1-終 不要者たちの出発点

 勝利の酒宴も終わって、翌日の朝八時。ネストのポートアレア支部二階から上にある傭兵たちの宿泊区画の一室。隣のベッドで頭を抱えているトールを余所に、差し込んできた朝日に誘われ、窓を開け放った。飛び込んできたのは、まず暖かな春風と爽やかな潮風。そして、雲一つない晴天の空であり、差し込む朝日が体を温めていく。

 眼下には、昨晩の喜びと酒気に包まれていた市場が、昨日到着した時と同じ露天商や行きかう人々という本来の活気と風景に、すっかり戻っていた。船旅、人質救出作戦、初めての対人戦、初めての祝勝会と酒という、とてつもなく濃厚だった昨日が嘘のようである。

「あっくぁ……、なぁ、ダイン。お前、平気、なのか?」

「おはよう。ああ、俺は何ともないが……」

 急に差し込んだ朝日で起こされたトールは、上半身を起こしたものの、まだ頭を抱えており、顔色も少し悪かった。サイドチェストに置いておいた水を渡せば、おとなしく受け取り、ゆっくりと流し込んだ。

「ああ、おはよう……。そうみたいだな……。ああもう、俺もう、絶対、お前とは、勝負しない……」

 ラディスの背を見送った後のこと。カキョウは夜も遅いと女性の先輩傭兵に連れられ、先に宿泊区画へと上がっていたが、自分たちはまだやることがあると言われ、その場に留まっていた。すると、先ほどカキョウをナンパしていた男が酒樽を一つ抱えて現れ、酒の飲み比べ勝負を申し込まれた。トール曰く“新人への洗礼"というものらしく、ナンパ男に加え、トールと酒に強いと自称する先輩たちが次々と集まり、この夜最後の酒樽を開けた。

 結果は、泥酔や爆睡をし始める先輩たちを余所に、最後の最後まで酔うことのなかった自分が立っていた。葡萄酒はれっきとした酒であるにもかかわらず、それが喉をほんのり焼く程度のジュースに似た物という認識になるほど、自分が酒に対する耐性が恐ろしいぐらいに高かったことが判明したのだ。

 しかし、この頂点は勝利者にしては喜ばしいものではなく、待ち受けていたのは洗礼に参加しなかった先輩たちや支部長のジョージと共に、酔いつぶれた野郎どもの片づけだった。トールは酔いつぶれ組の一人であり、昨晩も自分が彼を抱えて二階まで上がった。

「……はぁ、少しマシになった。すまんな。あー、しかし、酒には自信があったんだけどなー」

 水をすべて飲み干したトールの顔色は、寝起きの時よりもマシになっており、現在はベッドの縁に座りなおしている。問題は虫の居所といったところか。

「まだ言うのか」

「言うさー! お前、酒初めてだったんだろ!? どうなってんだよ、お前の耐性!! ザルか! ワクか!! もぉ……お兄さんのプライド、バッキバキの粉々だ!」

「仕方ないだろ……俺もこんなに飲めるとは思わなかった」

 過去、何度か先に成人しているネヴィアの絡み酒に付き合わされそうになったのを回避し、昨晩は本当に初めての飲酒であった。酔ったネヴィアの姿や養父のグラフから酒にまつわる怖い話は聞いていたために、実に恐る恐る杯を進めていったが、はっきりとした意識の中、さらさらと入っていく飲み物は、噂に聞く魔物とは程遠いものと感じていた。トール曰く、酒樽から生まれた愛し子と呼べるほど、昨晩の飲みっぷりは異質だったらしい。

「まぁいい、酒がらみの任務もらったら、全部お前に回すからな!」

「うっ……」

 酔わないのだから、宴席での護衛なり潜入なりにはうってつけであり、まさに適材適所となる。あと、このサイペリア国でも十八歳未満の飲酒は禁止されているために、未成年のカキョウは除外となる。

(カキョウの酔った姿か……)

 成人して初めて飲んで帰ってきたネヴィアの、顔を真っ赤にして、全身の筋肉を弛緩させたベロンベロンの酔い姿を思い出しつつ、その姿をカキョウへと移せば、興味がないとは言わない。だが、やはり未成年の飲酒はどの国でも法律で禁じられており、強要は犯罪にあたるため、全力で守り抜こうと心に誓った。

 コンコンコン。

 ちょうど会話の切れ目に鳴ったノック音。この部屋を訪れる者はネスト関係の人間に限られているはずなので、特に警戒することもなく「どうぞ」と返した。

「よ。おはようさん。ほら、カキョウちゃん、勝者はピンピン、敗者はデロリンしてるだろ?」

「おはよう。失礼しまーす……うお! ほんとだ。えっと、朝ご飯持ってきたんだけど……食べれる?」

 開かれた扉からは、相変わらずガウンを着崩した支部長のジョージと、朝食らしきものを持つ元気そうなカキョウが姿を見せた。朝食は野菜やハムを挟んだパンとオレンジジュースのような黄色い飲み物といった、栄養バランスの良さに加えて、見た目も華やかな、胃をそそる軽食が並んでいる。

