1ー3 潮騒の街ポートアレア

 箱の中から出て二日目、航程上では三日目となる次の日の正午。到着までの間、ラディスから外の景色を眺めるのはどうかと提案されたので、朝食後はシャワーなどで軽く身なりを整えると、皆で甲板に出て進行方向を眺めていた。

 まるで昨日の惨劇が嘘だったかのように、甲板は綺麗に清掃され、海は絵に書いたような如何にもな光り輝いており、とても穏やかな風が頬を掠める。

 向かう先を見れば、新緑に覆われた大地が水平線から徐々に頭を出し、真正面の緑の中に白やオレンジ色などの色とりどりの粒が密集した部分が見え始めた。おそらく街の建物であり、そこが船旅の終点であり、長い旅路の始点となる街なのだ。

「あれがポートアレアか」

「うん。グランドリス大陸の玄関口とも言われるサイペリア国最大の港街で、丘の上に見える塔が街のシンボルである灯台を兼ねた教会なんだ。まだこの距離だと見えないけどね」

 まだ街までの距離は遠く、教会や街の全容を見ることは出来ないが、このまま無事に領海内へ入れば、点は自ずと建物の形へとなっていくのだろう。

 甲板には俺やカキョウ、ラディス以外にも、同じように船旅の終わりを見る者や、海竜に遭遇しなかった事に安堵する者たちがいた。

 一方で、海を見てすすり泣く者、力抜けうな垂れる者、体に毛布を巻きつけ寝る者、肩を寄せ合う者など、昨日の海竜事故後に救助された人々も甲板に出ていた。

 昨日は、自分達が寝付いた後も捜索活動が行われていたらしく、結果は被害船の乗員乗客の内八割と、多くの者たちが救助された。

 それでも残る二割は見つけることが出来ず、断腸の思いで捜索を打ち切り、予定の航路へと戻ったらしい。

 この光り輝く海の何処かで、望まぬ形で眠らされた人々がいるという事実が、胸に刺さる。被害にあった船があるから、自分達が安全に航行できていると言うのも、気分の良い話ではない。

 船は輝く波間を無事に渡りきり、予定からおよそ四時間程遅れた状態で、無事に目的の街へと到着した。



 港街ポートアレアは、グランドリス大陸及びサイペリア国最西端に位置し、巨人族の国ティタニスと有角族の国コウエンがあるフレス大陸と南方のミューバーレン諸島をつなぐ玄関口である。実質三か国と隣接している状態から、全世界の港の中で最大級の貿易高と渡航量を誇る。また、行きかう種族も最も多く、毎日が人種の博覧会とも言われている。

 時間も正午に差し掛かったポートアレアの港には、国籍や大きさなど様々な船がひしめき合うように停泊していた。本来ならこの半分以上は海へと繰り出し、人や物を運んだり、漁を行っているため、停泊している船は少ないらしい。

 これも、海竜が現れた事によって多くの船が出航を見送っているか、出航の時期を見計らっている状態である。そのために、停泊している船の間を多くの人々が整備や積荷の為に行き交っている。

 俺たちが乗り合わせた船は寄港が遅かったため、貨物降ろし専用の区画に割り当てられ、乗客も急遽設置された木製の桟橋を使って、船を降りることとなった。

「ちょっとどういうこと!? 私を誰だと思ってるのォォォ!!」

 吠えたのは、昨日甲板で雰囲気を悪くしてくれた貴族風の中年女性だ。

 降り立った桟橋は、使う頻度が少ないのか消耗と言うよりは放置による劣化と見られるボロさが目立つものだった。

 恐らく五月蝿い中年女性は、自分にこんなボロボロの桟橋を渡らせるのかとご立腹のようである。痩せ細った付き人も中年女性の後ろに控えていたが、自分の主人に見えないように肩で大きくため息をついている。

 最終的には桟橋を渡ったものの、中年女性が一歩踏み出すごとに桟橋は大きく揺れ、悲鳴のような軋みを鳴らし、他の歩いていた人々は立ち止まって、人災が過ぎるのを待った。

 中年女性の姿が見えなくなると、他の客に合わせて自分達も桟橋へ降りた。

 改めて桟橋を見てみると、丸太に二重の木の板を並べたものであり、大きな浮きによって浮いている状態の簡素な造りだった。体格に関係なく、人が歩くたびにゆったりと揺れ、慣れない者には慎重に歩かないと簡単に海に落とされそうになる。

 ラディスはさすが海の民と言う感じで、当然スイスイっと歩いている。カキョウは身体のバランスがいいのか、そこまで気を使わなくてもヒョイヒョイ歩いているように見え……。

「ひゃっ!?」

 思っていたそばから、カキョウはよそ見しながら歩いており、海水で濡れた桟橋の板と揺れに足を取られ、海に落ちそうになった。

 落ちる寸前に彼女の腕を掴む事ができ、そのまま力強く引いて、カキョウを桟橋に戻した。

「ありがとー! 水面にクラゲが見えたから、ついつい」

 前言撤回。バランスはいいのかもしれないが、好奇心が強めであり、注意散漫の性格のようである。

 また、彼女が小柄だったからこそ、腕を掴むだけで引き戻すことが出来たが、これがネヴィアだったらと考えると、まず体格差と重心のせいで引き戻すことができない。それどころか二人とも海に落ち、あっという間に藻屑となるだろう。

