」

「行ける……けど、うん」


 まさか言えない。見えない男の子に取りつかれているのかもしれない、なんて。

 今はレンくんの声は聞こえない。でもレンくんのことは声以外でいるのかいないのかわからないから、黙り込まれてしまったら、もうどこにいるのかなんてわたしにはわからない。

 だから注意深くあちこちに耳を澄ませてみるけれど、あの独特の高めな男の子の声が耳に入ることはなかった。

 わたしがそわそわきょろきょろしているのを、お母さんは溜息つきつつ言った。


「まだ体のこととか色々気になるなら、学校休んでもいいのよ?」

「行けるよ! 本当に大丈夫だから!」

「そーう? なら、別にいいんだけどね」


 久しぶりのTシャツにジーンズの普段着に着替えて、病院を出る頃になったら、すっかりと夕方になってしまっていた。

 レンくんの声は聞こえなかったけれど、どこかで見ているのかもしれないと思ったら気が気じゃなかったけれど、もう声は聞こえないから大丈夫かなと、そう思い込むことにした。

 四日ぶりの家に戻ってくると、四日ぶりにスマホを返してもらったので、早速確認する。

 メッセージアプリを起動させたら、わたしの退院祝いがあれこれと入っていたので、ひとつひとつに返信していく。

 あと図書委員の先輩に、入院していたことと、当番休んでごめんなさいのメッセージを入れたら、すぐに返信が来た。


【間宮さん大丈夫? 無理してるならしばらく休んでもいいよ?】


 先輩にまで心配されちゃったなあと、わたしは首を捻る。

 トラックに跳ねられても、打撲以外はピンピンしているのに。お母さんや泉ちゃん、絵美ちゃんにまで心配かけちゃって、無断で当番休んだのに先輩にまで気を遣わせちゃって。周りが過保護なくらいに心配してくれるんだから申し訳ない。

 わたしはそれに【大丈夫です。今週は休まなくってもいけます】と返信してから、鞄に明日の授業の教科書とノートを詰め込む。

 皆が心配するようなことなんて、なにもないのになあと、そう思いながら。


****


 その日は天気もよくって、まだ夏服の季節じゃないのに、冬服だとちょっと汗ばむくらいに太陽がまぶしい。

 わたしはいつもよりも早めに起きて、いそいそと学校に向かった。たった三日間車いす生活だっただけなのに、ギブスのはまっていた足からは筋肉がなくなっちゃったみたいで、いつもよりも歩くのに苦労したけれど、どうにか辿り着けてほっとした。

 グラウンドのほうを見れば、もうサッカー部が朝練をしているのが目に入る。朝だから本格的な練習はまだできないらしく、準備体操と走り込みだけだけれど、サッカー部の人たちがゴールポストまでダッシュで走る練習をしているのはわかる。

 近くのベンチにはマネージャーとコーチらしい男性。そしてネットの近くにはわらわらと女の子たちが立って見守っている。

 うちの学校は、今年のサッカー部は強いらしくって、夏の大会への出場権が決まっているとか、プロリーグから声がかかった選手がいるとかで、ちょっと盛り上がっているみたいだ。文化系のわたしにはあんまりわからない世界だけれど、なんかすごいんだなあと思いながら、それを遠巻きに眺めている。

 ちらっとネットのほうを見ると、一生懸命カメラで写真を撮りながらメモの走り書きをしている絵美ちゃんと、グラウンドをうっとりと見ている沙羅ちゃんが目に入った。

 絵美ちゃんは新聞部だから、大会前のサッカー部の取材だろう。あの子は新聞記事をコンクールにも提出しているから、その作品づくりも兼ねているのかもしれない。

 沙羅ちゃんはというと……サッカー部の花形ストライカーのたきくんを見に来ているんだと思う。沙羅ちゃんは滝くんのファンだから。

 うちのクラスの滝くんは、身長も高くって、スポーツ刈りも似合っている。おまけに顔はちょっとしたアイドルよりも整っているものだから、サッカーに全然興味ない子でも顔を一度見に来るくらいだ。まあ、あんまり一部の女子がライブ会場みたいに叫んでうるさくて集中できないってことでトラブルになったこともあるから、朝の基礎練以外は他の場所に練習に行ってしまっているし、サッカー部関係者以外は立入禁止になってしまったから、朝練以外は練習するのを見ることもできなくなってしまったけれど。