「俺はいただく。トールはどうする?」

「はっ、カキョウちゃんが持っていてくれた朝ごはんだぞ? 食べるに決まってるだろ」

「アタシもいい? 二人を待ってて、食べてないんだ」

「まじかよ。ダイン、そこの折り畳みテーブル出して」

「これか」

 ちょうど自分の後ろ、開け放った窓の左下には天板が半分に折れたテーブルと、その奥に簡素な折り畳み椅子が二脚立てかけられていた。定期船の船室と同じく、ベッドを二つと荷物を置くだけの最低限の広さを確保するために、移動可能な家具は折り畳み式にしてある。この部屋も純人族(ホミノス)用のベッドを窓に対して水平になるように二個並べただけで、足元側に一人分の通路が辛うじてできるぐらいの狭い部屋であり、船室よりもわずかに横広い程度だ。

 トールの指示に従い、折り畳みテーブルをベッドの間、足元側に置き、トールはベッドの縁に腰掛け、自分は通路の窓側に椅子を設け、カキョウは対面の部屋の入口側に椅子を作った。

「その前に、トールとダインに昨日の報酬をだ。あとダインには、これもだな」

 そういって、ジョージから手渡されたのは、少々厚みのある手のひらよりも名が広い茶封筒が自分とトールに手渡された。中を見れば、世界共通通貨であるベリオン札が入っていた。

「へぇ……結構入ってる」

「任務以上の成績を出したからな、俺から少し色を付けといた。あと、賞金首分はまるっと四人で山分けだからな。みんな悔しがってたぞ」

 トールは結構といっているが、封筒自体は五mmほどもあり、それなりの分厚さを持っている。しかし、これも消耗品の購入や武具の修理費などで、すぐに消えていくのだろう。

 そして、自分にはもう一つ手渡された物。ステンレス鋼製のネックレスチェーンに繋がれた、指二本分の幅と長さ、厚みは二mmぐらいの同じ素材の小さな板だった。片面には板には自分の名前、数字の羅列が刻印され、裏面の中央には“尻尾のつながった二匹の竜と翼のように広がった蜘蛛の巣”の模様と“F”という文様が刻印されていた。

「うちの所属傭兵の証、ライセンスタグさ。表は名前と登録番号。裏面にはネストの紋章と、お前さんの傭兵としての腕前をランクって形で刻んである。登録者が“証明したい”と念じれば、彫ってあるものが光る仕組みになってる」

 ネストの紋章として描かれている尻尾のつながった二匹の竜は、アンフィスバエナと呼ばれる双頭竜であり、両方向に進めるものという意味から、組織は何ものにも捕らわれない、あらゆる方面から独立した組織を表す。蜘蛛の巣はネストの名からである。傭兵会社であるので善の組織とも、悪の組織とも言えないが、意味が先行した禍々しさがにじみ出る紋章というのが、正直な感想である。

 さて、面白そうで単純な仕組みのものがあれば、試したくなるのは誰しも思うところであろう。言われたとおりに“証明したい”と考えてみると、手の中のライセンスタグの刻印がほんのりと赤く光り出した。

(そういえば、昨晩、血を採取されていたな)

 おそらく彫り部分の燻し(わざと黒に変色させ、彫りを目立たせる方法)の塗料に、血と魔力によって発光するポーションなどを混ぜた物を使用し、かつタグの中に血の持ち主の魔力によって発動なのどの術式が埋め込まれているのだろう。手のひらに収まってしまう大きさではあるが、これも列記とした魔道具の一つである。

「これで今日から君たちは、正式なうちの一員となったわけだ。言い方を変えれば、今後すべての行動にはうちの組織名がついてくることを忘れるな。……とまぁ、一応決まりだから言ったけど、変に気構えず、礼節と状況判断だけ気にしてくれればいいさ。改めてよろしくな」

 差し出された支部長ジョージの手を取り、気持ちを込めた力で握り返した。酒盛りの時に交わした挨拶と違い、まさに正式な証も拝領した上での、真の契約となった瞬間である。

「よし、今後についてだが、しばらくはトールの下で見習いとして動いてもらう。というわけで、トール、頼んだぞ。それじゃね~」

「へいへい。しばらくはよろしくな。お二人さん」

 ここからはトールが全面的に引き継いだという雰囲気になり、ジョージはこちらに手を振りながら、さらりと部屋を後にした。

 すべてを引き継いだトールは、よろしくと改めてこちらに顔を向けつつ、何やら右手のひらをこっちに向けて、笑顔を放っている。

「ん? ああ、ハイタッチだよ。これぐらいなら分かるん…………ダイン、お前もこうしてみろ」

 途中で押し黙ったあたり、察された様子である。自分は対面状態なので、指示通りに左手を前に出した。すると、トールが右手でこちらの左手を弾き、パンッと乾いた空気がはじける音が鳴った。