 行きかう人々の中には女性もいるので、たまに目をやると、多くの女性は自分の知っている目線よりも低い。

 これが世界の普通というなら、俺が見ていた世界とは何だったのか。本当に、「普通」とは縁遠い位置にいたのかと実感させられる。

 だが、今はそれが新鮮であり、心地よかった。



 桟橋も終わり、ようやくグランドリス大陸への第一歩として、石造りの船着場に立った。

 約三日間も船に揺られていたために、固定された足場ではまだ揺れているような錯覚が残っているが、ソレも初めての経験であるために、少しの気持ち悪さもまた貴重な体験だとかみ締めてみる。

「本日最後の魚だよー! 海竜も出たからほんとうにこれが最後だよ!!」

「見よ! この美しい刀身は、かのコウエンよりわざわざ輸入した一品だぜ! さーさー見ていってくれよ!」

 船着場も終わり、入城門のような大きな石造りの門を抜けると、そこは白亜色の漆喰で塗装されたレンガ造りの建物が並ぶとても賑やかな商店街だった。グランドリス大陸の玄関口と称するだけあって、様々な国の露店や店舗が建ち並び、呼び止める声、宣伝する声、吟遊詩人や大道芸人のような野外活動をする人々など、お祭りでもないのにヒトで溢れかえっている。

 ヒトの数に比例してか、人種の博覧会と表現するように多種多様な種族が行き交っている。船乗りに多い魚人族(シープル)はもとより、サイペリア国領だけあって商人風の純人族(ホミノス)や牙獣族(ガルムス)が一番多い。数は極めて少ないが、カキョウのように頭に角がある有角族(ホーンド)も見受けられる。

 中には、まだ三日しか経っていないのに、既に懐かしくなってしまった人々がいる。

 巨人族(タイタニア)。通常は二.五mから三mの巨体を持つ種族であり、フレス大陸南部に自身らの国家であるティタニスがある。純血を重んじる種族であり、首都では種族の証となる巨体を持ち合わせない者の居住はおろか、入場すら認めないと噂され、諸外国からは極度の純血主義国家とも認識されていると、ラディスが教えてくれた。

 自分が、多くの大人たちから矮躯といわれてきたからこそ、諸外国の認識はあながち間違っていないと伝えると、「そっか……」と神妙な面持ちで彼が頷いた。

 諸外国からも純血主義国家と認識されている国において、純人族(ホミノス)の体躯を持つ自分が何故生まれてしまったのか?

 自分という存在がつくづく分からないものだと、再認識してしまった。

 これではまるで、呪いではないだろうか。

「ダイン?」

 しかし、こうやってカキョウから覗き込まれるという風景が、今後は日常的なものになっていくのだと思うと、今の背丈は案外悪くないと思った。ネヴィアなら、自身が見やすいように無理やり上を向かされたりなんてあったなと、三日前まで当たり前だった世界はもう遥か遠くに感じてしまう。

「……ああ、こんな風景は初めて見たからな」

 もう今までの生活とは別離したのだからと、暗い感情を押し込め、彼女にはやや曖昧な返事を返した。

「あー、分かる。アタシもここまで色んな人たちがごった返してるのは初めて。コウエンも同種ばかりで、異種なのは商人さんばかり。港もこんな賑やかってわけじゃなかったよ」

 彼女は自分が行った風景という言葉を、街の様子という意味で捉えたようであり、うまく濁すことができたようだ。

 実際、自分は軟禁生活だったために、自国の港にすら行った事がないために、先ほどの言葉は嘘ではない。コレがはじめての港であり、はじめての他国であるので、目に付くもの全てが興味の対象である。

 海竜騒ぎによって、船や人の往来数が減っているらしいが、そんな気配を一切感じさせないほど街は活気付いているあたり、世界一位であることは伊達では無い様子だ。

「でも、海竜のおかげで海に出れないから、飲めや歌えやしないとやってられないって、みんな口々に言うんだよ」

 そんな苦笑しているラディスもまた、船の仕事を手伝っている以上は、同じような問題に直面しているはずだ。

 彼は仕事が終われば、ミューバーレンへ戻るはずだったのだろうが、船がいつ出るか分からない状況では、彼自身も立ち往生なのではないだろうか。

「さて、ついたよ」

 行商人や大道芸人に目を奪われながら、案内された先は露店の立ち並ぶ広場に面した三階建ての建物だった。

 その建物の周囲は、最も賑わいのある広場に面した立地だというのに、やや人気が少なく感じれる。それだけではなく、近くにいる人々は商人や町人ではなく、こちらを見つめてくる厳つい戦士風の者たちばかりである。

「な、なんか物々しくない?」

 カキョウが萎縮してしまうのも分かる。送られてくる視線は、こちらを見定めるか射殺さんばかりの警戒心剥き出しであり、建物に近づくにつれ、強くなっていく。

「うーん、普段はここまで酷くないんだけどね」

 その視線は、建物の中に入るまで止むことなく、建物の中でも同じような視線を受けることとなった。

 木製の両開き扉を抜けると、酒場のような場所だった。古めかしい木製のテーブルや椅子が並び、右手の壁には何かの募集と書かれた紙や、金額と動物画が描かれた紙が貼り付けられている。左手には、外と同様に戦士風の者たちが壁や椅子にもたれかかりながら、こちらに鋭い視線を向けている。