 わたしはサッカー部の練習をぼんやりと眺めているところで、ようやく沙羅ちゃんがネットの向こうから視線を移して、こちらに手を振ってきた。


「おはよう、泉ちゃん。体調はもう大丈夫?」

「おはよう。うん、もう大丈夫」

「おっはよー。サッカー部も最近はいろいろ情報規制で大変だからねえ。せっかくコンクールで賞獲れそうなネタが揃ってるのに、なかなか記事書けなくって大変だわ」


 絵美ちゃんはそう言いながら、笑ってカメラをネット越しに向ける。

 シャッターの光もサッカー部がうっとうしがらないようにと、なかなか使えないみたいだから、こちらはこちらで苦労しているみたい。

 やがてグラウンドで基礎練をしていたサッカー部がコーチに呼ばれてなにやら集合しはじめた。そろそろ朝練も終わりで、解散するんだろう。

 わたしたちも邪魔にならないように、そろそろ帰らないとなあ。既にネット越しで見物していた子たちも捌けはじめたのを感じながら、わたしも教室に向かおうとしたとき。


「間宮!」


 声がかけられたのに、わたしは思わずビクン、と肩を跳ねさせる。

 わたしが思わず固まったのに、沙羅ちゃんと絵美ちゃんがきょとんとした顔をこちらに向けてくる。


「泉ちゃん?」

「どしたの、急に固まって」

「えっと……あの、ね」


 わたしは口をパクパクさせる。ふたりとも、さっきの声に関してなんの反応も示していない。

 今まで、声をかけられたのは一対一のときだったから、こんな人前でしゃべったこともなく、わたしの顔は火照ったり血の気が引いたりを繰り返す。

 仕方なく、わたしは軋んだ音を立てる体を無理矢理動かして、回れ右をする。


「さ、先。教室に行くね……」

「ええ? うん」


 絵美ちゃんは生返事をし、沙羅ちゃんは気を遣わし気に「大丈夫? 一緒に教室に行く?」と尋ねるけれど、沙羅ちゃんはもうちょっと滝くんを見てたいだろうから、それは申し訳ない。わたしはブンブンと首を振る。


「大丈夫……だよ」

「そう?」


 ふたりが心配しているのがわかるので、わたしは必死に笑顔をつくると、足早にグラウンドから遠ざかる。

 玄関で靴を履き替えてると「そんな無視すんなって」と声をかけられる。

 やっぱり、レンくんだ。

 まだ予鈴が鳴るには時間があるけれど、玄関は人通りが多い中で声をかけられても、どう返事をすればいいのかわからない。そもそも見えない彼に返事をしていたら、変だって思われてしまう。わたしは早歩きでできるだけ人気の少ない道を選んで歩くけれど、レンくんは「待てってば」と声をかけてくる。