「イエイ! ほら、カキョウちゃんも……イエーイ!」

「イエーイ! じゃぁ、アタシもダインと!」

「あ、ああ」

 再びパンッ! 今度は右手と彼女の左手が弾きあう。それはとても小さな出来事なのに、笑顔がトールを始点にカキョウへ、そして自分に徐々に伝染していく。

「……なんか、気持ちがいいな」

「だろ。普通なら戦列の入れ替え時にやる動作だけど、こうやってお互いの気持ちを共有したいときや、気軽い挨拶なんかにも使うからな」

「分かった。覚えておく」

 この時、初めて目の前にいる二人がはっきりと“仲間”であるという共有の認識ができた瞬間だった。

「よし、じゃぁ飯食おうか。食べ終わったら、あるところに正式な依頼を受けに行く」

「あるところで、正式な依頼?」

 言葉をオウム返しにつぶやくカキョウだが、ありがたいことに手元は盆の上からさりげなく朝食を配っている。手渡されたパンを受け取ると、礼という感じで、軽くパンを上げて見せた。すると、カキョウからも返事という感じで、ほんのりと笑みが戻ってきた。

「ま、行けばわかるさ。ささ、食おうぜ」

「だね! いただきまーす!」

「いただきます」

 早起きしていたカキョウは、完全空腹という感じでパンに対して、口を大きく開けてかぶりつく。自分の腹の虫も限界に達していたので、彼女に負けじと大きくほおばった。



 朝食も終わり、身支度も済ませること午前九時。ネストのポートアレア支部を後にすると、向かった先は支部の北側に広がる丘陵の先、シュローズ教会だった。昨日と同じく、丘陵を吹き抜ける風は春の陽気に温められた潮風が優しく頬を撫で、草花や果樹の葉を揺らす。

 さらに言えば、昨日の戦闘で鎧や服に出来た傷が、街の鍛冶師によるリペアメント(補修)という魔法によって、すっかり消え去っている。着心地は二日前と同じく新品の着心地であり、新人傭兵としての一歩として気持ちのいい演出となった。

 緩やかな坂道も終わり、昨日ぶりのシュローズ教会に到着すると、トールが妙にリズミカルに木製の扉をノックした。

「い、いらっしゃいませ」

 今回は扉のほうが間を置かずにして勝手に開き、昨日の救助対象であったシスター・ルカがゆっくりと、どこか怯えた表情で上半身だけを見せた。たった一日で連れ去られ、死人が出なかったとはいえ、血濡れの惨状が広がった現場にいたのだから、警戒気味なのも無理もない。

「ルカ! もう大丈夫?」

「カキョウさん……! は、はい! もうすっかり、です!」

 シスター・ルカは、トールの後ろから顔を出したカキョウの姿を見た途端、それまでの怯えた表情が一転し、ほんわりと嬉しそうな笑顔を見せ、すぐにカキョウの元へと駆け寄った。カキョウもまた同じく、元気そうなシスターの姿に表情がほころんでいる。

 シスター・ルカの姿は昨日とは少し様子が違っていた。昨日はスカートの裾が地面まで付きそうな長さだったが、今はひざ下までの長さになっている。靴は足首を優しく保護する厚手のブーツであり、右肩から左腰に掛けて斜め掛けされたソフトレザーの肩掛けカバンを装備している。また、隠れていた左手には、乳白色に反射で水色とも桃色とも光るような、球形の宝石が埋め込まれた長さ一m程の短杖(ロッド)を持っている。まるで旅支度が済んでいるという姿だ。

「さて、ダイン、カキョウ、今から新しい任務だ。内容はシスター・ルカが無事に巡礼の旅を終えれれるよう、旅の護衛を務める」

 この巡礼の旅とは、昨日シュローズ教会を訪れた際に軽い説明を受けた“修道士(クレリック)が一つ上の階位である司祭(プリースト)や退魔師(エクソシスト)への昇格試験を兼ねた巡礼の旅”のことである。季節ごとに一回、修道士の中から満十五歳以上の者が総本山の厳正なる審査を経て、昇格にふさわしいと判断された者に、サイペリア国内にある五つの大教会を巡礼する許可が下りる。