 テーブルを抜けた最奥には、机上に『受付』と書かれたプレートの置かれたバーカウンターがあり、煙草をふかす店主のような男と酒を煽る数名の客が喋っている。

「よぉ、ラディス。無事だったか」

 ラディスに気づいた店主は、浅黒い肌に無精髭と寝起きかのようなボサボサのボブショートヘア、細身の体にやつれ気味の目。皺だらけのシャツにと何日徹夜しているのかと思えるような、何処か気苦労の耐えなさそうな印章を持った男だった。

「一応ってところだね。……いつになく疲れているね。大丈夫?」

「まぁ、ぼちぼちってとこ。海竜がらみに、今度の掃討作戦にって、もう事務方殺しもいいとこさ。んで、デカイそこのアンタが謎箱の中身君ってわけか」

 これで三度目の謎箱扱いに、小さく溜息が漏れてしまう。物理的にも環境的にも本当に箱入りしていたものの、そろそろまともにヒトとして扱ってほしいところである。

「すまんすまん、そう嫌な顔しなさんな。無事な人間が箱に入っているなんて、まずないからつい面白くってさ」

 まぁ、そうだろう。自分がいくら世間知らずとはいえ、生きた人間を釘で打ちつけられた箱の中に放り込み、荷物として国外に運び出すなんて、何か犯罪を臭わせる行動としか思えない。

「さて、自己紹介でもしようかね。俺の名前はジョージ・ファンゴ。ここの事務方してる」

 ジョージと名乗った店主は、煙草を手元の灰皿で消すと、カウンター越しに手を差し出してきた。

「ダイン・アンバースです」

 差し出された手を取ると、はじめは通常の握手のように軽く握り合ったが、その後ジョージに何か確かめられるように、強弱のある握りを何度かされた。

「ほほう……、書類上ではいろいろ確認してるけど、実際見てみると面白いなぁ」

「な、何がですが」

「いんや……お前も苦労してるんだなとな」

 ジョージは、何か一人で納得すると握手を解き、視線を俺の背後へ向けた。

「んで、そっちのお嬢さん……へぇ、ホーンドとは……こりゃまたどういった関係なのさ?」

 振り向けば、周囲の視線を一身に浴び、身をちぢ込ませるカキョウの姿があった。

 街で見かけたものの、有角族(ホーンド)は珍しい種族であり、かつ女性の姿が一切ないこの空間において、彼女の存在は異質ともいえるほど、好奇の的となっている。一応、周りの者たちは常識人がそろっていたようで、手出しをしてくる者はいないようだが、それでも本人にしてみれば心地いいはずがない。

「どういった……、昨日会ったばかりの“仲間”です」

 端的に言い表せば、この言葉だけである。

 まだであって半日ぐらいではあるが、最低でもこの国の首都までという長い旅路が決まっている以上、未来においては仲間という関係になっているはずだ。

「ふーん…………、なるほどね。ま、大事にしてやんなよ」

 ジョージは、自分とカキョウを何度か交互に見ると、溜息のようなもしくは含みのような言葉を寄越した。

 彼が俺たちを見て何を思ったのかは分からないが、その何かを察しながらも、どこか濁された雰囲気に小さな苛立ちを覚え、心の奥底で小さく「分かっている……」と、子供のように拗ねた。

「さて、顔合わせも終わったし、僕の仕事をさせてもらうね。ここが昨日言った『マーセナリーズ・ネスト』。本来は傭兵の派遣業をしているところなんだ」

 害獣駆除などの討伐、商隊や要人の護衛、重要物品の輸送など、戦闘が発生する可能性がある仕事を引きうけ、提示された金額や仕事内容に合わせて所属の傭兵を派遣する会社組織である。

「本来は?」

「傭兵業以外にも、野菜などの梱包や引越しの手伝い、新装開店の一時的な補助など、日雇い労働的な仕事まで割と幅広く請け負う、何でも屋事務局と思ってくれればいいよ」

 結局のところ、金銭報酬の支払が確約されれば、各国の法律と道徳に反しない仕事なら、人員に空きがある限りは、何でも引き受ける組織だという事。

 無差別に引き受けているというよりは、人員の無駄な空き時間を失くすための努力に思える。様々な危険度の案件を取り扱うと言う事は、それだけ個々の力量や体調に合わせた仕事の斡旋が行えるのも特徴である。

 他にも、公募型の依頼が入ることがあり、斡旋以外にも自発的に仕事を受注する事が出来るため、自分達の懐事情を考慮した仕事選びが出来る仕組みだ。

 また、他国民の登録も受け付けており、ラディスは隣国のミューバーレン籍のまま、ポートアレア支部所属傭兵として登録されている。今回、彼が案内役となったのも、危険な海路を使うために魚人族(シープル)であることや、年齢の近さ、品性など多くの点から最適と判断され、斡旋された仕事であったとのこと。

