記憶の鍵 1

 和成の家は駅から歩くと少し遠い。渋谷駅からは東急東横線で数駅、そこから徒歩20分ほどのところにある。


 大学1年生のときは自転車を使って駅まで通っていたが、いつの間にか家の駐輪場から消えていた。

 当時、秋には肌寒くなり、1人暮らしとともにスタートした倹約宣言虚しくバスを利用してしまい、いつしか乗らなくなった。買い物に出かけるときにふと駐輪場を見たが、盗まれたのか、自分の部屋番号の場所は空っぽだった。

 いまごろ、海のむこうにでも売りに出されて新しい持ち主と出会えているだろうか。


 家の周りは日が落ちると人通りも少なくなり、見通しもよくない。古い平屋住宅もちらほらとあり、土地柄なのか不穏な空気が漂う。家探しや盗みを働く連中からすれば好都合の場所といえなくもない。


 和成の家、もとい住んでいるアパートは近所でも古株の一つだ。大家の物持ちいい性格が表れているのか知らないが、築40年にしてはきれいである。雨漏りや配管のつまりもなく、騒音などによるトラブルはほとんどないと聞く。


 それだけにまさか自分のものが盗まれると考えていなかった、というのが済んでみての感想だ。

 比較的安全だが、思わぬ表紙に不幸が訪れる、中途半端な事故物件。

 いつか来る退去日に何か言い残すことがあるかと言われたら、きっとそう言うだろう。


「やっぱり家まで送っていくよ、付き合わせたのは私だしねー」


 正直、和佳奈の申し出は和成にとってもありがたかった。


 家賃が安いからといういかにも貧乏人が考えそうな理由で入居を決めたアパートだ。

 ついこの間、新手の窃盗グループが目をつけているという噂を、同じアパートの主婦たちがひそひそと話していたのを聞いたことがある。自転車盗難被害にあって以来、和成も部屋の外の気配には注意するようになり、夜に出歩くのも控えるようになった。

 白状すれば、ただのビビりである。


 和佳奈の車に乗りアパートの前に着くと、外はすっかり暗く、まばらな街灯と車のヘッドライトだけが道しるべだった。

 まだ寝る時間には早いはずなのに、明かりが漏れる家はほとんどない。窃盗対策でシャッターを閉めているのだろう、おかげで辺り一帯の不気味さが増しているように感じた。


「じゃー私帰るからー、白ワンピースちゃんによろしくねー」


 和成がアパートの入り口に上がったところで、和佳奈はひらひらさせた手を引っ込め、塀の向こうに消えていった。いつもなら変な脅し文句でも言って怖がらせていきそうだが、案外あっさりと去っていった。


 また借りを作ってしまったかな、と和成は軽く挙げていた手を下げながら思った。これから来た道を帰るのはいくら車だからといえ、外出に慣れている和佳奈でも面倒なことだろう。

 彼女は貸しとは思っていないだろうが、和成も男である。夜の近所が怖いからという本音を漏らすつもりはないにしろ、押され気味だったにしろ、助けてもらって何も感じないほど朴念仁ではないのだ。


 少しだけ後ろ暗い気持ちで入り口に入りながらつぶやいた。


「今度カフェに行ったときには何かおごってやらないとな」

「それはありがたいですね、ぜひお願いします」

「うおっ!?」


 アパートの入り口をくぐったところで、不意に後ろから声がかかった。心臓が止まるかと思った。

 恐る恐る振り返ると、さっきまで和佳奈の車が停まっていたところに伶がたたずんでいる。以前と同じ白いワンピースと黒いスニーカーを履いた姿の少女が、さもずっとそこにいたかのような顔で和成を見つめていた。


「びっくりするなあ、急に出てくるのはやめてくれ」


 にじむ汗を握り、周りに人がいないか見回しながら和成は叫んだ。


「まあひどい、まるで幽霊にでも驚かされたような言い方ですね。か弱い乙女に向ける言葉として、それはどうかと思いますよ?」

「君がまさにそういわれてもいいような恰好をしているからじゃないか。今どきそんな真っ白いワンピースを着ている子なんてそうそういないよ。見る人が見たら井戸から這い出るあの人に思われてもおかしくない。それにか弱い乙女は不審がられるような服は着ない」