 巡礼とは長き旅路の苦難を乗り越えることは、聖人サクリスの魂と精神に近づく崇高な儀礼であり、巡礼者に選ばれるのは、聖サクリス教の修道士にとって誉の一つである。

「この任務は、ネストと教会の間で結ばれた相互協力協定の一つで、季節の恒例行事なんだ」

 巡礼の旅は長く険しいものであり、道中では魔物や盗賊などの危険も多く存在するために、教会はネストから護衛の傭兵してもらう。代わりに癒し手や退魔師が必要となった際には、教会から人員を派遣するという協力関係が築かれている。なお、報酬については巡礼先となる各地の教会を訪れた際に、現況報告の対価として旅の経費と共に支払われる形だという。

 任務の終了条件は、五か所の大教会を回り、最後に総本山である聖都アポリスの大聖堂で祈りを捧げること。期間は特に定められていないが、順当に回れば半年ほどで完了できるとのことだ。

「実はな、この任務こそ、お前の最初の任務且つ教育開始になるはずだったんだ」

 と言われても、昨日のラディスとトールの会話からも、自分のネスト入り自体は予定調和の一つであり、各種確認も巡礼の護衛のほうで行うことも察していた。

 では、昨日の採用試験について聞いてみれば、自分についてはあくまでも実力を図るための理由付けでしかなく、しいて言えばカキョウにのみ適用される言葉だったという。

「まぁ、結果としてお前の実力も見れて、懐も温まって、カキョウちゃんという嬉しい誤算もあったわけさ」

「嬉しい誤算?」

「そりゃ、単純に華が増えるってのもあるけど、やっぱ女の子一人に大男二人ってのは……ねぇ」

「ああ……そういうことね」

 トールがほんのりと濁した部分については、巡礼の主役たる本人も自覚しているようであり、明らかに自分とトールには怯えており、そそくさとカキョウの背後に回っている。しかも、自分らはただの異性ではなく、身長差が四十cmほど開いた大男二人だ。もはや意思を持った壁であり、自分もまったく同じ境遇にいたからこそ、シスター・ルカが受ける威圧感と恐怖は理解できる。

「というわけで改めまして、アタシ、くれさ……じゃなくて、カキョウ・クレサキ。今日から長い間、よろしくね!」

「は、はい! カキョウさん、よろしくお願い、します」

「さん付けは、かたっくるしくない? 歳もほとんど変わらないしさ」

「じ、じゃぁ……、カキョウちゃん、で」

「はーい」

 くるりと振り返り、シスター・ルカへ向けたカキョウの満面の笑みが、強張った表情を溶かしていく。トールの華という言葉が今なら理解できる。男だけなら、こんな華やかな雰囲気にはならなかっただろう。

 そんな風景に見惚れていると、トールから次の番と言わんばかりに肩を叩かれた。確かに自分は、シスター・ルカに名乗りを上げていない。また、自分は先述どおり、外の世界では大柄に分類されているようで、今は距離が開いているが近づけば相当な威圧になってしまうだろう。必要最低限の距離まで詰めつつ、ほんのりと屈みながら、右手を差し出した。

「シスター・ルカ。挨拶が遅れた。俺はダイン・アンバースだ。ダインと呼んでくれ。これからの道中、よろしく頼む」

「はわ、はわわわわ……! え、えっと、だだだ、ダイン、さん。よ、よろしくお願いします。わわわ、私も、ルカと呼んで下さい……」

 こちらがひとしきりに名乗りを終えると、シスター・ルカもとい、ルカは顔を真っ赤にさせながら差し出された手をとり、名の短縮の許可をくれた。

 しかし、次の瞬間には素早くカキョウの後ろに隠れてしまった。何かまずかっただろうか?

「あー、ダイン。気にしないで。なんか、トール以外の大柄な男の人って、初めてらしいの」

「懐かしいねぇ。俺の時も同じ反応だったさ。まぁ、すぐに慣れるって」

 カキョウの後ろから覗いてくるルカは、小動物のように縮こまりながら「す、すみません」とこぼしている。そんな状況を懐かしそうに、それでいてクツクツ笑いつつ、人の肩を太鼓のように叩くトールが妙に腹立たしい。

 しかし、一昨日のカキョウ、昨晩の祝勝会、今日のルカといい、外の世界において自分は本当に大柄か程いい大きさに分類されるのだなと、つくづく感じてしまう。たったこれだけでも、自分にとっては生まれてくる世界を間違えたと感じるほど、とても心地よく温かい。なので、ルカの反応は驚きはしたものの、気分を害したとかはなく、むしろ新鮮に思える自分がいるのだ。