「昨日も言ったけど、これからの路銀調達手段と社会を学ぶことなら、ここが一番適してると僕は思う。二人ともちゃんと戦っていたし、ここでならやっていけるんじゃないかな」

 自分は一応戦闘訓練も受けており、カキョウも昨日の戦闘時に腕前も見せてもらったため、ちょっとした討伐や日雇い労働ぐらいでなら、ラディスと同意見である。

「まぁ、お前さんの言うとおり、ここは金を稼ぐには一番手っ取り早いな。……だが、ここで仕事が欲しいんなら、まず採用試験を受けてもらう必要があるから、そこんとこよろしく」

「さ、採用試験、ですか」

 自分が驚いたのは、ここにはラディスの紹介で連れてこられたという受動的な扱いだと思っていたために、このような登録手続きも省かれるものだと勝手に思い込んでいた。

「ここは人材の能力と信用を“商売道具”としているところなんでね。おいそれと誰彼かまわず、採用するわけには行かないんさ。それに誰かの紹介であるなら、なおさら実力を見せてもらわないとな」

 話を聞けば、至極当然の話である。

 誠実な対応、真摯な取り組みといった人柄も大事だが、討伐や護衛は戦う事が想定されている仕事だ。簡単に負けるような人間を送り込めば、組織の信用に関わる。それは人柄や一端の努力だけでは補えない技術と実力が必要とされる世界。

「カキョウ」

「アタシは、ダインについていくだけだよ! ま、戦闘ならまかせてよ!」

 付いてきてくれと言った手前であっても、一応は本人の意志を確認しなければと思ってみれば、既に答えは出ている様子。

(まぁ、彼女も無一文だからな……)

 こちらに資金があるとはいえ、彼女自身に自由に使える金がないというのも、酷な話である。

 と思いつつも、過去の自分は監禁生活で希望物はほとんど揃えてもらう事ができたために、自己資金のようなものは一切無かった。それでも、金銭の在り方や使い方、物価に相場という“概念”だけは教えられた。

 特にメイド長のルシアからは『お金は時に、命と同等の価値となる』と酸っぱく言われたために、資金を絶やさないよう心がけたいとは思っている。

「俺達に、試験を受けさせてください」

 同時に、この試験は自分が猛獣、魔獣の跋扈する外で生きるための資格と力を有しているかを図る意味合いもある。適性が無いのなら、内側で生きる手段を探すしかなくなる。ここでハッキリとさせたい。

「やる気、前向きで結構結構。うんじゃ、これをやってもらおうと思う」

 そう言ってジョージは、バーカウンターの下から人間の顔よりも少し大きい茶封筒を取り出し、中身をカウンターの上に広げた。中身は依頼書と書かれた紙と地図がそれぞれ一枚ずつ。

「昨晩、シュローズ教会の女性修道士(シスター)が一人攫われた。このシスターを先に行っている先輩傭兵と協力して救出すること」

 差し出された依頼書を手に取り、カキョウと共に文面を確認した。


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  << 依 頼 書 >>


【依頼主】聖サクリス教 シュローズ教会 修道士長マイカ


【趣 旨】修道士ルカの救出


【概 要】

 当教会所属の修道士ルカが、芽月二十三日の深夜に教会より誘拐された。

 助け出して欲しい。


【場 所】アレイド山の麓 デラント氏の山小屋 


<補足事項>

 デラント氏所有の山小屋が、冬の閉山期間中に

『バッドスターズ』によって不法占拠され、現在も継続中である。

 デラント氏側からもバッドスターズの排除依頼が出ている。

【報 酬】未定。後日相談の上、決定させる。


【備 考】

 身代金の要求、人質との交換場所及び時間、人命の保障についてのことが書かれた脅迫状が翌朝の教会玄関にて見つかった。

 人質の交換場所が上記補足の小屋指定であったことから、犯行は『バッドスターズ』によるものと考える。


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 受理日は本日となっており、朝の内に持ち込まれた依頼とのこと。地図には、ポートアレアを中心に周辺地域までを載せたものであり、問題の教会と思われる場所には赤い丸印がつけられている。また、町の北側に点在する山の麓には森が広がり、その中の一ヶ所に赤く×印が付けられている。これが人質の交換場所となる山小屋のことだろう。

 依頼書の表題と被るように押された支部名入りの印から、この文書が会社として正式に請け負った依頼であることが分かる。

 依頼書を読み終えると、……全身から音を立てて血の気が引いていった。

 人命が関わる可能性のある重要な依頼であるはずなのに、これを右も左も分からないド素人の採用試験として行わせるのか? 生まれたての小鹿に、怪我人を運ばせるほど無謀な選択ではないだろうか?