 ようやく移動授業以外だと使わない階にまで差し掛かってから、わたしはようやく振り返った。


「あの、わたし……皆の前で話しかけられると、困るから……」

「ええ? そんなに困ることか?」

「変だって、思われちゃう!」

「んー……そっか、間宮は俺が見えないんだもんなあ。でも別にいいじゃん。変だって思わせといても」

「あなたはいいかもしれないけど、わたしが困るから……」


 レンくんは苦情を言っても、ひょいひょいと避けてしまうし、わたしが嫌がっているということがどうにも伝わっていないような気がする。

 わたしも、なにがどう嫌とか、言わないと駄目なんだけれど……見えないレンくんだとわからないような気がする。

 レンくんは「んー」と間延びした声を上げると、やがて息を吐き出す。


「そこまで変って思われること、嫌がることか?」

「嫌がるよ……だって、わかんないことって、変だって思うもの……」

「そっかー、それは全然思ったことがなかったわ。うん、ごめん」


 拍子抜けするほどあっさりとした謝罪に、わたしはますます目をパチパチさせてしまう。


「あのう……」

「でもさ、他人って変って思うほども、人のことなんて気にしないと思うけど。俺もぜーんぜんわかんねえし」

「そう、かもしれないけれど……」


 ずいぶんと自信満々な人だ。見えないのに自信にあふれるってどういうことなんだろうと、矛盾しているような、してないような。

 わたしは思わずむずむずしてしまっていると、レンくんは「それじゃ!」と声を上げる。


「それじゃ、またな!」

「え、またって……」

「またあとで!」


 それだけ言い残して、レンくんの声は聞こえなくなってしまった。

 なんなんだろう……わたしは思わずヘナヘナと階段に座り込んでしまった。

 幽霊にしては、ずいぶんと湿っぽくないし。透明人間にしては、ずいぶんと自信満々だし。いったいレンくんってなんなんだろう。なによりも見えない人からは、こちらから声をかけることだってできないし、口を開いてくれないといるのかいないのかだってわからない。

 ……もしかしなくっても、わたしたちのよくわかんない関係のイニシアチブは、レンくんにあるんじゃあ。

 そう考えたら、どうしたら正解なのかがわからなかった。

 無視する? 黙っておく? そう楽なほうに考えてみるけれど、それも申し訳ない気がする。


****


 授業がはじまってからも、わたしは落ち着かずに先生が黒板に板書している音を聞きながら、耳を澄ませていた。

 いきなりレンくんに話しかけられたらどうしよう。いきなりおかしなこと言われたらどうしよう。もし周りに変な顔をされてしまったら、一体どんな誤魔化し方をしたらいいんだろう。ドキドキしていたけれど、特にそんなことはなかった。

 むしろわたしが挙動不審にあちこち視線をさまよわせているのに、先生が怪訝な顔で「もしかして間宮、具合が悪いのを我慢しているんじゃないのか?」と言われる。スカートから出ている脚にはばっちり青あざが浮かんでしまっていて、一部はみっともないからガーゼを貼って隠しているけれど、点々とした青あざは隠しきることもできずに見えている。

 沙羅ちゃんは心配そうな顔で、絵美ちゃんは先生と同じく怪訝そうな顔でこちらを見てくるのにいたたまれなくなったわたしは、小さく「はい……」と答えた。

 先生はぐるっと周りを見回し「なら、保健室に行ってきなさい。保健委員、ついていってあげなさい……」と言ったけれど、それより先にわたしは「い、いいです……!」と言って、慌てて教室を出て行った。

 教室を出て、誰もいないガランとした廊下を、わたしはとぼとぼと歩く。

 まさか言えないもんね、幽霊の声が気になり過ぎて、授業に集中できないなんて。皆にも変な顔で見られちゃったし、これはもう具合が悪いからという理由をゴリ押ししてしまったほうがいいような気がする。

 そう思いながら歩いていたら「間宮」と声をかけられたのに、わたしはビクン、と肩を跳ねさせた。

 廊下には足音は聞こえない。今はわたし以外廊下にはいない。でも、たしかにレンくんの声が聞こえたんだ。


「あ、のう……」

「大丈夫か? 青い顔してるけど。後遺症とか、そういうのではないんだよなあ?」

「ち、ちがうよ……! 本当に、体はどこにも問題がないの。ただ」


 レンくんはいったい、どんな顔でわたしを見ているんだろうと思った。

 呆れているのかもしれない、困っているのかもしれない。面倒臭いって思われているのかもしれない……見えないから、全然わからないんだけれど。

 面倒臭いなと自覚しながら、わたしはおずおずと口を開いた。


「……レンくんが、いきなり話しかけてきたらどうしようと、思って、そわそわしてた……」

「はっ」


 いきなり噴き出した息に、わたしはビクンと再び肩を跳ねさせる。

 途端に、前に聞いたような笑い声が響いて、わたしはますますいたたまれなくなり、縮こまる。


「あ、あの……わたし、そんなに笑われるようなことを、言った覚えは……」

「ははははは……ああ、ごめんごめん。別にお前を笑ったんじゃないんだ……」


 どうにか笑いをこらえようとしているみたいだけれど、全然こらえきれていない。

 わたしは真面目に困っているのに。わたしは思わずむっつりと唇を尖らせると、レンくんは「ごめんごめん」と言いながら、言葉を続ける。


「別に授業の邪魔はしないから安心しろって。それに、下手にちょっかいはかけないから、それも安心しろって。なっ?」

「で、でも……今は……」


 それだったら、どうしてそのまま放っておいてくれなかったんだろう。わたしにいきなり声をかけてくるんだろう。見えないのに。そう自分勝手な言葉が頭の中でくるくると回るわたしは意地が悪い。