「俺は気にしていない。改めて、よろしく」

「は、はい!」

 まだ、カキョウの後ろから頬を赤らめつつも、ルカは小さく笑ってくれた。それを見たカキョウが微笑み、トールも「お疲れ」と小さくねぎらってくれた。

 ここには多くの新鮮が溢れており、今まで味わってこなかった“完全なる他人”が“仲間”もしくは“友人”という新しい形で結びついていく。これは壁の中にいたら、決して味わうことのなかった、何物にも代えがたい経験である。

「……あ、あの……ラディスさんは?」

 さて、一件落着したかと思われたが、ルカは零した名の人物を探すように周囲を見渡していたが、徐々に表情が暗くなっていく。

「あいつなら、昨日の夜に出た臨時船で、ミューバーレンに戻ったよ」

「そ、そうだったんですね……ぶ、無事につきますように……」

 トールから伝えられた事実は、ルカの表情をさらに暗くし、誰にでもわかるような落胆へとなりつつも、胸元で手を組むと、彼の無事を願う祈りをささげた。

「ねぇ、ルカ。もしかしてラディスと知り合いだったの?」

「はい……。教会に、よくトールさんと一緒に、食品を届けて、くださっていたので、てっきり……」

 言葉は消えていったが、内容は明らかに「一緒に旅するもの」と続いただろう。自分も、彼と会って二日しか経っていないが、この場に彼がいないだけで、場の物足りなさを感じている。それに比べて食品の運搬となれば、ルカを含めた教会としての日々の生活にも密接にかかわっており、それこそ数日に一回は顔を合わせる仲なら、彼との旅も期待していたのかもしれない。

 とはいえ、彼は何かしらの事情で、帰らなければいけないような雰囲気は出していたから、ラディスとの旅は初めから存在していなかったのだ。

 むしろ、それを伝える時間すら作れなくなった昨今の海竜騒動は、本当に数多くの人々を蝕む事態となりつつあるのだろう。

「ルカちゃん。海竜に関しては、近々三国同盟での大規模作戦を行うらしいから、巡礼中に解決していたら、みんなでラディスに会いに行こうか」

「……! は、はい! ぜ、ぜひ!」

 巡礼で訪れる教会の順番や、道順などについては、この集団のリーダー格兼最年長者のトールによって調整が行われる。もとより期間制限がないために、巡礼と言いつつ社会経験を積ませる目的もあるため、ゆっくりといろんな場所を回ること自体は問題ないようである。そんな彼が言ったのだから、いつかどこかのタイミングで行くことになるのだろう。

 だからこそ、ラディスとの別れはさみしいものではなく、「またいつかどこかで」という、楽しみとなっている。



 体感では十分ぐらいだが、実際は三十分も外で話し込んでいたようであり、管理責任者である修道士長のシスター・マイカが、小難しそうに頭を抱えながら全員を教会の中に招き入れた。

「まったくもう……、いつまで待たせるのですか……」

「風が心地よかったから、ついつい」

 シスター・マイカの小言を、まるでいつものことと、トールはどこ吹く風のように受け流す。

「……そうですね。まるで自然が貴方たちの旅立ちを祝っているようですね」

 その言葉は深く優しく、同時にどこか遠くへ投げかけるような音であり、静まり返った礼拝堂の中に重く響き渡った。

 招かれるままに礼拝堂に入ると、正面の巨大なステンドグラスから差し込む光のみが礼拝堂を包み込む。言い換えれば光の届かない場所は全て陰になっており、差し込む光がより一層際立ち、静まり返った空間と相まって、まさに荘厳な情景となっている。

 祭壇へと続く中央の通路の両側に並ぶ木製の長椅子たちには、大小さまざまな人影がすでに座っていた。服装は皆、ルカと大きな白い襟と紫色を基調としたロングワンピースやチュニックを着ており、恐らく大人子ども含めて、この教会に所属する全ての者たちが集まっている。

 自分たちは祭壇から最も遠い入口そばの長椅子に腰を降ろし、シスター・マイカと共に祭壇へ向かうルカを見守ることにした。

 ルカは祭壇の前まで来ると、肩から下げているバッグは身に着けたまま両膝を折る。床の上に膝立ちになると、手に持っていた杖を床に置き、胸元で手を組み合わせ、祈りの状態へと入った。

「我らが姉妹のシスター・ルカは、今日この教会から栄えある巡礼へ旅立ちます。この旅は数多くの兄弟、姉妹が成し遂げたと同時に、多くの兄弟、姉妹たちが志半ばに聖サクリス様の元へ旅立ちました。この長く、険しく、苦難多き旅における、我らが姉妹とそのご同行の無事を、皆で祈りましょう」