「あの人って貞子です?いいじゃないですか、好きですよ貞子さん。彼女も私も自分の好きな服を着ているんです。人の好きなものに難癖をつけて非難するのはやめてください、いい大人が情けないですよ」

「・・・」


 先ほど感じたばかりの情けない気持ちを見透かしたかのような口ぶりだった。

 無意識だろうが、この少女の言葉の端々に棘を感じずにはいられない。


 不思議な迫力のある瞳に見つめられ、反論の気を削がれた和成は肩を落とす。


「あまり大人を惨めな思いにさせる言葉を使わない方がいいと思うよ・・・」

「そんな言葉を使われないような大人になっていただければ、こちらとしても助かるんですが」

「・・・ご忠告どうも」


 話せば話すほど墓穴を掘っていく。いっそ穴を作って入りたい。これ以上は自分の恥をさらすだけだ。


「それでは改めて」


 哀れな和成をよそに、伶はワンピースの裾を摘まんで小さくお辞儀をした。


「こんばんは、和成さん。お話した通り、お邪魔させていただきました。お部屋に入ってもよろしいでしょうか」


 言い終えて和成を見つめる。

 手を前で重ね、慎ましく尋ねる姿は育ちの良さを感じさせた。


 そこに至ってふと思い出す。

 以前に会った時、何か新しい気づきがあったときにまたお話を聞かせてくださいと言って消えていった小さな背中。

 その姿が再び目の前に現れたのだ。


「まあ、外も暗いしな。こんな時間に帰ってくれと追い払うわけにもいかないだろう。仕方ない」

「ありがとうございます」


 これまた丁寧にお礼を言うと、和成の隣に並んできた。どこかうれしそうな顔に見える。

 外の暗さによって、彼女と通るアーケードの明かりがより際立って見えた。


 和成が鍵を取り出してドアを開ける。ところで、と伶が付け加えるように言った。


「先ほどの返し、仕方ないと言わなければ完璧でしたね。女性を招き入れるのであれば、堂々としているべきです」


 残念なものに向ける視線をちらとよこし、伶が先に部屋に入っていく。鋭い指摘に固まった和成は、そのまま外に取り残された。

「今さらそういわれてもな・・・」


 再びの棘に傷む胸をさすりながらドアノブに手をかけ、そういえば伶はいつからここに来ていたのだろうかと、小さな疑問を抱えて部屋に入った。


 +++


 部屋に戻って数分、和成は落ち着かなかった。


 自分でも部屋は整っている方だと思っている。

 定期的に掃除をし、毎朝起きたらすぐに換気をする。

 「俺の家めっちゃ汚えから」と、場を濁す学生の声を教室の後ろで聞いたときには、自分の部屋に来てみろといってやりたいくらいだった。


 これこそが規則正しく、世間に出しても恥ずかしくない男子学生たる部屋の在り方だ、と。


 しかしながら講義のあとに遊びに誘い、自宅に招き入れるほどの友人がいたかといわれると、そうでもない。

 友人を呼んで飲んで騒ぐような幼稚さも、遊びながら世間について語る学識も、和成にはなかった。

 それはつまり、自分以外の人間を家に入れたとき、果たしてどれくらいの清潔さを持って迎えればいいのかを、彼は知らないということと同義。

 和成は来客のもてなし方を知らなかった。


「家を出る前にもう一度掃除しておくべきだったかもしれないな・・・」

「そうですか?気にされるほど散らかっていませんよ。むしろ同年代の男性の中ではきれいにされている方だと感心します」


 お茶ありがとうございます、と一礼して伶はひと口啜る。

 とりあえず何か飲むものでもあればそれらしくなるかと、冷蔵庫の麦茶を注いでテーブルに置いた。

 普段は自分のパソコンやスマホが置かれているだけのローテーブル。

 彼の目の前には二人分のグラスと、一人の少女がちょこんと座っている。


 伶は糸で釣ってあるのではというほど背筋をピンと伸ばして座っている。