 わたしが自己嫌悪で落ち込みそうになったけれど、レンくんはあっさりと言ってのける。


「今は、間宮が本当に顔色悪いから、保健室までは一緒に行ってやるから。そこで先生に休ませてもらえって。なっ?」

「う、うん……ありがとう……」


 わたしはようやく、保健室への道を再び歩きはじめる。

 保健室の先生はわたしの顔を見ると、すぐに顔色を変えて「あとのことはちゃんとやっておくから、一時間寝ちゃいなさい!」とベッドをひとつ用意してくれた。

 なんで皆、事故から戻った途端に、過保護になったんだろう。わたし、そこまでひどい顔をしてたのかな。

 この数日見慣れてしまった真っ白なカーテンに真っ白なベッド。それに思わず顔をしかめながら、わたしは「レンくん?」と小さく声をかける。

 返事は返ってこなかったし、あちらから声をかけてくることもなかった。

 ……なんでこんなに勝手なんだろう。自分勝手なことを思いながら、わたしはもぞもぞとベッドに横たわって、布団を引き上げる。

 でも。たった三日入院していただけで、ふくらはぎはぷにぷにになっていて、はっきり言って体力が戻っていない。学校に着くまでに体力を削ってしまったのも問題だったのかも。それで授業受けただけですぐに疲れてしまったのかもしれないと考え直す。

 自分だと全然気付かなかっただけで、レンくんが心配してくれたのは本当なのかもしれないと、そう思うことにした。

 わたしは見えないのに、どうしてこんなに優しくしてくれるのかは、全然わからないけれど。


****


 それから次の授業は普通に受けられた。

 三時間目は体育だったから、皆が体育を受けているのを端に座って見ていたけれど。

 女子はバスケットボールで、男子は外でサッカーをやっている。

 何組かに分けてバスケット勝負を行っているけれど、ゴールネットが足りなくって順番待ちしているグループは、わたしと一緒にときどき外の男子を応援したり、女子のグループを応援したりしていた。うちのクラスにも滝くん含めてサッカー部員が何人かいるから、滝くんが入っているチームがサッカーをはじめた途端に、黄色い声援が飛ぶ。これじゃサッカーの観戦というよりも、アイドルのライブだ。

 沙羅ちゃんも絵美ちゃんも特に運動神経がよくないから、運動部の子たちにボールをパスして、どうにかゴールの近くにいて、走ってくる子の邪魔をするにとどまっていた。沙羅ちゃんは身長があるから、誰もいなかったらボールをネットにまで入れるのは楽なんだけれど、走りながら入れることは全然できないんだ。

 わたしはそれを眺めながら、体育館の戸にもたれて体育座りをしていたら。戸の隙間から勢いを付けてボールが入ってきた。わたしは慌てて戸から立ち上がって避けると、サッカーボールが床でいい音を立ててリバウンドしていた。

 どうもサッカーに熱が入り過ぎて、男子のボールが体育館まで飛んできてしまったらしい。

 当然ながら、運動部の子たちが「こら、男子! 危ない!!」と怒鳴りながらボールを拾うと、男子のほうからボールを取りに来た。

 来たのは滝くんだ。本当に顔が整っているけれど、取っつきにくい雰囲気が原因で、ほとんどしゃべったことがない。沙羅ちゃんは滝くんのことを気にしているのは知っているけれど、彼としゃべったことがあるのかどうかまでは、わたしも知らない。