 シスター・マイカが祭壇を挟んで、礼拝堂すべてを見渡せる中央に立つと、声高らかに巡礼開始の宣言と祈りの唱和を願った。その言葉に、皆が一斉にルカと同じく胸元で手を組み、ステンドグラスに描かれた聖サクリスへ、沈黙の祈りを捧げ始めた。自分も見様見真似で胸元で手を組み、この旅の無事と成功を祈った。横目で右隣に座ったカキョウを見れば、手は組み合わさっておらず、手のひら同士を合わせた合掌と呼ぶコウエン式の祈りを捧げていた。その奥のトールは特に何かすることなく、腕と足をそれぞれ組み、この祈りの場を静かに見守っている。

 程なくして祈りが終わると、長椅子に掛けていた修道士たちの中から小さな人影たちが、立ち上がろうとするルカの元へ駆け寄っていった。

「ルカ姉ちゃん! 行ってらっしゃい!」

「がんばれよ!!」

「絶対、帰ってきてね!」

「たまには手紙ちょーだい!」

 駆け寄ったのは、ルカと同じく孤児院で生活する子どもたちであり、旅立つ彼女に対して次々と応援の言葉をかけつつ、抱き着いたり握手したりしている。

 だが、どの子も決して「寂しい」や「行かないで」とは言わず、取り囲まれるルカの光景を見守る大人たちも含めて、みんなが笑顔なのだ。

 この和やかであるはずの雰囲気に、僅かながらの違和感を抱いてしまった。

 シスター・マイカの言葉にもあったが、この旅で命を落とす者もいる危険な旅であるのに、この場に永遠の別れの可能性については、誰も一言も発しない。それが旅立つものへの鼓舞もしくは、これまでのネストまたはトールの評価が生み出す安心感から来ているものだろうか?

 どちらかといえば聖サクリス教において、巡礼という行事そのものが成否や生死を問わず、選出されることの重要性が大事であり、誉れ高いことであるように見える。

 これは自分が聖サクリス教の教えを知らず、また一切の傾倒がないための、外側から見た一方的な偏見からくる感覚なのだろう。

 見方を変えれば、巡礼が重要であるからこそ、教会本部はマーセナリーズ・ネストと相互協力協定を結び、巡礼者の経費を教会が負担し、なおかつ同行者への報酬も支払うという手厚い補助まで用意してあり、。トールも“季節の恒例行事”と言っていたために、このサイペリア国においては“日常”の一つなのだろう。

(これも、“外を知る”ということか)

 立つ土地が変われば、人も、環境も、主義主張も、信じるものの比重も、ありとあらゆるものが変わり、それがその土地における“常識”なのだと、教えられる。

 カキョウの祖国であるコウエンには『郷に入っては、郷に従え』という意味の言葉がある。その土地に入ったら、たとえ自分の持つ価値観と異なっていても、その土地の慣習にあった行動をとるべきという教えであり、この木箱から出てからの三日間で、最も体に染み渡り、この先もずっと染み込み続けるだろう。

「さぁ、さぁ! もうお開きですよ。皆さんはお勤めに戻ってください!」

 なかなかルカの周囲が落ち着かない様子を見かねたシスター・マイカが、手をたたきながら祭壇から降りてくると、群がっていた子どもたちが蜘蛛の子を散らすように、大急ぎで礼拝堂から出て行った。大人の修道士たちも、こちらに軽く会釈をすると、子どもたちを追った。

 現在、礼拝堂には自分らネスト組に、ルカ、シスター・マイカの五人だけしかいない。人の気配が大幅に減った礼拝堂は、石レンガから生み出される無機質な冷たさと合わさり、荘厳という言葉が似あうほど、重く厳かな空間へと切り替わった。

「シスター・ルカ。あなたに言っておかねばならないことがあります」

 自分たちも立ち上がり、ルカのもとへ寄ろうとしたときに、シスター・マイカが声を発した。五人しかいない礼拝堂では、一人の声が透き通るように響き渡る。シスター・マイカは改まったようにルカの前に立つと、沈痛な面持ちで言葉を続けた。

「この巡礼は、ただ各地に祈りを捧げるだけでなく、この世界と……我々の兄弟姉妹たちをよく観察することです」

 経験を積めという意味でなら、世界を見るという言葉は身に染みるほどよくわかる。しかし、後者のまるで身内に目を向けろという言葉には、世界と発した時よりも深く、重い音色が掛かった気がした。

「兄弟姉妹を観察、とは、どういう……」

 ルカは、その言葉の意味が理解できないと動揺し、息を飲んでしまっている。様子から見て、彼女も初めて聞かされる内容であることがわかる。

「今は詳しくは言えません。ですがいずれ、あなたも『あること』を選ぶ時が来るでしょう」

 シスター・マイカの沈痛な面持ちは、言葉をつづるごとに陰りを増していき、まるで、その時が訪れないことを祈ると言わんばかりの悲痛な声に聞こえる。

「今は……ええ、今はですね。この言葉は忘れてもいいです。とにかく、あらゆることを経験し、あなた自身の考えを持つことです。よいですね?」

「は、はい……気を付けます」

 ただひたすら、今はと繰り返すシスター・マイカの姿に、目の前に立つルカは目を見開き、息を飲み、肯定の返事しか出せない。忘れろと言いながら、まるでルカの瞳に一言ずつ刻み付けるようだった。