「う、うわぁ……」

 それはカキョウも同様であったようで、二人して依頼内容の重大さに臆してしまった。

「どうした? 怖気づいたか?」

「……そうですね。試験用として軽いものが来ると思っていました。これは、俺たちの手には余りませんか」

 包み隠すことなく、ありのままの気持ちを言葉にした。今の自分の状況では意固地になって、嘘や上辺で強情に取り繕えば、助けられたはずの命が救えなくなる可能性だって大きくなる。この場で恥の上塗りとなろうと、負け犬と罵られようと、すでに恥が服着て歩いている状態の自分にとっては、些事でしかない。

「へぇ……いいねぇ、変に強情になられるより、よっぽどいい。文面をよく読まずに、俺様ならできる! 任せておけ!! って、一端に英雄ぶりたがるド新人。そういうやつは、大抵性格面の問題で失敗するわ、言い訳するわの無能っぷりを発揮しやがる!」

 ジョージはこちらを一度は見据えたものの、すぐに新しい煙草に火をつけながら、眉間に皺を寄せ、今にも噛み付きそうな形相で愚痴り始めた。カキョウに惹かれて集まっていた野次馬達も、「いるいる」「アイツがそうだったよな」など口々にしているあたり、そう言った失敗例は後を絶たない様子である。

「だがね、気弱過ぎて足元プルプルな自信もまったくない人間に人命を預けるってのも、助け出される側からすれば怖い話さ。そういうやつは、逆に虚勢を張れと言いたくなる。

 結局のところ、自分を理解するっていうのは、自他共に大事だってことだ。最終的には“ウチ”としての信用に関わるからな」

 愚痴をひとしきり言い終えると、煙で肺を満たし、誰も居ない方向へと大きく吐き出した。その顔は、それまで気だるそうにしていた表情は吐き出したためか、ほんのりと明るくなった気がする。

「……すまん、愚痴が長くなった。まぁ、今回は先輩君もついているし、あまり気負いしなくていい。相手は単なる粋がったガキの集団だ。人殺しなんて大それた事はしないはずだ。先輩君には“援軍”と言えば分かる」

 そう言いながらジョージは、依頼書と地図が元々入っていた茶封筒を手渡してきた。受け取ると二つの書類を中に戻し、この大きさの封筒を収納するものが無いと気づき、ジョージに全書類を返した。

「うんじゃ、コレを渡しとくよ」

 封筒と入れ替わるように差し出されたのは、封筒の三分の一ほどの大きさの紙であり、任務の概要がコンパクトにまとめられたメモだった。なお、犯人であるバッドスターズや詳細については、合流場所の教会で待っている先輩から説明を受けて欲しいとのことであり、ひとまずは教会に向かうことが目的となった。

「あー、あとラディス、今日の出航が無くなった」

「……ありゃりゃ」

 ジョージに呼び止められたラディスは、一瞬だけ瞳を大きく見開くと、肩を落としながら苦笑いしだした。

 何があったのかを聞いてみれば、ラディスの乗る予定だった定期船が昨日の海竜襲撃によって、出航禁止となってしまったようだ。

 サイペリア、ティタニス、ミューバーレンの三国は海竜対策として、囮船を使った輪番被害式の海竜出現制御を行っている。

 一日一回朝一で一隻の特殊な囮船を出すことにより、船を出した国のほうへ海竜を引き寄せ、その間に残る二国の間で往来ないし、漁業を行うというものだ。

 また、定期船はこの囮船によって安全になった海域を進みつつ、次の日の安全になる海域へと進むように調整しながら進む。このために、本来は双方向で運行していた定期船も、囮船の出航順にあわせた一方方向への環状航路で運行されている。

 海竜は一日に一回だけ襲撃を行えば、その日の再出現はないと調査されているものの、更なる安全を得るために囮船を出した国は一日全ての海上操業を禁止する。

 これによって、協定に参加している三国は三日に一回は強制的な休業日が表面上平等に訪れることになる。

 しかし、季節によっては時化の多発などにより、操業可能な日すらも出航禁止となる場合があるために、特に漁業関係からは協定そのものに反発する声が上がっている。

「そこで問題なのが、この協定を無視した違法操業船が、勝手に被害にあって、せっかく固定されていた出現順番を滅茶苦茶にしてくれるんだよ」

 違法操業船は、出航禁止命令を無視した船や許可外海域での漁を行った船、または航行する定期船を襲撃して金品などを奪う海賊船など、法を破る行為を行った船舶の事を指す。

 それらの違法な船舶が海竜に対する政策を無視し、勝手に出航する事によって、囮船ではなく違法操業船が襲撃を受けてしまうことも十分に考えられる。

 昨日の残骸も、流れてきた量から囮の小型船のものではなく、大型の船のものだろう。

 特に春の時期は、暖かいミューバーレンの海から北上する回遊魚の通過時期であるために、漁業が盛んになる時期である。そのために、多少の無理をしてでも稼ごうとする漁民が増えるという。

「気持ちは分からなくないんだけど、一部の馬鹿のせいで、ルールを守ってる多くの漁民や渡航者が割を食うし、色んな無駄が生まれて困るんだよね」

 今回の足止めもまた、そんな法を犯した者たちによる無駄の一部だ。特に、違法操業船が海竜の襲撃を受けたからといって、放置する事は人道上許されないために、救助活動や残骸の回収、調査などが行われる。

 合わせて、狂ってしまった海竜用囮船の順番等の再調整も必要となるために、さらなる時間の無駄が生まれていく。

 実際に無駄な足止めを食らっている彼からすれば、その溜息ですら付く必要のない無駄なものだろう。

「そこでだ、ラディス。引き続き、こいつら率いて援軍のほうに参加してくれ。なーに、報酬はちゃんと出すから」

 ジョージはヘラヘラと笑いながら、新しい追加依頼書を差し出してきた。このところ、違法操業船の数が増えていた関係で、ラディスが足止めを喰らう可能性は十分あると踏んでいたらしい。