 顎を軽く引いている姿からは気品があふれ、育ちの良さが改めて見て取れる。牡丹というよりは大和撫子で例えた方が、まだこの少女にはふさわしいだろう。


「逆に言わせてもらうけど、君はもっと年相応の言葉遣いをした方がいいと思う」

「年相応、といいますと?」


 不思議そうに小首をかしげる。部屋の灯りにつやと光る濡れ羽色の黒髪が小さく揺れる。


「周りの子たちはもっとわちゃわちゃと話してるんじゃないのか。僕のイメージだけど、君くらいの子の会話って何を話しているかわからない感じがする」

「確かに、私も友達と話すことはありますが、ときどき話についていけないことがあります。みんな早口で喋ることが多いんですよね」

「見た目の印象だけど、君はまだ小学生だろ?僕が小学生のとき、君みたいに丁寧な言葉遣いの同級生はいなかったな」

「そうでしょうか。国語の時間に敬語については一通り習いました。相手を敬うために、語尾や単語そのものを使い分けるのは日本くらいだそうですね。外国には表面上見えづらい部分が見えている。とても大切で、素敵なことだと思いますよ」


 人差し指をたて、教壇に立つ教師のような抑揚で答える。


「自分の生まれた国の言葉を考えながら使うことは、コミュニケーションをする上で最も大切だと考えます。みんなの方がもっと勉強するべきなんです」

「教育に関して文句をつけるつもりはない。ただ君と話していると、見た目とのギャップが強くてどうも緊張するんだよ」

「ギャップだなんて、ちょっと恥ずかしいですね。そんなに魅力的に見えますか、私?」


 指を立てた手をそのまま頬に当て、少し首の角度を深めて照れる。首の角度に合わせて落ちる髪がゆらゆらと楽しそうに揺れる。


「大人っぽいなんて、なんだかこそばゆいです」

「いやむしろ大人びすぎていて、どう話したらいいかわからないんだ。言葉遣いが丁寧すぎて大人に見える高校生と思えばいいのか、それとも大人を夢見た高校生みたいな見た目の大人と思えばいいのか」

「む、それは失礼な発言ですね。あくまで一人の人間として接していただきたいです」


 胸に手を当て、鼻先をつんと上にあげながらはっきりと言い放つ。自分の態度に絶対の自信を持ったその姿は、それ以上の反論を許すまいと言っているようだ。


 女王の風格、とでもいうべき気位の高い姿勢。

 仕草のひとつひとつに子供にはない芯の強さを感じる彼女の姿に、内心やりづらいなと思いながらも、和成は割り切って考えることにした。


 少なくとも、同年代の女子と面と向かって話すときに感じる別種の緊張はないのが救いだ。


「わかった、君と接するときは今と同じように、一人の人間と話していると思って話そう。その方が思い切って話しやすい、お互いにとってもいいんじゃないか」

「ありがとうございます、そうしていただけると私も無駄な力が抜けるので」


 和成の返答に満足したのか、安堵の息とともにお辞儀をする伶。

 大学生でもこれだけしっかりした言葉遣いと返答をできる人はなかなかいない。


 最近の子供はませているのか、それともこれが案外普通なのかもしれない。


「あ、それと」

 ようやく場の空気に慣れてきた和成に、伶が茶碗を持ちながら付け加えた。


「私まだ高校生ではありません、中学3年生です。それでも大人と思って接してくださいね」

「いや、それは無理があるだろう」


 突然の告白への冷静なツッコミを無視して、伶はまたお茶をひと口啜る。

 とぼけたように視線を和成からそらすのもいっそすがすがしい。


 心にしまったばかりのやりづらさが再び顔を出し、和成はまた落ち着かなくなってしまった。

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わすれられもの 松竹梅 @matu_take_ume_

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