「よろしい。……これで私が教えれることは、もうありません。シスター・ルカ、貴女の旅路が無事であることを、切に願います」

「マイカ、様……」

 言葉をつづり終わるとシスター・マイカは表情を少し緩め、彼女の頬をやさしく撫でた。そして一撫でされるたびにルカの瞳からは一筋の涙が、自らの頬と撫でる手を濡らしていく。

 その光景はまるで見送る母親と見送られる娘の姿であり、監禁生活の中で小説や伝記から得た、旅立ちや離別の情景との一致であった。これが自分の思い描いていた見送りの場面そのものであったからこそ、先ほどの子どもたちに取り囲まれた和やかな雰囲気が違和感となっていた。

「さぁ、泣くのは終わりですよ。……行ってきなさい」

 シスター・マイカはルカの目元の涙を優しく拭うと、頬からゆっくりと手を離した。

「はい……行ってきます!」

 そしてルカも残りの涙を拭うとシスター・マイカから一歩離れ、今まで聞いた中で一番大きな声で挨拶を発し、大きくお辞儀をした。

「そして皆さんも……、ルカをよろしく頼みます」

 ルカ越しに向けられる視線に自分たちも姿勢を整えると、トールに続くようにお辞儀をし、シスター・マイカに答えた。

 顔を上げれば、これ以上の言葉は無用とシスター・マイカが笑顔で力強く頷き、自分たちは踵を返して、礼拝堂を後にした。



 薄暗い礼拝堂から明るい晴天の下へ移動すると、その明暗の差に眼が追い付かず、一瞬眩んでしまった。現在の時間は十時。もうすでに一時間経過しており、強まった日差しが頬を刺激する。加えて、草原から舞い上がる春風と、大海原から流れてくる潮風がぶつかり合い、髪やコートの裾を巻き上げた。

「うーおーーー! きっもちいい!」

「ですっ、ね! きゃぁ!」

 春風と潮風のぶつかり合いは、前を歩く女性二人の煌めく赤髪と輝く亜麻色の長髪を、空へと舞い上がらせた。その二色の髪は、空の青とも草原や山々の緑とも違うために、その揺れる姿がまるで生き物のように切り取られ、さながら踊り子の舞のように、激しくも心地よく揺れている。

 もっとも、ルカにいたってはロングワンピースが舞い上がらないよう、必死に押さえつけ、心地よさを感じるどころではない様子である。

「ほんと、見事な出発日和だなぁ」

 そんな和やかな女性二人の背中を、トールは鼻の下を伸ばしながら、幸せそうに眺めている。そのうち、小突いたほうが良いのだろうか?

「そうだな。風が心地いい」

「そう言う割には、浮かない顔してるな」

 トールに指摘されたように、確かに自分は女性二人と青い空、若草色の丘からすれば、似つかわしくないほど暗いのだろう。

「……この世界で他者を排しても生きると決めたのに、この風と景色があまりにも心地よすぎて、その決意を忘れそうになるのが怖い」

 そういいながら、自分の手を見つめた。

 この手はきれいに洗い流されているものの、昨日初めて、生きた人間の肉を斬り、殴りつぶした血染めの手なのだ。たとえそれが、己の生存権を守るための行動であっても、今まで培ってきた倫理観が褒められた行動ではないと言わんばかりに、警鐘という頭痛と心のモヤを生み続ける。

 特に昨日の最後については、完全に殺意に飲まれた上での行動であり、それをカキョウとジョージ支部長によって止められなければ、あのまま振りかぶっていただろう。

 そして、この心地よい風が、警鐘の痛みと靄を和らげていく。青空が、春風と潮風が、草木が、春という季節がどんなに爽やかであろうと、この手についた血と『殺』は消えないというのに、まるで決意ごと連れ去っていく。

 それは自分が決意から逃げたいという現れなのか、また人を斬らなければならないという恐怖なのか。

 今の気持ちを吐露してみれば、幾分かはマシになったものの、すべてが晴れることはなく、自分が認識している以上に、昨日の戦いから受けた影響は大きかったのだと実感させられる。