「そっか、わかった。ダイン、カキョウちゃん、もう少しの間よろしくね」

 時間が無駄にならなくて済んだと彼は苦笑しているが、今回の足止めがまだ彼と行動を共にできると思うと、ホッとしてしまった自分がいる。

 早く彼が故郷に帰れることを望む自分と、この事故に安堵した自分が混在し、言い知れぬ心苦しさに胸の奥が痛みが走った。

 しかし、手の中に在る概要メモが、お前にそんな感傷に浸る余裕などないだろと、威圧感を出してくる。

「こちらこそ。では、急ごう」

 恐怖と心苦しさをメモと共にウエストポーチに押し込め、マーセナリーズ・ネスト ポートアレア支部を後にし教会へと向かった。



 ネストの建物を出てからは、街の北側の丘にある教会を目指した。春の晴天、そして真昼間という時間のために日差しが強く感じられたものの、西からの海風と東側に広がる巨大な草原から来る風がぶつかり、暑さを忘れるほど心地よい温度の風が吹き荒れる瞬間がやってくる。何度か風に乗せられた若草が、口の中に入りかけた。

 そんな風吹く丘は、街の西側から教会まで直通する石畳の階段が整備されており、手入れも行き届いているあたり、教会が街の一部として大事に扱われているのだと分かる。

「あのさ、聖サクリス教だっけ。どんな宗教なの?」

 教会の尖塔の先が見え始めた時、カキョウから質問の声が上がり、自然と歩みが止まった。

 聖サクリス教は、サイペリア国の国教であり、ここ数年の間に周辺諸国へも布教が行われるようになった大規模な宗教だ。アンバース邸にも、何度か宣教師らしき人物が尋ねてきたのを覚えている。

 しかし、何かあるたびに鎖国を繰り返すコウエン国には、聖サクリス教自体がまだ伝わっておらず、世間としてもあまり知られていないらしい。

「すまない……、俺もこの国の国教で、慈善事業に力を入れているということ以外は、知らないんだ」

 かく言う自分も、聖サクリス教については奇跡を起こした少年サクリスを崇め、慈善事業に力を入れる国教指定団体という認識しかなく、実際はどのような教義や理念で活動しているのかは知らないのだ。

「僕が知っている限りの事でよければ教えるよ」

 ラディスはネストの中でも護衛や交渉事など“対人”に特化した傭兵を目指しており、ミューバーレン国民でありながら、会話の種や礼儀作法の一環として、他国の宗教なども学んでいるという。

「そうだね……まず、聖サクリス教を語るには、歴史の話からはじまるんだ」



◇◇◇



 今から約二〇〇年前、天上に住んでいたと言われる『聖』の精霊たちと、魔界と呼ばれる地底のさらに向こう側に住んでいたと言われる『闇』の精霊たちが、“地上”で大規模な戦争を行った。

 戦争の理由やきっかけは不明であるが、この戦争によって地上、天上、魔界が破壊し尽くされ、世界そのものが崩壊寸前の大惨事にまで発展。特に地上は、ただ戦場に選ばれただけの無関係な位置づけであったにもかかわらず、多くの命と財産が奪われた。

 生き残ることが出来た人々は、この戦争を“聖魔大戦”という名前で歴史に残した。

「そして世界は、目に映るありとあらゆるものが、灰色の濃淡だけで表現された“無彩色の世界”へと変貌した」

 天上と魔界が破壊されたことにより、『聖』の精霊達が管理していた“太陽”と、『闇』の精霊達が管理していた“夜闇”が消え去り、明暗がなくなったことで目に映る色の濃淡以外の表現をしなくなった。

 また、地上にいた残りの『火』『水』『地』『風』の精霊達は、自分たちの生存を守るために、故郷である精霊界へ“色”を持って逃げてしまい、地上との境界を閉ざしてしまった。

 これによって、すべての精霊たちが地上から姿を消し、世界中から一切の“色”が無くなった。

「色と表現したけど、実際の色と同時に、世界中から“マナ”を持ち去ってしまったんだ」

 マナとは様々な自然現象の力を精霊によって精製された無味無臭、無色透明のエネルギー物質である。目視することはできないがあらゆる場所に存在し、風や水流、湿気のように肌で感じることができる。