 彼とまともにしゃべれるのは、運動部の子だけじゃないかな。彼は運動部の子に怒鳴られながら、しゅんとしてボールを受け取る。


「……すまん」

「サッカー部、危ないからこんなところまでボール飛ばすな!」

「悪かった。あ」


 滝くんは相変わらずの不愛想な表情のまま、逃げていたわたしのほうに視線を寄こしてきたのに、わたしは思わず肩を跳ねさせる。

 な、なに? 滝くんとは全然接点がなかったと思うんだけれど。

 わたしが勝手にビクビクしていたけれど、こちらのほうに軽く会釈してきた。


「間宮、すまん」

「ええっと……別に、大丈夫。です」

「そうか」


 滝くんはほっとしたように息を吐いてから、サッカーボールを抱えてグラウンドのほうに戻っていってしまった。

 そのままグラウンドで他の男子と合流してしゃべっているのが目に入る。

 わたしはポカンとしながら、彼の背中を見送る。

 ええっと……たしかに戸に座っていたのはわたしなんだけれど。滝くんが謝るようなことだったっけ。

 たしかにグラウンドからボール飛ばしてきたんだけれど。

 わたしは滝くんの意図がさっぱりと掴めないまま、スポーツ刈りの綺麗な髪を見届けていた。


****


 訳がわからないまま体育の見学も終わり、四時間目の授業を受けたら、ようやくお昼になった。

 食堂で食べようと思ったけれど、食堂を見て「むう……」と声を上げてしまった。

 三時間目と四時間目の間の休み時間中に、日替わり定食のチケットは完売してしまったらしい。今日の定食は唐揚げ定食だったから、運動部の子たちに全部買い占められてしまったようだ。

 すごく唐揚げが好きな訳じゃないけれど、一品ずつ買うよりも安かったのになあ……。仕方がなく、他に買えそうなチケットを見ると、焼きそばとか、カレーライスとか、一品料理だけれど大味過ぎるものばかりだった。ナポリタンとかオムライスとかあったらよかったのに、今日はないみたい。


「今日は外れだったねえ。どうする? 購買部でパン買いに行く?」


 沙羅ちゃんが気を遣ってそう言ってくれる。ちなみに部活のほうに顔を出すからと、絵美ちゃんはさっさと購買部でパンを買って部室のほうに引っ込んでしまった。

 わたしは「そうだねえ……」と諦めて食堂を出ようとしたとき。


「チケット、買えなかったのか?」


 意外なことに声をかけてきたのは、滝くんだった。滝くんの手には、日替わり定食のチケットが四枚。

 沙羅ちゃんは思わずわたしの背後に隠れようとするけれど、沙羅ちゃんはわたしより背が高いから隠れきれない。

 わたしは慌てて沙羅ちゃんに替わって口を開いた。


「うん。もうチケットがなかったから、パンを買いに行こうと思ってたんだけれど……」


 思わずちらちらチケットを見てしまうけれど、サッカー部の先輩たちに頼まれて買ったんだったら、滝くんも怒られてしまうだろう。

 なによりも、さっきから滝くんのファンの女の子たちがちらちらとこちらに視線を寄こしてくるので、気まずいから早く会話を切り上げたい。でも沙羅ちゃんは恥ずかしそうにわたしの後ろで身じろぎしているのを見ていたら、その場で会話を打ち切って逃げ出すのも酷だ。

 わたしがぐるぐると考え込んでいたら、滝くんはひょいとチケットを二枚取って差し出してきた。


「これ。買ってこいって言われたけど、先輩たち保護者会から差し入れ入ったからそっち食べるって」

「へえ……そうなんだ」

「余ってるのを売るのもどうかと思ったけど」

「い、ただきます!」


 わたしが答えるよりも先に、沙羅ちゃんがありがたそうに滝くんからチケットを受け取った。うん、よかったよね。沙羅ちゃんも。顔を真っ赤にしてチケットを受け取っている沙羅ちゃんを見ながら、わたしも「ありがとう、あとでお金返すね」と言いながらチケットを受け取って、唐揚げ定食をもらうことができた。