「んー……」

 そんな吐露を受けたトールは、こちらを不思議そうな眼差しで見つめたかと思ったら、ヌルっと眼前に右手を差し出し、次の瞬間。

「あいたっ!!!」

 強烈なデコピンをもらった。

 しかも、タダのデコピンではない。貯め動作無しに放たれたはずだったが、その衝撃は頭部の中を通り、後頭部へ抜け出るような貫通性を誇った。加えて、指で弾かれただけなのに、威力と痛みで数歩後ろに下がってしまうほど、すさまじいものだった。特にこちらも完全な無防備状態だったからこそ、一切の軽減要素無しに純粋な衝撃と痛みに襲われ、自分でも驚くほど大きな声で、痛みを表現してしまった。

 救いだったのは、弾いてきた指の牙獣族(ガルムス)特有の鋭くとがった爪が、彼のコントロールによって、皮膚をかすめることなく無傷だったという点。……それでも痛いという事実は変わらない。

「少し考えすぎだっつーの。いいか? お前が覚悟だの決意だのと言っているものは、何も常日頃考えておくようなものじゃないんだ。自分や仲間の生存権が不本意に他人によって奪われようとしたときに腹をくくるもの。

 気楽にしていろとは言わないが、もう少し肩の力を抜け。真剣なのは良いことなんだが、張り詰めすぎると『生きる』ことに疲れちまうぞ」

「生きることに疲れる……」

「そ。疲れたら、体の動きが鈍くなるだろ? あれと一緒で、体だけじゃなく、頭と心も動きが鈍くなる。そうなれば判断も行動も遅れ、本当に取り返しのつかない事態を引き寄せてしまう。それぐらい、適度に気を抜くっていうのは重要なことなんだぞ」

 トールが言っている生きることへの疲れというのは、思い当たる節が多すぎる。養子先を出るつい先日まで、自分は存在しているだけでも周りに迷惑を振りまいている人物なのだと思っていた。特に幼少のころはさらなる迷惑をかけたくないという自分の気持ちに反して、よく体調を崩してしまっていた。今でこそ、それは様々な環境変化に適応できていなかっただけでなく、トールの言う生きることに疲れたことによって、さらなる悪循環を引き起こしていたのだと分かる。

 また、体調を崩すたびに迷惑をかけたくないからと、顔色が悪くとも平気と言い張り、風邪の諸症状を隠し、朦朧とする意識の中で自分が死んだら、誰にも迷惑をかけなくなるなんて考えてしまう時も多々あった。

 今思えば、トールがいう『生きることに疲れる』というのは、もうずーっと引きずっていたのだろう。それが養子先を出ることによって解放されるはずだったが、外ではまた新しい悩みを抱えてしまっている。

「んま、お前の雰囲気からして、すぐすぐにってのは無理そうなのは分かるさ。特に新しい情報が溢れすぎていて、頭の整理や納得が追い付かない状況だろうしさ。とにかく決意はこの際、忘れてしまってもいいから、今はこの心地いい風と光景を堪能しろ。そして必要な時に思い出せ。何事も切り替えが大事だからな」

 忘れてもいいから、ここで一度は心をまっさらにしてしまったほうが、これから始まる旅と仲間と、自分のためでもあるのは確かである。

「……そうだな」

 促されるままに、眼下に広がるポートアレアの街を見ながら、大きく息を吸う。鼻を通じて取り込まれる空気には、若草が放つほろ苦いにおいと潮風に乗ったほんのりと香る磯のにおいが乗り、肺を伝って、全身を満たしていく。そして、代わりにと体の中に溜まっていたわだかまりや不安を、一緒にすべて吐き出した。

 次に空気を吸った時には、全身と心が軽くなり、世界がより一層光り輝いているように映った。

「気合、充填できた?」

 もう何度目だろうか。視界の隅に映り込んできた煌めく髪と瞳の深紅に、眼と心を奪われるのは。丘の敷き詰められた若草を背景にしているために、なおのことカキョウの赤は強烈なコントラストとなって、視線を外させてくれない。

「あ、ああ。すまん、もう大丈夫だ」

 なお、今しがた自分が思いをトールに対して吐き出していたのは、カキョウとルカにもしっかりと聞かれていたために、今更ながら恥ずかしさがこみ上げてくる。

 だが、悪い気分ではない。ここにいる三人は、人生の中でも最も濃い経験を共有し、弱み的な部分も互いに晒していくことになる『仲間』なのだから、これぐらいの恥ずかしさは本当に些細な事だろう。

 止まっていた足を再び動かし始める。

 この見慣れない青空の下、見知らぬ大地の上、知らない常識の中で、味わったことのない苦難が待ち構えていようとも。

 たとえこの春風の向こうに続く道が、危険を伴い、血塗られ、常に生死の境界を行き来することになろうと。

 今は、ただひたすら、前を向いて歩いて行こう。

 


 ――第1章:俺たちは生きるために、『殺す』ことを覚えた。

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