 ヒトや動物など生物の体内に流れる“魔力”と呼ぶ、体温とは違った熱に反応し、マナ本来の姿である自然現象の力を引き起こすことができる。

 人々はこのマナと魔力を反応させ、威力調整や対象物の指定など、反応を管理する術を魔法と呼び、この時代の人々の日常生活を大いに支えた。

 しかし、マナを生み出すことが出来る精霊たちがマナを持ち去ってしまったで、世界からマナそのものが無くなった。

 どんなに魔力を放出しても、反応するマナがなければ、魔法は発動しない。

 つまり、魔法が突然使えなくなった。

 日常のあらゆる所作を魔法に頼っていた人々は、その日から火を熾す事も、水を呼び寄せる事も、風を起す事も、地を豊かにする事、あらゆる日常の一幕を行えなくなった。

 灰色の濃淡だけで描かれた世界で、魔法が使えないこと、精霊がヒトを捨てたことを理解した人々は嘆き、悲しみ、怒り、憎しみ、絶望し、発狂し、次々と死を選んでいった。

 大戦を生き抜いたはずの命が消えていき、世界は別の意味での崩壊へと近づいていった。



「無彩色の世界になってから数日経ったある日、一人の少年が天に向かって祈りを捧げ、“太陽”を復活させた」

 復活した太陽からは、光と共に様々な“色”が降り注ぎ、世界に溶け込んでいった。

 草木は青々しく色づき、花は赤白黄色と美しく咲き誇り、空は蒼穹に相応しい晴天となった。ソレまで息を潜めていた動物や虫たちも、色を取り戻した世界に心が躍ったのか、一斉に飛び出してきた。

 そして、色と共に世界から消え去った“マナ”も戻ってきた。

 肌に伝わるマナの感触に、人々は思い思いに魔法を放ち、精霊達によって奪われた日常が帰ってきたことに、むせび泣きながら歓喜した。

 人々が歓喜する中、世界に祈りを捧げた少年は名乗ることなく、人知れず何処かへ姿を消してしまった。

 その後、少年の姿を見た者は誰もおらず、皆世界のために命を犠牲に祈りを捧げ、黄泉路へ旅立ってしまったのだと考えられるようになった。

 人々は彼の尊い犠牲と功績を讃え、魔法名等で使用される古代の言葉“精霊語”の犠牲『サクリファイス』から、彼に聖人『サクリス』の名を与え、聖人・救世主として崇め、奇跡と功績を語り継ぐための集団『聖サクリス教』を立ち上げた。

 聖サクリス教は聖人サクリスの祈り、献身、犠牲の姿から自分達も彼と同じように『万民に、奇跡と愛を』運べるようにと、数多くの慈善活動を行っている。

 また、この奇跡の発生点が現在の聖サクリス教総本山であるサイペリア国の聖都アポリスであるといわれ、サイペリア国は聖サクリス教を国教として保護することとなった。

 現在では、『この世は神も精霊も見放した、ヒトの世界』であると、聖人サクリスの奇跡の話を交えて、周辺諸国への布教活動を行っている。



◇◇◇



「僕が知っているのは、これぐらいだね。この国……いや、世界の基本的な歴史ってことで覚えておくといいよ」

 これぐらいとラディスは謙遜気味に言うが初めて聞く者からすれば、まるで教会関係者のように見えるほどの記憶力と理解力に感服した。

 むしろこれぐらい様々な情報や知識に精通していないと、交渉事専門の傭兵は勤まらないということだろうか。名実共に箱入り状態だった自分と、鎖国の影響で他国の情報が入りづらいコウエン国出身のカキョウに宛てた、真摯なアドバイスと言ったほうが正しいのだろう。

 更にいえばこの先、外の世界で生きていくのなら、知らずに損をする場面が増えてくるはずだ。

 考えすぎだとしても、今の自分には大事な知識ではあるために、ありがたく受け取っておく。

「すんごい勉強になった。ありがとね! でも、他の国だと精霊様はヒトと世界を見捨ててて、新しい太陽はヒトの手で作り出されたことになってるんだね」

 聖サクリスの奇跡が前面に出た話ではあるが、二つの精霊が引き起こした戦争に、無関係であるはずのヒトと地上が巻き込まれ、他の精霊達は何もせず、マナを持ち去ってしまったという、精霊批判の話でもある。教本によっては“ヒトの時代のはじまり”とさえ書かれている。

 ここまでは、ティタニスでも共通の歴史観であるが、彼女がわざわざその点について聞いてくるという事は、かの国では違うということだろうか?

「コウエンでは違うのか?」

「そうだよ。シンエン様……あ、他の国だと火の大精霊だっけ? が、地上に残った精霊達と協力し合って、新しい太陽を作ったって」

 ヒトの時代のはじまりと銘打つ新しい太陽が、コウエンでは精霊からの最後の贈り物として描かれている。新しい太陽を作り、自分達の命をマナに変換したことにより、地上に残っていた精霊達は全て消え去ったという。

「へぇ……、コウエンってやっぱ不思議な国だね。ってことは精霊信仰がまだ残っている感じぽいね」

「残ってるというか……季節は巡ってくるし、火山は未だに噴火を続け、魔法は以前と同じように使えるから、シンエン様を含めたすべての精霊は、ただ姿を見せていないだけなんだって」