 席はどこもかしこも混雑していたせいで、必然的にわたしたちは開いていた大テーブルで並んで食べることになった。

 わたしは沙羅ちゃんに気を遣って滝くんの隣をあげようとしたけれど、沙羅ちゃんが照れ過ぎてわたしを盾にしてしまい、わたしが滝くんの隣に座ることになってしまった。いいのかな。

 さくっとした唐揚げのジューシーさと、レモンドレッシングのおいしいサラダを堪能していたら、滝くんは珍しく口を開いた。


「退院したばっかりだけれど、大丈夫か?」


 あんまりしゃべったことがないのに、場を繋ぐっていう発想があったのかと、ついつい失礼なことを思ってしまう。


「ええっと、大丈夫だよ。授業は沙羅ちゃんや絵美ちゃん……ええっと早水はやみさんや鮎川あゆかわさんにノート取らせてもらったし、わかんないことは教えてもらったから」

「そうか」


 そこでぶっつりと会話が途切れてしまう。

 不器用だなあ。わたしはそう感心しながらカップのコンソメスープをすすっていたら、沙羅ちゃんが気を遣って会話に入ってきた。


「サッカー部は、今日は昼練はなし? いつも外で食べてるから、サッカー部が食堂を使うのは珍しいよね」


 そうだ、サッカー部は外野に練習の邪魔されないようにって、外でバスに乗って練習に行っているから。昼休みもバスの中でお弁当を食べて、練習してから帰ってきているイメージがあった。

 沙羅ちゃんが振った話題がよかったのか、滝くんはさっきよりも会話が長い。


「今日はいつも練習しているグラウンドを中学校に貸してるから、今日は学校のグラウンドだけで基礎練だけ」

「そっか。大変だねえ。もうすぐ大会もあるのに」

「うちの学校は応援に来るのか?」


 チアリーディング部や吹奏楽部、応援団が応援に向かうのは、学校から依頼があった強い部活にだから、学校の指示がないとわかんないんだ。

 沙羅ちゃんはそれに笑顔をつくって小首を傾げる。


「うーん、まだわかんないかな。サッカー部に応援に行きたいけどねえ」

「授業があるからな」


 そこは嘘でも冗談でもいいから、「応援してくれ」って言えばいいのに。部活やってたら公休扱いになるけれど、学校さぼって応援に行ったら当然公休にはならないんだ。

 わたしはふたりの会話にぐぬぬ、となりながら、ご飯を全部よそってしまっていたら、滝くんはちらっと隣を見る。わたしの席じゃない。滝くんの隣だ。

 今はわたしたちが食べている列は混雑してしまっていて、全部埋まってしまっている。それどころか食堂はほとんど食べる席がなくなってしまっている。でも、ちょうど滝くんの隣の席は空いていた。

 ひとつだけ空いてたら、ひとりだけで食べに行くのも気まずいせいか、ここの席が埋まらないのかな。いくら格好いい滝くんの隣とはいっても、今日みたいな食べる場所がないってときじゃなかったら、わたしだって座ることができないし、ファンの子たちに目を付けられたくないもんなあ。

 そう勝手に納得しながら、どうにか定食を食べ終えたら、滝くんはわたしたちよりもいち早く食べ終えて、お盆を手に取った。


「本当になにかあったら言えよ」

「えっ? うん……ありがとう……?」


 それだけ言うと、滝くんはそのままお盆を返しに行ってしまった。わたしはそれを呆気に取られた顔で見ていた。

 沙羅ちゃんは目を細めながら、滝くんを見送っている。

 ……まずい、わたしは別に滝くんに対して気が全くないのに、沙羅ちゃんが嫉妬するようなことはないのに。


「ええっと、沙羅ちゃん。滝くんはわたしが入院していたから心配していただけだと思うよ?」


 そもそも今まで接点がなかったのに、今日だけいろいろしゃべりかけられてしまって、困惑しているのはこっちなんだから。

 滝くんを気にしている沙羅ちゃんに誤解されたら困ると、どうにかフォローを入れようとすると、沙羅ちゃんは「うん、わかってる」と言いながら、笑ってコンソメスープを飲み干す。沙羅ちゃんも既に定食の器は空っぽだ。


「滝くん、優しいから。不器用だなあと思ったの……本当に、馬鹿なんだから」


 チクンとした棘が入るのに、わたしは恐々と「沙羅ちゃん?」と尋ねる。

 普段は穏やかな性格なのに、女の子特有の棘を見せてくるのは珍しい。普段から滝くんに対してポォーとした顔で見ている彼女が、滝くんの悪口を言うとは考えにくいけど、これって誰に対しての言葉なのか。

 わたしが声を上げたのに、沙羅ちゃんはぱっとこちらを振り返ってぶんぶんと手を振る。


「ち、ちがうのよ!? 本当に泉ちゃんにも滝くんにも怒ってないから!」

「本当?」

「本当だよ! そんなことじゃ怒らないから!」


 そう必死で訴えるんだから、多分そうなんだと思うけれど。

 わたしはわからんないままに、ふたりで並んでお盆を返しに行くことにした。


****


 午後の授業が終わってから、わたしは図書館へと向かう。図書委員で週に二回、図書館の貸し出し返却当番を務めているんだ。

 うちの学校の図書館は、とにかく本が充実している。文豪って呼ばれる人の本だけじゃなく、最近の娯楽小説に随筆、中には学校の先生が借りに来るような専門書まであるんだから、最初は図書館の本を返す番号を覚えるのにも四苦八苦したもんだ。

 わたしが入院していたことを先輩越しに知っていた司書さんは気を遣わし気に「もう体大丈夫?」と聞いてくれたので、わたしは頷く。


「もう平気ですよ」

「具合が悪いようだったら、ちゃんと言ってね」


 そう言ってくれたのに会釈しながら、今日の仕事を見る。

 図書館の貸し出し申請返却申請以外にもやることは多い。返却された本を元の本棚に片付けたり、予約申請の入っている本を回収してきて予約棚に入れたりすることだって仕事だ。

 最近はマンガやゲームの効果か、やけに古い小説の予約申請が多いから、本の回転がやけに速い。わたしは予約の申請用紙を見ながら、「取ってきまーす」とカウンターに伝えて、本棚へと行った。

 図書館の閲覧席で読んでいる子もいれば、本屋と同じく立ち読みしている子もいる。一生懸命本を探している先生もいる。

 それらを横目に、わたしは目的の本棚に行って「うーん……」と唸る。

 目的の本は、はっきり言ってわたしの背だと届かない。台はないかなときょろきょろしていたら、既にそれを使って本を取ろうとしている人がいたから、諦めた。

 図書館でこういうのはちょっととは思うけれど。わたしはジャンプして取ろうとするけれど、指はどうにか背表紙を引っ掻くけれど、掴むことはできない。


「うう……」


 ちらっと台を使っていた人のほうを見る。

 台の順番待ちをしているけれど、台を使っていた人はそこで座って本を読みはじめてしまった……読書に集中してたら、次はいつ台から降りてくれるのかわかったもんじゃない。

 どうしよう。別の本を先にしようか。わたしがそう思っていたら。


「え? どの本が欲しいんだ?」


 そう背後から言われて、わたしは思わずビクッとして振り返った。当然ながら姿は見えなかった。

 わたしは隣で読書している人に気を遣いながら、声をすぼめる。


「レ、レンくん?」

「ええっと、森鴎外全集? うーんと。ああ、一番上のあれな」


 そう言ったと思ったら、「ほいっ」と声を上げた。気付いたらわたしの手元に目的の本の重みを感じ、思わず目を白黒とさせる。たしかに取ろうとしていた本だ。


「え……? え?」

「取ったけど、これじゃなかったか?」

「え? どうやって取ったの?」

「跳んで取ったけど?」


 見えないのに、幽霊なのに、いったいどうやって。どうして。疑問符が付きまとうけれど、お礼はちゃんと言わないと駄目だ。


「……ありがとう」

「いいっていいって」


 なんでこの人、ずっとわたしに付きまとっている割に、わたしにとって都合のいいことしかしないんだろう。

 そうぽつんと思ったけれど、ひとまず本を予約棚に立てることが先だと思って、考えるのを打ち止めた。

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