 コウエン国は、世界で最も多くの火山を持つ国であり、自然の管理者である精霊無き今でも火山活動が活発な土地である。

 噴火、火山性地震、間欠泉など多くの自然災害に見舞われる一方で、温泉や地熱、豊かな土壌や鉱物資源など、多くの恵みがもたらされている。

 このように炎や火山を司る『火』の精霊とは、生活から災害まで様々な場面で密接した国柄である。

 未だに活動し続ける火山がある故に、精霊は人々に姿を見せないようにしながら、この地上世界に戻ってきているのではないかと言われているようだ。

 そのために、コウエン国は火の精霊と火山を崇め奉る『拝火教』が、国教ととなっている。

 精霊が見捨てた世界と、精霊が救った世界。山脈を隔てただけの隣国で、こうも間逆の歴史的観念を持つというのは驚きであると同時に、面白いなと思ってしまった。

「他の国だと、どうなんだろう……?」

 それはカキョウも同じようで、新しい知識に触れることが楽しそうに見える。

「ミューバーレンでは冠婚葬祭や漁業と航海の成功祈願で便宜上、『水』の精霊の名前を使うことがあるぐらいじゃないかな。歴史も聖サクリス教の話に近くて、精霊が世界を捨てたからこそ、あの海竜が暴れまわっているんだって」

 海運や漁業を主産業にしているミューバーレン民からすれば、海竜の出現は天災以外の何物でもない。大戦以前の世界なら、精霊が自然の管理を行っていたと記されているために、海竜が発生しなかった可能性もある。 

 このように、生活が脅かされている状況に対し、何の天恵も無いことから、聖サクリス教の提唱する『ヒトの世界』に賛同する者も多いらしい。 

「ティタニスも?」

 自分の棺が運ばれていった先の教会はかつて、『地』の大精霊サルトゥスが祀られていた。聖魔大戦以前はサルトゥスを中心とした精霊信仰が盛んであったと聞いたことがあるが、大戦以降は姿と共に精霊という文字自体が歴史書から消えたことから、ミューバーレン同様に冠婚葬祭で名を使われる程度の概念でしかない。

 また、ティタニスの歴史教本では、海の彼方から昇った新しい太陽がマナを運び、無彩色の世界を終わらせたと言われている。この海の彼方がサイペリア国を指し、新しい太陽が聖サクリスの奇跡によって作り出された太陽と言い換えることができる。

 つまり、ティタニスの歴史自体も聖サクリスの奇跡のほうが近いのだ。

 しかし、監禁生活だったために、実際の街での扱われ方や一般的な考え方などは知らず、全ては身内の言葉や実生活の記憶を頼るほかない。

「ああ、似たようなもの、だ……」

 消え入るように、口の中で小さく「……たぶん」とつぶやく。

 嘘ではないかもしれないが、一般的な考え方からはかけ離れてる可能性もあるために、はっきりとした返事が出来ない事がもどかしい。

「そっかぁ……」

 そんな歯切れの悪い答えでも受け止めてくれたカキョウは、なにやら眼を輝かせながら、ゆっくりと遠くを見渡すように両腕を胸の高さで大きく開き、天に向かって深呼吸した。

「どうしたの?」

 ラディスがカキョウに問いかければ、さらに輝きを増した瞳でこちらに振り向いた。

「いやぁ、世界って見た目だけじゃなくて、いろんな意味で広いんだなーってね。……アタシ、今、ちゃんと“外の世界”にいるんだなって」

 コウエン国は鎖国を繰り返す国と言われるだけあって、外を受け入れることも少なければ、中から出て行くことも少ない。一生が国内だけで終える人々もいる中、彼女は危険を冒しながらも、己の人生に大きな印をつけたのだ。

 自分も輝く彼女に見習い、目の前に広がる“世界”に目をやった。

 左を見ればポートアレアの街並みと奥に広がる大海原が、右を見ればはグランドリス大陸最大の大草原地帯と地平線の彼方に霞む山々。上は雲が遠くにぽつぽつ見えるほど、澄み渡った真っ青の晴天。見渡す限りの広大な世界そのものが広がっている。

 それは、あくまでも目に見える物質的な世界のことでしかない。

 ところが、物質的な世界の遠くの果てに目をやれば、身体の奥底から押し広げられ、頬を伝う潮風に視野が乗せられるような、不思議な感覚に包まれる。

 まるで、自分自身が目の前に広がる世界に溶け込んでしまいそうな、感覚的な広がりが身体に溢れている。

(あぁ……、これが世界なのか)

 この青い晴天の下には何千万ものヒトが様々な国で生活し、各々の思想で生きている。これは壁の中では、決して味わう事の無かった感覚。

 自分の知っている知識だけが世界の全てではない。言葉として分かっていても、自ら体験して得た知識とは質が大幅に違うのだ。

「……そうだな。世界って、広いんだな」

 きっかけは歪な物になってしまったが、今こうして外の世界に立っているという事実が、自分の人生の大きな印となったのは確かだった。

 特に、監禁生活という強制的な箱入りと、鎖国という国策としての強制的な箱入りは、規模こそ違えど、俺達の共通点という意味なら似たものがあると思ってしまった。

「ふふ……これから二人は、色んな場所を見て回ることになると思うから、もっと世界の広いところを感じる事になるよ。

 でもその前に、目の前の問題を解決しないとね」

 忘れていたわけではないが、人命にかかわる大きな問題が目の前にそびえ立ち、世間知らずの実戦未経験者である自分に何が出来るかも分からない恐怖を、一時でも忘れていたかったのかもしれない。

 もう数百m向こうには、件の教会が見えている。

 再び呼び戻された恐怖心と向き合いながら、止まっていた歩みを再開させた。

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